■ 3-5 ■ |
シドが部屋に帰った時、既に亮は照明の落とされた寝室で眠りの中に落ちた後であった。 時刻はもうすぐ次の日が訪れるかという、深夜零時近くである。 「すいません、お邪魔してます」 寝室の扉を開け細い明かりを逆光に入り込んできたシドに対し、修司はいつものように挨拶をした。 シドは無言のまま近づくと、欲張りにウサギのぬいぐるみとタオルケットを同時に抱え込み、ご満悦ですやすやと眠る亮の顔へ視線を落とす。 「クライヴさんが戻るまで起きていると、さっきまでがんばっていたんですが」 ベッドの隅に腰を落とした修司は、愛しげに亮の前髪をかき分けた。 「食事は渋谷さんたちが作って食べさせてくれたそうです。お風呂も入れて歯磨きもさせましたから、このまま眠らせます。あ、キッチンをお借りしてシチューを作っておきましたから、明日の朝はそれを温めて食べさせてやってください。少し多めに作っておきましたので、よろしかったらクライヴさんもどうぞ」 「わかった」 修司は亮の額に小さく口づけると立ち上がる。 「亮のこと、よろしくお願いします。なにかあったらいつでも連絡してください」 アイコンタクトで了承の意志を伝えるシドにうなずき返し、修司は部屋を出ようとする。しかしふと何か思い出したように立ち止まると振り返っていた。 「――そう言えば、クライヴさん意外な趣味がおありなんですね」 何のことを修司が言おうとしているのかわからず、シドが無表情のまま間を開ける。 「お菓子作りが得意とは知りませんでした。亮のヤツが寝る前に、何度もクライヴさんのアイスが食べたいと言うものですから参りましたよ」 「・・・。」 シドは無言のまま目を閉じた。 心なしか困り眉になっているように見えるのは照明の具合のせいだろうか。 「今度、作り方、僕にも教えてください。亮の欲しいものは僕も全部与えてあげられるようにしときたいので」 修司は照れ笑いを浮かべると、亮の眠るベッドへと視線を送る。 「それじゃあ、僕はこれで」 会釈をして部屋を出る修司を見送ったシドは、小さくため息をつきベッドサイドに腰を落とすと、うっすらと開かれ寝息をたてる亮の小さな唇を、そっと指先でなぞっていた。 明け方近く。 静かに眠っていた亮に異変が起こるのはこの時間帯が多い。 亮の呼吸が速く、浅く、乱れ始め、形の良い眉が苦しげにひそめられる。投げ出されていた手足がぎゅっと丸められ、時折何かから逃れるようにシーツを掻く。 「――っ、ぅ、ん、……、ぃぁっ…」 ガタガタと震える小さな身体からは冷たい汗が滲み、パジャマの生地を肌にぴったりと張り付かせるほどだ。 「は…、は…、っ…、ん…」 辛そうに固く閉じられた瞼の目尻には、幾粒も涙の雫が浮かびこぼれ落ち、乱れかかる柔らかな黒髪を濡らしている。 シドはすぐに毛布に包まる亮の身体を抱き寄せるが、それすら拒むように、亮は両腕を突っぱね顔を背けた。 「亮、亮!」 身体を揺すり覚醒を促せば、亮はうっすらと目を開け、「ぷりず、すとぷ…、みすたぁ――」と片言の英語でシドに懇願する。 シドが敢えて英語で今日はもうおしまいにする意の言葉を掛けてやると、力尽きたように再び眠りに落ちていくのだ。 下手をすればそのままノックバックに繋がってしまう。 シドは微熱を帯びた亮の身体を懐に抱き寄せ、身体は冷やさぬように毛布でくるんでやると、前髪をかき分け額に手を当ててやった。 亮のこの症状は本部にいた頃よりも、帰国して三、四日たった今の方が激しくなっている。どうやら亮の体力の回復に合わせて、記憶も揺り返しが起こっているようなのである。 今はまだ、目を覚ませば見ていた夢のことをほとんど覚えていないようなのが唯一の救いと言えたが、いつどんな記憶が亮の中に蘇るのかわからず、そのショックでひどい発作を起こしかねない状況だ。 優しい冷気を手のひらに溜めながら、シドは亮の顔を覗き込む。苦しげに眉根を寄せる表情は少し緩んできたものの、まだ身体中の筋肉が強ばったままだ。 ふと、ふるりとまぶたが揺れ、亮が薄く目を開けた。 「――寒いか?」 「――シぃ。とぉる、……き、ち、ゎる……」 浅い呼吸をつきながら身体を起こし、亮は弱々しい動きでベッドの外へ出ようと身を乗り出す。 しかし身体半分乗り出した時点で、大きく背を震わせ、えずいてしまう。 何度も何度も咳き込みながら、嘔吐を繰り返す。 しかし明け方の亮の胃にはほとんど何も入っておらず、ただ腹筋を痙攣させ、空上げをするばかりだ。 あまりの苦しさで、亮の頬を涙が幾粒も伝い落ちる。 「っ、ぇっ、ぇはっ、……はっ、…かはっ…、っ、……は…」 シドは横から亮を支え、ただ背中をさすってやるしかない。 ひとしきり身体を震わせると、亮は疲れ切ったようにシドの胸へ倒れ込む。 「――シ、ごめ、さ…、とぉぅ、げ、しちゃった……」 ぼんやりとした表情で腕の中からシドを見上げ、吐息の合間に亮が言った。 「かまわん。それより、平気か? 秋人を呼んだ方が――」 「め、なさぃ……、とぉる、ぜんぶのめ…せんでした――ごめなさぃ……」 「っ――」 亮の瞳が自分を見ていないことに気がつき、シドは唇の端をかみしめると、小さな身体をぎゅっと抱きしめる。 頬をすり寄せ、髪の中に差し入れた指先をそろりと動かすと、シドの発する冷気に亮の身体がぴくりと反応を返した。 「……シィ?」 だがシドは言葉もなく抱きしめ続けるしかない。 亮はシドのひんやりとした体温に安らぐように瞳を閉じると、きゅっと大きなシャツの裾を握りしめる。 「シィ、おうた、うたって。きのうの、パセリのおうた……」 シドは亮のその言葉にようやく表情を緩めると、サイドボードからミネラルウォーターを手に取り、亮にゆっくりと含ませた。 「なんだ、昨日のあれ、覚えてたのか」 「とおる、ちゃんとおぼえてるよ。だって、とおる、おきてたもん。だからちゃんと、おぼえてるの!」 一生懸命主張するところを見ると、どうもはっきりとは覚えていないらしい。 夕べ、同じように亮が悪夢にうなされた折、落ち着かせるためにとシドが口ずさんだメロディーを夢うつつで聴いていたのだろう。 一口、二口、冷えた水を口にすると、亮の瞼がそろそろと下がり始める。 シドは微かに苦笑すると、亮をベッドに横たえ毛布を掛けてやりながら、少年のリクエストに応えて自分が知る唯一の旋律を口ずさみ始めた。 イギリスに古くから伝わる民謡のようなものなのだが、優しく切ない響きのメロディーラインは現在伝わっているものとは若干異なっている。 何百年も口伝えられてきた歌は時代ごとに姿を変え、色を変えていく。 シドの知るメロディーは原曲に近いものなのかもしれなかった。 遙か昔。 まだシドが初めての人生を送っていた頃、この歌をよく歌ってもらったものだ。 だが、今となっては誰に聴かせてもらった歌なのかは覚えていない。 初めての母親か兄姉か――それすら定かではないが、この旋律には今のシドには縁遠い温もりのようなものが封じ込まれている気がする。 もう何世代も思い出しもしなかったメロディーだ。 意外にも下手ではない囁くようなテノールは、明け方のひんやりした空気にとけ、ビターなカラメルソースのように優しく亮を包みこむ。 亮はその旋律に導かれるように安らいで、深い眠りへと戻っていく。 小さな唇からすやすやと寝息が聞こえ始めるまで、シドは亮の言う「パセリのおうた」を静かに歌ってやったのだった。 |