■ 2-1 ■


 なんだか面倒なことになりそうだと、秋人はため息をつく。
 ため息混じりに電話の受話器を置くと、秋人はデスクチェアーにボスリと腰を落とした。
「本当に来るみたいですよ、担当のソムニア」
「だからそう言ったじゃない。今回の件は本部でもかなり大事になってるみたいだから、直接担当の者が来るらしいのよ」
 壬沙子は呆れたように整った眉を上げると、まとめた資料を秋人へ手渡す。
「うちは表じゃIICRと何の契約もないフリーの事務所ですよ。裏で動くことでお役に立ってるってのに、そんな担当者がわざわざ来るって大丈夫なんですか?」
「やって来る者は一応の事情を知ってるから、そこは問題ないわ。ただ、本部から直接来るのであって、日本支部に話は通してないらしいの。まぁ、うちの存在を支部に知られるわけにもいかないからアレなんだけど――」
「なんですか? 含んだような言い方ですね」
「日本支部の警察部は、どうやらクライヴが今回の件に大きく絡んでいるとみているらしいのよ。それもあって、対策を話すという名目で実情を視察したいみたいなんだけど」
「――壬沙子さんがいるのに。なんでわざわざ……」
「私もここに派遣されて四年たっているもの。お目付役とは言っても名ばかりだと思われているのかもね」
 冗談めかして肩をすくめた壬沙子の様子には、あまり深刻さは感じられない。
 どうやら担当のソムニアが誰であるのか、彼女はよく知っているようであった。
「全く、こんな優秀なお目付役なんていないって、あいつらわかってないんですよ! 壬沙子さんいなかったら、シドのバカは今頃鎖の外れたシベリアンハスキーみたいに、飛んでったっきり帰ってきてないですね。ホント」
 不機嫌極まれりの秋人は、手渡された書類をぺらぺらと黙読しながら続ける。
「IICRの本部から来る奴なんてどうせ、偉そうで、お高くとまってて、プライドの塊で、扱いにくい、いけ好かない野郎なんでしょ? そんな奴の相手、僕はごめんですよ」
「あらすごい。全部当たってる」
 壬沙子が驚いたように目を丸くした。
 秋人はシドと組む前から、IICRの事をあまり良く思っていない。
 自分の開発した新方式の入獄システムの利権を、うまいこと彼らにかすめ取られたせいである。
 そのおかげでいくらシステムが売れまくろうと、秋人には微々たるお金しか入ってこないのだ。
「全部ですか。――はぁ。少しは否定して欲しかったですよ。……さぼっちゃおうかなぁ。後はシドに任せて――」
 事務所の経営者として良からぬ考えを巡らせ始めた秋人の耳に、廊下を近づいてくる数人の踵の音が届く。
 続いてドア上部の曇りガラス部分に、大柄な男の影が映った。
 あんな「いかにも外人です」みたいな影の、デカイ客は連中以外他に思いつかない。
 さっき電話で今日の夕方行くと連絡があったばかりなのに、言ったそばから昼過ぎに来るか!? いきなり約束破りとは、思った通りの自己中野郎だ。と、秋人は目の前が暗くなる。
 それでも一応秋人は弱小ソムニア事務所の代表である。業界最大手の幹部を追い返すわけにも行かない。
 ノックの音が響き、仕方なく秋人は返事をしていた。
「はい、どうぞぉ〜」
 いやいやの返事に、二メートル近い屈強の黒人が、黒のスーツに身を固め扉を開ける。
 秋人はデスクチェアーに腰掛けたままそれを眺めていたが、その身体が次第にゆっくり立ち上がり始めた。
『こんにちは。急に押掛けてしまって申し訳ない。でも、日本に着いたら我慢できなくて来てしまいました』
 扉を開けた黒服がさっと道を譲ると、その背後から小さな姿が現れる。
 亮より少し背の高いそのエージェントは、柔らかに巻いた金の髪と白い肌。そしてコバルトブルーの瞳を持った、まさに天使そのものだった。
『ミスター渋谷? あなたの作ったシステムはすばらしいですね。前々からお会いしたいと思っていました』
 少年は歩み寄ると、目をパチパチさせている秋人へ、そのしなやかな手を差し出す。
 少年の後ろでは先ほど扉を開けた黒服と、もう一人、同じく凄まじいオーラを放つSPが、二人並んで休めの姿勢だ。
 秋人はふらふらと酔ったように少年の手を取ると、
『こちらこそ、お会いできて光栄です。お待ちしていました。ええ、もう、ものすごく待ってました』
 と少年に会わせ英語で受け答えをする。
「渋谷くん。こちらは、シャルル=ルフェーブル。今回の異端ソムニアの逮捕連行作戦に使う、血液を提供するために来日したゲボよ」
「Oh、壬沙子。そうですね、日本に来たら、日本語。これがマナーですね。失礼しました、ミスター」
 少年は壬沙子の言葉に初めて己の言葉の違いに気づいたようで、改めて綺麗な日本語で秋人に微笑みかけた。
「いえ、いや、僕はどちらでも全然。あ、あの、僕のことは秋人と呼んでもらってかまいませんから」
 秋人は目の前にいる生き物が本当に人間なのかどうか確かめるように、じっとシャルルの顔を見つめている。
「ありがとう、秋人。僕のことはシャルと呼んでください。親しい者はみなそう呼びます」
――やばい! これは、やばい。やばすぎる。
 秋人の中では「やばい」という言葉がぐるぐると渦を巻き、吹き荒れていた。
 こんな想像を絶する美少年がこの世に存在するなんて。
――開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだ!
 あまりの混乱で、秋人の日本語辞典にはバグ発生だ。
「あ、あの、すいません、手を……」
 秋人はそのままずっとシャルルの手を握り続けていたらしい。
「お、うぉ、すいません! いや、あまりに綺麗で見とれてしまって――」
「気にしないで。あなたは合格だから」
 手を下ろし微笑んだシャルルの言葉に、秋人が少し遅れて首をかしげる。
「――合格?」
「良かったわね、渋谷くん。彼に話しかけることができるのは、IICRでも極限られた一部の人間だけなのよ。彼、ゲボの中でも一番の売れっ子だから」
――売れっ子?
 しばし意味が理解できず愛想笑いを浮かべていた秋人だが、数秒後再び頭がどうにか回転を始めると、納得したようにため息をついていた。
 彼はゲボなのだ。
 IICRには現在七名のゲボがいて、彼らの仕事は主に血液の提供という事になっている。
 しかし、古くからの風習が今なおそこには息づいており、カラークラウンを持つ優秀なソムニア達は彼らの住む棟、通称・セブンスにセクシャルな目的で出入りすることもあるらしい。
 シドに聞かされていた話で、IICRに居るゲボたちはものすごく悲惨な環境で鬱々と暮らしていると、秋人はそう想像していた。
 だが目の前のこの少年にそういった影は微塵も感じられない。
 自信に満ちあふれ、周りのものをかしづかせることに何の迷いもない。自分が世界の中心であると、当たり前のように思っている。
 彼は生贄として選ばれる側なのではなく、神の使いとして相手を選ぶ側なのだろうと、そう思った。
「とりあえず、立ち話も何ですから、そちらへ座ってもらって――」
 秋人が応接用のソファーをシャルルへ勧めたとき、不意に地下エレベーターへの扉が開いていた。
 朝から目当てのソラスを狩りに潜っていたシドが、昼食を取るため上ってきたのだ。
 いつも仕事の話をこじらせるシドの出現に、秋人は渋い顔で追い払おうと振り返る。
 だがそれより先に、すぐ隣から何かがすごい勢いでシドに向かい飛びかかっていた。
『Sid! 会いたかった!』
 まるで重力を感じさせない跳躍力で、その天使は自分よりずっと身長のあるシドの首へ、ふわりとまとわりつく。
 シドは突然の事に一瞬虚を突かれたようであったが、そのシャルルの特攻に気圧されることもなくそれを抱き留めていた。
『何でおまえがここにいる』
 しがみついてくるシャルルの身体を引き離すと床へおろし、シドは無表情のままそう聞いた。
『何でって、シドに会うために、どれだけ僕ががんばったかわかんないの!? ガーネットが絶対だめだっていうのを、もし僕を行かせてくれないなら金輪際予約一件も入れないってごねて、やっと出してもらえたんだよ?』
 シャルルはシドの身体にからみつき、潤んだ瞳でその氷のような顔を見上げる。
『七年も会わなかったんだもん、僕も大きくなったでしょ? これでもう、リアルでもちゃんと相手してくれるよね?』
 秋人はガクンと顎が落ちそうになるのを堪え、驚愕の眼でそのやりとりを見ていた。
 なんだ、この光景は。
 こんなラブコメチックな光景が、なぜこのむさい事務所で展開されている?
 リアルでもってことは、セラの中では七年前、シドはこの少年にあんな事やこんな事をしていたというのか。
 しかも七年前なら、きっとこの子は確実にローティーン以下だ。
 いわゆる、そう。
 犯罪だ。
「し、シド、おまえ!」
『リアルでもセラでもおまえを相手にしたことなどないだろう。また勝手なことを言って困らせるな。用件がそれだけなら早く帰れ』
 秋人の言葉など聞こえる様子もなく、シドはからみつくシャルルを引きはがし、そっけなく追い払う。
「秋人、ちゃんと言ってよ! 僕は仕事で来てて、シドはその仕事を手伝わなきゃだめだって」
 シャルルは振り返ると苛立った声で、秋人へ不機嫌な顔を向ける。
 秋人の耳に「この、気の利かない役立たずが!」という副音声が聞こえてきたようであった。
「あーと、シド。昨日も話したと思うけど、例の他空間へ干渉できるらしいソムニア犯罪者の件で作戦を練りたいと、そのー、本部から彼はわざわざ来てくれたわけで……」
 シャルルのオーラに気圧されて、秋人がもごもごと煮え切らない援軍を送る。
 視線で壬沙子に助けを求めるが、壬沙子はこの状況を元々予想していたらしく、こちらの事態には全く関与しない様子だ。
 あっけらかんと、シャルルの持ってきた仕事内容の資料をコピーしている。
 お付きの二人はまるで銅像のごとく、さきほどから同じ姿勢で待機しっぱなしだ。
 どうやらこの場で追い詰められているのは秋人だけのようだった。
「それなら先にそう言えばいい。まったく、おまえはいくつになったんだ。仕事くらいきちんとこなせ」
「十七だよ。だからまだ子供なの! 意地悪言わないでよ」
「何が子供だ。おまえ、もう三度目だろ」
「三度目でも子供は子供だよっ」
 ぶうたれながら拗ねてみせるその姿は異様に可愛らしい。
 人形のような美しい顔でする幼い仕草。そのギャップが、見る者を惑わせる。
 しかしシドはそんなシャルルの誘惑などどこ吹く風で、ポケットから取り出した煙草を咥えると、気だるそうに火を点ける。
「俺は腹が減っている。話なら後でいいだろう」
「ちょ、シド、待ってよ、ご飯なら僕も一緒に……」
「ただいまーっ!」
 部屋の外に出ようと歩きだしたシドの前に、扉を開けて勢いよく亮が駆け込んできたのはその時だった。
 日曜日、亮は休んでいた分を取り戻すため補習を受けに学校へ通っている。
「……って、あれ、お客さん?」
 事務所の中に見慣れない人間を何人も見つけ、亮は驚いたように立ち止まった。
 ここのバイトとして通うようになって二ヶ月。こんな大勢の人間が事務所にいるのを見たことがない。
 しかも全員外人さんだ。
「あ、おかえり亮くん」
 秋人がほっとしたように声をかける。
 このいたたまれない場所に、オアシスの存在が戻ってきたような気がした。
「亮、今日は随分早いな」
「うん、今日は数学だけだったしね。それに、早く帰って棒術の修行しなきゃって。ここんとこ、ちょいコツつかめてきた気がすんだ」
 状況に戸惑っていた亮も、いつもと変わらずシドや秋人に声をかけられるとすぐに自分を取り戻し、にっこりと微笑んで見せた。
「今からちょっとだけセラで練習見て欲しかったんだけど――お客さん来てるなら後で……」
「かまわん。仕事の打ち合わせなら、秋人の役目だ」
 シドは亮の頭にポンと手を置くと、相変わらずの無表情で地下への扉へと踵を返す。
 シドと亮の前に、信じられないといった表情で目を見開いたシャルルが立っていた。
 あのシドが優しげに微笑んで髪を撫でたあげく(シャルルにはそう見えた)、昼食も抜いて人の訓練につきあうなど、太陽が西から昇ってもありえない。
 このアホ面の東洋人のガキは何者なんだ!
 シャルルの顔に怒りの朱が上ってくる。
 シャルルはくるりと秋人へ視線を送ると、何かを促すように睨み付けた。
 ビクリと秋人はすくみ上がり、アワアワと口を開けてうなずくしかない。
「し、し、シド。今回の件、東京の支部がおまえのこと疑ってる節があるってことで、と、とにかく、本部の話、直接ここで一緒に聞いて欲しいということで、だから、まぁ、その、ここに座ってとりあえずお茶でも飲みながら……」
 お茶の用意をしながら、そんな秋人を気の毒そうに壬沙子が眺めている。
 シドは面倒そうに舌打ちをすると、ため息混じりに片目を閉じた。
「――わかったからしっかりしろ。おまえもあまり秋人を虐めるな、シャル。あいつ口から内臓吐くぞ」
 人をナマコみたいに言うなと思いながら、秋人はほっと息をつく。
「亮。おまえ、先に降りてろ。ちょっとしたら俺も行く」
 咥え煙草で再び亮の頭をワシワシとかき回すと、シドはどかりと応接用のソファーへ腰を沈めていた。
 亮はわかったとうなずき、初めて見た訪問者たちを気にしながらも、地下へ降りていく。
 ドアを抜ける間際、あの金髪の少年からちらりと送られた視線が、妙に心にひっかかった亮であった。





 三十分経っても一時間経ってもシドは降りてこない。
 一人で勝手にセラに行くなと言われている為、まだ個人練習もできない亮である。
 仕方なく地下のシールドルームで、補習で出された宿題を終わらせ、スクワットだの腕立てだのでさらに時間をつぶす。
 二時間近く経過したとき、亮は遂に様子を見に上がってみることにした。
 エレベーターを降り、事務所への扉を開く。
 控えめにそろりと開けた扉の向こうで、大人達はまだ仕事の話を続けているようだった。
 向こう側の一人がけソファーには壬沙子と秋人がそれぞれ腰を沈めており、こちら側の三人掛けのソファーにはシドとあの金髪の少年が隣り合わせて座っている。
 本部の偉い人かと思っていた二人の大きな外国人は、椅子にも座らず立ったまま、事務所の出入り口を挟むように立ちつくしている。どうやら彼らは、ボディーガードみたいなものらしかった。
 となると、本部から来た偉い人というのは、自分とさして年も変わらないようなあの少年のことなのだろうか。
 声を掛けようかと扉をもう少し開けると、会話がはっきりと聞こえてきた。
 しかし亮には何を言っているのかわからない。
 聞こえてくる言語は日本語ではなく、亮の苦手な流れるような英語だったからだ。
 こんな風に話していると、シドも秋人も壬沙子も、知らない誰かのようである。
 亮の胸に、少しだけ不安の雲がわき上がる。
「あ、あの……あと、どんくらいかかるかなーと、思ってさ」
 おそるおそる声を掛けてみる。
 その声にシドが振り返った。
「ああ、もう少ししたら――」
『シド、これは重大なことなんだよ? 相手はソムニアなのに多空間に関われる能力を持ってる。しかもゲボじゃない。今までこんな奴記録にも残ってない』
 シャルルはシドの膝に手を置き、身体をすり寄せるように亮のわからない言葉で語りかける。
『わかっている。そのターゲットをどうやって捕獲するか、そこをしっかりさせなくてはだめなのだろう』
 シドも同じく他人のような声で、シャルルの話に応えていた。
『相手はなぜかイザ能力――シドと同じくらい強力な氷結能力も使ってる。本当に心当たり、ないんだね?』
 言いながらも、シャルルはシドへのスキンシップをやめることをしない。
 むしろ亮へ見せつけるかのごとく、それは度合いを増し、度々シャルルの視線が勝ち誇ったかのように亮へ向けられた。
――!! なんだ、あいつ! 何の真似だよ!
 その意味はよくわからなかったが、亮はだんだんと腹が立ってくるのを抑えられない。
 シドは相も変わらず亮にわからない言葉で親しそうにあの少年としゃべり、少年は楽しそうにシドへじゃれついている。
 亮の眉が不機嫌にぴくりと持ち上がった。
 その表情をシャルルは見逃さない。
 天使のような少年は、シドにわざとしなだれかかりながら、口の端をにんまりと引き上げてみせる。
 妖艶なその顔に、亮の心臓がズキンと鳴った。
 頭の中がカッと熱くなり、反射的に思い切り扉をバタンと閉めていた。
 もうあの光景を見ていたくなかった。
――!? なんなんだよ、これ! サイアク! 意味わかんねーっ!
 いらいら、いらいら、おなかの中が煮えている。
 周りのものを全部壊して回りたいくらい腹が立っているのに、胸の奥がぎゅうぎゅう苦しい。
――なんだよ、シドも英語なんかでわざとしゃべりやがって。
「ここは日本だってのっ!!」
 そうだ、きっと仲間はずれにされたことが悔しいんだ。
 それなら納得がいく。
 だからこんなにムカついて、胸が痛いんだ。
――くそっ、見てろよ! 英語、勉強してやる。ぺらぺらになってやっからなっ!!
 心で叫びながらも、シドへ寄り添いながら微笑んで見せたあの綺麗な顔が目の前にちらついて、亮の胸が病気のようにズキズキ痛む。
「ばかっ! バカシドっ! ちょっとって二時間経ってるっつーの! セラ時間じゃねーんだよ、バカバカバカヤロウっ!! ウンコたれのむっつりスケベっ!!」
 逃げるようにエレベーターに乗り込むと、思い切り亮は叫んでいた。
 腹の底から思い切り叫んでみるが、まったくすっとしない。亮は憤懣やるかたない様子で大きくため息をつくと、遂にしょんぼりと下を向いてしまう。
 結局勉強の出来ない自分が悪いのだ。
 こんなこと、ここで言ってても仕方ない。
 そう思った。
 しかし、その亮の魂の叫びは、空調に乗ってしっかり事務所へと届けられていたのだった。