■ 4-59 ■



 だが久我は己の煩悩を血を飲む思いで封じ込め、奥歯を噛み締め鼻の穴を全開にして気合いで亮たちの排除に取りかかる。
 きっとこのままここにいてはいけない。
 だって亮が六人も七人もいるわけがないのだ。
 久我の探す『成坂亮』は彼らではない。
 おそらく彼らの居るこの部屋の先に連れて行かれたに違いないのだ。
 久我の上着のポケットに入れられた携帯電話から続く念糸は、つやつやと輝きながら部屋の奥の扉の向こう側へと向かっている。
「すまん、成坂っ、ちょっとどいてくれ! 俺は行かなきゃならないんだっ」
 切ない快楽の中に突っ込まれた両手をどうにか引き抜き、群がり抱きついてくる亮たちを引き離そうとする。
「やだ! あそぶの!」
「くがはトオルときもちーことするのっ!」
「じっとしてて、トールがしてあげるから」
 しかし亮たちは久我の首根っこにしがみつき、恐ろしく甘い攻撃を仕掛けてくる。
 久我の好きな顔。
 久我の好きな身体。
 久我の好きな匂い。
 そして久我の好きな声で、久我の名を呼びながら頬をすり寄せてくる成坂亮は目眩がするほど可愛く、久我の決意を挫こうとする。
 そんな亮たちを久我は理性を奮い立たせ、無理にでも引き剥がしにかかることにした。
 体格では久我に分があるが、体術の心得ではおそらく不本意ながら亮に分がある。
 相手が六人がかりとなれば少々荒っぽい攻撃をしかけねば、どうにもならないだろう。
 首筋に絡みつく細い腕をつかみねじりあげ引き離すと、足にしがみつく小さな身体を乱暴に蹴り上げ振り払う。
 なんとか立ち上がると落ちてくるズボンを片手で引っ張り上げ、反撃される動きを予想し久我は身構えていた。
 だが――
「――っ! 痛いよぉ……」
 久我が腕をひねり上げ床に押付けた亮は泣きそうな声で悲鳴を上げていたのだ。
 華奢な腕が今にも折れそうに軋みを上げていた。
「っ……!?」
 その危うさに久我は驚き、咄嗟に腕を放してしまう。
 あと数ミリでも深く久我が押さえつければ、亮の腕は確実に乾いた音を立て壊れてしまっただろう。
 突き放した亮はカーペットの上にポスリと転ぶと、半泣きで腕を抱えうずくまってしまう。
「ふぇっ……、っ、痛いよ、くがぁ。なんで? なんで、痛いことするの?」
 一方蹴り上げた亮は床にたたきつけられ、びっくりしたように見開いた目を潤ませている。久我に蹴られたせいで口の中を切ったのか、唇の端から血が滲んでいるのが痛々しい。
 本当に何が起きたのかわかっていない様子だ。
「え、あ……」
 久我にも何が起きたのかわからなかった。
 いつものように軽い身のこなしで久我の攻撃など手玉に取る亮の様子を勝手にシミュレートしていただけに、目の前の惨状が理解しきれない。
「くが、なんでトオルをいじめるの?」
「くが、怒っちゃやだよ……」
 他の亮たちが怯えたように久我を眺め、傷ついた亮たちへ心配そうに駆け寄っていた。
 強烈な罪悪感が久我を襲う。
「す、すまん、その、俺は……ただ……」
「ふぇっ……、ふえぇぇえぇ、痛いよぉ……、ぇっ、ぇっ、いたい、よぉ……っ、」
 蹴り上げられた亮は、やっと自分に起きたことが何なのか理解したようで、くしゃりと顔を歪めると、泣き出してしまっていた。
「ごめん、っ、ごめんな……、痛かったな」
 久我は思わず泣き出した亮の元へしゃがみ込むと、頭を撫で頬を手のひらで包み込む。血の滲んだ口許を指先で拭ってやると、亮はさらに泣きだしてしまい、久我の胸元に顔を埋め泣きじゃくる。
 それを見ていた腕を抱えた亮も、釣られて泣き始めてしまう。
「あ、あぁ、すまん。泣くな。な? ほら、痛いの痛いの飛んでけ〜」
 久我が亮の腕をさすってやると、こちらの亮も泣きながら久我にしがみついてくる。
「い、たいの、まだ、とんでいかないもんっ」
「くが、トオルをいじめないで」
「もっと、とんでけ〜、してあげて?」
 口々に亮たちが久我を責め立て、泣きそうな顔で久我に群がる。
 久我は再び身動きが取れなくなっていた。
 妙に幼い言動の亮たちが一斉に久我にまとわりつき、それを無下に押し返すことも出来ない。
 亮たちにされるまま、久我は再びカーペットの上にトスリと腰を落としてしまう。
「くが、トオルのこと、きらいにならないで」
「トオル、もっともっといい子になるから……」
 亮たちはなんとか久我の機嫌を取ろうとしているのか、一生懸命頬をすり寄せ、口づけをし、ずり落ちた久我のズボンの中のものに舌を這わせる。
「っ、ちが……、そんなことしなくても、嫌いになんかならね……、ちょ、ぁ……、」
 その戸惑いに反して久我の愚息はあっという間に元気を取り戻してしまう。
 涙目の成坂亮が二人がかりで競うように、左右から久我のモノを舐めているのだ。
 その淫靡な妄想そのもののような現実に、久我はまるで太刀打ちできなかった。
「ぅぁ……、っ、おまえら、ちょ、も、ダメだって……」
 ぴちゃぴちゃと音を立て小さな舌で舐めていた亮たちは、上目遣いで久我の表情を確認し、ようやく安心したように微笑んでいた。
「くが、きもちーって」
「くがのキャンディー、とろとろだね」
「もう、トオルのこときらいじゃない?」
「だから、違うんだって……、俺はおまえらじゃない成坂を助けに……、ぁ、ちょ、ぁ、っ、こら……」
 二人の亮の頭を抑えようと両手を喘がせた久我の四肢を、他の亮たちが今度はキャッキャと笑いながら押さえに掛かる。
 今度こそ久我は手も足も出なくなっていた。
 ぬいぐるみの合間に埋まるように沈んだ久我の身体の上で、一人の亮がこちらを見下ろしている。
 久我が蹴り上げ、怪我をさせてしまったあの亮だ。
 大きな白いシャツを羽織ったその亮は、口許に血を滲ませ、涙も乾かぬ瞳で久我を見つめている。
 ぞくり――と久我の毛穴が広がった。
 人形のように無表情に久我を眺める亮の様子は、まるで自分が睥睨されているかのような感覚に陥らせていく。
 こんな酷いことをした人間は誰だ――と無言のうちに責められ、ヒトとしてクズだと見下されている感覚。
 ――だが、次の瞬間、亮は血の滲んだ唇をにっこりと引き上げ、柔らかに微笑んでいた。
 それはまるで聖母のごとく――。
「――っ」
 コクリ――と、久我の喉が鳴った。
 魅入られる、とはこのことなのか。と、意識の外で久我はぼんやり思った。
「パパはこうすると、いい子だねってゆってくれるの」
 だからおまえも褒めてくれと、そう亮は言っているのだ。
 亮が何を始めるのか――。
 久我にはわからなかった。
 いや、わかっていたのにわからない振りを演じていたのかもしれない。
 久我の上で、亮の身体が沈んでいく。
「っ!? ……ぁ……、っく……、だ、め、だ……、だめ……、っぁ、ぁっ、っっっ、」
 久我を見下ろしたまま、亮は己の小さなつぼみに久我のモノを自ら導き、ゆっくりと腰を落していくのだ。
 きつく狭く、そして柔らかなその温もりに、久我は絡め取られ、歯の根が合わなくなるような快楽に襲われる。
「ぁ、ぁ、く……、ぁああああぁぁっっ」
 堪えようとしてもダメだった。
 声が、漏れる。
 目の前の亮は切なげに眉を顰め、唇をかみしめて久我のものを必死に飲み込んでいく。
 張り詰めた久我のものは大きく、狭い亮の中ははち切れそうに震えている。
「……っ、く、が……、きもち、い?」
 ゆっくりと根本まで飲み込んだ亮は、久我の胸に手を着き、苦しげな表情のまま血の滲む唇で笑ってみせる。
「――っ!」
 罪悪感。
 罪悪感。
 快感――。
 表裏一体の強い情動が、爆発するみたいに久我の中で膨れ上がっていた。
 頭で考えるより先に、身体が動いていた。
 亮の細い腰を両手でつかみ、己の腰を突き上げる。
「ひぁっ!」
 その衝撃に、亮はビクンと身体を反らせ軽い身体が跳ね上がる。
 久我は構わず亮の腰を引き寄せ、再び突き上げた。
 何度も何度も突き上げる。
 自分も亮もアルマであるはずなのに、現実以上に鮮明な肉の感触と艶めかしい水音が久我を追い詰める。
 亮に犯され、今度は自分が亮を犯している。
 合意であるはずの行為なのに、たとえようもない罪悪感が久我を支配し、それが性的興奮を振り切れるほどに高めていた。
 突き上げたい。
 掻き回したい。
 溢れるほどに注ぎたい。
 それが言葉でなく原始的な動きで発露する。
「ぁっ、ひ、ぁ、っ、く、が……、ぁ、ぁ……、っ、」
 亮が喘ぐたびに久我のものは締め付けられ、未知の領域へと追い込まれていく。
 亮に名を呼ばれても応えることもできなかった。
 ただ無言で猿のように腰を振る。
 亮が羽織ったシャツの合間から、胸の飾りがちらちらと覗いている。
 そこは触ってもいないのにツンと尖りを見せ、久我を誘うようにほんのりと色づいていた。
 久我は亮の身体を抱き寄せ反転させると、カーペットの上に小さな身体を押付ける。
 深く貫いたまま亮のはだけた胸に口を寄せ、痛いほどに尖った亮の胸に舌を這わせていた。
「ん……、っ、ふぁ、」
 ぴくんと小さな乳首が跳ね、舌に当たるそのこりこりとした感触に、久我の脳は甘く痺れていく。
 いつか、寮の自室で起きた幻のような夜を思い出していた。
 あの時の亮と同じ味がする。
 だがあの時と違うのは、今、久我は亮の中に己を埋めているということだ。
 あの夜必死の思いで押さえ込んだ欲望が、とめどなく吹き出し続ける。
 久我の理性は完全に崩壊していた。
 成坂亮と性交している様を、成坂亮たちにじっと見つめられている。
 その倒錯感が久我をおかしくさせる。
 ふっ、ふっ、ふっ、ふっと、ひたすら獣のような呼吸を久我は繰り返し、持ち上げた亮の腰に激しく己を打ちつけていた。
 もっと。――もっとだ。あの佐薙よりもっと、亮を得なくてはいけない。そんな強迫観念にも似た想いが久我の中で膨れ上がりつつあった。
 佐薙に犯される亮を見て、あの時、怒りの中に隠れ、嫉妬の黒い熱が久我の中に生まれていたのかもしれない。
 亮にあれをするのは自分であるはずなのに、亮にああ言われるのは自分であるはずなのに――。己も気づかなかった己の言葉が今久我を支配していた。
 ぱちゅぱちゅと湿った可愛らしい音が結合部から上がり続けている。
 亮の幼いものは熱く張り詰め、先端から透明の雫を滴らせながら久我が突くたびにピタピタと己の腹を打っていた。
 亮も久我にされて感じているのだ。
 そう思うと久我は陶然とした目眩を覚え、愛しさで咽ぶように腰を突き上げる。
「っ、ひぐっ!」
 亮は引きつったような声を上げると、自ら腰を突き出し、その幼いものから淡いミルクを二度吹き上げていた。
 ひくひくとピンク色の先端が喘ぎ、その後もとろとろとだらしなくミルクを流し続ける。
「く、がぁ……」
 快楽に大きな瞳を潤ませ、亮が久我へ両手を伸ばす。
 久我はその手を取ると指を絡ませ合い、カーペットに押付けながら深く唇を合わせていた。
 甘い唾液の中に微かな血の香りがした。
 痙攣する亮の中が、不規則に久我を締め付ける。
「――っ、……、っぅ……」
 久我は亮に口づけしたままビクンと腰を跳ね上げ、達してしまっていた。
 亮の奥に自分の欲望が何度も何度も吹き出しているのを感じ、充たされる支配欲に恍惚となる。
 だが、その充足感は一瞬のことだった。
 唇を離し荒い呼吸のまま見下ろせば、快楽と虚脱で虚ろになった瞳でぼんやりと久我を見る亮の姿があった。
 唇の端の傷跡は、まるで誰かに乱暴された直後の象徴のようだ。
 久我の膝から力が抜け落ちていく。
 ずるりと亮の中から久我が引き抜かれる。
 緩く閉じられたそのつぼみから、とろりと久我の残滓がこぼれ落ちていた。
 官能的なはずのその光景を、本当なら望んでいたはずのその結果を、久我は直視できなかった。
 ぺたりとしゃがみ込んでしまった久我に向かい、亮は言った。
「くが……、トオル、いい子?」
「……っ、」
 久我は言葉を詰まらせた。
 そうだ。これは、亮であって亮でない。
 亮の形をした別の何かなのだ。
 それを成坂亮として久我は抱いてしまった。
 強烈な絶頂の後、胸を食い破られるような後悔が久我を襲っていた。
 力を失した手足で、後ろへ這い下がる。
 周囲の亮たちはそんな久我を不思議そうに見下ろし、久我に抱かれた亮はゆっくりと瞬きしながら身を起こす。
 いつもなら彼らの飼主である「パパ」とやらに褒めてもらえる行為なのだろう。
 なぜ久我がそうしてくれないのかわからないといった顔だ。
 吐きそうなのか、泣きそうなのかわからなかった。
 荒い呼吸のまま口許を押さえかがみ込んだ時点で、ようやく自分が泣いていたことに久我は気づいた。
 罪悪感と後悔で叫び出しそうだった。
「誰だ、おまえは」
 と――。
 その声は唐突に久我の上から降り注いだ。
 聞き覚えのない大人の男の声。
 無防備で無様な格好のままうちひしがれていた久我は、突然の状況に対応できず、ビクンと肩をすくめるとただその声の方へ顔を上げるしかない。
 そこに立っていたのは一人の白衣の男――。
 年の頃は四十代だろうか。金茶の髪を後ろに撫でつけたいかにも研究者然とした白人だ。
 やせ気味で高いほお骨の顔立ちは男の神経質さを伺わせ、その茶色い瞳は酷薄で理知的な光りを湛えている。
 久我の二度の人生の中で関わり合ったことのない人種に見えた。
「どうやってここへ来た」
 男の声は静かだが、その底に恐い響きが潜んでいる。
 どう考えてもこの男は敵だ。亮をさらった相手はおそらくこいつに違いない。
「っ、俺は……」
 久我の身体はそれでもその状況に対応しようと、反射的に膝を立たせ、ずり落ちたズボンを引き上げる。
「パパ!」
「パパ、おかえりなさい!」
 亮たちが歓声を上げながら男の周囲にまとわりつき始めていた。
 この男が、亮たちの飼主なのだ。
 どういう方法で彼らを手元に置いているのかはわからないが、この男は幼い言動の亮たちにいつも性的な奉仕をさせているに違いない。
 怒りと共に噎せ返りそうな嫌悪感が湧く。
 だが、それはきっとこの男に対してだけではない。久我自身に対して久我が感じていることなのだろう。
 自分はこの男と同じことをしたのだ。
 無様にズボンを引っ張り上げ、どうにかベルトを締めた久我は、唇をぎりりと噛み締め男をにらみ据えていた。
「てめぇ、成坂をどうした。こいつらは何なんだ」
「ほう、ネズミ。おまえ、亮さんの友人か。自我を保っているところを見るとソムニアだな」
 男の言葉が終わりきる前に、久我はジャケットのポケットから銃を取り出し、男に向けてポイントする。
 旧式のリボルバーを構え、ガチリと撃鉄を引き下ろす。
 眼前五十センチの距離に銃口を見据えても、しかし男は怯える素振り一つ見せることはなかった。
「くが、それなぁに?」
「トオルにもやって!」
「どうやって遊ぶの?」
 亮たちは久我の取り出した見知らぬものにワッと盛り上がると、歓声を上げて手を伸ばし始める。
 亮たちには『悪意』という概念がまるでないようだった。
 あたかも自我を持ったばかりの幼子が、世界の全ては自分のために存在しているのだと疑いもしないように、人を傷つけ殺すために存在する物があるなど、彼らは想像すらできないに違いない。
「っ、だめだ、これはおもちゃじゃな……」
 久我の注意が一瞬逸らされたその時。
 黒鉄を握りしめた久我の右手が不意に抵抗を無くす。まるで砂か何かを掴んだかのような感触。
 ドキリと視線を向けたその先には、果たしてその通りに、サラサラと砂鉄と化した久我の銃が指の間を通り抜け床へと降り注いでいく。
「!?」
 何が起こったのかわからなかった。
 だがそれを戸惑うだけの余裕は久我に与えられない。
 続いて久我の右手を襲ったのは、軽い衝撃と――激痛。
「がっ!!」
 鋭い悲鳴が久我の口を突いて出、右手を押さえうずくまる。
 痛みで震える手を薄明かりの中見てみれば、親指の付け根辺りに真っ黒な穴がぽっかりと空き、そこから泉のようにとろとろと熱い血がわき出ている。
 何が自分の身体にダメージを与えたのか、久我の目には全く見えなかった。
 こんな形の傷をつける武器すら頭に浮かばない。
 だが、この傷をつけた相手が誰かと言うことははっきりしている。
 目の前のあの男だ。
 距離を置こうと力を込めた左足に、再び衝撃と激痛が走った。
「つぁっ!!」
 今度はわずかながら、男の動きが見て取れた。
 男が久我の左大腿部に触れたと同時に、小さな肉片を飛び散らせ血飛沫が吹き上がったからだ。
 今度も小さなクレーターのように、久我の腿に穴が空いていた。
 痺れ。熱。そして数瞬遅れて、強烈な痛みが久我を焼く。
「ぐぁぁあああああああああああっっ!!」
 久我は呻きを上げ崩れると、左足を抱えて転げ回る。
 久我のその常軌を逸した様子に、亮たちは一斉に身をすくめると、怯えた野ねずみのようにベッドやタンスの影に身を隠してしまっていた。
 男はそんな亮たちを目を細め眺めると、ゆっくりと久我へ歩を進める。
 あまりの痛みと出血で、激しい嘔吐が久我を襲っていた。
 だが、戦わなければならない。
 今戦わなければ、久我は命を落とし、そしてこの先に居るであろう亮へ、このいけ好かない変態野郎を近づけることになるのだ。
(……んなこと、……させられるかよ……)
 久我は己を奮い立たせ、吐き気を飲み込むと、震える視界の中、必死に足を立たせて男を見上げた。
 男の手には小さく光る銀色の何かがつままれている。
 針だ――。そう久我が認識すると同時に、男は再び手にした針を久我の眉間へ打ち込もうと踏み込んでくる。
「……っ、がああああああっ」
 久我は痛みではね回る心臓を押さえ込み、残った右足で大きく後方へ飛んでいた。
 かすめる銀光。
 顔をかばった左腕に激痛が走る。
 だがそれと同時に、男の口から呻きが漏れていた。
 ぽたぽたと滴る血潮を穴の空いた右手で押さえ込み、久我は片膝をついたまま、強引に唇を片側だけ引き上げる。
「ネズミだって……、噛みつくぜぇ?」
「…………。」
 男は無言で己の指先を眺めると、ポッキリと真ん中から折れた針を爪の先ではじき飛ばす。
 瞬間、男の指先から細い血の軌跡が飛んだ。
 見れば皮膚の表面が剥がれ、細く針の形に血が滲んでいる。
「……イザ、か。気に入らん種だ」
 男は己の武器の破壊が凍結によって行われたことを瞬時に看破し、己の傷が凍傷によるものだと理解したようだ。
「てめーはなんだ? 能力ちっさ過ぎて針の剣しか振るえねぇ、一寸法師みたいなティヴァーツか?」
「これを見てあんな脳筋能力しか思い浮かばんとは、なんという貧弱な分析力。そして、能力もゴミ以下だ」
 指先に残る小さな傷にフッと息を吹きかけると、男は目を細め久我を眺める。
「まだ子供だな。せいぜい転生二度目と言うところか。……何もわからんガキに教えてやる。私の力はハガラーツ。精緻完全の力。フェムト単位の精確な針さばきで、アルマの構造を熟知した私が攻撃を行えばどうなるか、……おまえもその身で味わっただろう」
「っ!?」
「アルマには無数の瓦解点が存在する。原子の単位でそれを突いてやれば、簡単にその物自体を崩壊させることができるのだ。おまえのあの野暮ったい銃を美しい砂に代えてやったのと同じように」
 男は勝ち誇ったような笑みを浮かべると、ベッドを回り込み久我へ近寄ってくる。
「おまえの身体を蜂の巣にすることも、私には易いことだ。さっさと終わらせてもらうぞ」
 久我は凍り付いたように男を眺め、身動きすることすら出来なかった。
 男の手には新たな針が光っていたからだ。
 この男が言うことが真実ならば、今までの攻撃など、男にとっては久我の出方を見るための様子見に過ぎないのかもしれない。
 ハガラーツ能力者を久我は何人か知っていた。どれも個人業者の雑魚たちだが、機械のように精確な動きが出来るこの能力を使い、職人や外科医などの職に就いている者が多い。
 だが、それは一般の人間と比べれば凄い――というレベルのものであり、このような原子単位の話ではなかった。
 男の言っていることが法螺でないとするなら、この男はSクラスに相当するハガラーツ能力の持ち主だということになる。
「……なんなんだよ、てめーは。まさかIICRとか関係してるクチなのかよ」
「……。そんなことも知らずに私のセラへ入り込んだのか。おまえはヴェルミリオの手下ではないのか?」
「ヴェルミリオ……? 追放された前の俺らの親分じゃねーか。今はイザ・ラシャだ。まぁどっちも会ったことも見たこともねーけどな。……しかし、んな基本的なことも知らねーとなると、てめーは組織の人間じゃねーわな」
 痛みと失血で脂汗を浮かべながらも、久我は自嘲するように笑った。
 亮と関係する者は誰も彼もIICRに見えてしまう辺り、己のコンプレックスの強さを感じずには居られない。
「……っ、俺は、成坂のクラスメイトでルームメイトの、賞金稼ぎだ。……文句あっかよ」
 男は身動きの取れない久我の脇へ立つと久我を見下ろしていた。
 その顔には、先程までの苛立ちや憎しみのような色はなく、代わりに無表情の顔をした侮蔑がべったりと浮かんでいた。
「念糸……か。それで亮さんに着いてきたというわけだな。最近はクズ個人業者もシステムだけは一人前というわけだ」
 久我はポケットから伸びる念糸に視線を走らせると、隠すようにポケットに手を突っ込み相手を睨み上げる。
「焦らせてくれる。私はてっきりヤツの手がこんなにも早く伸びたのかと思ったぞ」
(ヤツ?)
 それは誰のことなのか。朦朧とした頭で久我の思考が愚鈍に廻る。
 久我の頭がその意味する人物に達する前に、久我の腹部に強烈な衝撃が走った。
 男が足を振り上げ、革靴のかかとで久我の腹を踏みつけたのだ。
 ゴスリと音がし、久我の口から血混じりの胃液が吹き上がる。
「おまえたちは目を閉じていなさい。パパはお仕事をしているからね」
 優しい声音で周囲の亮たちに声を掛けながら、男の足は何度も何度も久我の腹や胸、顔やそれを庇おうとする腕を力任せに踏みつけ続ける。
「ぐ、っ、げはっ、……っ、づ……」
 久我はそれをただ丸まって受け続けるしかなかった。
 意識を保つのが精一杯なのだ。
 力がどんどん抜けていくのがわかる。
 おそらく今ベッドで眠っている久我の肉体も大量に出血し、そばにいるはずの管理人は焦っているに違いない。
 死ぬかな、と思った。
 だが、死んでる場合じゃねぇ、と別の声がする。
 こんな嫌みな変態野郎を亮に近づけるわけにはいかない。
 飛びそうになる意識を気合いで引きつけ、口に上った酸っぱい液体をぷっと吐いてみた。だが、それは格好良く吹き飛ばすイメージとはかけ離れ、だらしなくタラタラと久我の口許から滴ったに過ぎない。
(……まずいな、こりゃ……)
 朦朧とした意識で自嘲気味にそう思った時。
 ふと、その猛攻が止まっていた。
 男は何かを思いついたように、久我の髪をつかみ上げ、身をかがめる。
「おまえ、亮さんが好きか」
 唐突な一言だった。
 久我は何も答えられない。「てめーの知ったことか」と言ってやりたかったが、声が出なかった。
 代わりにグブッと鼻血が吹き出し、緩く開いた久我の口許にするすると滴っていく。
 腫れ上がった瞼の向こうの細い世界で、男は初めて笑っていた。
「聞かずとも当たり前か。おまえクラスのクズソムニアが、あんな血の強いゲボと同室で過ごしていれば、どう足掻こうが煩悩の塊となるだろう。私のようなSクラスはおろか、数々のカラークラウン達の運命を彼はそのゲボで弄んだのだから」
「……っ、かんけ……、ねぇ、」
 呼吸音に混じってすきま風のような声がようやく出る。
 おまえには関係のない話だと言いたかったのか、成坂亮がゲボかどうかなど関係ないと言いたかったのか、久我自身にもわからなかった。
 朦朧とした意識の中、ただ否定の言葉だけが浮かんでくる。
 出ない声の代わりに、久我は精一杯の力で相手をにらみ据える。
「ふん……、なんだその目は。きれい事を並べ立てて、友情だの愛情だの言うつもりか? どう取り繕っても無駄だ。私がここへ入ってきた時、ズボンをずり下げて何をしていた? …………おまえ、ここにいる私の子供を抱いただろう」
 ぎくり、と久我の胸が鳴った。
 強気だった瞳に狼狽の色が揺れる。
「私が手塩に掛けて作り上げた、成坂亮の可愛いアルマコピーたち。彼らはまだ出来上がって数ヶ月だ。無垢で疑うことを知らない赤ん坊同様のあの子たちに、おまえはよからぬ悪戯をしたのだろう?」
「……、ぉれ、は……」
「言い訳はいい」
 男は突き放すように、久我の身体を解放していた。
 だが久我は反撃に打って出ることも出来ない。ただ喚き出したくなるほどの羞恥に身もだえするしかなかった。
 確かに久我は、男の言うとおりのことをしたのだ。しかもただの悪戯ではない。久我は何も知らないトオルを、亮に見立てて行為を行っていた。
 言い訳などしていいはずではないし、できるはずもない。
 だが男は久我の気持ちになど構うことなく話を続ける。
 そしてそれは久我にとって思いも寄らぬものだった。
「おまえに仕事をやろう。今おまえがしている賞金稼ぎのバスター職などよりは、よほどいい給料を払ってやる」
「……? なに……ぃって、ゃがる……」
「これから私は重要な研究に入る。おまえはここで、この子達のお守りをしていろ。可愛い我が子といえど、研究中は遊んでやれないからな。悪い話ではないだろう? さっきまでと同じように、子供達とじゃれていればいいのだから」
「……っ」
「まぁ、今のおまえの身体では満足に動くこともできんだろうがな。精々気を失わず、この子達を飽きさせないでいてくれればそれでいい」
「なに……、考えて、んだ、……てめぇは……っ。……ぶっ殺す、ぞ……っ」
「ふん。おまえの能力では私は殺せない。だから飼ってやろうと言っているのだ。うまく出来れば、今後も使ってやる。おまえの出方次第では、亮さん本人に会わせてやってもいい」
「!?」
「学友であるおまえがいれば、亮さんの精神も安定するだろうしな。亮さんの世話係くらいなら、無能なおまえにもできるだろう」
 男の酷薄そうな目は鈍い光を放って久我を映していた。
「……私は他の連中とは違う。あくまで学術的、科学的見地からあの子を必要としているに過ぎない。愚かしい情欲で独占したりはせんよ」
「……」
 男は本気なのだろうか。
 もしそうなら、久我にとって夢のような申し出だと言えた。
 だがすぐに「違う」と内なる声が聞こえる。
 何があろうと亮をこの男に渡すことなど出来るわけがない。
 それは久我にとって絶対だ。
 悪魔は甘い言葉で誘惑し自らを正当化するのだ。
 この男の目論見は何なのか、探るべきだと思った。久我を取り込んでまで行おうという亮の研究とは何なのか。それは単純に亮をゲボとして見ているだけではない、ということなのか。
 きっとこれは、今後の亮の人生にとって影を落とす重大な何かを孕んでいるに違いないのだ。
 だが失血で意識が朦朧とし、考えが廻らない。
 何を言えばいいのかわからず、久我は黙り込んでしまう。
 それを肯定と受け取ったのか、男は久我になど興味を失ったかのように背を向ける。
「パパは次のお仕事に入るからね。おまえたちはこのお兄ちゃんで遊んでいなさい」
 こわごわと物陰から顔を覗かせるトオルたちに甘い声音でそう言うと、男は奥の扉へと進んでいく。
「待て、よっ!」
 ようやく声が出たが、久我は立ち上がることも出来なかった。
 久我の数メートル先で、男は扉の脇に付けられたガラス製のプレートに手のひらを押し当てていた。
 微かな発光が起こり、分厚い金属製の扉は音もなくスライドする。
 強い光りが久我の目を焼いた。
 こちらの部屋が薄暗いため、久我の瞳孔は開ききり、あちらの部屋の光量を受けきれないのだ。
 だが、逆光の中、見えたものがある。
 部屋の中央に設えられた簡素な寝台。そして、その上に誰か横たわっている。
 這い蹲った久我が見上げ、その目に映ったのは、寝台の際から投げ出された手。
 十六歳男子にしては随分と華奢なその手の持ち主を、久我は知っている。
「なりさ……」
 だが久我の言葉が終わる前に、扉は男を飲み込み、あっという間に閉じられていた。
 暗闇が周囲を再び包み込む。
「成坂っ!!」
 それでも久我は叫ぶと、力を無くした足で立ち上がり、よろよろと扉へと近づいていく。
 扉へ寄りかかると、何度か拳で殴ってみた。
 だが、ノックの音さえ鳴らない。今の久我の腕に力が無いだけではない。扉自体が分厚い金属で出来ており、微かな衝撃などものともしないのだ。
 次に男が触れていたガラスプレートへ触れてみる。
 だが、見よう見まねで男のしたとおり手のひらを押し当ててみても、プレートは何の反応も示さない。
「……くそっ」
 わかりきっていたことだが、こうも反応がないとやりきれない気持ちが迸ってしまう。
 ガツンとプレートを殴りつけ、次に緩慢な動作で何度か扉へ拳をぶつける。
「くそっ、……くそっ……、んで、だよ……っ。なに、やってんだよ、俺は……っ!」
 拳に血が滲むが、全身血みどろになった久我にはその痛みすら感じることが出来ない。
 圧倒的な質量の前にペチペチという肉の当たる音だけが響き続ける。
 その無力な音を聞きながら、久我はそのままずるずると崩れ落ち、ついに意識を手放していた。