■ 2-38 ■



「くそっ、どうなってる! 状況はっ!? 中に残ってる者はいるのか!?」
 シュラが現場に駆けつけたときには、既にセブンス一帯は騒然とした空気に包まれていた。
 現場の整理に当たっていた警備の武力局員に声を掛ける。
 しかしその局員も状況を判断しかねている状況で、「わかりません、どうしましょう」を繰り返すばかりだ。
 表門の外には、セブンスで勤める従業員や深夜にたたき起こされたゲボ達が、取るものも取りあえず裸足のまま逃げ出してきているのがわかった。
 振り仰げば十五階建ての近代的な円筒形ビルは黒いタールのようなものに濡れそぼり、まるで巨大なチョコレートケーキのような姿に変じてしまっている。
 ぐしゃりとひしゃげた中腹から、止まることなくボコボコと黒い流体が溢れ出ているのが、月明かりの中見て取れた。
 しかもそれは中腹から上部に向かい重力に逆らって移動し、地面に流れ出すこともなく、延々と建物の周囲を流動し続けている。
 どうやらあれはこの世のものではないと、シュラは判断を下していた。
「亮っ……!」
 何よりチョコレートを吹き出している場所が、建物の六階であることがシュラの胸を掻きむしる。
 スティールの刑の執行も終わり、全てがうまく収まったと安心した矢先の出来事である。
 定時のセラ見回りに出かけようとシールドルームへ向かったシュラは、その足を全館警報で止められることとなった。
 寝入りばな、鼻先を叩かれた犬のような自分の状態が情けなくて仕方がない。
 どうしてこう後手後手に回ってしまうのか。
 しばらくは専用の警備をつけるなり、自分が亮の部屋へ居座るなりして状況が落ち着くのを待つべきだったのだ。
 IICR内部は一帯に響き渡る警報音と、回るレッドライトでまるでお祭り騒ぎだった。
 セブンスにほど近い医療棟の人間は既に概ね本館にまで退避しており、一部の医師や看護師が救護に当たるため、こちらへ出張ってきている格好だ。
「ジオット!」
 声を掛けられ首を巡らせると、門の内側から皓竜が駆け寄ってくるところであった。
 ライラックが転生刑に処された今、武力局の局長は――正式決定を待つ段階ではあるが――ウルツ・インカが勤めている。
「インカ、これは――、亮は!? まさか、まだ中に……」
 ようやく状況をつかんでいそうな相手に出会い、シュラははやる気持ちを抑え、そう尋ねていた。
 ここへ向かう途中、緊急用にと執務室から持ち出した長刀の柄を、ぎゅっと握りしめる。
「わからん。だが、どうやらトオルに何かあったことは確からしい。俺が様子を見てくる。おまえは外で現場の整理に当たってくれ」
 皓竜は青い顔のまま、やたら早口でそうまくし立てていた。
「現場整理は武力局長の仕事じゃないのか! 中には俺が入るから――」
「ダメだ! シャルが中へ戻っちまったんだ! 道を作るだとかなんとか言って――、とにかく、この場を収められるのはおまえしかいない! トオルも俺が連れ帰ってくる。だからこの場は頼んだぞ!」
 シュラが返事をするのを待つこともなく、皓竜は踵を返すとセブンスの中へと猛スピードで突っ込んでいく。
「くそっ、インカっ!! てめぇ、勝手に一人で――」
 後を追おうとするが、中から転がり出てくる流血した職員達や、恐怖に半狂乱になったゲボたちを放り出して行くことができない。
 辺りは悲鳴や怒号で渦を巻き、まさに混沌と呼ぶにふさわしい状況に陥っていた。中には大切なものを忘れてきたと言い始め、建物へ戻ろうとするゲボもいる。
 このままでは更に犠牲者が出てしまう。
 中へ戻ろうともがく正気をなくした女性ゲボを取り押さえたまま、シュラは歯がみした。
 皓竜には亮を任せておけない。
 あの男の目にはシャルルだけしか入っていない。恐らくシャルルを見つけ出した時点でその身体を抱え、迷わず引き返してくるだろう。
 亮のいる部屋まで行くことなど絶対に有り得ない。
 シュラは押さえつけた女性を近くでおろおろとする執事に押しつけると、自らも中へ飛び込むべく足を踏み出していた。
 その時である。
 一陣の冷気が彼の横を吹き過ぎる。
 シュラは目を見張り、次に片側だけ小さく唇を引き上げていた。
 一瞬の躊躇もなく異様な黒城へ飛び込んでいくその男を、鋭い声で呼び止める。
 男の視線が背後のシュラへと一度だけ向けられた。
「――受け取れっ!!」
 それを合図に、シュラは手にした長刀を男へと投げ寄越す。
 男はそれを無言でつかむと、再びセブンスへと身を翻す。
「まさか本当に三日で現われるとはな」
 投げ渡したのは、昔男が本部へ置き忘れていった私物だ。
「後はおまえの仕事だ。必ず連れ帰って来い。――シド」
 紅い髪の長身を見送り、シュラはセブンスに背を向けると、混乱のただ中にある現場の制圧に取りかかっていた。



 

――シャル、どこにいる。どこだっ!
 ねちゃねちゃと足にからみつく黒い雫を振り払い、皓竜は廊下をひた走っていた。
 中央ロビーの先にある管理室へ行けば、恐らくシャルルに出会える。そう思う。
 この状況でエレベーターを動かせるとは思えなかったからだ。
 エレベーターが使えなければ、亮の部屋まで行くことは不可能だ。
 それはセブンスの緊急用に作られているのが階段ではなく「シューター」だからである。
 逃げ降りることは可能だが、逆にそこを上がることは非常に困難を要する。
 通常でも壁をのぼる技術と体力がなければはい上がれない場所を、こんな不安定セラの如く慣れ果てたリアル環境で移動できるわけがない。
 皓竜の巨体は廊下を抜け、円形に作られた中央管理室へ飛び込んでいた。
 さながら黒いナイアガラの中心部へ放り込まれてしまったような状況に、太い眉をぐっとしかめながら周囲を見回す。
 縦に部屋を貫く中央エレベーター群に向かい、目当ての少年はたたずんでいた。
 左手を高々と掲げた彼の手から、紅い雫が糸のように滴り落ちているのがわかった。
「シャル! 何してるっ、早く出るんだっ!」
 皓竜は鋭く叫ぶと、シャルルにタックルでも仕掛けるように駆け出していた。
 だがシャルルの右手がそれを制す。
 自分を今にも抱え上げそうな皓竜の鼻先にぴたりと手のひらを据えると、視線を向けることもなく否を唱えていた。
「僕は行かないよ。道を開けておかなきゃ、どんどん空間が閉じられていってる。このままじゃ、あの子、異界に封じられて戻ってこられない」
「ば……、何言ってんだ! おまえには関係ないだろ!? ここでこうしておまえが道を開けてたとしても、トオルが今生きて戻ってこようとしているかどうかもわからないじゃねーか! いくらシャルの力が強いってったって、いつまでも持つわけじゃないっ。おまえごと閉じられちまうぞ!」
「だったら皓竜が行って来てよ。僕が道を開けてる。だからおまえがあの子、連れて帰ってきてよ」
「――シャル、なんでそこまで……」
 壁も床も黒い流れとなり、ソファーやデスク、たくさんの観葉植物の鉢植えを滑らせて、室内の至る所に中州のようにわだかまらせている。
 シャルルの二メートル前を雪崩落ちるエレベーターシャフトはまるで無音の滝だ。
 そこで初めて少年は皓竜へ視線を巡らせた。
 従順な大型犬のように自分を見下ろす巨体に視線を返し、色を失った面にようやく小さく微笑みを浮かべる。
 やはりシャルルも恐いのだ。
 ゲボは異界に取り込まれる恐怖を誰よりも良く知っている。
「言っただろ? 僕はこれ以上シドに嫌われたくないんだって。それだけだよ――」
 世界の全ての音は、二人の声と呼吸音だけ。
 その中でいつもと同じくシド=クライヴへの恋心を口にする想い人に、だがしかし不思議と皓竜は焦りも哀しみも感じなかった。
 シャルルの考えていることがシャルル以上に皓竜にはわかるから――。
 いつだって素直になれないこの天使の為に、自分はいつだってまっすぐにこいつのことだけ想うのだ。
「わかった。俺の全てがおまえのもんだ。おまえが望むなら、異界の果てにだって行ってきてやる」
 唇を引き結んでシャフトを見上げた皓竜の前に、白い空間がするすると持ち上がり、帳が開くように黒い壁を切り裂いていく。
 暗黒の滝は駆け上がる光の柱へと見る間に姿を変貌させる。
 シャルルの手首から垂らされた血によって開かれた光の道は、まるで天界への階段のように螺旋状に上へ上へと伸び始めた。
 シャルルは自分の横に立つ絶対の下僕の巨体を見上げ、震える唇に力を入れて艶然と微笑んでみせる。
「――僕はいつまでも待ってるから。皓竜。おまえが僕の身体を抱えて表に連れ帰ってくれるまで、いつまでも待ち続ける」
「シャル――」
 皓竜の胸の中が薔薇色に染まり、満たされた呼気でそう名を呼んだ。
「じゃ、行ってくらぁ」
 口に出し宣言をすると、皓竜の太い足が光の階段へと一歩を踏み出す。
 しかしその身体が白い輝きの内に入り込もうとした刹那、彼の腕をがっしりとつかむ何者かの手があった。
 振り返ろうとするまもなく、強い力で引き戻される。
「なんだよシャル――、行ってきますのチュウか?」
 だらしない顔を後ろに向けた皓竜の眼前にあったのは、金色の天使の美しい顔ではなく、悪鬼の如き形相の紅い髪の長身であった。
「――っ、ヴェル……ミリオ!?」
「どけ」
 かつてイザ・ヴェルミリオと呼ばれた男は一言そう言うと、自ら長い足を白き道に踏みしめる。
「どけって、てめぇなぁっ!」
 怒鳴りかけたセリフを制し、シドは言葉を重ねた。
「おまえはシャルルを連れて戻れ。ここからは俺たちで行く」
「――俺たち?」
 シドに気を取られていて気づかなかったが、シャルルのすぐ後ろにガーネットがたたずんでいるのがわかった。
 どうやらここから先はガーネットが道を作るということらしい。
 状況がつかめず、シャルルは荒い呼吸で言い募る。
「でもシド、僕はあいつを助けなきゃ――、僕のせいでこんなことになったんだ。僕が助けなきゃダメなんだ!」
 それでも道を開け続けようと、さらに高く掲げ力を込めたシャルルの腕を、シドは横からそっと押さえる。
 ひんやりとしたシドの温度にシャルルがぴくりと顔を上げた。
「すまなかった。おまえにまでつらい思いをさせたな。――シャルル、おまえはインカと一緒に行け。亮は俺が必ず連れ帰ってくる」
 すぐ横で見下ろす琥珀の瞳は、今までシャルルが見たどの瞬間より優しい。
 あまりに優しくて、悔しくて、涙がこぼれ落ちる。
 溶けていく心の中の棘。
 この数ヶ月。ずっと突き刺さっていた痛くて冷たいものが消えていく。
 ほっとして、嬉しくて、哀しくて、涙はどんどん溢れ出る。
 今すぐに皓竜にしがみついて無茶苦茶に文句を言ってやりたい。
 つるつると頬を滑り落ちる大粒の真珠に、皓竜はおろおろとシャルルの傍らにひざまずいていた。
「シャル? どした? ん? そんなに帰るの嫌か? 嫌なら俺も一緒にここに残るから――」
「――っ、バカッ! ばか皓竜っ。もう帰るっ! 今すぐ僕を外に連れていけよっ。三秒で出ないと絶交だからなっ!」
 皓竜はシャルルの言葉を聞くや否や、その華奢な身体を抱え、ロードランナーを追うワイリーコヨーテの勢いで走り出していた。
 本当に三秒で脱出できそうなスピードだ。
 シドはそれをちらりと見送り、傍らのガーネットに視線を落とす。
「どうしてあんたが一緒に行く気になったが知らんが、途中で引き返させる気はないからな。最後まで一緒に来てもらう」
「わかっています。あなた方を置いて空間を閉じるような真似はしないと誓いましょう」
 ガーネットは相変わらずの厳しい顔でシドの長身を見上げると、シャルルの作り出した白い階段に数歩歩み寄り、そっと手を添えた。
 ガーネットの細い手首から滴る血に触れた天界のステップは、瞬く間に近代的な鉄筋コンクリート製に作り替えられていく。
 能力の強さによる強固な作りと、サンドカラーに統一された落ち着いた色合いはまるで役所の一画を思わせた。
「シャルルのことは礼を言います。――次期カラークラウンをセブンスから失わせるわけにはいかないですから」
 シドはそれに関しては何も言わず、階段を上り始める。
 ガーネットは一歩遅れてそれに続くと、六階へと伸び続ける螺旋を見上げ、言葉を添えた。
「後からあなたに話があります、ヴェルミリオ。ですから必ずあの子を連れ帰って下さい」
 シドはもう後ろを振り返ることもせず、スピードを上げていた。