■ 4-29 ■




 東雲浬生<しののめ りおう>は、広いマンションの一室で、一人――黙したままソファーに身を沈めていた。
 窓から差し込む夕日は血のように朱く、東雲の怜悧な面を炎のように染め上げている。
(力のかけ方が緩かったか……)
 昨夜ついにスクールセラへ現れた成坂亮を捕らえ、いつものように処置を施した東雲は、今日になってあの後亮が自分の意志でリアルへ逃げ出したという報告を受け取っていた。
(しかし……。僕の言霊から逃げ出す? ……心の自由を奪っているはずなんだ。たとえ力のかけ方が甘かろうと、やはり、それは有り得ない)
 しかし金原から聞いた話が嘘だとは思えなかった。
 あれほど成坂亮に執着していた金原が自ら亮を逃がすとも思えないし、佐薙が何かしたのだとしても、それを金原が報告しないはずはない。
(まさか僕の能力に何か問題でも生じているのか――)
「そんな難しい顔しなくても、何も問題はないよ」
 まるで心を読まれているかのような言葉に、浬生は閉ざしていた目を開けた。
 コーヒーテーブルを挟んだ向かいに、一人の青年か腰を下ろしていた。
 神の如き見事な造形の顔立ちが、残映に毒々しく染め上げられ、妖艶に輝いていた。
 プラチナブロンドの髪が、窓から吹き込む風でサラサラとたなびき、一本一本が黄金のようにきらめく。
「ローチ。いつ来たんです?」
「今だよ。そんな質問をするなんて、浬生らしくない。心ここにあらず、だね。何を考えてたんだい?」
 ローチはおかしそうに含み笑いを漏らすと、いつの間に用意していたのか、テーブルの上で紅茶を入れ始める。
「どうせわかってるんでしょう?」
「ふふ……。そんなキミの顔、初めて見たからちょっと楽しくてね。キミは感情が全然動かない子だからさ――」
「そんなことありません。僕はいつだって思い悩んでいるし、楽しいことや哀しいこともたくさんありますよ。純然たる思春期ですから」
「あらら、それは失礼。……それで、いつも通り感情も露わに困惑してたのは……亮くんについて、なのかな」
「……ほら。やっぱりあなたは全部わかってる」
 東雲は肩をすくめると、ローチの入れた紅茶を口に運んだ。
「あれは、なんなんです? 見た目がいいだけの大人しい子供かと思えば、うちの番犬たちを手玉に取ったり、男どもをあっという間に虜にしたり――。おまけに僕のアンズーツを反故にして勝手に家に帰ったり。自由すぎて生徒会副会長としては許せない存在ですね」
「ははは。本人は自由だなんて全然思ってなさそうだけどね」
「……おまけにあなたまで彼の味方みたいだ」
「ふふふ……。別にそんなことはないよ。ただ、あの子は特別、だからさ」
「特別?」
「そう。……成坂亮。彼は八人目の『ゲボ』なんだ」
 カップを持った東雲の手が止まる。
「…………冗談……」
「あれ? 信じられない?」
「だって……、ゲボは全てIICRが秘匿していてこんな在野に居るはずのない存在で……、そんなのは常識以前の問題のはず……」
「ゲボだから、浬生。キミのアンズーツが完全に効くことはなかった。見た目が良いのも当然だし、一般人達をあっという間にケダモノにしちゃうのも朝飯前ってわけ。理屈は通ってるでしょ」
「しかしそれならIICRが黙っているとは思えない」
「もちろん黙ってなかったよ? でもそれは去年までの話。セブンスで色々あってね。彼は混乱を避けるため、なんと在野に放逐されることになったのでした。もちろんそのことは、完全な極秘事項に設定されていて、IICRの理事会でも一部しか知られていない事実なんだ。……だからこそ、彼はト・ク・ベ・ツなの」
「…………ゲボ。……成坂、が……」
「いいねぇ、その顔。浬生が年相応に見えるよ」
 ローチが楽しそうに笑うと、東雲は溜息を吐きソファーに身体を沈める。
「あなた、こういう反応を楽しむために隠し事するの、いい趣味じゃないですよ」
「あははは。知ってるくせに。こういうのが僕の生き甲斐なんだよ。……じゃ、楽しませてもらったお礼に、色々教えてあげちゃおっかな」
 ローチはすらりと立上がると、東雲の隣へ流れるように身体を寄せて、妖艶な瞳で東雲の眼鏡の奥を覗き込んでくる。
「……セックス、します?」
 東雲は間近で見つめる美貌に、瞬きもせず答える。が――
「んー……。それはもういいや。浬生、全然困ったり泣いたり喜んだりしないんだもん。僕はね、身体が気持ちよくなるのも好きだけど、それ以上に心が気持ちよくなりたいの」
「……変態、ですね」
「心外だなぁ。普通こっちの方がピュアだと思うけど。それじゃ、イヤっ、やめてっ、堪忍してっ、とか演技しながらしてくれる?」
「大根でよければ善処しますが」
「…………そんな受け答えしちゃうキミが好きだよ、浬生……」
 珍しくメゲた様子のローチが身体を離し、溜息を吐いていた。
「亮くんがなんであんなに腕っ節強いか、そこんとこは知っておいた方がいいと思ってさ」
 話が亮の話題に戻り、東雲が変わらぬ表情でローチを流し見る。
「実はね。亮くんの体術は、あの子の保護者、直伝なんだ」
「保護者? 成坂の保護者は確か会社経営者の兄だという話ですが」
「そっちじゃない。彼の今の本当の保護者は、――シド・クライヴ。あの有名人の元イザ・ヴェルミリオだ」
「っ!! じゃあ……」
「そ。こっち陣営の大人達を喰らいに来た、あの男の大事な大事な宝物が、亮くん、なわけ」
「なるほど……シド・クライヴの。……それで……成坂があなたにとって特別なわけですね」
「……キミはホントに僕好みじゃないね」
「どうも」
「で。好みじゃない浬生に忠告だ。今まで通り、英会話講師に近づいてはいけないことと――」
「成坂亮にも近づいてはいけない……ですか?」
「いや。そんなこと言っても聞くキミじゃないだろ? 近づくのは構わない。犯すのも調教するのも好きにすればいい。ただ――、やり過ぎはだめだよ。異神を呼び出されたら色んな意味で面倒なことになる」
「ゲボを扱う基本、と言うところですか。しかし……どうして成坂に近づくのを禁じないんです? あなたのシド・クライヴへの警戒は異常とも言うべきなのに」
「だってキミは亮くんを気にしてる。珍しいくらい彼に興奮してる。押さえられないでしょ? どうせ」
「……そう、見えますか」
「亮くんと浬生、少し似てるから。……そう言えば、彼も、キミと同じく母親に捨てられてるんだっけな」
「……」
「ただ、キミと亮くんが違うのは……、彼には今、周りにたくさん彼を守ってくれる人がいるってことかな」
「なるほど……。そういうの……なんとなく感じ取ってしまうんですかね……。彼を見ていると、嗜虐心がうずいてどうしようもなくなる」
「いいねぇ、暗い炎って感じで」
 ローチは嬉しそうに相好を崩すと、すっかり日の落ちかけた紫の空へ顔を向けた。
「それから、本隊である理事長やフォークロアの連中に亮くんを近づけてはだめだよ。――これ、重要。……本隊の連中が亮くんに近づけば、シドに気付かれる。キミたちは本隊から離れて細々やってるだけだから、うまく紛れていられるんだ。亮くんはキミたちにとって諸刃の剣になる。扱いには十分注意して」
「もちろん、わかってます。私用で楽しむ以外はしないことにしますよ」
「僕たちの目的はあくまで本隊に禁断の果実を作らせ、それをもぐことだ。それまでキミは、精々彼らに従う愚鈍なおぼっちゃまでいなくちゃね」
「大根ですが、やりきれますよ。……あいつら、馬鹿ですから」
 東雲が薄く笑うと、ローチは綺麗な眉を片方きゅっと上げ肩をすくめていた。




「どうなっているんだ! ただでさえ計画は遅れ気味だというのに、これでは次の報告会までに満足な成果を出せないではないか。今度は名梶氏の嫌みだけでは済まんぞっ」
 私立青陵学園高校理事長、有清政親<ゆうぜいまさちか>は、苛立ちを隠しきれない様子ですぐそばのスチールデスクの足を蹴り上げた。
 寒すぎるほどエアコンの効いたサーバールームで、有清の頭だけは沸騰中である。
 数学教諭の灰谷は疲れ切った表情で薄い頭髪をかき混ぜると、モニターに映る予定外の数値にうめき声を上げる。
「まただ……。何度やっても、新館寮の入獄システムの座標がずれてくる……。わからん。プログラムにも問題は全く見当たらないし……。何が悪いというんだ?」
「灰谷くん。キミはこちら方面に強いということで、この大事な任務を任せているんだぞ? こんなことでは学校内部にフォークロアの技術者を入れなくてはならなくなる。その分我々が彼らに足下を見られるというのがわからんのかねっ」
「それは私も承知していますっ。だからこうやって原因を探って……」
「ハッカーとか言う奴が外部から良からぬ干渉をしているんじゃないのか!? 我々の洗礼計画の概要を知り、その成果を盗んだり阻害したりを狙う輩がいる可能性も……」
「ハッカーなど物理的にあり得ませんよ。何しろここの回線は閉じられていてオープンではない。つまり外から侵入しようがないんです。もちろん、このサーバールームの鍵はあなたと私の二人で管理していて、侵入者の入った形跡もない。……それに……こんなの、出荷段階からシステムに欠陥があったとしか思えない状況で……」
「つまらん言い訳はやめたまえ。ここの入獄システムは最新鋭のガイアテック製で、OSも最新のヒューマニクスVer.9を入れてある。欠陥が存在する余地などそれこそ有り得ない」
「確かにヒューマニクスは優れたOSですし、この筐体も質の良いものです。ですが、それら全部のベースとなっている『Shibuyaメソッド』の部分はブラックボックスみたいなもので、OS下層部になんらかの欠陥があった場合、一般のSEじゃ太刀打ちできません。大学の研究室クラスの者じゃなくては箱を開けることすらできない……」
「……、ではそんな部分にどうやって欠陥が入り込むと言うんだ」
「だから出荷段階からの初期不良の可能性もあると言っているんです。もしそうなら早急に新しい物と交換しなくてはならない」
「…………。四月導入の機械だ。まだ保証期間内ではあるが……、ハードを入れ替えるとなるとコトだぞ。あれだけ外部にわからないように隠蔽して設置するなどということは……もう一度基礎工事から寮を建て直さねば無理だ……」
 有清は溜息を禁じ得ない。新館寮の入獄システムは、寮の基礎より遙か下に埋没するように設置されており、外部からは一切わからない仕様になっている。それを生徒や部外者に気付かれぬよう、全て掘り起こし入れ替えるとなると、金も時間も掛かりすぎ現実的でない。
 どうすべきかと頭を抱える有清の耳に、ふいに流れる青陵校歌の電子音――。
 のろのろと背広のポケットから携帯を取り出すと、瞬時に嫌な顔をし、有清は通話ボタンを押していた。
『どーも、理事長。お困りのようですね。またシステム異常ですか。バプティズムの本丸が入獄システム一つ管理できないようでは困りますな』
「名梶さん……」
 電話の内容に有清が灰谷をチラリと見ると、数学教師はばつが悪そうにそっぽを向く。
 どうやら困り果てた灰谷が、フォークロアの技術者の誰かへ問い合わせのメールでもしたらしい。
『灰谷先生を怒らないであげてくださいよ? 彼もこの計画の重要性をわかっていて、思案の結果直接こちらへ連絡を入れてきたのでしょうから』
「しかしですな、ここの長である私を通さずこのような……」
『やはり技術者を一人、リアルでもそちらへ派遣した方が良さそうだ。名目は非常勤だろうと用務員だろうと構いません。今日にでも向かわせますから。よろしいですね』
 名梶の電話はそれだけ言うと、挨拶もなく無愛想に切れる。
「まったく……、飼い犬に手を噛まれた気分だよ、灰谷くん」
「そうはおっしゃいますが、メールで問い合わせただけでまさか名梶さんから直接電話がくるなんて思いませんよ……。そ、それにそもそも、このまま今週のヒッティングがなしになれば、先週完成した試薬ジェイドの検証は出来なくなります。そうなれば、洗礼計画<パブティズム・プロジェクト>での理事長のお立場はまずくなる。本丸を他校へ持って行かれては元も子もないじゃないですか。愛誠も、如月第二も、秀明学院も、返り咲きを狙っているんですよ!?」
「だが足下にフォークロアの人間を入れれば、主導をあちらへ持って行かれることになりかねん。こちらは生徒達を『人体』として調達する一番危険な部分を担っているんだ。ヤツら、ヤクザなソムニア犯罪集団ばかりに大きな顔をさせられん」
「実験を成功させればいいんですよ。送り込まれる技術者なんか、所詮下っ端です。その辺はうまいこと使うだけ使えばいいんです」
 言い訳でもするように言い募る灰谷に有清は、
「その下っ端より使えないキミは、今後なんの役に立ってくれるのかね」
 苦々しい溜息を吐きながら、冷ややかな視線を送ったのだった。





 もう、これで五日になる。
 分厚く重い黒のガードコートを纏い、喉から口元にかけては、特種繊維の濾過布をスカーフのように何重にも巻き付けている。革の手袋。闇色のゴーグル。どれも身体の自由を制限し、疲労を蓄積させるものばかりだ。
 だが、これを外すことは即死を意味する。
 辺りの空気には目に見えない微細な針が無数に結晶化しており、息を吸う度肺の細胞を壊していく。肌に触れれば一瞬にして火ぶくれを作り、目に入れば眼球を膨張させ破壊する。
 この場に現れた人間は数分ともたず、全身を風船のように膨らませ、ぶよぶよの肉塊と化して転がるほかない。
 そんな場所でシドは五日目の夜を過ごしていた。
 どこまでも続く長い廊下は暗く、頼りになるのは所々灯る、ほの暗いガス灯のみだ。
 うねうねと波打つ廊下の左右には、同じ意匠の木のドアが延々と連なっている。
「ループに捕まったな。役立たずが」
 濾過布越しのくぐもった声でシドが言うと、わずかな合間を置いて、彼のヘッドレストから反論の言葉が響いてきた。
『おまえはせっかちなんだよ。そのエリアに入ってまだ三日だよ? ルート確保は繊細な頭脳労働なんだ。もうちょっと心に余裕を持とうよ』
「その辺のドア、開けるぞ」
『待って待って! 適当にやられちゃ全部オシャカだよ! もう一度アルゴリズム洗い直すから……』
「早くしろ、グズ」
『殺伐としすぎだぞ、シド』
「俺のはらわたが全部流れ出る前に、結果を出せ、グズ」
 歩き続けるシドの腹はいつの間にかばっくりと縦に裂け、開かれた肋骨の内側で深紅の心臓がつややかに脈を刻んでいるのが見える。
 腹圧で飛び出した腸がシドの足にからみつき、ずるずると廊下へ垂れ下がっていく。
 シドはそれにちらりと視線を落とすと、表情もないまま歩き続けた。
 スピードを緩めれば、足は沼のように廊下へ取られ、そこから現れる泥色の手が、シドの身体を引き込もうとするからだ。
 今も泥人間たちはひっきりなしにシドの足にからみつき、垂れ下がったシドの腸を引きちぎって、嬉しそうに笑い声をたてている。
『全部流れ出ちゃった方が、軽くなっていいじゃん。痛みはリアルだろうけどどうせ幻覚なんだし、そもそも普通の人間みたいにショックで死ぬタマじゃないんだから。……っと、そこから十二番目の左のドア、開けてみて』
「……ちっ」
 舌打ちをすると、シドは己のはらわたを踏みつけながら、目的のドアに手を掛ける。
 ――ジュッ、と音がした。
「…………」
 強烈な痛みと共に、ノブを握った手が溶けていく。見る間に桃色の筋と白い骨が浮きだし、右腕が腐食していく。
「っ――」
 腕が溶け落ちる前に、シドは思い切りドアを引いていた。
 瞬間、乾いた風が吹きすぎる。
 光量の差にめまいがした。
 辺りは白と青の世界。
 純白の砂漠が真っ青な空の下、どこまでも連なっていた。
 頭上には巨大な青い太陽がのぼり、ジリジリと白い砂の山脈を焼きつけている。
『どう? 第六エリアに入った?』
「わからんが、暑い。砂漠だ」
 いつしかシドの身体は元へと戻っている。
 ばっくり開いた腹も、垂れ下がる内臓も、そして腐食した右手も、見当たらない。
 しかし、秋人の声が緊張を帯びる。
『暑いって……、おまえが暑いわけないだろ。何言ってるんだ!?』
「暑い。コートが邪魔だ」
『脱ぐなよ!? おい、シド!』
「……わかっている。冗談だ」
 そう呟いたシドの額からは有り得ない量の汗が、滴り落ちていた。
 気温摂氏六十度の熱波は、シドの身体から全ての水を奪い取ろうと焼き付ける。
 覚醒して六世代、何百年も感じることのなかった灼熱という感覚――。
 それが幻覚なのか真実なのか、今のシドには量ることができない。
『……冗談って……。おい。さすがに不眠不休で五日目だ。限界なんだよ。今日はもう戻って――』
 シドのこの言葉に何を感じ取ったのか、珍しく秋人が気を遣う声を掛ける。
 が、シドの足は止まらない。
「いいから、次のエリアへの扉を探せ」
『……しかし、よく見れば返される数値がエライことになってるぞ。さすがにここからは一夜一エリアくらいの気持ちで行かないと、いくらおまえでも身体が持たない』
 しかしシドは返事を返さない。
 彼の望む回答でないせいで、秋人の言葉は完全にスルーされているのだと、長い付き合いの事務所所長にはわかる。
『っ、そもそもだなっ、五日ここに入りっぱなしなんて狂気の沙汰なんだぞ? 元々今日は第三エリア超えたら戻る約束だったろうが!』
「…………」
『っ、くそっ、なんとか言えよっ。そんな焦らなくても、パブティズムの主要セラ三つのうち、もう二つは攻略済みなんだし……』
「最後の一つ。この、洗礼薬の研究中枢が一番やっかいなんだろうが。俺はさっさとこんなクソ仕事を終わらせて休暇を取りたいんだ。余計な肺活量使わせるな。早く解析しろ、グズ秋人」
『……やっぱり限界だ。戻すからな、シド』
「ダメだ」
『けど! 新館寮の入獄システムにもメソッドにゴミ混ぜてエラー出しておいたし、そろそろフォークロアの研究員が学園に派遣されてきてもいい頃だ。そいつの情報を集めてからもう一度アタックしたって遅くない。わかってるか? おまえが暑さを感じるなんて、たとえ幻覚でも異常なんだぞ!?』
「……ヒトを化物みたいに言うな。おまえが解析しないなら、勝手にその辺の穴に飛び込むぞ」
 真っ白な砂の上には、すり鉢状の巨大な穴が無数に口を開けている。まるで蟻地獄のようなそれには、底に暗く深い空洞が続き、獲物が落ちてくるのを待っているようですらある。
『まっ、待て待て待てっ! まだそれがエリアルートと決まったわけじゃないんだぞ!? くそっ、わかったよ。じゃああと一日だけだからなっ! そしたら無理にでもリアルに引き戻すからなっ!!』
 秋人はやけっぱちに応えると、どうやら解析に取りかかったようで、しばし交信が途絶える。
 シドは、滴り落ちる汗にたかり、その肉に卵を産み付けようとする羽虫たちを追い払いながら、空を見上げる。
 その琥珀の瞳に映るのは、視界いっぱいに広がる青い太陽。そして――そこを背景に、こちらへ急速に近づいてくる無数の黒い染み――。
「……でかいな」
 ジワジワと広がる染みが巨大な鳥の影だと判断する前に、シドの身体は動いていた。
 砂の大地を蹴り、黒いコートをたなびかせて高く空へ舞い上がる。
 鞘鳴りをたて抜かれた刀身が、太陽の光に青くきらめいた。
 肺が、熱い。
 長時間のセラ潜行は濾過布を通してもシドの呼吸器を冒し、極限まで体力を削り取っていく。
 しかし――血混じりの咳を噛み殺し、重い身体をぶら下げて、シドは襲い来る猛禽類の首へ刃を振り下ろす。
 巨大な羽ばたきに送られる熱風で、肌や髪から焦げたような嫌な匂いが立ち上り始めていた。
 現実時間では四時間弱。だが、セラでは百二十時間の時が流れ――。今、シドにとって今宵八十二回目の戦闘が始まった。