■ 3-3 ■



 午後一時。
 事務所の扉が勢いよく開かれると、目つきの悪い高校生が勢い込んで飛び込んでくる。
 亮の幼なじみで同級生、西田俊紀である。
 土曜日である今日は学校が半日だったのか、それとも完全にさぼったのか、とにかくまだ太陽が真上にある時間帯に、彼は訪れていた。
「ととっ、亮、戻ってきたんだって!?」
 正面デスクについて仕事をこなしていた秋人は、すぐさま口元に指を添えると、声のトーンを落とすように促す。
「ちょ、あんまり大きな声出さないで。亮くんが驚いちゃうから――」
「は? 何言ってんすか、亮がなんで驚く――」
 不審げに眉をひそめ言いかけた俊紀の前に、コーヒーを手にした壬沙子が給湯室から現われ、それを追い掛けるように、幼なじみで腐れ縁の成坂亮が駆け寄ってくる。
 そこまでは何事もなく「あ、亮、戻ってきたんだな」と安堵の表情で眺めていた俊紀だが、その後、信じられない衝撃映像が彼の目に飛び込んでくることになる。
 カップを秋人のデスクに置いた壬沙子の背中へ、こともあろうに亮は飛びつき、壬沙子におもいきり抱きついたのだ。
「――っっっ!!!!!!!!!!!!!!」
 両手をガチョーンのポーズで引いたまま固まった俊紀の眼前で、次々とめくるめく世界が展開される。
「こらっ、だめでしょぉ、亮くん。コーヒー零れちゃう」
 振り返って優しくたしなめる壬沙子に、亮はさらにじゃれつくと、自分よりずっと背の高い壬沙子の首に腕を回し胸元に頬をすり寄せる。
「みみ、壬沙子さんのむむ、むねに、くわぉをっ!!!!!!!!!!!!!!」
「ミサぁ、とおる、もっとミサのプリンたべたいなぁ」
 俊紀の目が通常の三倍くらいに見開かれた。
「みみみ、壬沙子さんの、プリン!?!?!?!?!?って、なに、どこ!?」
「まぁ。亮くんは甘えんぼさんね。しょうがない子だこと。――じゃあ、今日は特別。あとちょっとだけよ?」
 優しく髪を撫でながら、壬沙子の紅い唇が奏でるのはセクシーなアルトボイスだ。
 その囁きを扇の如く広げた耳で聞き取った俊紀は、「プッ」と見事な噴出音と共に右小鼻から血を吹き出すと、ゆっくりと後ろへ倒れ込んでいた。

 気がつけば、俊紀は応接用のソファーに寝かされている。
 状況が理解できず、ぼんやりとした寝ぼけ眼で、ぎょろぎょろと辺りを見回した俊紀の視界に、自分を興味深げに覗き込む、幼なじみの顔が映っていた。
 そこで改めて先ほどの衝撃の光景が脳裏に蘇ってくる。
 俊紀は唐突に俊敏な動きで身体を起こすと、床にしゃがみ込んで自分の顔を見ていた亮の肩をがっしりとつかんでいた。
「と、亮っ、どういうことだ! 貴様、俺の気持ちを知っていながら、みみみ、壬沙子さんのぷぷぷぷりんとやらをっ、久しぶりだからって、やっていいことと悪いことってのが――」
 ぴくりと亮の身体が竦み上がる。
 ソファーの上で正座した三白眼のやたらガタイのいいヤンキーが、目を見開いて自分の肩を鷲づかみし、唾を飛ばして怒鳴りつけているのだ。
「・・・ぅ、ぅぇ」
 最初は驚きのあまり固まっていた亮だが、次の瞬間、大きな瞳が涙で洪水のように波打ち始める。
 それに驚いたのは俊紀だ。
 びっくりして手を離し、そのままの体勢で亮をただ眺めるしかない。
 まるでF1のピットクルーがタイヤ交換をし終えた瞬間のようである。
「あらあら、どうしたの、亮くん。お兄ちゃんが、怖かったかなぁ?」
 途端に壬沙子が駆け寄ってくるとひざまずき、怯えながらもぐっと涙をがまんしている亮をそっと抱き寄せていた。
 亮はそれにすがるようにしがみつき、そこでやっと「ぅぇぇぇっ」と泣き声を上げ始める。
 壬沙子はその背を優しく撫でながら、困ったような顔で俊紀を眺めていた。
「あの、その、オレ、亮、なんで、泣いて、つまり、その、」
 意味を成さない言葉の羅列しか、今の俊紀の口からは出そうにない。
 いつも自分が泣かされる側だったやたら腕っ節の強い幼なじみが自分の前で泣き出し、密かに恋するお姉さんの眼差しは思い切り棘を含んで冷たい。
 何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
「ぇぅっ、トシキが、おこったぁ〜! とおるが、ミサのプリンたべたから、トシキ、おこったのぉ!」
 泣きながらしゃっくりの合間に告げられる亮の言葉に、あやしていた壬沙子の表情に驚きが混ざる。
 俊紀の名を、亮はここに来てから一度も聞いていなかったはずだ。
「――亮くんは悪くないでしょ? だから泣かなくていいのよ。ほら、あっちでジュース飲もうか。ね?」
 しゃくり上げる亮を立ち上がらせると、壬沙子は亮を連れて給湯室へと消えていく。
 それを呆然と見送っていた俊紀は、苦笑しながらコーヒーをすする秋人に、ようやく事情を聞くことが出来たのだった。


 
  
「そうスか。薬のせいであんな――」
 滝沢に捕らわれていた事件で非合法薬物を使用されていたことのみを知っていた俊紀に、秋人はその薬の後遺症で現在のような退行現象が起きていると説明していた。
 この三ヶ月は治療のために海外へ行っていたという解説も同時になされ、俊紀は夏休みから亮の姿が見えなくなっていた状況も、一応は納得したようであった。
 今の亮は俊紀が出会った頃の彼より、さらに幼い印象を受ける。小学校五年生から亮を知る俊紀にとって、この現実はとても辛いものであった。
「だから一応学校にも休学願いを出すつもりなんだけど――、亮くんの意識や記憶が元に戻り次第、復帰させてあげたいと思ってる。俊紀くんには、その時サポートしてもらえたらありがたい」
「もちろんスよ! オレ、亮には世話になりっぱなしだし、あいつはオレの命の恩人っつーか……。とにかく、できることは何でもしますよ、オレ。――あいつがオレのこと怖がるなら、しばらく顔、見せないようにしますし……」
 先ほどの自分の行動を思い返し、俊紀の中に凄まじい後悔の嵐が吹き荒れる。
 こんな大きな体の男にあんな風に肩を揺すられ怒鳴りつけられたのだ。きっと小さな亮はものすごく怖かったに違いない。
 それでもぐっと泣くのを堪えていた亮の顔が目に浮かび、俊紀は自己嫌悪で座ったソファーごとずぶずぶと床へ沈んでいきそうな気がした。
 しかし――
「トシキ。はい、どうぞ」
 暗黒の靄の中、両膝に肘をかけがっくりうつむく俊紀の前に、ふいに黄色くてぷるぷる揺れる艶やかな何かが差し出されていた。
 驚いて顔を上げると、そこにはにっこり微笑んだ亮が、ガラスの器に飾られたひよこ色のプリンを持ってしゃがみこんでいる。
「――ミサのつくったプリン、おいしいよ?」
 まだ少しだけ潤んだ大きな瞳でくるんと見上げてくる亮の表情に、今度は俊紀の三白眼が怒濤の如く潤んできた。
「お、おう――」
 それだけ答えると、俊紀は亮の手から器を受け取り、添えられた銀のスプーンでむしゃむしゃとプリンを頬張り始める。
「トシキも、プリンすき? とおるも、プリンだいすき」
 嬉しそうに笑顔を浮かべ、無邪気に見上げてくる亮の背中には真っ白な羽根でも生えていそうな具合だ。
――ちくしょおっ! ちくしょおっ! オレはなんて薄汚れた人間なんだっ! プリンっつったら、プリンしかねぇだろーが、このドスケベ男がぁっっっ!
「とおるっ、ごめんな、オレ、ほんと、ごめんなっ――もう、オレ、しばらく来ないから、な?」
 謝り続けながら流し込むプリンの味はなぜか少し塩味がした。
「どして? どしてトシキ、こない? がっこ? おべんきょ?」
 プリンを食べ終わり、スプーンと器をテーブルに置いたトシキは、カラメルでてかった唇もそのままに、哀しそうに見上げる亮の顔を見返していた。
「どうしてって――そりゃおまえが……」
「とおるのプリンもあげる。だから、トシキ、あそびにきて? だめ?」
 床の上にちょこんと座ったまま切なげな表情で首を傾げてみせる亮に、俊紀は思わず両の小鼻をぷっくりと膨らませる。
「おまえ、オレのこと、怖くないのか? き、嫌いなんじゃないのかよ」
「とおる、こわくないもん。トシキはとおるの、シンユーだから、だいすきだよ?」
――親友! 大好き! き、き、嫌われてなかった!
 小鼻を膨らませたまま、俊紀の目が幸福そうに閉じられる。
 普段の亮なら絶対に言わないようなセリフが、次々と真っ直ぐに飛び出してくる。
 亮には申し訳ないが、今まで感じたことのない幸せな瞬間だ。
 白い羽根を持った亮の周りに、さらに金色のオーラが輝いているように見えるのは気のせいだろうか。
「亮くんもこう言ってるし、またいつでも遊びに来てあげて、俊紀くん。亮くん、あなたのことは覚えていたみたいよ? きっとあなたの存在を、本当に大事に思ってるのね」
 近づいてきた壬沙子が亮の脇に手を差し入れ軽く抱き上げると、俊紀の横に座らせる。
 亮は俊紀の返事を待ち、少し不安そうな眼差しで見つめていた。
「じゃ、じゃあ、あれだ。お、おまえがオレの子分になるなら、遊びに来てやっても、いい――かな」
――のわぁっ! オレはなな、何を言っているんだ! バカか、バカかオレはっ!
 自分で言って自分の言った言葉に、俊紀は愕然としていた。強がって素直になれないのも程がある。
 こんな小さな亮に対して、何を今さら照れ混じりにくだらないことを言っているのか。
 己の頭をたこ殴りにしたい俊紀の横で、しかし亮は嬉しそうに微笑むと「うん!」と元気に返事をしていた。
「とおる、トシキのこぶんになる!」
 俊紀はなぜか泣きそうな顔でバビュンと振り向く。
「いや、別に、無理にとは言わないんだが。む、むしろ、オレが子分でもいいっていうか――」
「やだよ! もう、とおるがさきに、こぶんになったんだもん、もう、こぶんはとおるのだもん!」
 どうやら意味もわからず、子分という音の響きが気に入っただけのようだ。
「あのな、亮。子分ってのは、親分のオレの言うこと、きかなきゃだめなんだぞ? それでもいいのか?」
「いいよ。トシキのおてつだいとかするんだよね?」
「まぁ、そうだな」
「とおるは、トシキのこぶんになったよ!」
 得意げに両手を挙げて主張するその姿に、俊紀は思わずシュシュ目になるのを抑えきれない。
「アキは、シィのこぶんだから、とおるといっしょだね?」
 不意に話を振られて、カップに口をつけていた秋人がぶっと黒い飲み物をモニター画面に吹き付ける。
「いや、あの、ね、亮くん。むしろ、僕が社長なわけで――」
「トシキ、たのむよぉ〜、もお、かんべんしてくれよぉ〜」
 何とか誤解を解こうとする秋人のことなどすでに意識の外で、亮は彼なりに真剣に子分を演じているつもりのようだ。
 その名演技に、画面を拭こうとティッシュに手を伸ばしていた秋人は硬直し、傍らで見ていた壬沙子は声を立てて笑い始める。
「やだ、似てる! 亮くん、子分の才能あるんじゃないかしら」
「・・・。この事務所、けっこう複雑な人間模様なんスね」
 俊紀はそんな光景に、率直な感想を漏らしていた。

















 大きなピンク色のウサギ。
 まん丸の目をした笑顔のウサギは、真っ赤な風船を手に、草原の真ん中で立っていた。

「こんにちは、亮くん」

 ウサギが言った。
 湿った風が一度、大きく吹きすぎ、背中から亮の白いシャツをはためかせる。
 ちょっと遠くにいたウサギの声は、それでも亮の耳にしっかりと届いていた。
 水色の空の中、ゆらゆらと紅い風船が揺れている。
 亮はその風船が欲しくて、ウサギのいる方へ歩き出す。

「こんにちは、亮くん」

 ウサギがもう一度言った。
 しゃべってもウサギの口は動かない。
 ふさふさと毛に覆われた口元は、マンガのキャラクターのように大きく笑顔で固まったままだ。
 亮は大きな目をぱちくりさせると、
「こんにちは、ウサギさん」
 と、返事をした。

「きみは、成坂 亮くん?」

 ウサギが聞いた。
 笑顔のウサギは、もう亮のすぐ目の前に立っていた。
 近づくととても大きなウサギだと言うことがわかる。
 大きな顔。大きな手。青いオーバーオールを着たずんぐりとした胴体。
 ピンと伸びた耳の先を合わせると、シドよりきっと背が高いんじゃないかと、亮は思った。
 亮はそんなウサギを見上げると、コクリとうなずいてみせる。

「そうか。きみが亮くんか。高校生と聞いたから、ボク、もっと大きな子かと思ったよ」

 確かに、亮の姿はいつもよりもう少し小さくなったように見える。
 大きめの白いシャツに黒のショートパンツを履いた姿は、少なくとも中高生には見えず、ウサギの意見はもっともだと言ったところだろう。
 しかし当の亮本人にはそんなことはわからない。
 ウサギの言葉にちょっとだけ腹を立て、少年は可愛らしくぷうっとふくれてみせる。
「とおるは、こーこーせいだから、もうおおきいよ!」
 亮の反論に、ウサギは楽しそうに笑い声をたてて身体を揺すると、亮の視線に合わせてしゃがみこむ。

「ごめんごめん。じゃあおわびに、この赤い風船をあげようね。これで、許してくれるかな?」

 太いウサギの腕に巻かれた風船の紐を受け取り、亮は上へ自分の手を引くふわふわした物体を、嬉しそうに見上げた。
「うん。ありがとう、ウサギさん」

「また、いつでもおいで、亮くん。今度はもっといっぱい風船をあげる」

「ほんと? もっともっと風船くれるの?」

「ああ、もっとずっといっぱいだよ? 亮くんがお空を飛べるくらい、いっぱいあげる」

「おそら、とべるの!? すごい! とおる、またくるよ!」
 亮は目を丸くすると、興奮気味に言葉を返す。
 しかし、それに対しウサギは秘密めかしたように人差し指をたてると、そっと亮の唇に当ててみせた。
 ウサギの指先は温かくはなかったけれど、黒板消しの裏みたいにフカフカパサパサしていた。

「ただし、これはボクと亮くんの秘密だよ? 誰にも言ったらだめだ」

「だれにも? シィにも?」

「ああ。シィにも言ったらだめ。風船が卵みたいに割れちゃうから」

「しゅう兄にも?」

「ああ。しゅう兄にも言ったらだめ。風船が鉄の玉より重くなっちゃうから」

「しゅらにも?」

「ああ。しゅらにも言ったらだめ。風船が朝顔の花みたいにしぼんじゃうから」

「そっかぁ。でもとおる、ひとりでおそらとんでも、つまんないよ……」
 だめだめ尽くしでしょんぼりと下を向いてしまった亮に、ウサギは陽気に首を振って提案をしていた。

「亮くんが、お空を飛べるようになってから、みんなに教えてあげたらどうかな? 一度飛べるようになれば、もう風船は割れないよ?」

「ほんとに!? シィもしゅう兄もしゅらも、みんな呼べる?」

「ああ。みんな呼べるよ。みんな呼んで、驚かせてあげればいいよ」

 ウサギの素敵な提案に、亮はドキドキと胸を高鳴らせ、もう一度真っ赤な風船を見上げてみる。
 水色の空にぽっかりと浮かび風に揺れる風船は、ピカピカ光って、イチゴドロップより綺麗だと亮は思った。
 こんな風船をいっぱい持って、大好きなシドや修司やシュラと空を散歩できたら、どんなにか楽しいだろうと胸の中がいっぱいになる。
「わかった。とおる、ひみつにできるよ? だから、また、ふうせんちょうだいね、ウサギさん」

「必ず、ここにおいで、亮くん。ボク、ずっと待ってるから。キミが来るの、ずっと待ってる。ないしょで、おいで。ないしょで、ひみつで、ボクのところにおいで――」
















「……ぉるくん!? 亮くんっ。目、開けて、亮くん!?」
 ウサギの声も姿も白い靄の中に消えると、瞬く間に亮の周りには光が溢れていた。
 ぱっちりと目を開けた亮は驚いたようにきょろきょろと周囲を見回す。
「良かった、戻ってきたみたいね――」
 身体を起こすと、傍らにいた壬沙子が亮の背に手を添え、それを手伝ってくれる。
 手に触れているのは胸の上にずっと抱えていたタオルケットだ。
 どうやら亮は応接用のソファーの上で、うたた寝をしてしまっていたらしい。
「ミサぁ、おはよ……」
 あくびをしながら背伸びをする亮ののんびりとした様子に、壬沙子は大きくため息を吐いていた。
 壬沙子が気づいたとき、亮のアルマはすでにここにはなく、どうやらどこかのセラへ入り込んでしまっている様子だったのだ。
 気づいてすぐ、慌てて呼び戻したのだが、どのくらい前から入り込んでしまっていたのかわからない。
 セラ内の時間は現実時間の約三十一倍の長さがある。
 たとえ一分程度のセラ侵入でも、あちらでは三十分以上いた計算になってしまうのだ。
 今の亮はソムニアとして自分の身を守る術をもたない、赤ん坊のような状態である。その上彼の種は狙われやすいゲボ種なのだ。
 一人でセラへ赴けば、取り返しの付かない危険な状況に陥ることも考えられる。
「亮くん、おねむの時は、これ、つけようね?」
 秋人がソファーの上に投げ出されたネックブレスを見つけると、亮の首元へ手を伸ばす。
 しかし亮はそれに気づくと、大きく首を振り、両手で秋人の手を突っぱねると、勢い任せで払いのけていた。
 どうやら亮はセブンスを思い出させるその首輪に、酷い嫌悪感を抱いているようなのだ。
 いつも朝、出勤前にシドの手で着けられるときは、渋々言うことを聞いているようであるが、シドの目がなくなると、途端に外してしまう傾向がある。
「いやぁっ! それ、やぁ! とおる、それ、きらいなのぉっ!」
 半泣きで怒りながら亮は抵抗すると、秋人から逃げるようにソファーから転がり落ちる。
 その際にまだ完全でない足下がもつれ、ゴチッとおでこをテーブルの端にぶつけていた。
「ぅぇっ、……ぇぇぇぇぇぇぇっ」
 痛みと驚きと首輪に対する嫌悪感で、亮は泣き出してしまう。
「あああ、ごめん、ごめんね!」
 慌てた秋人が亮を抱き起こすが、亮はその手をすり抜け、反対側の壬沙子の胸へ顔を埋めていた。
「くびわ、きらい! アキも、きらい!」
 秋人の顔面が衝撃に強ばる。
 絵面的には、頭上に『ガーン』という石文字を落とされたマンガの一こまそのものだ。
 壬沙子は秋人のことなどどこ吹く風で、亮の背を撫でながら困惑の表情で、泣きじゃくる少年を見下ろした。
 セラでなくリアルの状態では、壬沙子のダガーツ能力もかなり制限がきつくなる。
 セラ内では魂の隅々まで眺めることの出来る彼女だが、リアルでは人の露骨な思いや考えを読み取ることができる程度である。
 どのセラに潜っていたか、何を見てきたか――、それを探ることができるのは、亮がそのセラのことを強く思い起こしている時のみなのだ。
 今の亮からはセラの記憶などかけらも感じられない。
 それは同時にセラで大きな事件に巻き込まれなかったという安心できる事実を意味するのであるが、それでも亮の行動全てを知っておくに越したことはない。
 とにかく何か起こってからでは遅いのだ。
 しかし今の亮の心の中にあるのは「くびわいや」「きもちわるい」「こわい」「セブンスいや」「いたい」「こわい」「こわい」「きもちわるい」――その繰り返しだけである。
 ネックブレスの与える不安感や恐怖は、亮に凄まじいストレスをかけ続けているらしい。
 あまりに嫌悪感を与えすぎれば、ノックバックの引き金になり兼ねない。
「あー、痛かったわねぇ。よしよし、びっくりしちゃったかな」
 顔を上げさせ、テーブルにぶつけ赤くなってしまった亮の額を優しくさすりながら、ソファーに座りなおした壬沙子は、亮の身体を膝上に抱え上げる。
 それと同時に、化石と化した秋人に目配せをしていた。
 秋人もその意をすぐにくみ取り、亮の目の届かないソファーの下に、ネックブレスをそっと隠す。
「はい。もうネックブレスなくなっちゃったわよ。渋谷くんが手品でどこかに消しちゃった。見てごらんなさい、亮くん」
 壬沙子に背中を撫でられながら言われ、亮はしゃくり上げながらもこわごわ後ろを振り返る。
 そこには本当に手品師よろしく、両手をひらひらさせ、何もないことをアピールしてみせる秋人の輝くような笑顔があった。
「・・・。」
 そのサンシャインな笑顔をいぶかしんだ様子で、亮はさらに身体ごと後ろを向くと、恐る恐る下におり、床にしゃがみ込んだ秋人の周りを覗き込んでみる。
「・・・。ねっくぶれす、ない。・・・アキ、くびわ、けしちゃった?」
 ぐるりと眺めてみたが、あの嫌なネックブレスの姿は影も形もないようだ。
「うん、もう、消しちゃったよ? 亮くんがイヤだって言ったから、アキがチンカラホイって呪文唱えて消しちゃった」
 亮は驚いたように目をまん丸にし、秋人の前にぺたんと座り込んでいた。
「――すごい。アキ、まほうつかいだ。アキは、おいしゃさんなのに、まほうつかいのおいしゃさんだ!」
 亮は大嫌いなネックブレスを消し去ってくれた秋人の偉業に大いに感銘を受けたようだ。
 興奮気味に壬沙子へネックブレス消失を報告すると、テーブルの上に散らかった色鉛筆やクレヨンに、チンカラホイ、チンカラホイとさかんに呪文を送り始める。
 その様子を鼻の下の伸びきった顔で眺める秋人をよそに、壬沙子は一人、深刻な表情で考え込んでいた。
 これについては、少しシドと相談する必要があると、そう思ったのだった。