■ 1-13 ■



「バイトはどうなんだ? ちゃんと迷惑かけずにできてるのか?」
 修司は先ほどからソファーの隣に座る亮へ、質問の連続だ。
 やはり一ヶ月以上家を空けていれば、その間の弟の様子が、気になって仕方がないらしい。
 隣でプリンを頬張る亮は、そんな修司に苦笑を浮かべ「まぁそこそこ」と答えてみせる。
 バイトを始めると言ったとき、ソムニア事務所というあまりに胡散臭い仕事場にいい顔をしなかった兄であったが、亮の説明と自らの調査。そして、わざわざ事務所に挨拶に出向き、秋人や壬沙子と直接会うことによって、ようやく働くことを許可した経緯がある。
 許可をしたにはしたが、きちんと仕事をこなしているのか、迷惑はかけていないのか、無理なことはしていないか――と、とにかく様々なことで心配を募らせているようだ。
「今回のことは、その――僕が家を空けすぎることに原因がある」
 亮は結局、修司と共にマンションへ戻ってきていた。
 秋人はGMDの後遺症の件や、この場所がPTSDを引き起こす可能性もあるということで、自宅へ戻ることに反対していたが、シドは全て亮の判断に任せてくれたのだ。
 それで亮は、迎えに来た修司について自宅へ戻ることを選んだわけである。
 修司と行為を行ったと思っていた亮の記憶は、薬の作用による幻覚であったとシドは言っていた。
 確かにきちんと筋を追って考えれば、あの日あの時間だけ修司が戻ってくるはずがない。ましてや飛行機の搭乗記録を見ても、どこにも修司の名前など見つからなかった。
 胸の中が少し軽くなり、亮はこうしてこの場にいる。
「――父さんも、悪気はないと思うんだ。ただ、やはりまだ子供のおまえのことが心配で、ああいった行動にでてしまったんだろう。滝沢は、仕事は出来るが人間的には好ましくない人物だ。でも、父さんはそこまで考えていない。あの人は、仕事ができるかできないかで人を判断するところがあるからな」
 修司には彼の出張中、『父親が監視役として滝沢を派遣し、亮がそれに反抗したため滝沢によって亮が軟禁状態に置かれるはめになった』と伝えられている。
 全てを伝えず、なるべく事を荒立てないように、父と兄がぎくしゃくしないように――そう亮が望んだ結果が、この報告であった。
 軟禁状態でストレスを与え続けられた亮は身体を壊し、事務所で寝泊まりするようになったとそういう筋書きだ。
 秋人が医師の免許を持っていた事もあって、修司は今回の件で事務所に全幅の信頼を寄せるようになっていた。
「うん、わかってるよ。平気だって。しゅう兄の言うこと、わかる。――たき……ざわには、ちょっと参ったけど、な。ハハ、あいつ、すっげーイヤミなんだもん」
 亮はテーブルへプリンを置くと、そう言った。
 ちゃんと、自分は笑えているだろうか。そんな不安が亮の胸をよぎる。
「ん? もういいのか? しゅう兄のも食べていいぞ?」
 いつもならガツガツと五個は軽く平らげる亮が、今日は一つを食べきることなく手を下ろしたことに、修司は心配そうに顔を曇らせる。
「ん、今日は、も、いいや。しゅう兄、明日も仕事だろ? 早く寝ないと――」
「そうか、久しぶりの家だもんな、疲れたよな。ちょっと話しつこかったか」
 修司は申し訳なさそうに笑うと、残ったプリンを冷蔵庫へとしまいに行く。
「おまえの部屋、今日帰ってから空気を入れ換えといたし、シーツも変えておいたから大丈夫だぞ」
「――あ、あ…のさ、しゅう兄。――今日、ここで寝ちゃ、ダメかな……」
 となりのキッチンへ、亮は思いきってそう言葉をかけた。
 どうしても、自分の部屋へ入る気になれなかった。部屋へ入る扉を見るのも嫌だった。
 修司が帰ってきて真っ先に亮の部屋へ窓を閉めにいったとき、ちらりと見えたベッドの端に、亮は前触れもなく強烈な吐き気に襲われていた。
 すぐにトイレへ駆け込み、先ほど外で食べてきた夕食を全部戻してしまう。
 何度か突き上げるものを吐き出し、ようやく落ち着いた亮は、生理的に浮かんだ涙をごしごしと袖で擦り、何事もなかったかのようにリビングへと戻っていた。
 キッチンでお湯を沸かし始めていた修司は、亮の様子に気づくことはなかったらしく、亮はそれに幾分ほっとする。
 それで、亮は自室で寝ることは無理だと判断したのである。
「ここで? いいけど布団ないぞ。風邪引かないか?」
 プリンをしまい、戻ってきた修司が不思議そうに眉をひそめる。
「大丈夫だって。もう夏だし、ソファーで十分」
「おまえ、病み上がりなんだから無茶はするなよ。僕の部屋使うか?」
 亮が滝沢に軟禁されていたという事を修司も思いだす。
 軟禁という言葉でそんな厳しいイメージは持たなかったのだが、今の亮の様子を見ると、自室で相当嫌なことがあったのだろうと思い至る。
 ここへ帰ってきてからの亮の顔色は良くない。
「いい、平気。も、寝るから――」
「そうか。じゃあ毛布持ってきてやるから、シャワー浴びて……」
「ん、ごめん、お風呂、いいや。台所で歯磨きして顔だけ洗う」
 バスルームも恐かった。
 まだ帰ってきて一度も目にはしていないが、亮にはわかる。
 きっとあそこへ入れば、ノック・バックが始まる。
 滝沢に監禁されていた二週間。
 亮はほぼ部屋とバスルームを行き来するだけの生活を送っていた。
 バスルームで身体を洗われながら、何度も滝沢に犯されたことを思い出す。
 逃げだそうとした日。
 犯されながら水を張った湯船に顔を沈められ、溺れかかると顔を引き起こされてまた腰を揺すられた。気を失うまで延々とそれを続けられ、気を失ったら何度か殴られ起こされて、再び犯されながら沈められた。そうして亮の反抗心も体力も、瞬く間に削り取られていった。
 あの日のカルキと石けんと滝沢の臭いが、ありありと亮の中に蘇ってくる。
「亮? きついなら、事務所に戻るか?」
 ソファーに座ったままうつむき、肩で息をし始めた亮を、修司が心配そうにのぞき込む。
 びくっと亮の身体が跳ねた。
 修司の顔が目の前にある。
 ダメな弟だといいながら、自分をえぐり続けた修司の姿が何度も亮の脳裏に閃いた。
「とお……」
「っや、あ、ごめ――」
 亮は反射的に立ち上がると、ぶんぶんと首を振り、驚いた顔の修司を置いて、もつれる足でキッチンへと向かう。
 あれは嘘の記憶だと、何度も自分に言い聞かせる。
 わかっているから平気だと思っていた。
 だが、実際この部屋に帰ってくると、大好きな兄が恐い。
 そして、兄にあんなことをさせた自分に吐き気がする。
 あの兄は偽物だったかもしれないけれど、兄だと思う相手に自分があんなことをさせたのは事実なのだ。
 それを目の前に突きつけられた気がした。
「亮、本当に大丈夫か? 顔色、真っ青だぞ」
 背後から修司が声をかける。
「大丈夫、どうってこと…ない。しゅう兄、毛布、お願いしていいかな」
「わかった。でも、本当に無理はするなよ」
 修司が部屋に戻っていくのを見計らって、亮はお泊まりセットの中から一服の薬を取りだしていた。
 小さなこの白い錠剤は、経口用のGMDである。
 ノック・バックが起こる前に、危険だと思ったらこれを飲んでおくようにと、秋人に渡されたものだ。
 大きな発作が起きてしまうと心臓への負担が大きく、秋人が薬を届ける間に亮が死亡してしまう可能性がある。
 だからその前に、少ない量のGMDをあらかじめ服用しておき、それを防ごうという方法だ。
 少量であるが故その薬効も小さく、身体は熱く高められても意識が飛ぶほどではない。
 それ故、うまくすれば自慰行為でどうにか乗り切ることが出来る。
 兄と二人の小さなマンションだ。できれば飲みたくはなかったのだが、今のままでは必ず深夜、ノック・バックが起こるに違いないと亮は感じていた。
 かといって、このまま泊まらず事務所に戻るのは嫌だった。
 それは自分が、滝沢や薬を飲んだ自分自身に負けるということを意味する気がしたからだ。
 たとえ一日でも、ここで眠る。
 そう心に決めて、亮は今日ここへ戻ってきたのである。
 わずかに震える手で小瓶から薬を取り出し、水道水で流し込む。
 歯磨きをし洗顔をしてリビングに戻ると、修司が枕と毛布をソファーの上にセッティングしてくれているところであった。
 その後ろ姿を見ると、ありがたくて嬉しくて、胸の奥がほんわりと暖かくなる気がした。
「しゅう兄…、ありがと――」
 その声に修司は振り返ると、いかにも優等生然とした整った顔を困ったようにほころばせる。
「何を今さら他人みたいなことを言ってるんだ」
 亮の頭をくしゃくしゃと撫で、修司はキッチンからミネラルウォーターを持ってきた。
「水、ここに置いておくから。それから吐きたくなって我慢できなかったら、飛行機からもらってきた袋があるから、これ使え。熱はないか? 氷枕、つくろうか」
 ソファーに座った亮の前に、次々といろいろなものが運ばれてくる。
 相変わらずの修司の様子に、亮は少しだけ微笑んだ。
 やっぱり、しゅう兄はしゅう兄だと思った。
「もうこんだけあれば、十分だからさ、しゅう兄も早く部屋で休んでよ」
 亮はソファーへ横になりながら、傍らで心配そうに亮の頭にアイスノンを乗せている修司へ声をかける。
「何言ってんだ。今日は僕もここで寝るつもりだから。気分悪くなったらいつでも起こすんだぞ」
「え、あ、いや、でも――」
 驚いた亮を尻目に修司はにっこり微笑むと、自分用の毛布を手にし、向かいのソファーへしっかり寝そべっていた。
 一応部屋着には着替えているが、いつでも外へ出られるかっこうである。何かの時にはすぐに病院なり事務所なりへ亮を連れて行けるように、万全の体制を取っているらしかった。
「しゅ、しゅう兄、いいよ、部屋で寝てよ」
 亮としては今からやってくるGMDの波に、ここで対処しようとしていただけに、修司のこの体制はかなり困った状況である。
 だが一度言い出したら聞かないのは、父親譲りだ。
 亮の言葉に修司は首を振ると、静かに寝ろと電気を消す。
 風邪気味の弟を置いて出張に出てしまったことが、今回のそもそもの原因だと思っている修司にとって、同じ失敗は二度としたくないという想いが働いているようであった。
――どうしよう。
 小さな常夜灯のみが灯る室内で、亮は毛布に潜り込みながらひたすらに焦っていた。
 次第に鼓動が上がり始めている。
 呼吸も少しずつ苦しくなってきた。
 効き目は緩やかであるものの、確実に快楽の潮は亮の中に満ち始めている。
 体の芯が熱い。
 あれから何度か、事務所では一人でGMDを押さえる訓練をした。しかしその時は、シドも部屋の外へ出ていてくれたし、自分を収めることだけに集中すれば良かった。
 だが今は違う。
 同じ部屋、すぐそばに兄がいる。
 こんな所であんな真似、できるわけがない!
 亮は起き上がると、ふらふらとトイレへ向かい歩き出した。
 もうそこしか思い浮かばない。
「亮、大丈夫か?」
「ん、平気。ちょい、トイレ行くだけ」
 起き上がった修司が声をかけ、手を貸そうと追いかけてくるのを、亮はどうにか制止していた。
 トイレに飛び込むとすぐに鍵をかけ、ドアを背にして崩れるように座り込んだ。
 手を伸ばし、めいっぱいトイレットペーパーを引き出す。
「っ、はっ、ん…」
 ジーンズの前をくつろげると、亮はすでに首をもたげ始めていた自分自身に手をかけ、ゆっくりと動かし始める。
 焼け付く熱に、焦って動きが速くなるのを、亮は懸命に抑えた。
――だめ、だ。ゆっく、り。ゆっくり、焦んな、息、は、大きく……
 快楽に任せて思うさま擦り上げれば、あっという間に意識が飛んでしまう。
 その後は声を抑えることもできず、ましてや近くに人がいればその者が誰であろうと入れてくれと懇願する可能性もある。
 最初はそれで失敗し、結局シドに手伝ってもらうはめになったのだ。
 この状況でそんなことになれば、自分は今度こそ大切な場所を失ってしまう。
 そう、思った。
「っ、ぁっ、んっ、んくぅ、ぁっ」
 くちゅくちゅと音がし始め、無意識に亮の腰が揺れる。
 亮の左手は規則正しく上下に動き、それに併せて声が漏れ始める。
――声、だめ、でちゃ…
 夜でも喧噪の多い立地である事務所に比べ、このマンションは住宅街にあるため、今の時間とても静かだ。
 しんと静まりかえった暗闇の中、自分の出す声はいつもよりさらに大きく聞こえ、亮はますます追い詰められてしまう。
「ぃぅっ、ん、っあっ、ふあっ」
 亮は自分のTシャツの裾をまくり上げ、それを自らかみしめた。
「っ、んっ、んっ、ふっ、んんっ」
 くぐもった声が、密やかに小さな個室を満たしていく。
 たくし上げたシャツから覗くピンク色の飾りを、残った右手が弄り始めていた。
――だめ、だって、そんな、とこ、いじちゃ、あっ、だめ…
 頭がそう危険信号を出している。
 しかし、身体の方はそれを無視し始める。
 くりくりと自ら胸の飾りをつまみ上げ、反対の手は上下に動きながら、時折先端をいじめるようにこね回す。
「っ、っ、…、んぁっ、…っ、ぃぅっ、ぁっ」
 亮は次第に膝立ちになり、まるで何者かに犯されているかのように前後に腰を動かす。
 声を殺し、かみしめたシャツに、じんわりと唾液の染みが広がっていく。
――き…ちぃぃ、あ、だめ、もと、ゆく、り、おと、が、きこえ、ちゃ、
 ぐちゅぐちゅと、先ほどより大きな音が亮の手の中からし始め、揺れる身体に合わせてがたがたと扉が鳴る。
「ふ……っ、ぃ…ん、っぁ…」
――しゅにぃ、に、きこ、ちゃう、ど、しよ。しゅにぃ、に、きこえ、ちゃ、よぉ…っ
 修司が近くにいる。
 自分がこんなエッチなことをしてるなんて、しゅう兄に知られたらどうしよう……
 女の子みたいな声出して、自分で弄って……
 自分のこんな嫌らしい声、しゅう兄に聞かれちゃう……
 しかしそう思えば思うほど、亮の中で熱が加速していく。
 恐怖と羞恥心、そして突き上げる快楽に、亮の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 これ以上ペースを上げたら危険だと、わかっているのだ。
 だが、脳と身体が切り離されてしまったように、亮の両手も、その腰も言うことを聞いてくれない。
「亮、どうした、大丈夫か!?」
 すぐ外から声がした。
 亮の身体がひくんと跳ね上がり、恐怖に震えが走る。
 どうやらトイレにこもって二十分近く経過し、心配になった修司が様子を見に来たようだった。
――へん、じ、しなきゃ。へ、んじだ、とおる…
「…っ、ぃ、ん、ぅ」
 大丈夫――、そう言ったつもりだった。
 しかし声を殺すためシャツをかみしめたままの亮に、まともな返事などできるわけがない。
 それすら亮の頭に浮かんでこなかった。
 その間も、亮の左手は全く別の誰かのもののように、亮を責め続ける。
「亮っ!?」
――だめ、なんで、、も、はや、く、出して、ちゃんと、へんじ、とおる、手、とめて…
「っ、ふあっ…」
 ぴちゃりと音がし、咥えていたシャツが手元に落ちた。
「ここ、開けろ、亮。亮!」
 がちゃがちゃと取っ手が鳴る。
「だ、じょ、ぶ。しゅ、にぃ、ォレ、ひ…とりで、できる…」
――ひとりで、できる? 何が? そだ、ひと、りで、しないと…
 亮の手の動きが次第に速まり、亮はマットレスの上に突っ伏して腰を揺すり始めた。
「っ、ぃ、っ、ぁっ、んっ、っ、ん、っっっ!!!」
 一際強く擦り上げた瞬間、亮の身体がびくりと跳ね返り、その手の中に白濁した液体を吹き上げる。
 それでも擦り続ける左手に、二度、三度と、亮は連続して放っていた。
 ひくひくと痙攣する身体をどうにか起こし、散乱したペーパーのリボンに手を絡める。
「亮、ちょっと待ってろ、今開けてやるから――」
 修司は中の異常な様子に、工具箱を取りに自室へ跳んでいく。
 その慌てた様子の足音を聞きながら、亮は手の中の汚れを拭き取り、汚れたペーパーを便器の中に放り込んでいた。
 次第に意識が消えていく。
――ズボン、ちゃんと、しなきゃ…
 亮は中の下着を上げ、ジーンズのファスナーに手をかけたところでぱったりとその場に倒れ伏していた。



 冷たい手がおでこの上に乗っている。
 気持ちいい。
「――シ…ド?」
 呟いて目を開けた亮の顔を見下ろしていたのは、心配そうな表情の修司であった。
 起き上がろうと身体を動かした亮の頭から、ぱたりと冷たく濡れたタオルが落ちる。
「亮、まだ起き上がらない方がいい」
 すぐに身体を押し戻され、力なく亮はソファーの中に身を沈める。
 見回せば、そこは先ほどまで横になっていたリビングであった。
――そっか。オレ、失敗、したのか。
 先ほどまでのことが次第に鮮明に、頭の中に思い起こされる。あんなに大きな音を立てて、意味不明のことを言って、ばれないはずがない。
―― 一人であんなまねしてたとこ、しゅう兄に見られたんだ。
 心臓が一度、ズキンと大きく脈打った。
 恥ずかしさと哀しさで、目を開けていられない。
 ぎゅっと目をつぶり、毛布を頭の上まで引き上げる。
「しゅ、にぃ、オレ……」
「おまえは、貧血起こすならトイレでなくここで倒れろ。連れ出すために、ドアノブ分解しなくちゃならなかったんだぞ」
 しかし亮を見下ろす修司の言葉は、亮の想像したどれとも異なっていた。
 いつも通りのテンションでやれやれとため息をつき、少しだけ毛布から覗く亮の頭をぐりぐりと撫でてくる。
 亮はそれに、不思議そうにそろりと顔を出す。
「ひん…けつ?」
「具合悪いなら言えと言っただろ? まあ、しばらくはおまえは事務所でやっかいになれ」
「しゅう、にぃ…」
「僕もこれから出張が多くなる。弟がこんな虚弱体質じゃ、心配で一人にしておけないからな」
 修司は優しげに笑うと、タオルを絞り直し、亮のおでこに乗せてやった。
「――うん」
 その修司の様子に、安心したように亮はうなずく。
 修司には気づかれなかった。
 大丈夫だった!
 そのことが、亮にようやくわかったようだった。
「今日はこのままここで休んで、明日は一番におまえを送っていく」
「――うん」
「その代わり、朝飯はコンビニのおにぎりだぞ。時間ないからな」
「いいよ、おにぎり、好きだし」
 やっと亮の顔に笑顔が浮かんだ。
 修司はそれにほっと息をつくと、亮の丸い頬をうにっとつまみ、目を閉じて寝ろと、そう言った。
「帰って来たくなったときは、いつでも帰ってきていいんだからな」
 静かに寝息を立て始めた亮の顔を見下ろし、修司はそう呟く。

 実のところ亮がこの部屋へ戻ってきたときから様子がおかしかったことに、修司は気がついていた。
 修司が亮の部屋からリビングに戻ってきたとき、亮はトイレで吐いていた。心配だったが、亮がそれを隠したい様子だったので、修司は敢えて触れなかった。
 自室の中をちらっと見ただけでこんな状態になるとは、ただ軟禁されていただけにしては行き過ぎだと疑問に思った。
 そしてさきほどのトイレでの出来事。
 ドアを開けたときのあの状態は、一目見れば亮が何をしていたかわかるものだった。
 亮はどちらかと言えば、その手のことにかなり疎く、自分でそう言った行為をすることなどほとんど無かったはずである。
 それが、たった一月の間に信じられない変貌であった。
 驚かなかったと言えば嘘になる。だがあの様子ではただ自分が楽しむ為にしていたとは思えない。
 何よりあの亮が、修司が傍にいるこんな状況でこんな真似を好んでするわけがないと、兄である修司にはよくわかっていた。
 行為を終えた後のあの衰弱ぶりも、普通ではない。
 恐らく何か理由があるはずだ。
──滝沢か……。
 原因があの男だと言うことはわかる。
 この家で、滝沢が亮に何をしたのか、亮は何をされたのか。
 考えたくはなかったが、修司には漠然と予想がついてしまった。
 元々滝沢という男がどんな人間なのか、修司はよく知っている。
 だからこそ、亮がこんな状態に陥り、バイト先の事務所に匿われることになったのではないかと想像がつく。
 亮が滝沢のことを言いたがらないのは、された行為によるものもあるだろうが、なにより、自分と父を衝突させないためだということを、修司は知っている。
 昔からそのクセは変わらず、亮のその気持ちが修司には痛いほどわかった。
 少し痩せた亮の頬を撫でながら、胸を締め付けられるほど切ない思いに駆られる。
 こうなる前に、自分はなんとかできなかったのだろうか。
 あの日、仕事をキャンセルしてでも亮を病院へ連れて行くべきだった。
 後悔のため息ばかりが口から零れる。
 とにかく今は、亮の体調が心配だった。
 病状や、なぜこうなったのか、詳しいことが知りたい。
 亮の全てを把握しておきたい。
 だが、それらを含め、全部を亮は自分から隠したがっている。
 亮が自分に知られたくないと思っている以上、あえてそこへ踏み込まないでおこうと、修司は心を決めていた。
 何より、今の亮には自分以外にも頼ることの出来る場所が見つかったようである。
 この件は、どうやら彼らに任せておくことが、最善の策なのだろうと修司は判断していた。
「しかし、少し寂しいな、亮。おまえがちょっとずつ、僕の手から離れていくのがわかるよ――」
 十歳離れた弟はいつでも修司の後をついて回り、修司のやることなす事を真似していつも苦笑させられた。
 父に体罰を受けたときは、涙も見せず部屋の隅でじっと膝を抱えこらえていた。
 修司が手を差し伸べて初めて、亮は声を上げて泣くのだ。
 幼くして母から離れたこの弟は、人に優しくされる事に慣れていないようだった。
「亮──早く元気になれ……」
 修司は寝息を立てる亮のおでこに優しく口づけた。