■ 2-7 ■



「申し訳ありませんが、チケットをお取りすることは出来ません」
 カウンターの女性はシドのパスポートを見るやいなや、そう切り返した。
 背後にいた別のスタッフがどこかへ連絡の電話を入れている。
 シドの表情が険しくなった。
 既に本部の手が空港側に回されていたということだ。
 IICRはシドが本部へ乗り込んでくるのを想定して、あらかじめシドの足を日本へ釘付けにする作戦に出たのである。
「――わかった」
 パスポートを女性の手から取り返すと、シドは踵を返し、足早に出口へと向かう。
 今ここで拘束されてしまうのはうまい手ではない。
 シドの視界の端に警備員が近づいてくるのが見える。
 左右両方からだ。
 シドの足がさらに速まった。
 だが見た目にはスピードを上げた足運びがわからない。
 警備員達は訳もわからぬうちに振り切られ、シドは容易に空港外へと脱出に成功する。
――正規のルートではもう無理か。
 駐車場へと向かうシドの前に一台の車が寄せられたのはその時だった。
 見覚えのない高級車の後部窓が音もなく沈んでいく。
 そこに現れた少年の顔に、シドの頬が強ばった。
『どうしたの? シド。顔色良くないよ?』
 天使のような少年は、悪魔のように笑ってみせる。
『そう言えばあの子、なんて言ったっけ。トオル? 本部に連れて行かれちゃったんだって? ――ま、一ヶ月は帰ってこられないよね。かわいそ。毎日検査だ』
『―― 一ヶ月だと? 毎日検査だと? ……検査は一日で終わる。だが亮は二度とここには帰ってこない』
 シドの目が細められ、射るようにシャルルの顔を見下ろしていた。
 その眼光の鋭さに一瞬目をそらし、シャルルは意味がわからないと言ったように首を振ってみせる。
『な、何言ってんの? 一日で終わるわけないよ。前、可能性アリって言われた人は、二ヶ月調べて何も出なくて、結局戻されて――っ、そ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか! 亮だってすぐに帰ってくるよ!』
『……おまえ、知らずに報告したのか』
 シドの瞳が苦しげに閉じられる。
 そんな顔のシドを、シャルルは未だかつて見たことがなかった。
 シャルルの戸惑いは大きくなっていく。
『――あいつは、ゲボだ』
 シドの言葉は静かであったが、震えるような怒りと痛傷を孕んでいた。
『――え?』
 シャルルは口の端に笑みをとどめたまま表情を固めてしまう。シドの言葉の意味が、一度では染み込んでこなかった。
『あいつはゲボなんだ、シャルル』
 そんなシャルルの様子に、シドはもう一度、同じ言葉を呟いた。
『だって、あの子、マナーツだって。マナーツのくせにシドとあんなこと、してて、僕、許せなくて、だって、あいつ、マナーツだってシド言ったよっ!!』
 シドの焦りと怒りの意味が、ようやくシャルルにもわかり始めていた。
 ほんの少し、意地悪をするつもりだったのだ。
 亮なんか、一ヶ月くらい閉じこめられて、つまらない検査を押しつけられればいい。
 マナーツのくせにシドとキスして、あんなに優しくしてもらって、生意気でむかついて許せなかった。
 亮なんか、知らない場所で恐い思いして、泣かされちゃえばいい。
 その間に日本にいるシドを落とすのもいいかもしれない。
 そんなちょっとした、いたずらのつもりだったのだ。
――シドの所の亮って子、ゲボみたいだよ?
 そうシャルルのした嘘の報告は、だがしかし、嘘のままは終わらなかったのだ。
『おまえの報告は正しかったんだ、シャルル。帰ってガーネットに褒めてもらえ』
 シドはそう言い残すとシャルルの顔も見ずに駐車場を横切っていく。
 残されたシャルルは車中で呆然と虚空を見つめていた。
 自分はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。
 シドは本部からゲボを隠していた。
 それは発覚すれば、シドの立場も危うくなるほどの重大な行為だ。
 シャルルは自ら、大好きなはずのシドを本部に売ってしまった事になる。
『違うよ、そんなこと、したかったんじゃない。だって知らなかったんだっ。僕はただ、――シドっ!』
 シャルルの叫びにもシドは振り向かない。
 シャルルを乗せた車は、ゆっくりと発車していった。








 巨大な建物群が、亮の目の前に広がっていた。
 最寄りの駅から車でさらに三時間かけてたどり着いたその場所は、広大な森林に囲まれた人家すら見あたらない辺土である。
 だがここへ至るまでの長大な道路は完璧に整備されており、ここが意図して辺境の地へ作られたのだと亮にもわかった。
 中央に十六階建ての近代的なビルがそびえ立ち、周囲にはまた別の建物群がいくつも郷をなしている。
 しかしそれらのいくつかはかなりの距離があり、間に森や川を隔てている場合もある。
 それぞれが整備された道路で繋がっていることで、そこもこの建物群の一部であることがわかるのだ。
 後でわかったことだが、これらの建物は地上部分より地下に隠れた部分の方が大きいらしい。
 中央棟も地上は十六階であるが、地下には三十六階が存在している。
 亮がまず通されたのはその中央棟。
 最上階にある執務室のような場所だった。
 ソファーに座らされしばらく待つと、三人の人間が室内に入ってくる。
 一人目は金髪翠眼、白人の男。
 白衣を着ているところをみると、研究者か医者だろうか。
 二十代後半か三十代だろう。長い髪をポニーテールにして束ねている。
 二人目はブラウンの髪をきつくアップにした、小柄な白人女性だ。
 三十代後半か、四十代。
 顔立ちが整っているせいか、どこか厳しい印象だ。
 三人目は、背の高い黒人の男。
 がっしりしているがその顔立ちはあくまで知的で穏やかだ。 四十代半ばといったところだろうか。
 白いローブに似た服を身にまとい、現実離れした雰囲気を持っている。
『ビアンコ。トオル=ナリサカをお連れしました』
 亮の横に座っていたガードナーが立ち上がると、最後に入ってきた白いローブの黒人に、真っ先に亮を紹介する。
 どうやら彼がこの中で一番身分が上のようだと、亮は判断した。
 ビアンコと呼ばれた黒人は、黙って頷くと、再び座るように、身振りで亮たちにソファーを勧める。
 ガードナーは恐縮した様子でそれに応えると、亮にも座るように合図した。
「亮さん、この方がIICRの現トップ。オートゥハラ・ビアンコです。オートゥハラ種の能力者は、現在世界で彼一人で、当然彼はオートゥハラ種のカラークラウンであり――」
「ガードナー、解説は後でいいだろう? 亮くんは疲れている。彼の顔色を見て気づかないのか?」
 ガードナーが意気揚々と解説を始めた前で、ポニーテールの男が眉をしかめてみせる。
 それがあまりにも流ちょうな日本語だったため、亮は少し面食らった。
 シドと同じレベルで日本語がうまい。
 その男の発言に少々かちんと来たガードナーだったが、ビアンコが特に何もとがめ立てしないのを確認すると、仕方なく先を進めることにしたようだ。
「そして今の彼が、レオン=クルース。医療局の人間で、キミの主治医になる。能力はベルカーノ種だ」
「よろしくね、亮くん。大丈夫、何にも心配いらないよ。レオン先生がちゃんとキミの体調をケアしてあげるから」
 レオンはニコニコとやたらご機嫌で、戸惑いを見せる亮の手を取った。
「私は日本通だからね。いろんなお話しようね」
「は、はぃ……」
 亮が返事をすると、レオンはさらに嬉しそうに亮の手をぎゅっと握る。
 亮は何だか、日本にいる誰かを思い出しそうになった。
 医者というのはみんなこういうタイプなんだろうか。
「そしてあなたの正面にいるのが、現ゲボ種のカラークラウン、ゲボ・ガーネット。亮さんの直属の上司になる方ですよ」
 紹介された女性、ガーネットは上から下まで亮を眺めると、まだレオンに握られっぱなしの亮の手を、そっと引き離した。
『ドクター・クルース。原則、ゲボに触れていいのはカラークラウンのみです。主治医ということで例外を認めましたが、節度を持った接し方をお忘れなきよう』
『わ、わかってますよ。もう、相変わらず恐いなぁ、ガーネットは』
 亮には何を言っているのかわからなかったが、どうやらレオンがガーネットに怒られているらしいことは理解できた。
「もちろん、まだ完全にゲボであると特定されたわけではありません。明日の検査結果待ちと言うことになりますが――もしあなたがゲボであった場合、きちんと決められた仕事をこなしてもらうことになります。いいですね、亮」
 ハリウッドの映画に出てきそうな綺麗な顔立ちのガーネットは、思った以上にその顔に似合わない厳しい人間のようである。
「一つは、三日置きに最低四百ミリリットルの採血を行うこと。そしてもう一つは、ゲストが部屋に見えられたときは、精一杯のおもてなしをすること。その二つだけがあなたの仕事になります。何もむずかしいことではありません」
「はぃ……」
「それから、いくつかのルールがあります。これは他のゲボ達も守っていることですから、あなただけできないということはないはずです」
 亮は言われるまま頷くしかない。
 小学校の頃、こんな恐いおばぁちゃん先生に当たったことがあったっけ――。と、ぼんやりガーネットの話を聞き流していく。
 とにかく、今の亮は疲れ切っていた。
 夕べ発作を起こしたばかりだし、その後十七時間かけて見知らぬ土地まで来ているのだ。
 今はただ、一分でも早くベッドに潜り込みたかった。
 しかし、ガーネットの話はまだまだ終わりそうにない。
「外出は一切禁止。入獄ガードのネックブレスは入浴の時以外はずさない。医療棟、研究棟などに移動の折は、肌を隠す衣装を身につけ、カラークラウンの方以外とは目を合わさない、口を聞かない。いいですね?」
「あの――カラークラウンって……?」
 おそるおそる尋ねた亮の言葉に、ガーネットは呆れたようにため息をつく。  
「各能力種のトップのことです。トップには色を表す冠がつけられ、私ならば『ゲボ・ガーネット』。彼は『オートゥハラ・ビアンコ』。それぞれ能力名とカラークラウンで構成された呼び名を使うことになっています。つまり、あなたは各能力種のトップの方以外とは、基本的に話してはいけないということです。――私たちの本名は別にありますが、トップになった時点で使われなくなります。わかりましたか?」
「――わ、わかった……気がします」
「プッ――」
 それを聞いたレオンが思い切り吹き出していた。
 ガーネットは派手にため息をつくと、厳しい口調で続ける。
「あなたには勉強が必要ですね。ソムニアのこと、ゲボの役割、組織の事。――そして英語と礼儀です」
「――は、ぃ……」
 聞きながら、亮の瞼が下がってくる。
 今の時刻、日本では深夜三時近く。
 亮の体内時計はまだまだ純日本製だ。
 極度の疲労と相まって、亮の睡眠欲は既に限界に来ていたようである。
 遂に亮はガーネットの話を聞きながら、うつらうつらと船をこぎ始めていた。
「っ、トオル=ナリサカ!! あなたは私の話を――」
 激高しかかったガーネットを制したのは、ビアンコであった。
『ガーネット、彼の部屋は用意できているのか?』
『は、はい、六階に割り当てましたが――』
『ならばもう休ませてやりなさい。明日から時間はいくらでもある。今全てを教える必要もない』
 ビアンコにそう言われては、ガーネットに嫌はない。
 部屋の外に待機していた者に指示を下し、眠気でふらふらしている亮を抱えさせ、引き上げていく。
『ビアンコ、あの子、本当にゲボなんでしょうか』
 見送るレオンがそう尋ねる。
『GMD中毒だって聞いたけど、まだ信じられませんよ。何しろ、百年近く、新しいゲボは見つかっていない。今いるゲボはみんな転生組です。もうゲボなんて他にいないんじゃないかって思ってましたから』
『――ヴェルミリオが匿っていたそうだな』
 その言葉に背後に控えていたガードナーが頷いていた。
 レオンの眉がぴくりと動く。
『ならば間違いないだろう。彼は、当たりだよ』