■ 2-45 ■ |
シャルルは軽快な調子で病室のドアを開けると、ぴょっこりと顔を覗かせた。 今は昼の二時。 亮はお昼寝タイムのはずである。 見たところ、案の定気にくわない亮は中央のベッドですやすやと寝入っており、傍らの椅子に腰掛けたシドは、ベッドを肘掛けにしロンドン・タイムズに目を通していた。 しかし扉が開けられたことでその視線はすぐさまシャルルへと向けられる。 「今、平気?」 亮を起こさないように小声で問いかけながら、そろそろとシャルルが部屋へ歩み入ってくる。 回答の聞かされない内の進入は、シドが何と答えようが、自分本位に解釈しどうでも部屋に入る予定だったことの表れだ。 「何か用か」 シドはそんなシャルルに特に何の反応も示さず、再び視線を新聞へと戻す。 そっけない言葉も態度もシャルルは全く気にしない。 用があるから来たとばかりに、手にしていた愛用の身だしなみセット入りカバンを振ってみせる。 「シド、髪の毛、邪魔なんじゃないかと思って。随分伸びてるみたいだし――」 言いながらさっさとシドの椅子の後ろに立つとカバンを消灯台の上に置き、シドの断りも待たずに少し長くなった紅い髪を手で梳いていた。 「構うな――」 迷惑そうに払おうとするシドの手を慣れた様子で避け、シャルルはカバンの中から、メイソンピアソンのヘアブラシだの京橋の髪ゴムだのを取り出し始める。 「こんな頭してちゃ亮の世話するのにも困るんじゃないの? ほら、じっとして」 そんな風に言われ、シドはようやくあきらめたように手を下ろすと、何も言わず再び国際面へと視線を落とす。 シャルルはしてやったりと笑みを浮かべ、癖のないシドの髪へブラシを入れていた。 「わ、意外。シドの髪さらさらだv。……どんな風に結ぼうか。この長さでポニーテール、できるかな」 紅い絹糸を弄りながらうっとりと漏らされたシャルルの声に答えたのはしかし、シドではなく、可愛らしい少年の声である。 「だめぇっ! だめなのっ!」 「っ!?」 驚いて視線を向けた先では、眠りから覚めた少年が大変憤った様子で頬を膨らませ、顔をこちらに向けたまま身体を起こすところだった。 「――亮」 シドは立ち上がると、じたばたと毛布を蹴り上げベッドから下りようとしている亮の身体を抱き寄せる。 「っ、なんだよ、髪の毛結ぶくらいいいだろっ!? おまえなんて、シドの顔すら忘れてるくせに、何で独り占めしようとすんだよっ! ずる。ずるっこ。亮のずるっこ!」 目の前でシドの腕にすっぽりと収められている亮の姿に、シャルルは亮に負けず劣らずの子供攻撃でやり返していた。 しかしこれに対し、亮ももう負けてはいない。 亮は強くならなくてはいけないのだ。 強くてりっぱなソムニアになる――その為には、こんなシャルルの意地悪攻撃如き、跳ね返せなくてどうするのか。 シドの腕からするりと抜け出しベッドから降りると、亮はシドを庇うようにシャルルとの間に立ちはだかり、両手を左右に大きく広げて精一杯の抵抗を試みる。 「――っ、とおる、ずるじゃないもん! シィはとおるのおよめさんにするから、しゃるはさわっちゃダメなのっ!」 「なっ!!??」 シャルルが言葉を失い一歩退いたと同時に、ドア付近で金属トレイが派手にひっくり返る音がした。 シドが振り返ればそこには、処置道具を持って部屋へ入ってきていたレオンが、背中を奮わせてうずくまっている。 「し、シドがおまえのお嫁さんになんかなるわけないだろっ! バカじゃないのっ!?」 「バカってゆうほうがバカだもん! とおるがシィのかみのけ、むすんであげる」 しかし亮は一人気を吐くと、消灯台の上からシャルルが持ち込んだゴムを手に取り、シドの背中へ回って髪に触ろうとジャンプしていた。 しかしそんな横暴を許しておくシャルルではない。 「ぉ、おまえ、なんで勝手に僕のゴム使ってるんだよ! それ、京都から取り寄せた僕のお気に入りで――」 「とおるの陣地にあるのだから、もう、とおるのだもん! じゃあね、しゃる、ばいばい」 シャルルともみ合いになりながら、亮はゴムを死守しようと握り込んだ手を背中に隠す。 「何がバイバイだっ、このくそチビ!」 完全に頭に血が上ったシャルルが本気で亮につかみかかる。 しかし亮は頑なにそれを渡そうとせず、病室内はちょっとしたストリートファイト状態だ。 だがすぐに頭上から大きな手が下りてくると、二人は襟首をつかまれ、引き離されてしまう。 「いい加減にしろ」 シャルルの身を解放しながら、シドはもう一方の少年を片腕で抱え上げていた。 シャルルはその対応に不満そうに口を尖らせ顔を上げる。 「だって――」 「だってじゃない。亮も。暴れたらまた傷が開く」 「――…。」 亮もぷいっと横を向くとシドの肩口に顔を埋める。 シドはそんな亮の背をなだめるようにぽんぽんと軽く叩くと身をかがめ、ベッドへ小さな身体を降ろしていた。 「ほら。シャルに手の中のものを返せ。それは亮のじゃないだろ?」 頭をよしよしと撫でられながらシドに言われ、亮はしばらく仏頂面で床を眺めていたが、十秒後にはそろそろと握りしめた手をシャルルへ差し出し、小さなヘアゴムを返却する。 「っ、モテモテで――、くくっ……、うらやましいね、シド」 床に散らばった処置道具を拾い集めながらその様子を眺めていたレオンが、笑いすぎによる苦悶の表情で立ち上がった。 声の端々が震えているところからすると、まだ笑いの神は彼の中から立ち去ってくれてはいないらしい。 他のカラークラウン達から恐れ憎まれた、前IICRエージェント局局長、イザ・ヴェルミリオ――。 そんな彼の姿からは考えられないレアな光景が目前で展開されている。まったく、自分だけで楽しむのはもったいないと心の底からレオンは思う。 いっそ、動画で撮影して残しておきたい。 「……シィのかみ、とおるがむすんであげるんだもん」 ちびっこはそれでもめげず、自分をベッドへ降ろしたシドの頭に手を乗せ、もさもさと髪を弄り始める。 「シャルくん、亮くんに髪ゴム貸してあげたら?」 「嫌だよ! 絶対イヤ! 何だよ、二人とも、亮、亮って。そんなに亮が可愛いなら、ドクターが自分のあげればいいだろ!?」 レオンの言葉に不機嫌をさらに爆発させると、シャルルはカバンとブラシをひっつかみ、大股で部屋を出て行ってしまった。 ガシャンと病室にあるまじき勢いで扉が閉じられる。 目を見開いてそれ見送ったレオンが振り返ると、今度は逆に瞳が点になる。 突き出されたシドの大きな手の平が上を向けて広げられ、明らかにレオンに何かを要求していた。 「――なに?」 「おまえの頭のそれ、よこせ」 十分後――。 ベッドへ背を向け椅子に座るシドへ腕を伸ばし、上から亮がご機嫌で紅い絹糸を弄っている。 「亮くんの体力もだいぶ回復してきたみたいだから、実質三日後くらいには退院の許可が出せる。どうする? もうしばらく様子を見るならシドの滞在申請もビアンコに出すけど――」 不本意ながら長い金髪を降ろす羽目になったレオンが、手元の書類に目を通しながら言う。 「いや。退院できるなら、すぐにでもここを出る」 亮が髪を弄りやすいように、珍しく姿勢良くまっすぐ椅子に腰掛けたシドが、相変わらずの無表情でそう答えていた。 「なぁ、シド」 そんなシドへ、レオンは先ほどまでとは打って変わった真剣な声音で問いかける。 「言いにくいことだけど……。――アルマの損傷が原因なら亮くん、もしかしたら一生このままかもしれない。それに、失くした記憶も戻る保証はない」 シドは腕を組んだまま静かにレオンの言葉を聞いている。 「おまえ、この子そばに置いてて、大丈夫か? やっていけるか? 本部での彼の待遇も、今はもう完全に改善されてる。だから――辛いようなら、ずっとこっちで亮くんの身柄を預かるけど」 「無用だ。亮は連れて帰る」 間髪を入れない返事に、レオンはやっぱりなと言った表情で軽く息をついていた。 目を閉じ首を振ると、垂れ落ちてくる前髪を掻き上げる。 「言ってみただけだよ。――三日後、専用便が成田へ向けて出るそうだから、そのつもりでいてくれ。僕も東京まで主治医として付き添うことになる」 「わかった」 うなずいたシドは、消灯台に置かれた新聞を再び手に取ると、もう話は終わったとでも言うように紙面に視線を落とす。 相変わらずの無愛想な対応の友人に対し、レオンは白衣のポケットから携帯電話を取り出すと、 「あともう一つ。これも言いにくいんだけど。――……頭、すごいことになってるよ」 真面目な顔のまま、紅いパイナップルへ写メールのシャッターをついに切っていたのだった。 ピューターメタリックのハマーH1は、その大きな車体に似合わない滑らかさで軽快に森林地帯の道路を走り抜けていく。 助手席に座っているのは何やら心浮き立った様子のレオン。 広々とした後部席に陣取るのはシドと亮である。 来たときそのままの七ヶ瀬高校の制服を着せてもらった亮は、大好きな人たちとのお出かけにはしゃいでしまって仕方がない。 風は冷たいというのに窓を開け、顔を出そうとしてシドに叱られたり、シートの下につけられたボックスを開けて銃器を引っ張り出しシドに叱られたり、運転席の方へ移動しようとしてシドに叱られたりと忙しい。 ハンドルを握っているのは、シュラ=リベリオンだ。 シドの来訪や亮の生存は理事会で特秘事項扱いにされることとなり、なるべく事を知っている人間のみの働きで全てを処理する必要があったため、駅までの移動はシュラの自家用車を使う指示が直々にビアンコから下されたのである。 ビアンコからの勅命ではシュラも従わざるを得ない。 かくして事件後初めて、シュラは亮と顔を合わせることとなったのだ。 状況は聞かされていたものの、シュラは一週間ぶりに見る亮の様子に胸がつぶれそうな思いがした。 幼い言動自体は亮の容姿のせいで大きな違和感を感じさせることもない。しかし以前の亮を知る者にとって、やはり今の彼の無垢な瞳は痛々しく、シュラの胸の芯を激しく揺さぶる。 シュラは少年に微笑みかけられた瞬間言葉を失い、彼の頭を撫でてやるのが精一杯であった。 しかし当の亮本人は、久しぶりに大好きなシュラに会えたことが嬉しくて仕方がないらしい。 車に乗ってからも、シドが少し目を離すとすぐに運転席にいるシュラの膝へ上ろうとする。 走行しているのはIICR専用道路と言ってもいい田舎道である。 対向車はまるでないが、それでも危ないことに代わりはない。 レオンがその度に横から亮の手を解き、後ろからシドが引っ張り出すの繰り返しだ。 「しゅら、とおるもうんてんするぅ」 再びもぞもぞと後部座席から頭を覗かせた亮の髪を、シュラはよしよしと撫でながら目を細める。 「亮はまだ免許持ってないだろ。無免許運転はさせられねぇな」 「しゅらはもってる?」 「ああ、持ってる。おまえよりちょっと上くらいの時にとったかな」 「すごいねぇ! しゅら、こんなおっきいくるま、うんてんできるの、すごいねぇ!」 やたら感心した亮は顔を引っ込めると、後部座席のシドへ向かって身振り手振りを交えてこの感動を伝えている。 シドは「そうだな」と珍しく相づちを打つと、亮を膝の上に抱え上げ、これ以上動き回らないようにしっかりと両腕のシートベルトで抱きしめていた。 「ね、シィもうんてんできる?」 顔を上げて問いかけてくるちびっこに、シドはタオルケットを抱かせると「ああ」と頷いてみせる。 「そっかー、レオンせんせはできないのにシィはできるから、やっぱりシィもすごいねぇ!」 「・・・な、なんで私はできない設定になってんのかな?」 助手席のレオンは苦い顔だ。 「とおる、おおきくなったら、しゅらみたいにゴクソツとたたかって、おっきいくるまもうんてんするんだ。シィものせてあげるね?」 「そうか――」 「あれぇ、シド。なんか複雑そうな顔しちゃって」 別段後ろを振り返ることもせず、レオンがニヤニヤと意地悪な笑いを浮かべて声を掛けた。 そんな大人達のやりとりなど気にすることもなく、亮は嬉しそうに話を続ける。 「しゅらはね、すごいんだよ? ゴクソツってあたまからガバチョーってにんげんたべちゃうのに、しゅらはね、ゴクソツをてでつかまえちゃうんだって! しゅらは、かっこいいなぁ」 ハンドルを握るシュラはどんな顔でそれを聞いていいかわからず、取りあえず窓を小さく開けると煙草を咥え火をつけていた。 気まずい咳払いと共に、細い煙が窓外へ吸い出されていく。 車内に残るのは微妙な空気だけだ。 そんな状況の中、部外者のレオン一人やけに楽しそうである。 「亮くん、将来はエージェント部より獄卒対策部希望みたいだよ? さみしいねぇ、お父さん」 しかしレオンの冷やかしにもシドの表情はやはり変化を見せない。 膝上の亮の身体を抱き直すと、同じくポケットから煙草を取り出そうとして思いとどまる。 「――その為に修行に身が入るというなら、亮の好きにすればいい」 「っ、くしゅっ!」 シドの言葉に被るように、亮が小さくくしゃみをしていた。 「・・・。シド。車内の温度下げるのやめてくれる? 亮くんの体調はまだまだ万全じゃないんだから」 「――・・・車、止めろ」 レオンの笑いを含んだ声に、シドは突然そう切り出す。 これに焦ったのはレオンだ。 退屈な車中のスパイスにと冗談のつもりで色々突っついていたのだが、予想以上にシドの気持ちを逆撫でていたらしい。 もしかしたらこのまま氷漬けにされるのかもしれない。 「え。や、ちょ、そんな本気になんなくても――」 「シュラ。いいから止めろ」 しかしシドは引く気配を見せない。 ちらりとバックミラーでシドの顔をみたシュラは、次の瞬間ブレーキを踏みしめていた。 ――三分後。 運転席にはシドが座り、くわえ煙草でハンドルを握っている。 そして後部シートにはまさに複雑な表情のシュラが、亮を抱えて座ることになっていた。 気温の下降が止まない車内にあって、唯一暖かいシュラの膝で、亮はタオルケットを抱えたままうとうとと気持ちの良い眠りに誘われている。 車内でただ一人、紫色の唇で膝を抱えるレオンは、数分前、自分の煽った行為を酷く後悔したのであった。 車は長い長いハイウェーに乗りつつある。 |