■ 2-3 ■



「なんだよ、バカ。バカシド。そんなことわかってるよ!」
 亮は三階、秋人の私室リビングに戻ってくると、ソファーの上にバスンと身体を投げ出した。
『壬沙子も秋人も忙しいんだ』
 シドの言葉がリフレインする。
 そんなこと、言われなくてもわかってる。でも、あいつが『勝手にしろ』って言ったんだ。だからオレは悪くない。
 悪いのはシドだ。
 壬沙子さんや秋人さんにオレが迷惑かけてるのは、全部シドが悪いからだ。
 そこまで思ってみて亮は仰向けに身体を返す。
 天井を見上げると少しだけ唇を噛んだ。
「・・・。」
 全然しっくりこなかった。
 頭の中でいくらシドが悪いと責めてみても、心はその通りとは言ってくれない。
 それどころかジンジンズキズキ胸の奥が痛いだけだ。
『シドとまだケンカしてるの?』
 壬沙子さんの言葉。
 ケンカなんかしてない。
 そうだよ! あいつが言ったとおりにしてるだけなんだ。
『勝手にしろ』
 昔、よく父親に言われた言葉。
 今度はシドに言われた言葉。
 悪いのは誰だ?
 仕事の話だってわかってた。
 それなのに、何だかすごく苦しくて、勝手にイライラして、酷いこと言って。
 あの後、ちゃんとシドは来てくれたじゃないか。
 なのに、オレは、なんで、謝らなかったんだろう。
『亮さん、あなたの名は、明神 亮。今日から成坂を名乗ることは許されません』
 勝手にすると、最後はこうなる。
 そうだ、よくわかってる。
 あれは、もう出て行けの合図なんだ。
 勝手にムカついて、事務所のみんなに迷惑かけて、訓練もちゃんとしないで、――それでも謝らない。
 悪いのは、オレだ。
『やっと気づいた? キミはもう、いらないんだよ』
 金髪の少年が綺麗に微笑みながら、亮にそう言っていた。
 英語で喋ってるはずなのに、亮には不思議と意味がわかる。
 天井を仰ぎ見る亮をのぞき込むように、少年は身体を折り曲げて、流れ落ちる金の糸を耳に掻き上げた。
『迷惑ばかりかけて、ちっとも役に立たない。ボクらの言ってる言葉だってわからない。キミはボクらの仲間なんかじゃない』
 くっつきそうなほど顔を近づけ、天使はそう言った。
「――そんなこと、ない」
 亮は小さく首を振る。
 その声は震えていた。
『ボクが今日からここで働くから、キミは「勝手に」どこへでも行けばいいよ』
「――そんなの、嫌だ。オレ、ここに居たい」
 手に触れたタオルケットをぎゅっと抱え込む。
『また我が儘? やれやれだね。バカで役立たずの厄介者。そりゃお母さんだってキミを置いて出て行くさ』
「ちが……、諒子は、」
『あそっか、置いてったんじゃない。――捨てられちゃったんだ』
「っ、違う! 違う! 違うよっ!」
『お母さんもお父さんもお兄さんもシドも。だーれもキミがいらないってさ』
「――!!」
 亮の身体がびくんと跳ね上がった。
 胸が、痛い。
 ズキンと一際大きく脈打つと、その後は焼けた鉛のように心臓が黙り込む。
「ォレ、…いら…ない……? …ぃら…な…」
「…ォルくん。トオルくんっ! 僕の声、聞こえる? 今、薬入れたから、大丈夫。息、ゆっくり大きく吐いて」
 遠くでそんな声が聞こえた。
 黙り込んでいた心臓が、トクトクと弱々しく脈を刻み始める。
 いつの間にか天使は姿を消している。
 そして代わりにのぞき込んでいたのは秋人の心配そうな顔だった。
「…ぁき、ひと、さん?」
「よかった。――心音が安定してきた。少しは楽になってきたかな」
 ほっと息をついた秋人は亮の腕から針を引き抜くと、注射器とゴム管を慣れた手つきで片付ける。
「オレ……」
「久しぶりの突発ノッキングだったね。でも良かったよ、僕が部屋に戻ってからの発作で」
 アルコール綿を亮の腕に止めながら、秋人はそっとその手をタオルケットの中へ入れてやる。
 優しい手つきでぼんやりとした亮の頬を撫でると、落ち着かせるように微笑んで見せた。
「大丈夫、僕がついてるから」
 亮の呼吸が少しずつ上がってくる。
 GMDが己の中を熱く焼き始めているのがわかった。
「えーと、ベッド、使う? 亮くんの楽なやり方で――」
「――ぇる」
 妙に浮き足立った秋人の耳に、小さな声が触れる。
「ん? なに?」
 耳を寄せた秋人に、涙混じりの亮の声が届いていた。
「帰る。ォレ、かぇる――」
「え? え? でも、ほら、もし恥ずかしいなら、僕隣の部屋に行ってるし、ちょっとくらいならお手伝いだって――」
「っ、かえ…る、オレ、シド…とこ、か…ぇる」
 するすると涙が滑り落ちた。
 ぎゅっとタオルケットを抱え込んだまま、亮は身体を震わせて同じ言葉を繰り返す。
「そか、帰るか、そかそか。お父さん呼ぼうね」
 秋人は切ないため息で立ち上がると、携帯電話を開いていた。
 十秒後。
 乱暴にリビングの扉が開けられ、イザ・ヴェルミリオと呼ばれた超級ソムニアが恐ろしい形相で駆け込んでくる。
 知らない人間が見ればまるでマフィアの出入りかと思う絵面だ。
 亮はソファーの脇にひざまずいたシドの顔を認めると、幼い子供のように両手を伸ばし、ぎゅっとその首にしがみつく。
「…なさぃ。…ごめ、な…さい…」
 荒い呼吸で途切れ途切れになされるその贖罪に、シドはそっと髪を撫で、その震える身体を抱きしめてやった。
「帰るぞ、亮」
 耳元で囁いてやると、小さく亮が頷く。
 シドはそのまま軽々と亮を抱き上げ、あっという間に秋人の部屋を後にする。
 だが帰り際秋人は、前代未聞のシドのセリフを聞く嵌めになっていたのだ。
「秋人、世話になったな」
――今のは、まさか挨拶というヤツか!?
 ここ数日。そんなにあいつが焦っていたとは気づかなかった。
「それならさっさと迎えに来いよ、ガンコ親父」
 秋人は寝不足で艶をなくした髪に手を差し入れ、疲れたようにガシガシと頭を掻いた。









 今日はうまいこと奴らを巻くことが出来た。
 SPたちも研究部の連中も、もう自分が部屋で眠ってしまったと思いこんでいるはずだ。
『バカは騙すのも簡単だ』
 シャルルはフード付きのノースリーブを頭からすっぽりとかぶり、意気揚々とS&Cソムニアサービスのエレベーターへ乗り込んでいた。
 目指すはもちろん四階だ。
 白い指でぽっちりとボタンを押す。
 階数ランプを見上げるシャルルは、「ロンドン橋落ちた」を鼻歌で歌いながらご機嫌な様子だ。
『今日は泊まって行くって決ぃめた』
 そもそもその為に鬱陶しい取り巻きを置いてきたのだ。
 シドが追い返しにかかったら、ちょこっと涙を見せてやろう。
 これで落ちない人間は、今まで男だろうと女だろうと一人もいなかった。
 一回しちゃえばこっちのもの。
 たとえゲボ嫌いのシドとはいえ、一度ゲボの味を知ってしまえばもう離れることはできないはずだ。
『あいつの食わず嫌い、僕が治してやるんだから』
 何よりシャルルは自分の身体に絶対の自信がある。
 もし自分がゲボでなかったとしても、自分の魅力を振り払える者などこの世に存在するわけがない。
 それでもシャルルは手にした鞄から鏡を取り出し、身だしなみチェックをかかさない。
『よし。いつも通り綺麗だね』
 鏡に映った自分の顔ににっこり微笑んでみせると、ちょうどエレベーターの扉が静かに開いたところだった。
 意気揚々と足を踏み出そうとしたシャルルの視界に、人影が映る。
 廊下の十数メートル先。
 私室玄関前に長身の男が立っていた。
 赤い髪のその男は、シャルルがお目当てにやってきた件のソムニアである。
 しかしシャルルはその男に声を掛けることができない。
 それどころか、踏み出そうとしたその足は凍り付いたように停止していた。
『――え!? なん…で?』
 そこに居たのはシド一人ではなかった。
 シドの腕にお姫様だっこで抱えられ、しがみついている少年の姿を、シャルルの青い瞳は捕らえていたのだ。
 黒髪黒瞳の東洋の少年。
 自分より随分幼く見えるその少年は、この事務所で『トオル』と呼ばれていたマナーツだ。
 人間は、分というものをわきまえていなくてはならないと、日頃からシャルルは思っている。
 それなのに、平凡な力しか持ち得ないマナーツの分際でシドと同じ職場にいるなんて、シャルルにとってそれ自体許されるべきコトではなかった。
 しかし今目の前ではそれ以上の信じられない何かが、めくるめく展開されているのだ。
『――っ!!』
 次の瞬間、シャルルの目が驚愕のため見開かれる。
 あの生意気そうな東洋人のガキが、シドの唇に自ら口づけたのである。
 シドもそれを拒まない。それどころか、片足を上げ玄関ドアを支えにすると、その腿に少年を座らせ、覆い被さるように激しく口づける。
 しかし少年の身体を支える腕はあくまで優しく、その表情は今までシャルルが見たこともない甘やかなものであった。
『・・・。』
 その場から動けないシャルルの目の前を、エレベーターの黒い扉が閉ざしていく。
 シャルルの手から手鏡が落ちた。
 しかしそれにすらシャルルは気づかない。
『――なんなの、これ』
 停止したままのエレベーターの中で、シャルルはぼそりと呟いた。
『なんなの。なんなんだよ、これっ!』
 叫んだシャルルは、勢いに任せて一階ボタンに拳を叩き付ける。
 ガクンと一度大きく揺れ、ゆっくりと箱が動き出した。
『許さない。あのマナーツ、絶対許さない』
 シャルルの声はあくまで低い。
 拳を握りしめ、細い肩が小刻みに震える。
 しばしの間、シャルルは荒い息でうつむいたまま立ちつくす。
 しかしエレベーターが一階にたどり着く頃、その表情がわずかに変化を見せていた。
 怒りに震えていた唇が、花が開くようにほころんでいく。
『――そうだ、いいこと思いついちゃった』
 どうすればシドからあのガキを引き離せるか。
 どうすればあのガキを泣かしてやれるか。
 滞在しているホテルへ戻る道すがら、シャルルの口からは再び『ロンドン橋落ちた』が零れ始めていた。