■ 3-20 ■

「何をなさってるんです?」
 部屋に入ってきた白衣の男は、背後の扉を閉じると、ベッドに座った滝沢と隅で膝を抱えて震えている亮とを交互に眺め回した。
 乱された亮の着衣や怯えきった様子を見て何か言いたいことがあるらしい。
「私は完全な状態で引き渡しをと頼んだはずですよ」
「そう目くじらを立てる必要はない。ほんの少し諸々の確認をしただけでね。ミスター・ガードナー。もちろんあなたが心配するような真似もしていない」
「こんなに怯えさせては同じ事だ――」
 言いながらガードナーは滝沢の身体を避け、奥の壁にくっついて震えている亮へと近づく。
「余計なストレスは披験体にダメージを与え、研究の妨げになることもある。気をつけていただきたい。アルマ研究はデリケートなものなのだ」
「私が怯えさせているわけではない。亮さんが勝手に怯えているだけだ。私はあくまで紳士的に事を運んでいるつもりだがね」
 亮へ手を伸ばそうとし、それを避けるように亮の身体が縮こまるのを見て、ガードナーはその手を下ろしていた。
「はは、あなたも嫌われてるようだ」
 皮肉な笑みに片唇をつり上げた滝沢は、手にした携帯電話を折りたたむと、ベッドの端に投げ出されていたジャケットを羽織りながらそれを内ポケットへと滑り込ませる。
 その様子をめざとく見極めたガードナーが、眉間に皺を刻みながら嘆息した。
「トオルさんの兄とやらに、映像を送ったのですか」
「それが私の望みの一つでもあると言ったはずだよ、ミスター。亮さんの現状を見せてやり、自分のせいでまた可愛い弟が酷い目に遭わされている――成坂修司は敗北したのだと自覚させてやる。こんな気分のいいことはないよ」
 滝沢は喉の奥を鳴らし、は虫類が威嚇するような笑い声をたてて、乾いた唇を舐めながら思い返すように亮の青い顔を眺める。
 そんな楽しげな滝沢とは対照的に、ガードナーは不満の色を拭うどころか濃くしていた。
「それでこの場所が割れるようなことがあっては困る。映像の持つ情報量の多さはバカに出来ない」
「なに、心配はいらない。やり手だとは言っても彼はただのぼっちゃんだ。あの粗雑な映像でここがどこだかまではわかるわけはない。第一ここは亮さんを拉致してくるまでの仮住まいだ。今日ここからあなたの指定したセラに亮さんを送り込んだ後は、すぐにでも引き払う予定じゃないか。明日の朝にはもう少し気の利いた施設に移動している」
 滝沢の言葉に、そこで初めてガードナーは納得したように頷いていた。
「まあ、それはそうですね。最悪、セラの座標さえわからなければ、彼らは永遠にトオルを取り戻すことはできない。――肉体などソムニアにとってはそれこそ仮住まいのようなものですから」
 完全隔離の可能な本部研究用セラであれば、肉体からアルマの行き先をたどるという芸当もできなくなる。
 たとえ肉体を奪還されたとしても、肝心の亮のアルマは永遠に滝沢達のものとなるのだ。
 計画は完璧であった。
「ではそろそろはじめましょう。トオルさんをセラへ送還するのは早い方がいい」
 ガードナーの言葉に滝沢はうなずいた。
「私がシステムでバックアップしますので、あなたはセラ内にてトオルさんへ空間錠を嵌めてください。あなたになじみ深い形状で準備室内のテーブルに二点用意してあります。それを嵌めればトオルさんはセラ内に拘束され、リアルに戻ることは出来なくなる」
「わかった。で、私はどのベッドを使えばいい?」
「そうですね――、トオルさんと同室のベッドでは彼を怯えさせてしまって良くない影響が出そうだ。隣を使ってください。装置の同期はもう済ませてあります」
「中ではしばらく時間をとれるんだろうな」
 目に赤黒いグロテスクな光を湛え、部屋を去り際、滝沢は振り返る。
 ガードナーは心得ているといった風にうなずくと、ようやく笑みを浮かべた。
「もちろん。セラ内では時間は溢れんばかりにあります。私もその間トオルさんの肉体から、血液や細胞など様々な検体を取りたいので、滝沢さんもゆっくりしてらしてください。こちらで二時間も時間を取れば、そちらでは約六十二時間。二日を余る時を彼と共に過ごせますよ。簡単な躾でもなさったらいかがです?」
「――六十二時間か。なるほど、記憶さえ持ち帰ることが可能になれば、セラという所は堪らないうまみのある場所だな」
「その為に記憶持ち帰りの訓練を受けられたのでしょう? やっと成果を生かせますね」
「それにこれの身柄確保で、あの正体のしれない老人に笑えない額の金を払ったんだ。これから存分に亮さんには回収させてもらわなくては――」
「IICR秘匿のゲボを手に入れたんです。億などはした金に思える利益を彼は生んでくれますよ。――ただ、セラ内でのゲボの血だけには気をつけてください。今の彼では心配は薄いかもしれませんが、無意識に異神を呼び出す可能性もある。できるだけ無理をさせないように、あなたの言うことが全てになるよう優しく気持ちよく、工夫して教え込んでください」
「――わかっている。あなたも、しっかりバックアップを頼むよ」
 言い残すと滝沢はもう一度隅で荒い呼吸を吐いている亮へ視線をやり、部屋を出て行った。
 ガードナーはそれを見送るとくるりと振り返り、打って変わった軟らかな表情を作って亮へと歩み寄る。
 亮は早く浅い呼吸をつき、膝を抱えたまま怯えすくんだ瞳でそれを見上げた。
「もう大丈夫ですよ、トオルさん。あの男は私が追い出しました」
 ガードナーが手を伸ばせば、目に見えてびくりと身体が硬直し、黒の瞳を見開いて震え続ける。
「私をお忘れですか? ロイス=ガードナー。あなた担当の採血官です」
「――さい、けつ?」
「そう。採血ですよ。あなたのお仕事でしょう?」
 そう聞かされて、亮の呼吸が次第にゆっくりと落ち着いたものに変わっていく。
 亮にとって『採血』という響きは、おもてなしをしなくてもいい日を現わしており、同時にノーヴィスと出かける森の気持ちよさを思い起こさせるものである。
「さいけつ――。とおる、きょう、さいけつの日?」
「そうですよ。しばらくトオルさんはお休みしていたでしょう。採血のお仕事が随分いっぱいたまってます。だから私がこうして、採血にうかがったのですよ」
 亮の震えが収まったのを見て、ガードナーは伸ばした手を再び亮へ近づけ、感触を楽しむようにゆっくりと亮の髪を撫でた。
 亮はそれに対し抵抗を示さず、大きな瞳でガードナーを見上げる。
「がーどなーさん、とおる、ちゃんとできるよ?」
「わかっています。トオルさんは偉いですね」
 そう褒められると、亮は青ざめた頬にようやく小さな笑みを浮かべた。
「さあ、トオルさん。少し横になりましょうか。いつものように目を閉じて眠っている間に、採血をすましておきますから」
「さいけつおわったら、とおる、おうちかえれる?」
「――ええ。終わったら、お迎えを呼びましょうね」
 ガードナーの言葉にトオルは安心したように頬を綻ばせると、言われるままベッドに横になり、白い腕を差し出していた。
 その手を取りアルコール綿で拭き終わると、ガードナーは目を閉じたトオルの枕元に据え付けられた入獄システムの電源をそっと入れた。








 滝沢は目の前にある現実に目を見張り、ゴクリと熱い唾液を嚥下していた。
 滝沢が狭く白い研究準備室に入獄してから、およそ四十分が経った頃である。
 壁一面設えられたガラス窓の向こうに広がる大きな研究室と、逆側の壁に掛けられた素っ気ない丸時計とを落ち着かない様子で何度も見返していた滝沢は、不意に部屋の中央へ現われた小さな人影に息をのんでいた。
 ふわりと微かな揺らぎを含んで現われたその影は、すぐに濃い実態となって滝沢の前に晒されていた。
 白いゆったりとしたシャツと黒い短パン、白い靴下にスニーカーを身につけ、少年は不思議そうな顔で辺りを見回す。
 その姿は確かに亮であったけれども、今の亮ではない。
 身長130センチに満たない容姿は、どうみても今の亮の半分ほどしか人生を生きていない幼さであった。
 滝沢の目の前には、あの頃、何度も妄想の中で陵辱した小さな少年が立ちすくんでいたのだ。
 滝沢は亮がまだセラの状況に馴染みきる前に、素早く行動を起こしていた。
 ここで怯えられてすぐに現実へ逃げ帰られては、何度も面倒を踏むことになる。
 ぼんやりとした様子の亮の背後に近づくとすぐさまその小さな肩をつかみ、手にした手錠型の空間錠をその細い腕にがっちりとはめ込む。
 驚いて振り返る亮を抱きすくめると、続いて同じく用意されていた首輪型の空間錠を亮の首周りに装着させていた。
「っ!? ゃっ、ゃぁっ!」
 突然の強襲に悲鳴を上げてもがく亮に、滝沢は抱きすくめた背後から「しー、静かにしなさい」と何度も囁く。
 聞き覚えのあるその声に、亮は恐怖に縛られたように喉を引き攣らせ黙り込んだ。
「そうです。いい子だ――」
 滝沢は自分でも聞いたことのない程優しい声音で囁くと、羽根のように軽い少年の身体を抱え上げ、ガラス戸の向こう――研究用隔離室の中へ入っていく。
 ガラスについた半透明のタッチパネルに手早くナンバーを打ち込むと、ガラスの一部が解けるように口を開け、滝沢と亮を飲み込むと再び結晶化して、元の固く艶やかな表面を取り戻す。
 この研究用隔離室はその用途の為、あらかじめ決められたロックナンバーでのみ扉を開けることが出来、その後閉じられた空間は薄いセラ壁で覆われ、力で強引に開けることはできなくなる。
 ナンバーを知る者のみが中の研究体を取り出せるようにと構築されたものであり、無理にこの部屋をこじ開けようとすれば、セラ壁の流出により準備室ごと煉獄の外空間に溶け出してしまう。
 ガードナーがこのセラを選んだのは、現在本部では使用されておらず目に付きにくいというだけでなく、こういったセキュリティ面での充実もあってのことだ。
 室内に入ると、滝沢は己の腕の中で無機物のように固まってしまっている亮を用意されていた小さな簡易ベッドへ乗せ、奥の壁面から伸びている二本の鎖を亮の手枷と首枷にはめ込んでいた。
 全てがあらかじめガードナーと打ち合わせた通りである。
 両腕を緩く上部に引っ張られ、犬のように首輪でつながれた少年は、自分の身の上に起こっている事態が理解できないように、ただただ震えながら滝沢を眺めていた。
 精神の退行に合わせ小さな容姿をした亮は、陶製の作り物のような手足を精一杯縮こまらせ、零れそうに瞳を見開いている。
 その怯えきった愛らしい顔も、震えるしなやかな身体も、滝沢の欲望を刺激して止まない。
 滝沢は乾き始めた唇を一舐めすると、ベッドの上ににじり上がった。
「さあ、亮さん。ようやく準備が出来ました。これから滝沢と二人、大切なお勉強の時間です」
 亮は滝沢の言葉にびくりと反応すると、萎えた手足で身体を後ろへいざらせながら、何度も首を振る。
「ゃ、ぃゃ……、とぉる、おむかえ、くるもん。さいけつおわったら、がーどなーさんが、おむかえよんでくれるから、とおる、たきざゎと、おべんきょうしないの!」
 必死に言い募る亮に、滝沢は大人げないほど甲高い声で笑っていた。
「ヒハハハッ、お迎え、ですか。誰が迎えにくるっていうんです? そんなもの来ませんよ、亮さん。あなたみたいなバカでどうしようもない子は、本当はみんないらないと思ってるんですよ。だからたとえガードナーが迎えの連絡をしたとしても、誰もあなたを迎えになど来ません」
「っ――、ぅそっ、そんなこと、ないもん! シィもしゅーにぃも、とおるのこと、むかえにきてくれるもん!」
「嘘なものですか。あなたのせいで修司さんはお父様を会社から追い出し、縁を切ってしまった。そしてシド=クライヴはあなたのせいでIICRから再び睨まれている。そんな状況なのに、どうせあなたは二人にたくさんワガママを言ったのでしょう? なんでも、はい、はいと言うことを聞かなくてはいけないのに、あれは嫌だ、これは嫌だ、ああして、こうして――そりゃあ誰でもあなたのことなど嫌になりますよね?」
 悪魔のような滝沢の囁きに、亮は泣き出しそうに唇の端を下げていた。
 亮の脳裏に、アイスを食べたいとワガママ言ったことや、お仕事行っちゃ嫌だとシドを困らせたこと。修司にお泊まりしていってとせがんだことや、ピーマンを食べたくないと泣いたことが思い出されていた。
「――とぉるのこと、むかえにきて、くれるもん……」
 必死に奮い立たせて抵抗していた亮の声が、次第に力なく小さくなっていく。
「いいえ。誰も来ませんよ。あなたみたいなバカで我が儘な子など、もう誰も顔も見たくないと思っています。みんな、イライラしながら仕方なく面倒見ていただけなんですから」
 亮の大きな瞳に涙の雫がみるみる浮かび上がってくる。
「……、ぅぇっ――」
「泣いてもどうしようもないですねぇ。全部自分のせいでしょう。いつもそうやって、嫌なことがあったらすぐ泣いて。そうすれば許してかまってもらえるとでも思っているんですか? 高校生にもなって、しかも男の子であるあなたが甘えた声ですり寄って、泣いて見せたりして気持ち悪い――そりゃあ誰だって見ているだけで腹が立ってきますよね」
「っ、ぇぇぇっ、ぇっ、――ぇくっ、ぇっ、」
 何とか涙を止めようと我慢をしているようだが、後から後から亮の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
 泣いてはいけないという思いが、かえって何度も亮の喉を引き攣らせる。
 そんな亮の姿に、滝沢は己の下半身に疼くほど血が溜まっていくのを感じていた。
「ああ、本当にイライラさせますね、あなたは。よく修司さんもシド=クライヴも我慢して世話していたもんだ。あなたは捨てられて当然なんですよ、亮さん。見ているだけでムカムカしてくる」
「ひくっ、ぇぐっ、ぅぅっ、ぇっ、ぇぅっ、」
 滝沢は、鎖に吊られ泣き濡れる亮の頬へ顔を寄せると、長い舌でべろりと涙をこそげ舐めた。
「そんなあなたを教育し直してあげようと言うんです。滝沢にもっと感謝してもらわなくては――」
 亮はもはや滝沢の手から逃れる仕草を見せない。
 そんな気力もなくしてしまうほどに、亮はうちひしがれてていた。
 自分は大好きな人たちに、迷惑を掛けることしかしない。
 自分がダメだから、誰も自分をいらない。
 誰も自分を迎えになど来ない。
 そのことだけが亮の中でぐるぐると凝り固まり、ただ滝沢にされるまま涙をこらえるしかない。
 幼い頃から亮の奥深くに根付いている『置いて行かれたまま誰も迎えに来ない痛み』が、今また亮の全身を冷たく満たしていた。
 滝沢は必死に涙を我慢し俯いて喉を引き攣らせている亮の胸元に手を伸ばすと、シャツのボタンを一つずつ、楽しむように丹念にはずしていった。