■ 2-41 ■



 何も言葉を発しず、すらりと長刀を抜いていた。
 片手に残る黒鞘を投げ捨て、前方を見据える。
 十数メートル前方。
 求める白い影は高々と掲げられ揺れていた。
 シド=クライヴは水晶の床を蹴り上げ、烈風の如く駆け抜ける。
 中心に峙立する巨大な水晶の塊。
 星明かりに瞬くその鳥籠の手前で強く跳ね上がる。
 上空に彼の行く手を阻害するものは何もない。
 インディゴの星空へ黒いコートを翻し舞い上がると、風籟を響かせ水晶の梁へ、踏み壊す勢いのストンピングで降り立った。
 だが重力に物を言わせたシドの一撃にも水晶の棒たちは、その六角柱の身を僅かにたわませ、ミシリと悲鳴を上げたに過ぎない。
 一本一本は子供の腕程度の太さしかないが、未知の物質で作られたクリスタルの梁は、ガラス繊維の如く柔軟で強固な素材でできているらしかった。
 六メートル四メートルのかっちりとした長方形の天板は、百本以上の梁が平行に並び形作られている。
 シドの立つ位置は扉よりの先端。
 数メートル先の足下に、深いグリーンの蔓に絡め取られた亮がぐったりと瞳を閉じたまま揺すられているのが透けて見えた。
 亮の小さな身体に絡みついているのは蔓だけではない。
 まるで水晶の梁たちから滲み出し鍾乳石のように垂れ下がる巨大な白蛇が、少年を絡め取っている。
 だがそれが食欲をもって亮を捕らえているわけではないのは明らかだ。
 ぬめりを帯びた細胞で作られる白い腕は背後から亮の細い腰をつかんだまま支え、先端に突いた顔は情欲に濡れた表情で亮の首筋から胸の飾りへと舌を這わせている。
 何より蛇の下腹部はささくれた鱗の中からヒトとしての性器を起ち上がらせ、幼い少年の中心へ無心に突き入れられ続けていた。
 シドの琥珀の両眼が凶光を増す。
――ソヴィロ……、バイオレット。
 亮を捕らえ貪る大蛇の顔は、シドもよく見知った爵位を擁する裁判長のものだ。
 交接することのみに全感覚を傾けた彼は、侵入者が己のテリトリーに踏み込んできたことに気づいていないようである。
 右手に携えられた白銀を両手で下段に構えると、シドは大きく足を踏み出し一瞬で間を詰める。
 梁の隙間を縫い、振りかぶった刃をバイオレットの生えた中心部へ突きおろす。
 その瞬間である。
 ざわりと水晶の籠が打ち震え、主を守るように梁の間隔が狭まったのだ。
 長刀の切っ先がガラス繊維に挟み込まれ、尖った音色をたてた。
 そこでようやくバイオレットはこの招かれざる客の存在を感知し、亮の足の間から鎌首をもたげる。
「っ!」
 どうやら敵はバイオレット一人ではないらしい。
 この籠自体が異神の息吹から生まれた生命体であり、バイオレットと融合した今も個別の意志を残しているのだ。
 シドの姿を認めた裁判長は拳を握りしめ、胸を反らして吠える。
『オオオオオオオオオッ――! ヴェるミリオォォォっ! 欲望にマミれた悪魔の使いメぇぇええっ!! ココハ貴様のよウナ下賎の者ガ来る所でハなアァぁぁいっ。立チ去れっ、今スぐ、消え去ルがイいイぃィィぃッ!!』
 わんわんと割れた声が響き渡り、それを皮切りに梁も柱も動いていた。
 籠を形成する六角の柱が一斉に伸び上がり、シドを囲い込んで行く。
 突き立った刀を抜き取った瞬間。
 垂直に立つ柱全てから九十度の角度で新たな柱が枝分かれし、シドの元へと伸び来たる。
 しかもその高さはばらばらだ。
 全てが中心に立つシドへ向けて段違いに放射状に集まり、侵入者の肉体へ無数の穴を開けるべく突き出される。
 シドはサイドに一度ステップを踏み、柱たちの集中砲火のタイミングを咄嗟にずらす。中央で一気に受けるより、多少敵襲が早まっても時間差で対応する方が賢明だと脊椎が反応したのだ。
 それでも数十本の左手柱が、我先にとシドを襲っていた。
 シドの両腕が逆手に刀を振り上げる。
 電子の動きをも停止させる絶対零度の烈風が、半月を描き空を切り裂いた。
 返す手で袈裟懸けに振り下ろすと、レーザー光の如く直線に照射された水晶の柱は、シドの身体が抜け出る隙間分だけ切り落とされる。
 弾き飛ばされた水晶の柱は、鳥籠や床へと放物線を描いて落下し、美しい音色で割れていく。
 だが新たな柱が右手、後方、前方と、刹那に押し寄せる。
 時間差によって生み出された隙間と、己の刀で切り開いた道のみが、シドの肉体が存在できるスペースだ。
 時速百キロを優に超える柱たちの攻撃を、身体をしならせ、ぎりぎりの線で避けていく。
 柱の勢いで巻き起こる烈風に、たなびくコート。紅い髪。
 シドの外縁ではためくそれらの一部は、柱の切っ先でちぎり取られ、宙へと巻き上げられる。
 玲瓏な白い頬から血の糸が引っ張られ、続いて肩、足、と肉の欠片を持って行かれる。
 しかしそれに構うこともなく、シドは足下に伸び来た柱を爪先で捕らえると、それを踏み台に上空へ一気に舞い上がっていた。
 一直線に空へ駆け昇るシドの後を、まるで単純なCGの様な無数の線が一つの束になり追い掛け伸び上がっていく。
――ちっ、前回の比ではないな。
 以前、料亭で異界の者から亮を奪還したときのことを思い返し、現在向き合っている敵が、それを上回るランクの相手だと痛感する。
 この空間が完全なリアルではなく、相手のテリトリーに近い異界であることも敵の力を発揚する原因の一つだろう。
 シドを追い来たる柱のスピードは尋常ではなく、横へ避けようのない上空では、足の裏から圧倒的な力で突き潰され、挽肉にされる未来が容易に予想できた。
『消え失せロっ、悪魔の使者めッ! 我ガ天使は私が守ルのダアアアアァ!!』
 亮との交合をやめ、バイオレットは幼い肢体をさらに巻き締めると、シドから小さな姿を覆い隠すように鳥籠の下方へと垂れ降りていく。
 それに伴い凄まじい速度で、亮を捕らえたバイオレットの姿が小さく遠ざかり始めた。
 透き通る鳥籠の中は見た目通りの広さではないらしい。
 いや、その中心角に更にもう一つ、真の異界へ戻るための黒い扉が開いているのだ。
 追い求めてきた姿が淡く霞み、バイオレットの胴体の合間からちらりと覗いていた細い腕も見えなくなる。
「っ、とおるーーーーっっ!!!!!」
 見下ろしたシドの口が叫んでいた。
 ピクリと、亮の指先が動いた。
 しかし。
 瞬間、下方から迫り来る柱たちにシドの身体が飲み込まれる。
 ガツンと聞き慣れない音がした。
 柱の束はまるで一本の巨柱だ。
 直径一メートルの円の表面は時間差で尖った繊維を隆起させ、シドの長身を足裏から串刺しにしていく。
 星空に抱かれて、シドの身体がクリスタルの柱の内にかき消える。
 その様子を遙か下方から眺め上げながら、バイオレットが口ひげを奮わせて高らかに笑った。
 しかし次の瞬間。
 その笑いが残響を引きかき消える。
 ビキビキと凍結の清音が走り下り、透明に光る柱の束が、上から純白のペンキをぶちまけられたように瞬く間に色を変えていく。
 一瞬にして水晶は、白亜の石柱へと姿を変えていた。
 同時に訪れる静寂――。
 石柱はピタリと成長を停止していたのだ。
 次第に、貝殻を擦りあわせるような耳障りな軋みが、長大なモノリスから発散され始める。
 バイオレットが目を見開いたまま喉の奥を天に晒し、咆哮をあげる直前。
 峙立する巨塔は爆発していた。
 視界が一瞬にして白く煙る。
 小麦粉にも似た極凍の白粉が、空気の潮流に呷られて螺旋に巻き吹き下りていく。
 どこからともなく無数の女の悲鳴が轟いていた。
 鳥籠は震え、周囲で生き残った柱たちは、狂ったように次々と直角に曲がりくねりながら悶える。
 バイオレットには消え失せたように映ったヴェルミリオの身体は、未だそこにあった。
 彼は柱の頂点に刃を突き立て、その先端から発するイザの力を一気に下方へ集約していたのだ。
 中央にそびえる柱を失った鳥籠の天井は、真円に綺麗に切り取られている。
 危険を察知し、籠とのつながりを瞬時に切断したバイオレットの身体は無惨に床へと落下していた。
 籠中央にある暗黒の一点。
 彼にとって常しえのパラダイスである異界への扉へ触れる直前に、白蛇の身体は投げ出され、弾き飛ばされていた。
 一瞬でも切り離しに躊躇があれば、バイオレットの身体も抱きしめた亮もろとも白粉となって消え失せていたであろう。
 亮を奪還に来たはずのシドの無謀な攻撃に、情欲で我を忘れていた裁判長の脳は冷水を被ったように冷静さを取り戻す。
『ヴェルミリオォォッ!!!! 貴様、トールを消シ去る気かっ!?』
 亮を片腕に抱き直し、床をずるずると這い回りながら、上空から落下しはじめたシドへ罵声を浴びせかけた。
 しかしその叫びを受け、遙か上空から、シドは強い意志を声に込め言葉を返す。
「亮は俺の唯一の弟子だ。この程度で死ぬようには教えていない」
『――っ!!!! ほざクな、悪魔の使者ガアアアアァっ!』
 冷気の煙をたなびかせる切っ先を、眼下の白蛇へ真っ直ぐ突きつけながら、黒い怪鳥が舞い降りる。
 空気を切り裂く音がビュウビュウと鳴った。
 バイオレットの顔色が白から赤に変わる。
『渡さヌっ、こレは私ノモノだ。渡サぬっ、渡サヌっ、渡さぬウうウゥぅっ!!!』
 左手に抱えた亮の身体を強く抱きしめると、十数メートル上空から迫り来るシドへ向かい、右腕を大きく横へ振り薙いだ。
 その軌跡を追うように、強い光が帯を引く。
 闇夜を切り裂く燦爛たる白き帯は、陽光を集束させた眩さを持ち直視する者の目を焼き尽くす。
 太陽を現わすソヴィロの力が、今バイオレットの手から放たれていた。
 異神の影響を受けたこの身体でも、元来アルマの持つ能力が消されることはないのだ。
 光の帯はバイオレットの手の動きに合わせオーロラの如く身をたわめると、今度は光の特性そのままに一直線に、舞い降りるシドの身体を焼く。
 それはまさに光速。
 拡散をほとんどなさない極太レーザーは瞬きも許さぬ一瞬でシドへ達する。
 しかしそれは星降る天空へ達することはなかった。
 光の槍はシドの前面で霧散し、プリズムの輝きを迸らせ辺りへ飛び散る。
 プリズムをたなびかせ星空の中から落下を続けるシドの姿は流星そのものだ。
『ッ、!!!』
 何が起こったのかわからず、バイオレットが天を見上げたまま息を短く吸った。
 シドの周囲にはシド自身の呼気から生み出された無数の氷の粒子が塵の如くまとわりつき、その一粒一粒がバイオレットのソヴィロを乱反射させていた。
『馬鹿なッ……』
 それと気づいた瞬間。
 バイオレットの身体は天を振り仰いだまま生物としての機能は完全停止する。
 振り払われたシドの長刀から叩き付けられるイザの波動が、天を仰ぐソヴィロの長を瞬時に凍り付かせていたのだ。
 神殿に祀られたナーガ像と化したバイオレットは、まるで自身の放つソヴィロの輝きのように白くきらめき傲然とたたずむ。
 その手に愛しい少年を抱いたまま原子核の中まで動きを止めた彼は、次の刹那――脳天にふわりと触れられたシドの長刀の僅かな衝撃で、一気に弾け飛んでいた。
 まるで恒星の最後を思わせる爆発は、狂風を持って四方へ朱の氷塊をまき散らす。
 朱の風を全身に浴びながら、シドは爆発中央へ腕を伸ばして舞い降りていた。
 伸ばされた長い腕の先に、小さな白い裸身がある。
 瞬間的な物質の消失で、バイオレットの腕に抱かれていた亮は下方へと身を落とす。
 シドにはそれが酷くゆっくりに見えた。
 まるで水中を漂っているようだ。
 伸ばす手は空を切り、亮がまたどこか遠くへ消えていくのではないかという恐怖で全身が痺れる。
「亮っ!!!!!」
 無意識に名が漏れる。
 白く細い肩と華奢な肩胛骨がゆっくりと暗闇の中に飲み込まれていく。
――っ!!!!
 だが次の瞬間、シドの左手は亮の腕をつかみ引き寄せていた。
 刀を投げ捨てた右腕で幼い肢体を抱き寄せる。
 腕の中のぬくもりを庇いつつ、シドは床に背を向け転がるように倒れ込んでいた。
 自分の身体の上。腕の中に抱かれた少年の胸元が、僅かに上下していることを確認すると、シドはほっと息をつく。
 何の表情すらなく作り物のように瞳を閉じた亮の様子は、シドに最悪の事態を連想させていたのだ。
 柔らかな頬を大きな手でそっと撫でてみる。
 ピクリ――と、一度瞼が震え、緩やかに亮は目を覚ます。
 ぼんやりとした黒い瞳に、シドの姿が映し出された。
 少年は不思議そうに小首を傾げる。
「――…シ、ド…?」
「亮――、遅くなったな」
 かすれた声でシドが囁く。
 そのバリトンを心地よさげに聞いていた亮が、小さく微笑った。
「…、すごい。…本物、みたい――だ…」
 吐息混じりに呟くと、再びうっとりと瞳を閉じる。
 シドの言語機能は全て停止してしまう。
 ただ、強く、強く、亮の身体を抱きしめた。
 彼ら二人を中央に残したまま、主を失った鳥籠の残骸が、さわさわと音を立て崩れ去っていく。
 空に散らばる無数の星が一つ、二つ。そして次第に次々と――どしゃぶりの流星群となって濃紺の空を流れ落ち始める。
 周囲を取り囲む津波の壁は一層高さを増し、轟音を伴ってざわめく夜空を切り取っていた。
 バイオレットも異神の使者も消え去った今、バランスは崩されたのだ。
 この場所が飲み込まれるのも時間の問題だ。
 シドは腕の中で安らかな寝息を立てる小さな身体を抱きしめ、執事の青年が支え続けてくれた扉へ向けて走り出していた。