■ 2-27 ■ |
辺りは一面鏡の如き水であった。 遙か上空、二十メートルの位置を覆うドーム状の天井は、クリスタルで作られており、その所々に美しいステンドグラスがはめ込まれている。 外光を取り込み、鮮やかな色合いで影を落とす幾人もの天使や聖母達は、全てが対をなして水鏡に映り込んで見えた。 水鏡中央には半径五メートルほどの広さを持つ、大理石の床が顔を覗かせ、そこに瀟洒な作りの白いテーブルセットが置かれている。 青年は一人、ゆったりとした木製のチェアに腰を下ろしたまま、しきりに手の中の土塊をこね回していた。 八方に開いた外への扉からさわさわとそよ風が吹き込み、青年の肩までかかったプラチナブロンドを遊ばせる。 この部屋の地下へ滝となって流れ落ちる水鏡の音が、涼やかに辺りを満たしていた。 まるで夜空に輝く金星の如き麗しい容姿の青年は、粘土をこねるという似つかわしくないその動作まで、匂い立つような艶やかさを持っている。 「お頭。お客様がお見えですが、いかがしましょうか」 随分と遠くに見える部屋の外周に、白髪の目立つ壮年の小男が現れると、中央の青年に聞こえるように少し大きめの声でそう呼びかけていた。 青年は顔を上げると、アメジストの瞳を怪訝そうに曇らせる。 「客? うちのセラに直接客なんて、おまえらしくない冗談だな」 「私は冗談の言える人間ではありません。お頭の個人的なお客様がお見えだと申し上げております」 その答えが返ってきて、初めて青年は合点がいったというように頷いていた。 「ああ、そう。すまなかった。久しぶりすぎてそういう存在が居たことも忘れてたよ」 「いえ。お頭にご友人が少ないのは心得ておりますから」 「――相変わらずキツイね、コーレイ」 青年は苦笑を浮かべると、部下らしきその男に客を通すように伝える。 数分後、再び現れた人影は先ほどの小男ではなく、深紅の髪を持つ背の高い男であった。 変わらず中央のデッキチェアで粘土を弄っていた青年は、彼にとって珍しい訪問者へちらりと視線を送ると、気づかれないほど微かな微笑を口元へ浮かべていた。 「誰かと思えば、シド。久しぶり過ぎて顔忘れそうだったよ」 視線を手の中の土塊に戻しながら、青年は喉の奥で笑う。 「あれから何回死んでるんだ? 五回くらい? おまえ、ホント軽い気持ちですぐ死ぬからなぁ」 「三回だ。おまえほどじゃない」 建物外周から中央へ向け伸びる長い通路を歩みながら、シドは表情もなくそう言い放っていた。 「僕はおまえと違って計画性を持って死んでるからいいんだよ」 青年が顔を上げると、シドはすぐ目の前に立っている。 あの長さの通路を、シドは走るそぶりも見せず一瞬にして渡りきっていたらしい。 「まったくせっかちな男だね。僕自慢の水鏡庭園なんだから、もっとゆっくり景色を楽しみながら来てくれなきゃ」 「あいにく俺には、ため池を鑑賞する趣味がなくてな」 シドの言葉に青年は、大仰に天を仰ぎため息をついてみせる。 「ローチ。今日はおまえに一つ仕事を頼みたい」 「仕事? おまえが僕に? へぇ――」 ローチと呼ばれた青年は、意外そうな様子で目を丸くすると、シドの足下から顔まで舐め上げるように眺めていた。 ローチの持つ太陽神の如き白い面に、似つかわしくない邪悪な笑みが隠すこともなく浮かぶ。 「いいけど、高いよ?」 「わかっている」 シドはその視線を真っ向から見下ろすと、無言でローチに先を促した。 「そうだな。仲良し価格で五十万。――米ドルでよろしく」 「――わかった。すぐに振り込ませる。口座を言え」 携帯電話を取り出し、外部との連絡を取り始めたシドに対し、ローチは呆れた顔で背もたれから体を起こしていた。 「口座番号なんて暗唱する奴いないだろ。しばらく会わないうちに随分ジョークがうまくなったな」 「・・・。」 無言のまま、カシャリと携帯が閉じられる。 「わかってるよ、急いでるんだろ? そう恐い顔しないで――」 手にした土塊をテーブルの上に置くと、ローチはすらりと立ち上がった。 滑らかなシルクの長衣に身を包んだローチの風貌は驚くほどこの室内に映え、まるで神話の一節を切り出したかのようである。 「口座はリアルで連絡を入れるよ。あのなんとかサービスって寂れた事務所にまだ居んの?」 「寂れたは余計だ」 「はは、しかし本部クビになってよく金あるね。――それともクビになったのは表向きで、本当はいわゆる『隠密』みたいなもんだったりして」 声を立てて笑うと、ほんの少し自分より高い位置にあるシドの顔を見上げる。 ローチも百九十センチ近く身長があるが、シドはそれよりまだ高い。 「そんないいもんじゃない。――しかし、随分詳しいな。二百年以上顔も合わせていない人間の情報を集めて何の得がある」 「浅く広く――だよ。部下を養うお金が僕には必要だから、どうしてもあちこちにネットを張り巡らせてる。おいしい話は家で待ってるだけじゃ、呼び鈴押して現れたりしないんでね。おまえの所はそういうのが足りないから寂れてるんだと思うよ」 シドの脳裏に、深く狭く研究ばかりに没頭している事務所所長の顔が浮かんでは消えた。 「で? 仕事の内容は?」 ローチは白木のテーブルに浅く腰をかけると、楽しそうにシドへ先を促した。 「パスポートを作って欲しい。誰でもどこでも通れるアレだ」 「ああ? もしかして、封鎖食らってるソムニアっておまえのことだったのか? はは、なるほどね――どうりでキルリスト入りが遅れてるわけだ」 口元に手をやると、ニヤニヤと下品な笑いを浮かべながらシドの顔を見上げる。 「新しく見つかったゲボ、GMD浸けにして監禁してたんだって? 三回も死ぬと随分趣味も変わってくるみたいだな。普通じゃもう満足できないか」 「仕事、受けるのか、受けないのか。俺にはおまえと遊んでいるヒマはないんだ」 しかしシドは表情一つ変えず、昔なじみの美貌を見据えるだけだ。 「随分傲慢なお客だこと――」 ローチは肩をすくめると、傍らに置かれていた粘土を取り上げる。 「僕が作らないって言ったら困るくせに――」 「――。」 「職人さんの機嫌損ねるとまずいんじゃないの?」 「・・・悪かった」 シドは苦しげに瞳を閉じると、一言呟く。 「実は僕も今日本に住んでてね」 しかしローチは笑顔を浮かべたまま、視線で大理石の床を指し示す。 「日本式でやってくれる? あれ一度、ナマで見たいんだよねぇ」 シドはローチの指す意味を感じ取り、閉じていた瞳を開くと、ゆっくりと輝く床の上に膝を折っていた。 腰に差した長刀を鞘ごと抜き、背後に置く。 「わお、いいねいいねぇ」 シドの両手が冷たい石の上に置かれ、緩慢な速度で両の肘が折られていく。 ローチの口の端が大きく左右に広がった。 いつも自分を見下ろしていたシドの頭が、今、自分の遙か下で床にこすりつけられようとしている。 しかも自分に許しを請うために。 それはローチにとって、欲情すら催させる光景であった。 ゆるゆると下がっていくシドの赤い頭を、ブーツのまま床へと踏みつけたい衝動が持ち上がり、ローチは全身に鳥肌が立つのを抑えられない。 あのシドの冷徹な顔を踏みにじり、許してくれと懇願させてやりたい。 足の先を指の間まで舐めさせて、屈辱にゆがむその顔を何度も蹴り上げてやりたい。 ふるふると唇が震えると、――コクリ。と、喉が鳴った。 下半身に熱が溜まっていくのが、自身でわかる。 「――・・・。はい、ストップ。もういいよ。二百年ぶりの友達の来訪だってのに、僕も大人げなかったね」 しかしローチの口から漏れたのは、それに反して制止の合図であった。 シドの頭は床にこすりつけられる三十センチも上で止まり、不審げな様子で再び持ち上げられる。 「あんまりシドが素直なんで、ちょっと調子に乗っちゃった。――そんなに大事な相手なんだ、そのゲボちゃん。妬けちゃうなぁ」 大理石の床に座す侍の如きシドの様子を見下ろし、ローチは大きく一つ息を吐いていた。 あまり調子に乗ると、後から酷い目にあわされることを彼はよく知っている。 何よりこの寸止め感が、ローチには堪らないエクスタシーを呼ぶらしい。 「パスポート作るのはいいけど、すぐには無理だ。ヴンヨの力を込めるのにリアル時間で、最低丸一日はかかる。手渡し出来るのは、明後日の昼過ぎになるけど――それでいいか?」 「――明後日の朝だ」 「おまえさぁ――」 今まさに土下座をしようとしていた男の言い草ではない。 ローチはテーブルから腰を下ろし、シドの高さまでしゃがみ込むと、膝を抱え苦々しい視線を送る。 「まったく、あの割引価格でどんだけ傲慢な客だよ。―― しょうがないねぇ。ただし、僕も微調整せずにガンガン注ぎ込むから、できあがったパス、おまえ自身も確認できない代物になるぞ。使用する相手以外には絶対見せるなよ? みんなバカになって使い物にならなくなるからな」 「知っている」 ローチの持つヴンヨ能力は、相手に絶対的な幸福感を与えることの出来る能力である。 ローチの力はヴンヨ種の中でも群を抜いており、現IICRのカラークラウンですらその足元にも及ばない。 様々なアイテムの併用で、彼の力は現実においてもターゲットを絞った威力を発揮することが出来るらしいが、細工をしないで純粋に力を使った場合、相手を選ばずその効力は誰にでも牙を剥く。 まさに幸せ核弾頭とも言うべき代物になるのだ。 「そんじゃ、モノができ次第電話するからさ。僕の自宅に取りに来てよ」 「自宅? どこにある」 「東京。空栖堂って古本屋の若旦那なのよ、僕」 「――おまえ本当に日本に住んでるのか」 「ああ、今世は日本人やってるから。この国はいいねぇ。スパイ天国で」 「明後日の朝六時に取りに行く」 言うやいなや、刀を持ち立ち上がったシドの姿が薄れていく。 ローチはそれをしゃがみポーズであきれ顔のまま見上げる。 「ホント、せっかちだねぇ。帰ってもパスがなきゃどこにも行けないってのに」 いつの間にかその手にあった土塊は、長方形のパスポートの形に整形し直されていた。 ローチはその灰色のパスポートを両手に包み込み、じんわりと力を加える。 土塊は淡い桃色の輝きを身にまとい、脈打つように強く、弱く、明滅を繰り返し始める。次第にそれはローチの手を離れ、空中へと浮かんでいた。 そのパスポートを両側から支えるように手をかざし、立ち上がったローチは再びデッキチェアに腰を落とすと、口元に笑いを滲み出させる。 ――楽しくなってきた。 仕事以外でこんなおもしろそうなことにぶち当たったのは久しぶりのことだ。 あのシドが土下座までして助けたい相手。 「どんな女の子だろうなぁ――」 ふわふわと手の中で浮かぶパスポートを眺めながら、ローチは夢見るように呟く。 「世の中、どんだけ生きても楽しいことは尽きないもんだ――」 |