■ 3-24 ■


 光が、溢れた。
 亮の細い腕から。小さな足から。幼い胸から、泣き濡れた顔から――
 金の輝きが少年を包み込み、覆い尽くしていく。
 それと同時にその輝きはしなやかに大きさを増し、まるで熟練工のガラス細工のように美しく、黄金の身体を成長させる。
 伸びやかに、しなやかに、幼い少年は十五の亮へ――。
 少年を縛っていた腕の鎖も首の枷も飴のように溶けさり、亮はすらりと伸びた手を前方へ伸ばし、足はベッドを蹴る。
 ふわり――と、少年は飛んだ。
 その瞬間、彼を包む輝きと同じ黄金の光点が少年の羽織るシャツ越しに背へ湧き出し、瞬く間に大きな金の翼を作り出す。
 亮は一度ふるりと身を震わせると、新たに得たその器官を試すように、大きく羽根を広げていた。
 部屋いっぱいになろうかという大きな黄金の翼を、たっぷりと空気をつかんで羽ばたかせると、亮は一気に正面の暗黒へ向かい突っ込んでいく。
 艶やかに光を反射するガラスへ手を伸ばせば、亮の腕は水面へと沈むようにそれを突き抜けていた。
 ソムニア能力によって生み出されたIICRの人工的なセラは、それを上回るポテンシャルの亮のゲボにより打ち消され、何の拘束力も持たない。
 しかし今の亮にはそんな理屈は頭にない。
 ただ、ただ、前へ進みたかった。
 シドを飲み込んだ闇の中へ飛び込み、シドを見つけたい。
 シドに会いたい。
 シドに、シドに、シドに。
 シドと一緒に帰りたい。
 呼吸すらできない漆黒の中。
 天井もなく、壁もなく、ましてや床もない。
 真の無の空間を、亮は何かに導かれるように飛び続ける。
 そしてその目に小さな点が飛び込んでくる。
 己の放つ黄金の明かりに照らされた、深紅の点。
 揺れる朱を見つけ、亮は思いきり手を伸ばした。
 一瞬にして距離は縮まり、深紅の点は、シドの姿をとって亮の前に現われる。
 シドはその輝きに誘われるように、閉じていた目をうっすらと開く。
 煉獄の奔流の中にあって有り得ないその姿を認め、シドは幻でも見つけたように、目の前に現われた黄金の天使にそっと手を伸ばしていた。
 柔らかな頬に指先が触れる。

『シド――、帰ろう。うちに……帰ろうよ』

 亮はその手を取ると、すがりつくように身を寄せる。
 淡く明滅するシドの姿に、亮は自らの唇を噛み破ると、滴る血もそのままにキスをしていた。
 深く、強く、溢れる血を送り込むように、亮は口づける。

 その瞬間――。
 
 風が、吹いた。
 乾いた風が渦を巻き、瞬く間に周囲の闇を吹き散らしていく。
 その風から庇うように、シドは腕を動かし亮の身体を抱きしめる。
 亮も強く、シドの身体を抱きしめた。
 吹き散らされた砂塵の如く闇は黒を失い、不意に身体へ重力がかかる。上下の概念がそこに生まれていた。
 落下の感覚が二人を襲い、次の瞬間柔らかな白の上に投げ出される。
 目を開けるまもなく、ギシリと聞き覚えのあるスプリングの音がした。
 心落ち着く懐かしい匂いと、カーテン越しに窓から差し込む柔らかな西日が二人を包み、遠くに聞こえる車のクラクションが妙に心地いい。
 目を開くとそこは、シドと亮の部屋であった。
 ただ一ついつもと違うのは、その白いシーツの上にもカーペットの上にも深紅の薔薇の花弁が無数に散っていること――。
 亮は一番心安らぐ場所で、一番心騒ぐ色に包み込まれ、一番求めた相手の唇に唇を重ねる。
 馬乗りになって上から口づける少年の髪を、シドは愛しげにかき乱した。
 もはや亮はいつもの亮であり、シャツ一枚を羽織っただけのしどけない姿には、黄金の輝きも翼もいつの間にか消え失せている。
 亮は何度もちゅっちゅっと可愛らしい音を立て、自分の血をシドへ与えようと口づけを繰り返した。
 シドはそれに気づくと一際強く亮の唇を貪り、体を上へと入れ替えながら抱きしめた亮に囁きかける。
「もう大丈夫だ、亮――」
「し――、シド、ォレ、シドぉ……」
 亮の大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
 もう言葉も出なかった。
 その代わり、強く、固く、シドにしがみつき、シドは亮の頬をこぼれ落ちる涙を、全てキスで拭っていく。
 まぶたに、頬に、唇に、ひんやりとした唇が落とされ、亮はただ夢中でシドの首に手を回し、髪に手を絡めた。
 柔らかな光の中、自分のすぐ目の前でさらさらと揺れる鮮やかな朱に、欠けていた亮の心が修復されていく。
 懐かしい煙草の匂い。
 自分を映す蜂蜜色の瞳。
 無骨で大きい手と、美しく整った指先。
 低く強い滑らかな声。
「シド――、っ、シド」
 まるでそれしか言葉を知らぬように亮はシドの名を呼び、シドはそれに応えるように深くキスをする。
 たっぷりと与えられる濃厚なアイスクリームのような口づけに、亮は自身がとろけそうな熱い息を吐いた。
 シドの手が羽織っただけの亮のシャツの内側に入り込み、少年の存在を慈しむようにそろりと肌をなぞっていく。
「――ぁ」
 脇腹から胸元にかけて撫で上げられると、亮はひくりと身体を硬直させ、揺れる黒瞳でシドを見つめあげた。
 シドはそんな亮にもう一度小さく触れるだけのキスを与えると、上半身を起こし、重たいコートを脱ぎ捨て、面倒だとでも言いたげに片手で己のシャツのボタンを引きちぎる。
 均整のとれた彫刻のような身体がシャツの合間から覗き、亮は呆とした表情でその白い肌へ腕を伸ばしていた。
 部屋中にまき散らされた真紅の花弁が鈴を振るような涼しげな音を立て、次々と凍り付いては弾けていく。
 セラ内でのシドの力は現実の比ではなく、差し込む夕日のオレンジすら凍らせてしまいそうなほど空気は鋭く透明に尖りはじめる。
 だが、二人が寄り添うベッドの上だけは別世界であった。
 亮を中心に柔らかな暖気が二人を包み込み、シーツに散らされた花弁は匂い立つほどに瑞々しい。
 シドの能力が本来の力を取り戻すセラ内で、同じく亮もゲボとしての本来のポテンシャルを取り戻す。
 カラークラウンまで勤めた男の力を、亮は完全に還元させていた。
 ダイヤモンドダストのきらめきに黄昏が差し込み、まさに金の砂塵に埋め尽くされた室内の中、そこだけは二人を緩やかに祝福しているようであった。
 シドが少年の身体を抱き寄せてやると、亮は指先に触れた固い筋肉のうねりと滑らかな肌の感触に唇を寄せる。
 今まで亮が触れたことのないシドの白磁の肌に、亮は口づけをし、まるで彼が自分の所有物であるかの如く印を刻む。
 右鎖骨の上に付けた花びらの如き赤に頬を寄せればシドのアルマの鼓動が聞こえ、もうこのまま溶けて一つになってしまうのではないかと思うほど、亮は強く抱きしめられていた。
 お互いの肌でお互いを感じあい、ひんやりとしたシドの体温を己の熱い身体で受ける度、亮の中で暗く何も見えなかった息苦しい闇が取り払われていく。
 亮の中で狂おしい熱が燃えていた。
 息をすることすら忘れるほどに、瞬きする間すら惜しむほどに、シドを感じたい。シドを強く抱きしめたい。
 それはシドも一緒であった。
 亮を己のものにするという考えはなぜか浮かばなかった。ただ亮を感じ、二度と離れることがないほど身体を固く結びたい。
 お互い言葉すらなく、その腕で指先で体温で何もかもを伝え合う。 
 シドの手が亮の肌を滑り降り、そろりと下肢に潜り込む。
 太股から中心に向けてゆっくりと這わされる指の感覚に、亮はふるりと身体を震わせ、小さく声を上げていた。
 シドの指も唇も亮がどうされれば気持ちがいいか、全て知り尽くしている。
 シドが唇で亮の胸の飾りを軽く咥え、舌先でいらいながら亮の幼い花心を手で包み込み上下に刺激する。
「……ぁ、」
 口を突いて零れる甘い吐息を隠すこともせず、亮は自分の胸元で揺れるシドの頭をかき抱いた。
 シドの手が更に激しく亮を責め立て、次第にそこから官能的な水音が聞こえ始めていた。
「っ、ぁ、ふぁ、し……」
 亮は自分でも恥ずかしいほど乱れ、自ら腰を揺すり始める。
 シドの髪に指を絡め離そうとしない亮に、シドはそのまま自分の育て上げた少年の胸の尖りに歯を立て、強く吸い上げてやる。
「ひぅっ」
 シドの腕の中の少年の身体が一度びくんと跳ね、手の中の熱い幼根がさらに大きく膨れあがり、びくびくと顫動を繰り返し始める。
 シドは亮に見せつけるように唇を離すと舌先で尖った胸の先端を弾きながら、手の中の亮のそれを強くしごきあげていた。
「ゃ、っ、ひぁぁん!」
 亮はびくんと腰を波打たせ、あられもない声を上げて熱い迸りをシドの手の中へ放つ。それと同時に一気に力が失せたように、しがみついていたシドの頭を解放していた。
 ぷるぷると子犬のように震える亮の身体を愛しげに眺め下ろし、シドは亮の足を大きく開かせると抱え上げ、たった今放ってひくひくと痙攣している少年のそれに舌を這わせる。
 片手は、抱え上げた亮のしなやかな足を優しく撫で、もう一方の手は亮の放った白濁液を絡ませたまま、先ほどから誘うように収縮を繰り返している淡い色の窄まりに潜り込ませていく。
「ん……」
 悩ましげに眉をひそめ侵入する衝撃に耐える亮の表情は、匂い立つほどに艶めかしい。
 シドの指が何度も出入りし、次第に本数を増やす。
 亮の一番いい場所を爪先で焦らすように擦り上げ、敢えて音を聞かせるかのように唇は亮の屹立を吸い上げる。
「っ、ぃぅっ、――、ん、は、っ、シドぉ」
 亮が涙混じりで切羽詰まったようにシドの名を呼べば、シドはその勢いを緩め、唇を離すと、折り曲げた亮の身体に覆い被さり亮の頬や唇にキスを落とす。
 その度に亮はシドへと腕を伸ばし、甘えるようにしがみつく。
 何度もそうやってシドは亮を愛し、亮はシドの冷たい指先に翻弄された。
 次第に亮の息はあがり、耐えきれない熱を身体が帯び始める。
「し――」
 何度目かのキスの後、亮が溢れる吐息混じりにシドの名を呼んだ。もうどうしようもない。――そう身体が言っているようだった。
 シドは何も言わず触れるだけのキスをすると、潜り込ませていた指を引き抜き、代わりにゆっくりと己の腰を沈めていく。
「っ、ぁ――」
 その質量と、凍えるイザの能力が亮の中にずっくりと埋め込まれ、狭い内部を貫いていく。
 亮は穿たれるシドの楔に、耐えるように歯を食いしばると声を殺してぶるぶると震えた。
「――亮、力を抜け」
 抱きしめられたまま、シドの甘い声が聞こえる。
 自分の名を呼ぶその声に、亮は震える瞼をあげると、シドの顔を見上げる。
 シドの琥珀の瞳も、亮の顔を見つめていた。
 亮の身体から安心したようにふわりと力が抜ける。
 その瞬間――。

「――ひぁっ!!」

 音を立てるほど亮の肉を擦り上げ、シドの屹立が一気に最奥まで突き上げられていた。
 その衝撃に亮の身体が反り返り、それをおさめるようにシドは強く亮を抱く。
 亮のこわばりが解けるのをそのままの状態でしばらく待ち、シドは再びゆっくりと動き始めていた。
 熱く固い氷柱が己の中を蠢き突き上げるのを、亮は全身で感じる。
 今自分はシドとつながっている――、そう感じるだけで亮の世界は丸く完璧な球体となり、欠けたもののない充足感で満たされていく。
 半年前、滝沢の元から救い出された亮がGMD治療を施すシドにいつも感じていた罪悪感。汚らしい自分を責めさいなみ、今まで感じたこともないシドへの混乱した想いに狂ったように叫びだしたかったあの日。
 セブンスで、シドの居るこの場所を守るため、やれるだけのことをやろうと決めた瞬間と、必死に歯を食いしばり全てを受け入れた日々。
 それら全部が奔流の中で溶け去り、朽ち果てた粘土のようにボロボロと崩れていた亮の心が、朝露に濡れた純白の花に生まれ変わり瑞々しく開いていく。
「シドぉっ――、ぁ、ぉく、ォレ、ぉくにぃ……」
 次第に滑らかに動き始めるシドのものに、亮は自らも合わせるように腰を動かした。
 亮が身体を弾ませる度に、ベッドに散らされた深紅の花弁が舞う。
 ひたすら二人の結合の水音だけが、部屋の空気を綴っていた。
 乱れる亮の様に、シドの息も徐々に上がっていく。
 亮の腰を抱え、もっとも感じる場所を強く何度も突き上げると、亮は声すら出せず身体を震わせシドの腕にしがみつく。
「シ、も、ォレ、も――、っ、」
 涙を零しつつ限界を訴える亮に、シドは一際大きく腰をグラインドさせると、ゴリリと内壁を擦り上げ亮の奥へ己の物を突き立てる。
「っ、ぁっ、ふぁあああっ!!!!」
 亮の腰ががくんと前へ突き出され、快楽の迸りが二度三度と吹き上げられた。
「――っ」
 それと同時に、シドもぐっと切なげに眉根を寄せ、亮の中へたっぷりと白濁液を注ぎ込む。
 亮は注ぎ込まれたシドの冷たい熱に、ぞくりと身体を震わせると、何度か身体を痙攣させる。
「……シドの、ぁっぃ――」
 ぐったりとして熱い息を吐く亮を抱きしめると、シドは薄く開かれた唇に己の唇を重ねていた。
 亮はそのキスに安心するように腕を伸ばすと、深く甘いアイスクリームを要求する。
 シドはそれに応えてやりながら、背に回した手で亮の肩胛骨のラインをたどり始め、再び更に下へと指先を伸ばしていく。
 何度も、何時間も、二人はばかみたいに同じ行為を繰り返した。
 疲れては眠り、目を覚ませばひたすらお互いを感じ合う。
 二人は二人だけの永遠の黄昏の部屋で、飽くことなく解け合い続けたのだった。






「渋谷さん! 亮は――、亮はいつ目を覚ますんです!?」
 事務所内のソファーに寝かされた亮のそばにかしづき、修司はその手を握ったまま離そうとしない。
 夕刻を過ぎ運び込まれた亮は、シドのサポートから離れられない秋人の目が届くようにと、四階の寝室ではなく、事務所のソファーへ横にされていた。
 今日の夕方IICRから戻ったばかりの壬沙子も、地下のシールドルームに籠もり、自らの手で己のアルマからタグを引き抜いたレオンの治療のためベースセラへ入り込んだままだ。
 ここにきて一時間半。事務所はそれぞれがそれぞれの役割をこなすためフル稼働であり、少しの予断も許さない状況が続いている。
「二時間ほど前、シドと接触は取れたはずです。そう連絡はありました。ですから必ず――」
「だったら早く亮を助けてください! 二時間前と言えば、セラ内では何十時間もたっているのでしょう!? どうしてクライヴさんと接触していながら、亮の意識は戻らないのですか!? クライヴさんは何とおしゃってるんです!?」
「それは――、その……」
 秋人はそこで口を閉ざした。
 確かに二時間前、シドから『亮を見つけた。今から連れて帰る』とのコールが掛かった。しかし、その後連絡はぷっつりと途絶え、いくら秋人から呼び出しを掛けようともシドは一向に電話を撮る気配を見せない。それどころか、その十五分後には呼び出すためのシド側端末さえ消失してしまっていたのだ。
 もちろん、シドと仕事を組んで長い秋人にしてみればこのようなことは日常茶飯事とは言わないまでも、三ヶ月にいっぺんくらいはやってくる恒例のイベントのようなものだ。
 しかし今回は少々状況が違う。
 助ける相手は依頼人ではなく、あのシドが保護欲を剥き出しにしている亮であり、潜っている場所はIICR管轄の旧研究室である。秋人にも否応なく不安がよぎる。
 しかもそれをこの悲壮なほど狼狽している修司に告げられるかと言えば、正直苦しいところだ。
 シドからの連絡待ち回線画面を眺めつつ言葉を濁す秋人に、修司が顔を上げ、重ねて問いかけようとしたその時である。
「しゅう、兄……」
 吐息混じりのぼんやりとした様子の声が、ソファーの上から聞こえてきたのだ。
 反射的に下を見た修司は、弟の目が開かれ、はっきりと修司の姿を捕らえていることに気づき、握った手を更に強く握りしめ思わず息を詰まらせる。
「とお、る? 兄ちゃんがわかるか? ん? 気分はどうだ?」
 安堵のため震えそうになる声を必死で抑え、修司は弟の頬を撫でながら声を掛けた。
 亮はその手の感触に安らぐように瞬きすると、今度はもっとしっかりとした声で先を続ける。
「なんで? なんで、しゅう兄が、ここに……」
「亮のこと渋谷さんから聞いてな。兄ちゃん心配で飛んできたんだぞ」
「渋谷……。秋人、さんから? ……ここ、どこ?」
 状況が全くつかめていない様子の亮は身体を起こしかけ、慌てて修司に止められる。
「亮くーん、どうかな、具合は。自分のお名前、言えるかな?」
 目覚めた亮の意識確認のため、秋人はパソコンを遠隔認知に切り替えると足早にそばへとやってくる。
亮は自分を覗き込むその顔を不思議そうに眺めながら「成坂 亮」と小さく声に出していた。なんでそんな分かり切ったことを聞くのかといぶかしんでいる様子だ。
「それじゃ、もう一問。今日は何月何日でしょう」
「そんなの決まってるじゃん。今日は六月……、あれ? 十月? ……えーと、あれ???」
 目を伏せて考え込んでしまった亮に秋人は水を勧めると、手早く体温やら血圧やらを計測する。
「いいよ、今は混乱してるんだ。深く考えないで。リラックスしてればすぐにちゃんと戻ると思う」
「……うん。そう、する。オレ考えるのあんま得意じゃないし」
 そう言うと一口飲んだペットボトルから口を離し、自分を支えてくれていた修司の腕へぐったりと寄りかかる。
 一応意識ははっきりしてきたものの、まだ亮の体力は削られたままのようである。
 そしてもう一つ。今まで顕著に表れていた亮の退行症状が消えている。今の会話を聞き、秋人はすぐにそう判断していた。
「渋谷さん、亮は――」
 修司もそれを敏感に察知したようだ。
 秋人はそれにうなずいてみせる。
「もう大丈夫です。ただ、亮くんの身体はとても疲労しています。上へ連れて行って休ませてあげてください」
 修司はうなずき返し亮の身体を抱き上げていた。
 それに慌てたように亮が身体を波打たせる。
「ちょ、しゅう兄、いいよ、オレ、歩ける、恥ずかしいよ」
「こら、大人しくしろ。いいから兄ちゃんの言うこと聞いてろ。ん?」
 有無を言わさぬ兄の迫力に亮はあきらめた様子で身体を預けると、そこで改めて事務所を見渡していた。
「シドは? 仕事?」
 先ほどまですぐ近くにいた気がした。
 すぐそばでひんやりとした体温を感じていた気がした。
 だが目覚めた今、周囲にその影がない。
 亮のセリフはそこで初めて不安の響きを帯びる。
「シド、ちゃんといる? ここに、居るよな?」
「ああ。大丈夫。ちゃんといるよ。もうすぐ上がってくるはずだ。だから亮くんは安心してゆっくり休んで」
 秋人は小さく微笑むと、修司の腕の中安心したように身を任せた亮を見送っていた。