■ 1-9 ■





 二週間が経過していた。
 亮のノック・バック症状は次第に間隔を広げ、今では三日に一度のペースに落ち着いている。
 それと共に正気を取り戻す時間も大分増え、食事も少しずつではあるが口に出来るようになっていた。
 しかし、亮の顔に表情が表れない。
 目覚めているときはずっと、ぼんやりと窓から空を眺めている。
 あまりにも殺風景な部屋なので、秋人が中古のテレビを差し入れてくれたのだが、例え音が鳴っていてもそちらを見ることはない。
 学校のことや兄への連絡、そして着替えのことなどは、全て壬沙子がうまく取りはからってくれたらしい。
 そのことを告げられたときも、ぼんやりとしたまま、ただうなずくだけだった。

 うとうととしていた亮が目を覚ませば、ベッドの隣にシドがいる。
 壁に背を預け、咥え煙草で新聞を眺めていた。
 今、何時なのかわからない。
 窓の方を眺めれば、茜色に染まった光線が、カーテンの隙間から眩しいほどに差し込んでいた。
――そうか、さっき済んだんだ。
 自分の来ているシャツがいつのまにか別の物に変わっている。シーツも洗濯したての新しい香りがした。
「――シド」
 声をかけてみた。
 シドは亮に視線を落とすと何も言わず、無造作に亮の髪を撫でる。
 その動きがあまりにも優しくて、亮はまた黙り込んでしまった。
「どうした。腹が減ったか?」
 ベッドサイドのテーブルにおかれた灰皿で、シドが短くなった煙草をもみ消す。
 亮は黙ったままだ。
 お気に入りのタオルケットを抱え込んだまま、何も言わず、ただ視線を下へそらした。
 シドはそれに気づくと、もう一度亮の頭を撫でてやった。
 柔らかな亮の髪はとても指触りがいいらしい。
「もう少し眠っていろ。飯が出来たら起こしてやる」
「――どうして」
 そう言いかけて、亮は一度口をつぐんだ。
 言おうか言うまいか、その様子は明らかに逡巡しているものである。
 シドはそのまま亮の言葉を待っている。
 亮は視線を落としたまま、一度ぎゅっと腕の中のタオルケットを抱きしめた。
「どうして――しないんだ?」
 必死に亮が絞り出した言葉は、シドにとってどういった意味の物なのかわからなかった。
 だが亮はそれに気づくことなく続ける。
「オレばっか、頭おかしくなって、シドはずっと冷静で、オレはすごい最低で、シドはすごい優しくて――」
 この二週間、ずっとそうだった。
 自分がいかに最低で汚らしいか、それをずっと見つめてきた。
 自分でも何がいいたいのかわからない。
 ただ、シドは亮を気持ちよくしてくれるだけで、自分が乱れることはない。
 それが、なんだかとても不公平で、悲しくて、胸の奥に穴が開きそうだった。
「亮――」
 シドが亮の言わんとすることに気がつき、口を開く。
 しかし亮はその答えを恐れるように、上から言葉をかぶせていた。
「ごめん――、何言ってんだろ、オレ。そうだよな。これ、治療だもんな。こんなこと、フツーなら気持ち悪くてできないもんな。そうだよ、わかってる」
 そうだ。
 気持ち悪いからしない。
 当たり前だ。
 こんな最低なこと、シドにさせておいて、何勝手なこと言ってんだろう、オレは。
「ごめん――、もうちょっと寝る。ご飯、今日はいらないから」
 そう言うと、亮はタオルケットを頭からひっかぶって目を閉じていた。
 シドの答えを聞きたくなかった。
 自分で思うより、シドに言われた方が、あの言葉は恐ろしいほどに威力を増すと思ったからだ。
『気持ち悪いから』
 何度も心の中で呟いてみる。
 もしも今、頭の上からその一言が降ってきても心が抵抗できるように。
 心臓をどくどくさせながら、亮は我知らずささやかな防衛戦を張っていた。
 しかし、その言葉はかけられることはなく、ただ、
「飯は食え」
 そう一言聞こえ、それと共に内線電話がシドを呼ぶ音がした。







「今がチャンスなんですよ、壬沙子さん!」
 秋人はうきうきと割烹着を着て給湯室でおかゆを煮ている。
「急な仕事でシドは今地下じゃないですか。そして、亮くんはお食事タイム。これがどういうことか、わかります?」
「さぁ。どういうことかしら」
 少々辟易した様子で、壬沙子の口からため息が漏れる。
 作りかけの書類をセーブすると、パタンとノートパソコンを閉じていた。
「私が渋谷くんの代わりに、クライヴをサポートするって事?」
「それもあるな。いや、それもありますけど、なんと、今日はこれから僕が亮くんにご飯を食べさせてあげるわけですよ。―― 一度やってみたかったんだよねぇ。あま〜い感じで、あ〜んしてって……」
「亮くん、今はちゃんと自分でお箸使えるでしょ」
「やだなぁ。男のロマンってものが、わかってないですよ、壬沙子さん。いつもはあのゴウツクバリのシドにおいしいとこばっか取られてますからね。今日は容赦しないですよ、ぼかぁ」
「・・・。クライヴに殺されない程度にしておきなさいよ」
 ありがたい壬沙子のアドバイスを聞き流し、秋人は軽い足取りでできたてほやほやの秋人特製おかゆスペサルを持って、四階のシドの部屋へ上がっていった。
 ちなみに事務所は二階、三階は秋人の私室である。
「亮くんっ、ごはんですよっ♪」
 思い切りよくシドの寝室のドアを開ける。
 しかしその笑顔がしばし凍り付く。
「――あれっ?」
 そこには誰もいない。
 ベッドの上にはたたまれたシドのシャツ。
 そして部屋の隅に置かれた亮の着替え用スーツケースは、ここに来て以来初めて開かれ、中のものが乱雑にひっくり返されていた。
「と、亮くん? 冗談、だよね? 亮くんってば」
 秋人はバストイレからキッチン、クロークに至るまで、あらゆる所を探し回ったが、亮の姿を見つけることは出来ない。
「嘘だろ――。ちょっと、どこ行ったんだよ、あんな身体で!」 
 シドが部屋を離れた小一時間の間に、亮は姿を消していた。







 ほぼ一ヶ月、歩くことをしなかった。
 それだけの事なのに、亮の身体は鉛のように重い。
 力がうまく足に入らず、まっすぐ進めているのかすらよくわからない。
 身体はだるく重たいのに、頭の中はぼんやりとして中身がなくなってしまったようだと思った。
「ただでさえ、バカなのに」
 そう呟いてみる。
 ふらふらと歩く自分を、通り過ぎる人たちが盗み見てくるのがわかる。
 服は一応自分の着ていた物なので問題はなかったが、それでも体重が落ちたせいか、ベルトを一番奥まで締めても余裕が出来てしまっていた。緩くなったズボンを上げながら、なんとか歩いている。
 シャツのボタンは何個かをうまくとめられなかった。
 指先が震え、力もうまくかからないのだ。
 何より、靴がまずい。
 着替えの中に靴はなかった。
 だから仕方なく、亮はスリッパのまま外を歩くことになったのである。
 ちなみにシドの靴は大きすぎて、今の亮の体力ではまともに歩くことすらできそうになかった。
――どこに行こう。
 亮は飛びそうになる意識の中、ぼんやりと頭を巡らす。
 事務所周辺をいつまでもふらふらしているわけにはいかない。すぐにシドたちに見つかってしまう。
――マンションへ帰ろうか。
 帰る? どこへ?
 もう、あそこへは帰れない。
 自分は大好きな兄を酷い目に遭わせた。
 もう、あそこは帰っていい場所じゃない。
――学校は?
 もう夜だ。
 それに、制服はなくしてしまった。
 何日も無断欠席する悪い生徒はきっと入れてもらえない。
――実家は?
 オレはもういらないと言われたじゃないか。
 仕事もちゃんとできなかった。
 名前も取り上げられた。
 父さんが許してくれるわけない。
 今度は死ぬまで殴られる。
――事務所に戻る?
 そんなのダメだ。
 だって、シドにこれ以上、あんなことさせられない。
 こんな最低なオレにつきあわせちゃいけない。
 これ以上嫌われたくない。
 嫌われたくないんだ。
――じゃあ、行くところないじゃん。
「そうだな。行くところ、ないな」
 ぽつりと呟いた亮は立ち止まり、空を見上げた。
 紫色から濃紺へ色を変える夜の空は、街の明かりのせいか星がない。
 気づけばただまっすぐ進んできた亮は、繁華街の真ん中で行き場もなく立ちつくすしかなかった。
 道路には車がひっきりなしに行き交い、八時近くの街中は会社帰りのサラリーマンや朝までコースの学生たちで溢れている。
――息が苦しい。
 人混みと喧噪が、亮の衰弱しきった身体を追い詰めていく。
 立っているのがつらい。
 人の来ない場所で、少し休もう。
 そうすれば、また何か思いつくかもしれない。
 亮は定まらない足取りで、眩しく電飾の歌うパチンコ屋の前を抜け、薄暗い一本奥の道へと入っていった。
「おい、おまえ、なに? スリッパじゃん。病院脱走犯?」
 パチンコ屋の裏口辺りでしゃがみ込もうとした亮に、突然声がかかる。
 振り返ればそこには三人ほどの男が立っている。
 大学生だろうか。まだ夜も早いというのにすでにできあがってしまっているようだった。
「なんだ、まだガキじゃん。おいおい、こんな所に来ちゃだめでちゅよ」
 普段の亮にこんな口を聞けば、台詞の途中で男は撃沈させられているところである。
 しかし立っているのもやっとのこの状態では、言葉の意味が頭に巡るのすら時間がかかる。
 亮は半分焦点の定まらない視線で、自分を囲む男たちを見上げるだけだった。
「こいつ、顔色わるっ! 死ぬんじゃね?」
「金も持ってなさそうだしなぁ……」
「死ぬんなら身ぐるみはいじゃうか」
 口々に勝手なことを言い距離を詰めてくる男たちから逃れようと、亮は男たちの間をすり抜ける。
 しかし、彼らは亮の行く手をふさぐと腕を取っていた。
「ちょっとまだ話の途中でしょ、ボクタン」
 腕を強く引かれると、男の一人に軽々と放り投げられ、亮はアスファルトの上に背中からたたきつけられていた。
 衝撃で息を詰まらせつつ、それでも何とか身体を起こす。
 緩めのズボンは半ばずり落ち、うまくボタンをとめることが出来なかったシャツは、血の気の失せた亮の胸元を白く晒していた。
 浅い呼吸で苦しげに眉根を寄せる亮の様子には、男たちが今まで知り得なかった病的なまでの色気が満ちている。
 男の一人がゴクリと喉を鳴らした。
「――なに、こいつ。なんつーか、すげぇ……エロくね?」
「お、おいおい、オスガキだぜ? そんなんアリかよ」
「……いや、おれはアリ」
「嫌なら、おまえ、見張りしてろよ。俺らすぐ済ませるし」
「ちょ、待てって。何で俺だけ見張りなん? 俺だって加わりてーよ」
 アルコールも相まって、男たちのテンションはどんどん高まっていく。
 ひそひそと役割を話し合いながら、男たちは座り込んだまま立ち上がれない亮の身体に覆い被さる。
 それに必死で抵抗する亮だが、三人がかりで手も足も押さえ込まれ、身動きがとれない。
「うわっ、可愛い顔してんなぁ。俺、男ってまだ三回目半だから、あんまうまくなくても怒るなよ?」
 酒臭い息がかかる。
「なんだよ、おまえそっちの人種だったの?」
「九・一で女が好き。でもつまみ食いはする」
「逆じゃなくてよかったー。俺、狙われちゃうかと思った」
「頼まれたっておまえみたいのはお断りだ」
 下卑た笑いをたてながら、馬乗りになった男が亮のシャツを開き、自分のベルトを緩め始める。
「っ、放せ、触るな、オレに、さわ、るなっ」
 亮の呼吸はますます不規則になり、心臓が痛いほど脈打つ。
――恐い!
 恐くて身体が震えた。
 何でこうなる?
 また、あれをされる。
 何でだよ。
 何で、そんなことしたいんだよ。
 わからない。
 嫌だ。
 意識が、消える。
「おまえら、何やってんだ、ああ?」
 その不機嫌そうな声は、突然亮の上から降ってきた。
 亮に覆い被さっていた男たちが顔を上げると、そのそばから瞬く間に吹き飛ばされていく。
 その凄まじいその腕っ節に、酔っぱらいたちが太刀打ちできるはずもなく、ものの一分で亮の上にあった不快なものたちは一掃されていた。
 夜風が亮の上を吹きすぎていく。
「だ、大丈夫ですか、お嬢さん!」
 腕っ節の強い通行人は倒れ込んだまま起き上がれない亮のそばに駆け寄ると、ひざまづく。
「あいつらは、このオレが片腕一本で退治して……」
 はだけられた胸元に視線をやらないように、抱き起こそうとして、その人物は言葉を止めた。
「退治して…退治ぃ……いいいっ!? とっ、とと、とおるっ!?」
 ちらりとしかその姿を見ていなかった彼は、そこで初めて自分の助けた者が薄幸の美少女でなかったことを知る。
「――と…しき? なんで……?」
 自分の腕の中で苦しげに息をつく相手は、小学校からの腐れ縁、紛う事なき同級生の成坂亮であった。
「なんでって、オレがなんでだよ! オレの『助けた後はつきあってナンパ大作戦』どうしてくれんだよ! てか、なんでおまえがあんな奴ら如きに押さえ込まれてんだよ! っつか、おまえずっと学校休んでどうしてたんだ!?」
 一気にあふれ出る俊紀の質問攻めに、亮は少しだけ笑った。
 その顔があまりに儚くて、俊紀は無性に不安になる。
 亮が本当に消えてしまいそうだと思った。
「ォレ、さ。」
 小さな声で亮が呟く。
 顔を近づけないと、聞き逃してしまいそうなほどささやかな声だ。
「な、なんだよ。もっと大きな声で言えよ」
「としきには、まだ、酷いこと、して、なぃ…から、さ」
 それでも亮の声は大きくはならない。
 それどころか、ますます小さく、吐息と変わらぬほどになっていく。
「なに、いってんだよ? おまえ、どっか悪いのか? 病院出てきたのか? なぁ、亮!」
「ォレ、のこ、と、きらいに…なんない…で、くれ、よな」
 亮の視線が自分を見ていないことに気がつく。
 俊紀の心臓がズキンと大きく鳴った。
 普通じゃない。
 亮が本当に死んでしまう。
「亮、おい、嫌いになんてなんねーよ。オレら、七ヶ瀬のグリとグラだろ!? 死ぬなよ、亮! こっち見ろって!」
 途切れ途切れにしか呼吸をしない亮を、俊紀は必死に揺すった。
 しかし亮の瞳に意識の光は戻らない。
――救急車だ!
 救急車を呼ぼう!
 117だっけ、104だっけ!?
 亮を抱きかかえたまま携帯電話を取り出す。
「どぅぇっ、電池切れだぁっ!!」
 ちゃんとこまめに充電しておけば良かった。
 仕方なく、亮のポケットにあった携帯電話を取り出していた。
 震える手で操作するが、機種も違うしうまくいかない。
 押したと思ったら時報が流れる。
 自分は満足に救急車を呼ぶことも出来ない男なのだ。
「くそっ、待ってろ、亮。待ってろよ?」
 そう言って押したボタンで履歴が出た。
 一番上の番号にかけて、そこで救急車の番号を教えてもらおう。
 コール音が二回流れる。
「あ、もしもし? 救急車の電話番号を教えて欲しいんですが」
『……え? うち、ソムニアサービスですけど。番号案内は104ですよ?』
「ああ、その、亮が、友達が、今死にそうで、すぐに救急車呼ばないと、だから、そこを曲げて教えていただきたくっ」
 電話先の空気が変わる。
『もしかして、俊紀くん? 今、どこ!? 亮くんは無事なの!?』
 数分後、亮の身体はシドに抱えられ、壬沙子の運転するセダンの後部座席に寝かされていた。
 後ろに乗っていた秋人が手際よく注射を打つ。
 助手席に座った俊紀は心配そうにそれを見つめ、
「ブラックジャックっすか? 闇っすか? 大丈夫なんすか?」
 を繰り返している。
 ノック・バックは起こしていない。ただ、いつものような意識低下が起こってしまっただけである。
 熱が高くなっていたので解熱剤と、安定剤をとりあえず投与したらしい。
「バカが――」
 スースーと静かな寝息が聞こえ始めると、シドは自分の膝に乗せた亮の髪を指で梳いてやった。
 車は事務所へ向けゆっくりと走り出していた。