■ 4-61 ■




 
 どのくらい意識を失っていたのだろうか。
 久我はぶるりと身震いすると目を開け、己の状況を確かめるように頭を振って自ら覚醒を促す。
 とても長く眠っていたようにも感じられたが、実際は一瞬の意識低下だったのかもしれない。
 その久我の考えを肯定するように、久我の全身の傷口からは、生々しい赤が固まることもなくじくじくと流れ続けていた。
(……いてぇ……)
 傷口だけの痛みではない。金属製の分厚い扉にもたれかかって意識を失っていた久我は、己の肌がその金属へ張り付いてしまったかのような不可解な痛みによって覚醒させられたらしい。
 壁にべったりすりつけていた頬と指先は特に感覚を無くしており、久我は無意識にそこへ己の冷気を集めると、温度を調整しつつ肌を引きはがしていく。
「っつ……」
 どうにか身体を起こし、頬と指の感触を確かめた久我の背後から声が掛かったのは、その瞬間のことだった。
「どけ。邪魔だ」
 突然聞こえたその低い声に、久我はビクリと身を竦ませ振り返る。
 薄暗がりの中、一つの影がこちらへ向かってくるところであった。
 たった今、入り口側の扉を開けて進んできたであろうその影は、間を塞ぐ大きなベッドをふわりと飛び越えると久我の元へ歩み寄ってくる。
 いや、正確には久我の前にある扉へ向かって――だ。
 だが久我はその圧力に押されるように、扉へはりつく形となってしまう。
「誰だっ」
 淡い間接照明が足下から男の姿を照らし出す。
 微かな光でもわかった。暗闇の中から現われたその男は、黒いロングコートを羽織り一振りの和刀を腰に携え、そして――燃えるような朱い髪をしていた。
「っ!?」
 これほど見事な赤毛の人間を、久我は見たことがなかった。
 だが久我が目を剥いたのはそこではない。
 百九十センチを超える長身とそれに見合う長い足。一見細身に見えるが脱いだら凄そうな厚みのある体つき。切れ長の涼しい目の中には、ひたすら感情の見えない琥珀の瞳が嵌っていて、筋の通った鼻の下には酷薄そうな薄い唇が引き結ばれている。そしてそれらのパーツが絶妙のバランスで配置された輪郭は精悍な大人の物だ。この腹の立つほど整った容姿を持つ人間を、久我は一人だけ知っていた。
「エドワーズ……?」
 そこにいたのはクラスの女子が密かに騒いでいた英会話講師――ジョン・エドワーズ。
「うそ……だろ? なんでこんなとこに……」
 久我の知るエドワーズの髪は深いブラウンであり、こんな異様な圧力も放っていなかったが、どうみてもこの男は、無表情のまま鬼のような課題を連続爆撃投下するあのいけ好かない不良イギリス人講師である。なぜ一講師であるジョン・エドワーズが、このセラに――この特殊なセラに出現したのか。
 スクールセラと間違って迷い込んだのか、それともただの偶然なのか。流血と全身の痛みで思考停止を起こす久我の中で、後で考えれば絶対にあり得ない仮説ばかりが巡る。
「エドワーズ、ここはおまえの来るとこじゃねぇっ! 危ないから戻れっ!」
 ベッドや棚の陰に隠れ様子をうかがっていたトオルたちも、新たな訪問者を興味深げに眺め、そろそろと顔を覗かせる。
「また誰か来たよ?」
「くがのお友達かな」
「えどわー、くがよりパパよりおっきいね」
「くが、壊れてあんまり動かなくなっちゃったから、えどわーと遊ぼうか」
「壊れた子はハイキだもん、しょーがないよ」
「トオル、えどわーと遊ぶー」
 見知らぬ来訪者にトオルたちは色めき立ち、瞳を輝かせて男の周りへと集まり始める。
 だがこの英会話講師は眉一つ動かすことなく同じ顔をしたトオルたちへ視線を走らせると、無感情な声で言い捨てていた。
「……アルマコピーか。イカれているな、あの男は」
 凍てつく視線で睨み付けられたトオルたちは、ビクリと身をすくめるとその場で足を止めてしまう。
「な……なんなんだよ、おまえ。こいつらがなんなのか、わかるのか? 何もんだ!?」
「……いいからどけ」
 久我の問いには答えず、シドは長い腕を伸ばし久我の襟首を掴むと、無造作に後ろへと放り投げる。
 重力を無視し美しい弧を描いた久我の身体は、血の流線型を描き、部屋中央に陣取る大きなベッドの上でバウンドしていた。
「ぐあっ!」
 久我の口をうめき声が突く。だが男は振り向くこともしない。
「……てめっ、このやろっ! 怪我人に何すんだ! 暴力教師がっ」
 ベッドの上へ投げ落とされた久我は傷の痛みで飛びかける意識を強引につなぎ止め、その後ろ姿へ非難を囂々と浴びせていた。
「自業自得だ。大人の言うことを聞かず、のこのここんな所まで入ってくるからそうなる」
「は? 俺だって一度転生してる、十分過ぎるほどの大人だっ!」
 とそこまで叫んで、はたと久我は管理人が言っていた言葉を思い出していた。
『入獄したらその場を動かないで。赤い髪をしたでかくて恐いイザ使いが援軍に行くはずだから』
 目の前にその言葉通りの男が立っている。つまりこの男はソムニアであり、イザ使いであり、久我と同じく亮を助け出そうとしている人間だということだ。
「鬼講師。おまえが、管理人の言ったソムニアなのか? てか、ソムニアだったのかよ、おまえ。……な……、成坂とはどういう関係なんだよっ」
「無駄口を叩いている暇があったらこのセラを出ろ。巻き添えを食うぞ」
 久我から繰り出される矢継ぎ早の質問には一切答えることもなく、男は腕を伸ばすと分厚い金属製の扉へ触れる。
「ちっ、無駄だっ、その扉ウソみたいに頑丈でびくともしねーぞ。横のパネル操作して開けるらしいから、そっちをなんとかした方がいい。ここにいる成坂の分身たちに聞けばもしかしたら」
「ドアは、パパの言いつけがないと、開けちゃダメなんだよ?」
 久我の言葉を受け、トオルの一人がそう言った。
「そこをなんとか、頼むよ! な? おまえらいい子なんだろ?」
「いい子はドア、開けないよ?」
「お兄ちゃんをお迎えに行くときだけしか、トオルは開けたらダメなの」
「くがもえどがーも、トオルのお兄ちゃんじゃないから、そっちに行ったらダメなんだよ?」
 次々にトオルたちが否の声を発する。しかも意気揚々と得意げに。
「っ、いやだから、おまえらの兄ちゃんを助ける為にだな……」
「無駄だ。そいつらは何も答えん。制作者にそうプログラミングされているはずだからな」
「プログラミングって、こいつらを機械かなんかみたいに……」
「似たようなものだ」
 ジョン・エドワーズが久我へ振り返ることもなく無愛想に言い捨てた瞬間。
 久我の耳に鋭い痛みと同時に、キンと高周波音が突き刺さる。
「っ!?」
 何が起きたのかわからず、血だらけの腕で咄嗟に耳を覆ったその時、久我の目の前で信じられないことが起こっていた。
 青白い光りを鈍く照り返す眼前の黒壁一面が、エドワーズの触れた一点を中心に瞬時に輝きを無くしていく。
 うっすらと白く膨張していく壁は、まるで違う物質に作り替えられていくかのようだ。
「つっ……!」
 同時に先程までとは比べものにならない凍気が、久我の皮膚を切り裂き始める。
 皮膚の薄い頬や唇の表層が裂け、滲む血の雫がそのそばから凍り付いていく。
 耳を塞いでいた両腕を顔の前にクロスし、前方から吹き付ける獰猛な凍気をどうにか凌ぎながら、久我はそれでも起きている事実を見極めようと目を見開いた。
 眼球が凍らないように己の精一杯のイザを使い、僅かな粘膜部分をガードする。
「ウソ……だろ……?」
 この男はイザ使いだと聞いていた。
 つまり、信じられないコトながら、これは――この桁外れの凍気はこの男のイザなのだ。
 こんな破壊的なイザを久我は知らない。「ありえねぇ」「ウソだろ」という意味のない言葉だけが久我の中にリフレインする。
「セラ構成因子を素に作られた建造物は、打撃も斬撃も受け付けない。だが根源の電子周回を止めてやれば脆いものだ。おまえもイザ使いなら覚えておけ」
 壁の向こう側で喋ったような、遠くくぐもった声で男が言った。
 自分の鼓膜が凍りかけているせいだと、久我は口許を歪める。
 「巻き添えを食う」と言った男の言葉の意味が、今になって身をもって久我にもわかった。
 と――。
 パンッ――、と、乾いた音が久我のすぐ隣で聞こえた。
「!?」
 久我のすぐ横にいたトオルの一人が声もなく破裂したのだ。
 ピンク色の砂塵が青白い光りの中に雪のごとく飛び散り、さらさらと降り積もっていく。
 中心まで完全に凍り付いたアルマが膨張し、わずかな衝撃で自ら弾け飛んだのである。
 気づけば他の亮たちも一様に動きを停止し、彫像のように怯えた表情のまま男を見つめている。
「っ、おい! おい、エドワーズ! やめろっ、こいつら死んじまうっ、成坂たちがみんな凍って……」
「それは亮ではない。亮の姿をスタンプされただけのコピーだ」
「だけど、だけどこいつらちゃんと喋って、笑って、生きてんのに……」
「生きてなどいない。セラ因子を使って作り出されたセラの備品に過ぎない」
「備品って……! おまえ、鬼かっ、やっぱ鬼だぞ! 成坂の姿したこいつら殺して平気なのかよ!」
「備品ゆえに、アルマコピーはこのセラと連動している。壁を凍らせれば彼らも凍り、壁を壊せば彼らも壊れる。つまり――」
 壁を凍らせればトオルたちも凍り付き、壁を壊せばトオルたちも弾け飛ぶ。だが、壁を壊さなければ永遠に、成坂亮がいるであろう隣の部屋には行くことはできない。――男はそう言っているのだ。
 確かに、久我の現状と比べてトオルたちの凍結状況は異常だ。どんな無防備な人間だろうと、流れ弾の凍気を喰らっただけでこうはならないはずである。
 壁とトオルたちが繋がっているという男の言葉は、紛う事なき真実なのだろう。
「……こいつらに構ってたら成坂んとこ、行けないって……のか?」
 久我が呟くそのそばから、次々と乾いた破裂音が上がっていく。
 凍気に耐えきれなくなったトオルの個体が、まるで共鳴するように数珠繋ぎに弾けていくのだ。
 久我は思わず目を閉じ、唇の端を噛み締める。
 たとえ男の言うように「生き物」でなかったとしても。たとえ単なるプログラムを施された「備品」で、本当は感情など無い「人形」だったとしても。彼らはさっきまで生き生きと動き回り、しゃべり、笑い、泣き、久我へ話しかけていたのだ。
 成坂亮の姿をした彼らが無惨に壊れていくその様を、久我は直視できなかった。
「だからって……、もっと他になんか方法が……」
 そう女々しく呟いてはみたが、方法など他に無いのであろうことは、久我自身、身をもってわかっていた。
 壁は堅固でセキュリティは万全。時間は―― 一刻の猶予もない。
 目の前のあの男は、そのことをよくわかっているようだった。
 亮を助けるためなら、たとえ亮と同じ姿をした無垢な人形が怯えた目を向けていても、構わず破壊し突き進む。
「くそっ、……俺は甘いって?……」
「おまえも早くここを出ろ。同じようになりたくなければな」
 朱い髪の男の声が彼の大きな背中越しに、くぐもった音でそう聞こえてきた。
 どうやら一応久我に対しては配慮の心があるらしい。
 だがその言葉に久我は青いプライドを刺激され、カチンときてしまう。
「冗談っ、誰のおかげで、ここに来られたと思ってるよっ! おまえはあくまで俺の援護だろーがっ!」
「ガキが。口だけは一人前だな」
 英会話講師の呟きと同時に、周囲に響いていた高周波音がさらに一オクターブ音階を上げる。
 耳が――いや、脳が痛かった。
 耳を塞ぎたくとも顔面をガードするため両腕は前面でクロスしたままであり、セラ因子が強引に活動停止させられる時に発する強烈な軋み音は、直接、久我の鼓膜から脳に突き刺さる。
「ならばもっとイザのガードを上げろ。死なれては面倒だ」
「ちっ、んなもん上げなくても……この、程度、涼しいくらいだっ。血が止まって、かえって……好都合だぜ……」
 そう言ってはみたが、久我のイザはほぼ限界値を突破している。だが視界は白く濁り、音はますます遠くなっていくのだ。
「イザが凍って死ぬなんてダセぇ真似、できっかよ……」
 感覚の失せていく全身の細胞に活を入れ、久我は精一杯のイザを振り絞る。
 凍っていく視界が次第にコマ送りのように連続性を失い始めていく。
 壁の前に立つ朱い髪の英会話講師の姿が、途切れ途切れに前後左右に揺れていた。
 いや――、違う。と久我は判断する。
 男が揺れているのではない。自分が震えているのだ。
 自らの命を守るため、イザである久我が人間の本来持ち合わせる保温活動を起こしているらしい。
「ギリギリ過ぎんだろ――俺……」
 自嘲気味に笑みが口を突く。
 この震えが止まったとき、おそらく久我もアルマコピー達と同様の運命を辿るに違いない。
 この男は――ジョン・エドワーズという目の前の男は何者なのだろう。
(こんなアホみたいな凍気、イザ・ラシャだって使わねーだろ、きっと……)
 半笑いで現カラークラウンの名を思い出し、ふと、さきほど白衣の男が口走っていた言葉が久我の中に蘇る。
 確かあの男は言った。「おまえはあいつの手先ではないのか」と。
「っ!?」
 朱い髪。
 傲岸で冷酷で破壊的な性格。
 そして歴代イザクラウンの中でも屈指の付与能力。
 久我の中に一人の男の名が浮かんだ時――、凍霧を上げて壁が崩れ始める。
 地響きがセラ全体を襲う。
 久我はガードしていた腕を降ろし、四つ這いで必死に体勢を保ちながら、それでも眼前の光景を見据え続けた。
 セラ因子を用いて作られた完全なる鉄壁は最早そこには存在しなかった。
 薄汚れたパウダースノーのようなグレーの塊が次々と崩落し、壁一面が消失していく。
「イザ・ヴェルミリオ……?」
 朱い髪の背中は久我を振り返ることもなく、瞬く間に氷煙の中、消えていく。
 成坂 亮を助けに行くのだ。
「冗談……」
 亮があの夜何度も口走った名前は何だったか。
 前イザクラウン、イザ・ヴェルミリオ。
 確か、かのカラークラウンの名は――。
「シド・クライヴ。…………シド、シド……シドって……、このシドかよ……」
 久我は確信しながらも愕然とする。
 久我の勝負すべきライバルは、どうやら恐ろしくタチの悪い相手のようだった。