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 教室内には教科書を読み進める金原の声だけが響いていた。その一節を聞けば、夏目漱石の「こころ」であることがわかる。
 体育教師である金原にとって慣れないはずの現国授業はしかし、意外にも至極まともに行われているようだ。
 その講義を聞く生徒は十名。うち八名が女子である。教室の中程に、横一列でずらりと座っている。
 教科書へ目を落とし、中にはノートを取っている生徒もいるが、どの生徒も揃って背筋を伸ばしており、はっきりと顔立ちが見て取れた。
 その全てが平均以上の好ましい容姿をしており、彼らが秩序に守られつつ行う授業風景は、清廉ですらある。
 だが、この教室には明らかな異質がいくつも紛れ込んでいた。
 まず、生徒達の机には1から10までのナンバープレートが取り付けてある。
 黒板の横に立つ佐薙は、手にしたボードに何かを書き込みつつ、そんな教室全体を眺めている。
 ドアのすぐ外に立っている醍醐は、まるで何かの番人のように隙なく辺りに気を配っているのがわかる。
 そして何より、黒板の前に並んだ十数名の男達――。
 二十代の若者から、すっかり白髪となった初老の男まで年代はばらばらである。
 だが彼らに共通するものがいくつかあった。それはその目元を覆う仮面と、手に持ったナンバーカード。そして異様なまでの熱気である。
 彼らはひそひそと隣同士で会話をしたり、時折忍んだ笑い声を上げている。
 亮は窓際に立ち、そんな教室の様子を逐一全てその視界へと入れていた。
 男の一人が番号を書き入れたカードを、金原の前へそっと置く。
 すると心得たように金原は、そのナンバーの生徒を指名するのだ。
 指名された生徒は立上がると、言われた箇所からの朗読を始める。その様子を眺めていた他の男達のうち、何人かが慌てたように己のカードを金原へと渡す。
 亮以外、ここにいる誰もがこのシステムをすっかり使い慣れているようであった。
 佐薙は何の疑問も持たないようにそれをメモし、金原がその後生徒へ向かい『教室名』を言い渡す。
 すると生徒は静かに教科書をしまい、教室から出て行くのだ。
 ナンバーカードを渡した男達は、すぐにその後を追い、教室内にいる人数は時を追うごとに減っていく――。
 亮はどうするという術もなく、それを眺めていることしかできない。
 しかしそれはアンズーツにかかっているせい――というわけではなかった。ただ怪しまれる行動を今とるわけにはいかないというだけの話である。
 東雲に着替えを言い渡されたあの時でさえ、亮ははっきりと己の行動を支配できていた。
 だがそこで少しでも嫌がる素振りを見せれば、自分が「ゲボである」ということを東雲に晒してしまいかねないと判断したのだ。あくまでも亮は東雲のアンズーツの虜になっていなくてはいけないのである。
 そこで、極力キスマークの付いた部位を晒さないように気を配りながらも、亮はなんとか着替えをやり遂げていた。  さすがに下着を替えるときにはとまどいに手が止まりそうになったが――それでもどうにかその速度を落とさない程度には気持ちを封じ込めることに成功していた。
 ここまでは全て計画通り――だと亮は考えている。
 しかし、東雲の力が強力だったことは否めない。
 あの能力へ抗うために、亮は己のゲボを総動員させる必要があったからだ。一歩間違えれば、ゲボの――何かしら目に見える能力の片鱗を発動しかねない状況だったのかもしれない。アンズーツという能力自体が希有なため他と比べようがないが、東雲のそれはきっとかなり上位に位置するものに違いないと亮は実体験で悟らされることとなっていた。
「よし。そこまで。じゃあ次は八嶋。読んで」
 一人の生徒が教室を出て行き、また新たな生徒が指名される。
「……」
 極度の疲労により、亮の意識は今もまだぼんやりとしていた。
 だが、この部屋で起きている異様さはわかる。
 正直、先ほどから吐き気がおさまらない。
 何もかもが気持ち悪かった。
 二名いた男子生徒も、朗読を終え、先ほど部屋を出て行った。一人は背の高い綺麗な顔立ちの三年生であり、もう一人は少しぽっちゃりとした可愛らしい感じの一年生である。
 男を指名する男がいることに、今さらながら、亮は自分でも驚くほどショックを覚えていた。自分が今までどんな生活を送らされていたのか忘れたわけではなかったが、それでもまだ「男が少年を買う」という事実を亮は未だに理解できずにいる。
 ただ、目の前で少年が買われていく様は恐ろしいほどに生々しく、生理的嫌悪感で足が震えた。
「案内係。……案内係!」
 何度目かの強い口調で、ようやく亮はびくりと身を強張らせる。それが自分に対しての言葉だと思い当たったのだ。
 見れば金原はこちらを振り返り、出て行く数名の男達を指さしていた。
「戸田咲妃の後追い指名が入った。こちらのお客様方を音楽室までお連れしなさい」
「っ、は、はい……」
 案内係とはこういうことだったのか、と納得する。
 先に出ていった生徒へ未練の出た客たちを、後から連れて行く――どうやらそれが亮の仕事らしい。
 固まってしまった間接をぎくしゃくと動かしながら、どうにか教室を出て行く。頭の上で踊るツインテールのウィッグは鬱陶しく、足下のスースーするエプロンドレスも心許ない。
 途中、佐薙が心配そうにこちらを眺めていたのに気付いた。
 佐薙や金原は接待係の生徒のように、完全な人形にされているわけではなさそうだ。
 それでもあの気の弱い佐薙がこんな事に荷担していることに、疑問が湧く。やはり、深い部分で東雲に縛られている、ということなのだろうか。東雲のあの強力な能力を持ってすれば、洗脳レベルなど容易に加減が出来そうな気がした。
「……」
 ドアから出れば、すぐ横に見張り役の醍醐が立っている。
 この忠実な東雲の部下は、どうなのだろう。彼もアンズーツの犠牲者なのだろうか。
 しかし亮にはどうしてもそうは思えなかった。
 醍醐からは他の者とは違う、もっと能動的な忠誠心を感じる。アンズーツなど必要もないほど、強力な何かによって、彼は東雲に縛られているのかもしれない。
 ドアを出てからも考えを巡らせ突っ立つ亮に、醍醐が視線で二人の男達を指した。
 早く案内しろ――ということだろう。
 見れば、仕立ての良いスーツを身につけた中年男たちが、亮をじっと眺め、立っている。
 彼らはきっと一歩ここから出れば、マジメで優秀で、社会から尊敬されるべき名士たちなのだろう。
「よろしく頼むよ」
 背が低く小太りの男がそう言って微笑んで見せた。もう一人のガッチリした体格の男は、少々薄くなった頭頂部を撫でつけながら、無言で亮を見つめるだけだ。
「はい……。こちら、です……」
 亮は彼らの強い視線を避けるように、足早に前を歩き、音楽室へと向かっていく。
 二年生の教室であるここから音楽室までは、校舎間を移動し少し距離を歩かなくてはならない。
(……なんでわざわざこんな遠い教室なんだよ)
 午後の明るい日差しの差し込む廊下を通りながらも、亮はまるで深夜の地下道を歩いているような錯覚に捕らわれ、ぶんぶんと首を振った。
 窓の外からはくぐもった蝉の声だけが聞こえ、ぺたぺたと引きずるような男達のスリッパの音の間を埋めていく。
「ねぇ、君。君は名前、なんて言うの?」
 沈黙が破られた。
 背後から小太りがそう声を掛けてきたのだ。
「生徒さんたちはみんな名札をつけてるからわかるんだけど、君はついてないよね」
「……お……オレは、スタッフだから……」
「ほぉ。やはり男の子なのか」
 初めてガッチリの方が声を上げた。亮はその言葉になぜだか急に恥ずかしくなり、唇を噛みしめる。
 "私"って言えば良かった――。そんな風に変な後悔が起きる。
 だがすぐに、その言葉にある引っかかりがあることに、亮は気付いていた。
(あれ? やはり……って、どういうことだ? オレ、こんなカッコしててもちゃんと男に見えてたってこと!? そっか。へへ……、まぁそうだよな……)
 亮の頬が少し緩みかける。
「やっぱり但し書き通り、男の子かぁ。カタログにはああ書いてあったけど、実物を間近で見たらあれはミスプリじゃないかって思ったのに――ホント、二度びっくりだよ」
(但し書き……?)
 ここから二人は妙に小声の会話に切り替えていた。どうやら亮には聞かれたくない話らしい。だがソムニアである亮にとって、集中さえすれば、背後の内緒話を聞き取るなど造作もないことである。
「ピラクさんはどちら希望で入札を?」
 ガタイのいいオーズは、小太りのピラクへちらりと視線を送る。
「僕はまぁ、可愛ければどちらでも。純粋にティンカーベルちゃんのファンだもので」
(っ!!)
 ドキリと亮の胸が嫌な音を立てた。
 歩みこそ止めはしなかったが、ヒソヒソと交わされる男達の会話の端々から、だんだんと自分の置かれている立場が理解できてくる。
「だからこそ、あの金額の特別札を買われたというわけですな。まさか私以外にもあんな高額札に手を出している好き者がいたとは、正直驚きましたよ」
「ははは、数ヶ月分のへそくりが飛んじゃいました。しかし、学校側もニクイ演出してくれますよね。特別札は生徒でなくスタッフ。ゲームの隠しキャラみたいなもんですな」
「この衣装も、オタク趣味のピラクさんにピッタリマッチという感じですか」
「言ってくれますね。オーズさんの少年嗜好よりはマシですよ」
「ふ、ふふふ。先の二人の男子生徒を買っていった連中、悔しがるでしょうなぁ。特別札の子は女の子だと自分に言い聞かせて諦めたんでしょうから」
 バカだバカだとシドになじられる亮にもさすがにわかる。背後から聞こえる会話は、自分を食べようという狼たちの相談だ。
 東雲がこの会の通達を出したとき、すでに亮のこともカタログへ載せていたのだろう。
 しかも「ティンカーベル」の名を使って。
(何が「案内係でいい」だ! 最初っから接待させる気マンマンだったんじゃねーかよっ。性格悪すぎだ、あのクソ先輩っ)
「ああぁぁああ、それにしても本物のティンクちゃんが目の前に! 信じられないよ。リクエストしてみるもんだねぇ。しかもあのティンクちゃんをリョージョクできるって感無量だぁ」
「声が高いですよ、ピラクさん。何も知らない彼を犯すのがいいんじゃないですか。せっかくのサプライズが台無しですよ」
「おっと、これは失敬。はは……興奮しすぎですね、ボク」
(なんのサプライズだよ、なんの! くそっ、そんなドッキリ受けてたまるかっての)
 焦る亮の心とは裏腹に、音楽室は着実に近づきつつある。
 到着したらどう行動すべきか――。あそこには先に行った女の子と、その客が一人、いるはずである。その二人をどうするかも問題だ。
「オーズさん、到着したらまずどうします?」
「それはもちろん、設定を生かさなければならないでしょう。せっかくの学校側からの配慮なんですから」
「ですよねぇ。あくまでも彼はツイデ。そういう配慮ですもんね」
 彼らの言う「配慮」の意味が今ひとつ亮には理解できず、思わず首を傾げそうになる。
「あぁぁ、あのティンクちゃんが、ツイデにやられちゃうんだよ? 女の子のツイデにされちゃう少年メイド。これはいい! この設定はたまらんねぇ」
「できれば私は普通の学生服の方が良かったが……、この子の場合好んで女装しているわけではなさそうなところは悪くない」
(……こいつら、頭おかしいんじゃねーか)
 IICRのカラークラウンたちも大抵おかしな連中ばかりだったが、こういう嗜好は今までになかった気がする。しかし、彼らの言う「設定」とやらに付き合うことが今亮に要求されていることなのだ。表向き、どうにか意に沿う素振りを見せることが肝心である。
(設定にこだわる辺り、ヴァイオレットと近い人種……になんのかな……)
 亮を女装させ陵辱して悦に浸っていた裁判長の顔を思い出し、ぞわりと悪寒が走る。彼が亮へ要求したのも「おじさま」と言う呼び名と、「それを慕う女装少年」という設定であった。
(……気色悪いうえに、なんかメンドクせぇ……)
 音楽室につく前に、その辺の空き教室に入ってボコボコにして情報を聞き出すか――。そんな危ない考えが頭を過ぎるが、それではその後彼らから東雲にクレームが入ってしまうだろう。そうすれば亮が東雲のアンズーツに掛かっていなかったことが判明し、自分がゲボである事実が知られてしまうことにもなりかねない。
 なんとか相手を満足させつつ、こちらの被害を最小限にとどめ、必要な情報を搾り取る――そんな方法が必要になってくる。
 久我との話し合いでは「うまい具合にうまいこと聞き出す」というボンヤリした感じでまとまっていたが、実際問題これがこの作戦の核であることに、今さらながら亮は気付いてしまった。
(なんだよ久我ぁっ、うまい具合にうまいことってどんな風だよぉっ!)
 この状況をどこかで見ているであろう久我に心の中で避難を囂々と寄せながら、亮はない頭と今までの経験をフル検索するしかない。
(シドだったらこういうとき、どうするのかな。エージェント部ってこういう仕事がメインなんだろうし、注射針の飛び出る万年筆とか使って自白剤的なものとか打ち込んじゃうとか……。いやでもシドだったら睨んだだけで相手が喋りそうだし……。くそっ、どっちにしてもダメじゃん。秘密道具もねーし、オレが睨んでも多分喋ってくれねーもんっ)
「先に行ってるマーシーさんはどんな状況でしょうな」
「ああ、あの人は半券購入者でしょ。メインは咲妃ちゃんで、ティンクちゃんへは視姦プレーのみってやつ。今回のこの設定を生かすための舞台作りに売り出された一枚みたいなんだけど、希望者多数で抽選だったって話をきいてますよ」
「ああ、抽選ってこれのことだったんですか。お小遣いの少ない人たちは苦労しますねぇ。触れなきゃ意味ないでしょうに」
「いやいや、視るだけでも十二分に価値ありですよ。ティンクちゃんは有名人。なにしろ二次から飛び出した奇蹟の三次ですからね。しかも気位もプライドも高い美少年が客の気まぐれでおもちゃにされるという設定付き! 正直たまらんですよ」
「ああ、そう言えばミスコン時の彼はとんでもなく強気な子でしたな……」
 背後からの視線を強く感じ、亮は思わずぞくりと背中を強張らせそうになる。
 どうやら亮は「強気で気位の高い女装美少年」と認識されているらしい。
(っ、ばっ……バカじゃねっ!? おっさんたちどんだけ夢見がちなんだよっ。プライド高い男がこんな女みたいなカッコするか!? シャルルじゃあるまいしっ…………)
 そこまで考えてふと亮の思考が止まる。
(……シャル。シャルルかぁ……)
 実際亮にとってシャルルの記憶はそう多いものではない。亮がIICRへ連れ去られる前、事務所で出会ったたった一度の強烈な印象があるだけである。
 もちろんセブンスや医療棟でも何度か会う機会があったことは聞いているが、退行時の亮の記憶は今でもあやふやなものだ。
 だがそれでも、たった一度のその邂逅は亮の脳裏に強く強く焼き付けられていた。
 白く透けた少女のようなブラウスに身を包む少年。シドに絡む細い腕。天使のような美貌。真冬の空のような青い瞳。そこに浮かぶ微笑は妖艶で鮮やかで絶対の勝利を湛え、眼前の全ての者をかしずかせる――。
 あの目で見られた瞬間、亮は圧倒的な敗北感に打ちのめされたのである。
 そのせいでその後訪れたノックバック時にシャルルの幻影が現れ、徹底的にいじめ抜かれたことも亮ははっきり覚えていた。
(……ヤなヤツだけど、まぁ……迫力はすげぇよな。……ゲボとしての…………)
 背後の客二人には見えなかったが、案内係のメイドは酷い仏頂面で音楽室のドアの前にさしかかる。
「い、いよいよですな、オーズさん」
「お互い、金額分は存分に楽しみましょう」
 亮の白い手が扉をノックした。