■ 2-24 前編 ■



 朝から亮は落ち着かない。
 セブンスに戻った翌日、亮は「まだ無理です」というノーヴィスの言葉も聞かず、すぐに一件のリザーブ許可を出していた。
 午後一時にやってくるそのゲストを待ちわび、亮は何度も玄関からエレベーターホールを覗いたりしている。
「亮さま、そんなにそわそわされなくても、もうすぐいらっしゃいますよ」
「わ、わかってる。別にそわそわなんか、してないよ――・・・ね、オレ、おかしくない? 寝癖、跳ねてない?」
 扉を閉じて振り返った亮は、髪を気にしたり着せてもらった浴衣を気にしたりと忙しくしながら、ノーヴィスの元へと戻ってくる。
 ノーヴィスはそんな亮の様子にくすりと笑顔を浮かべると、もう一度櫛を取り、ソファーへ座らせた亮の髪をとかしてやった。
「大丈夫ですよ。亮さまはいつだって可愛らしいんですから」
「か……可愛らしくなんか、ないけど――」
 ノーヴィスの言葉に亮は顔を赤らめる。
 それを微笑ましく眺めながらも、ノーヴィスの胸の中は、不穏に薄曇りのままであった。
「亮さま。本当に、無理はされないでくださいね。まだお身体も完全ではないのですし、あんな事件があったのです。これ以上ご自分の身体を痛めるようなことだけは――」
「うん、わかってるよ。ノーヴィスにこれ以上心配かけられないもんな。今日はただ、スティール様に会いたいだけ。――会えるだけで、オレ・・・」
「――どうして、なのですか? 亮さま。ノーヴィスにはわからないのです。あれほど怯えてらしたスティール様に、どうして亮さまがお会いしたいのか。どうして突然、シド様ではなく――」
「もうその人のことは言わないでって言ったよね? ノーヴィス。オレはスティール様のそばにいられれば、それでいいの」
 ノーヴィスの言葉を、珍しく亮は強く拒絶する。
 しかしノーヴィスは引くことなく、言葉を重ねていた。
「ですが亮さま。その足の爪、剥がされたのはスティール様なのではないですか? そんなことを亮さまにされる方にどうして――」
「違うよっ! ノーヴィスは勘違いしてる。爪、剥がしたのはライラック様だ。ノーヴィスはあの時、スティール様が帰ってからもオレの所に来てくれなかったじゃないか。控え室で居眠りしてたんだよね? だからノーヴィスは知らないんだ」
「っ・・・も、申し訳ございませんでした。亮さまがあんなおつらい目にあっている最中に、私は――」
 あの日午後一時過ぎ。ノーヴィスは急激な眠気に襲われ、気がついたときは既に夕方六時近くになっていた。
 亮に言われたとおり、ノーヴィスにはその間の正確な出来事は何一つわからない。
 何より、スティールが帰った後の亮のケアすらこなせなかった自分に、怒りが湧いてくる。
「ん、ごめ、いいんだ。ノーヴィスがすごく疲れてたの、オレ知ってるし。オレの方こそ変な言い方してごめん。はは、なんでだろ。オレ、すごい頭に血が上っちゃってるね」
「そんな――」
「ただ、スティール様のこと、悪く言わないで欲しいんだ。本当にすごく、優しい人なんだよ? 優しくて、綺麗で、頭も良くて、オレのこと大事にしてくれる。だからノーヴィスも、スティール様のこと好きになって欲しいんだ」
「はい――亮さま・・・」
 戸惑いながらノーヴィスが頷いたとき、室内にノックの音が響いていた。
 弾かれたように亮が立ち上がり、玄関へと駆け出していく。
「亮さま、足の傷が開きます、もっとゆっくり!」
 ノーヴィスの言葉を背中に聞きながら、亮は玄関を大きく開けていた。
 そこに現れた、たおやかな男の姿を見上げ、亮は頬に朱を上らせる。
「――スティール様、あ、あの・・・いらっしゃぃ」
「亮。心配しましたよ。もっと顔をよく見せて」
 イェーラ・スティールは見上げる亮の頬に手を掛けると、かがみ込み、亮の額に口づけを落としていた。





 控え室に戻ってからも、ノーヴィスは気が気ではなかった。
 寝室と控え室の間にある扉は分厚く、よほど大きな音以外は漏れ聞こえてこない。
 しかも、寝室側から鍵を掛けられる仕組みになっている。
 セブンスでは無茶なことは行われないという前提の部屋の作りだが、亮に限ってはそうとは言えない状況にある。
 しかも、亮にはああ言われたが、どうしてもノーヴィスはスティールを好きになれそうにはなかった。
 初めて亮の元を訪れたときのあの冗談を、ノーヴィスは今でも許すことが出来ないで居る。
 そしてその後もイェーラ種二人を付き添わせ、三人がかりで亮をいいようにしていた。
 亮はスティールに対し強い怯えを持っていたし、どこにも好きになる要素が見あたらないのだ。
 それがあの事件後、目覚めた亮は寝ても覚めてもスティールの事ばかり口にする。
 もちろんそれはノーヴィスに対してだけであり、他の人間にそれを言うことはなかった為この話題がレオン達の間で上ることはなかったが、ノーヴィスはただ一人、ずっとこれを気に掛けていたのだ。
「亮さま――、私はどうすれば・・・」
 あの日、ノーヴィスはスティールの持ち込んだ「おみやげのジュース」を飲まされていた。
 普段、亮に何かを持ってくることはあっても、ノーヴィスに対しては初めてのことである。
 戸惑いを覚えたが、カラークラウンに勧められれば断ることも出来ない。何より断ってスティールの機嫌を損ねれば、この後どんな行為を亮に強要されるかわからない。
 目の前で飲み干すように言われ、その通りにすると、ノーヴィスは自室に帰りそこですぐに意識を失っていた。
 亮の話によると、ノーヴィスが休憩時間になっても現れなかった為、スティールがわざわざ室内を片付け、次のゲスト準備を行ってくれたということらしい。
 そのお陰でライラックの訪問も、いつも通りに行われたと言うことなのだが――。
 ノーヴィスが目を覚ましたのは夕方六時前。
 慌てたような足音と玄関の閉まる音で目が覚め、寝室に飛び込んだノーヴィスの前には、まるで悪夢のような酸鼻な状況が広がっていた。
 思い起こすだけで胸を掻きむしりそうな戦慄に捕らわれる。
 医師の一人に鎮静剤を投与され、再びノーヴィスが目覚めたのは、早朝五時近くになってからであった。
 亮は面会謝絶だという状況を医師から聞かされ、それでも身体を動かさずにはおられなかった彼は、血痕の飛び散った室内の清掃をすることにした。
 鬱々とその作業を続けていたノーヴィスはしかし、ある一つのことに思い至ったのだ。
――爪が、見あたらない。
 あの時、意識のない亮の足は血に染まり、一目で爪を剥がされた惨状が見て取れた。
 しかしその剥ぎ取られたはずの亮の爪が、ベッドにも床にも落ちていないのである。
 くまなく探したノーヴィスは、ゴミ箱の中にティッシュに包まれ捨てられた、小さな爪の欠片を発見していた。
 あれほど急いで部屋を出たライラックが、こんな丁寧な真似をするとは思えない。
 それ以上に、ティッシュにくるむという行為が、ライラックの性分とまるで合わないように感じていたのだ。
――イェーラ・スティール。
 その名がノーヴィスの中でわき上がっていた。
 もしスティールがライラックが来る前に、部屋の片付けをしたというのなら、ここにこうして爪が捨てられていても不思議ではない。
 爪を剥がしたのが、ライラックではなくスティールである場合であるが・・・。
 しかしそうすると、なぜ亮があれほどスティールを庇うのかも理解できない。
 その不気味な不可解さが、今もノーヴィスの中で膨れあがり続けていた。