■ 4-68 ■



 鬼だ。と、亮は思った。いや、正確にはこの時点ではそんな感想を持つ余裕すらなかったが、この状況が過ぎ去った後はいつも同じ言葉しか浮かんでこないのだから、今もきっと目の前の男は鬼なのだ。
 眼前の朱い鬼は、容赦なく真剣の長刀を振り下ろし、振り下ろすと見せかけて横に薙ぎ、本気で殺そうとしているとしか思えない太刀筋で淡々と亮を追い詰める。
 それを長棍で懸命に受けながら、亮は横に飛び、次の攻撃をすんでの所でどうにかかわす。しかし剣気の切っ先は亮の二の腕をかすめ、引いた血の糸を瞬時に凍らせては朱煙にして月光の青い夜闇に消していく。
 亮にはそれを気にする余裕もなかった。攻撃は息を吐く間もないほどの連続性をもって行われ続ける。
 しかも今居る深夜のビル街は人の気配こそなく周囲の巻き込みを心配する必要はなかったが、路地の入り組んだ場所であり、一歩間違うと亮の長い得物には不利な狭い空間へ入り込んでしまう恐れもある。
 周囲の状況を見極めながらこの猛攻とも言える攻め手から逃れるのは恐ろしいほどの集中力が必要だ。
 次の一撃を大きく上へ跳躍しかわした亮の足下へ、殺意まで帯びた凍気が迫る。
「っ!」
 空中にその身を置くが故に亮にはその一撃から逃れる方法がない。
 しまったと歯を食いしばり突き出した棍は空を切り、容易に足を切り落とすであろう凄まじいまでの剣の軌跡が亮のズボンへ食い込んだ――瞬間。
「がっ!」
 亮は苦悶の声を上げ、ビルの外壁に叩き付けられていた。
 確かに切っ先で薙ぎ斬られたはずなのに、亮の足はきちんと着いており、じんじんと尋常でない打ち身の痛みを訴えている。
「空中では隙も大きくなる」
 街路に倒れ伏す亮の視界に大きな黒いブーツが映ったが、はぁはぁと息を切らした亮には起き上がることも出来ない。
 それでもどうにか顔を上げれば、目の前に白刃の切っ先が突きつけられていた。
「おまえは動きに無駄が多すぎるんだ。そうぴょんぴょん飛び回っていてはスタミナも集中力ももたん」
 あんな攻撃を一時間近く受け続けていたのだから、スタミナも集中力も十分だろ! と声を上げたかったが、それすらままならず、亮は震えるように身体を起こすとビルの壁にもたれかかり、もの言いたげにシドの顔を見上げた。
 しかしシドはそれ以上なにも言わず、クイッと刀の切っ先を動かすことで亮に立ち上がるよう指示を出す。さすがにその態度にカチンと来た亮は、荒い呼吸を隠すことも出来ないままようやく噛みついていた。
「っ、も、今日だけで、……、これ、二十本、は、やってる!」
「だからなんだ」
「ぉ、まえ、みたいな、スーパーサイヤ人と、一緒にすんなって言ってんだ! なん、で、オレと同じだけ動いてて、シドは、息も切れて、ねーんだよっ」
 シドは口の端を軽く引き上げ、見下したような笑みを浮かべると、突きつけていた刀をすらりと鞘に収める。
 そんな当然のことに答える意味もないといった風情に、亮はますますいきり立ち、棍を放り投げると「もう今日はやめる!」と叫んだまま大の字に寝転がってしまう。
「そうか」
 しかしシドはそれをとがめることもしない。今の状態で訓練を続けては、亮は取り返しの付かない大怪我をすると判断したのだろう。
 それに加え今日はセラでかれこれ八時間以上もこの地稽古を行っている。もちろん地稽古とは言ってもシドと亮では対等にやり合うことは出来ないため、十二分にシドが手を抜いてはいるのだが、それでもそれなりのレベルを保ったままやりあっていることには変わりなく、一日の訓練分としては十二分に身のあるものとなったはずである。まぁ一言で言えば「それなりによくがんばった」といったところであろうか。
 では戻るか――とシドが声を掛けようとしたその時、亮のジーンズのポケットに収まっていた携帯電話がバイブレーションを始め、荒い呼吸のまま亮はノロノロとそれを取り出し、やって来たらしいメールに目を走らせる。
「…………っ、シド」
 そう名を呼んだ亮の声は先ほどまでのへたばったものとはまるで違う色を帯びていた。
 何事かとシドが目を向ければ、亮は携帯をぐいっとズボンにねじ込み、バネ仕掛けの人形のような勢いで跳ね起きる。
「やめるのやめる」
 呟いた亮の息はまだ切れているものの、その瞳は爛々と輝き、完全に生気を取り戻している。
「どうした。すぐへこたれるおまえらしくもない」
「っ、うっせー、んなことねー! てか、久我、が、シュラと、獄卒狩りの模擬訓練するって、言ってるっ。……そんなの、素人がやっていいのかよっ! やっちゃダメだろっ!?」
「さあな。だがシュラは獄卒狩ってメシを食ってるヤツだ。そいつがやると言っているのなら構わないんだろう」
「っ、だけど、さ、獄卒狩りなんて、下手したら寂静されちゃうんだろ!? そんなの危ねーよっ」
「久我の新しい能力は短時遡航だと聞いた。それに頼り切って容易に死なないようにするには、そのくらいの心構えが必要なのかもしれんな。……なんだ、久我が心配か?」
 少々笑いを含んだ声音でシドが問えば、亮はますます憤ったように鼻息を荒くする。
「ずるいんだよっ、久我はっ! そんなの、ずるいっ!」
 亮の言い様に、どうやらこれは心配ではなく『嫉妬』なのだと気づき、シドは思わず口の端を引き上げる。ライバルが先に行こうとする焦りと嫉妬で、亮の闘志に火が点いてしまったに違いない。憤り方はどうにも幼稚だが、その根底に流れるものは間違いなく男としての本能だ。
「あと、百本、地稽古するっ!」
 立ち上がった亮はふらつく足で放り投げた棍を拾いに行くと、再び萌葱色の得物を握りしめ、シドに突きつけて鼻息も荒く構えていた。
「……口だけでなければいいがな」
「うっせぇ、そっちが来ないなら、こっちから行くぞっ!」
 呼吸を整えた亮の足がタッとアスファルトを強く蹴り、前方へ飛び出してくる。
 それを半歩後ろへ身をずらしただけでかわすと、シドは再び剣を抜いていた。
 実は先ほどからシドの携帯電話も鳴り続けている。
 亮との稽古の後、仕事が三件ほど入っているのだ。時間になっても戻らないシドに、秋人が焦れて携帯を鳴らしていることは電話を取らずともわかる。
 シドはこちらへ踵を返す亮の姿を視界の端に収めながら、携帯電話の電源を切っていた。





 シドが自宅の玄関をくぐったのは二十二時を大きく回った頃だった。亮との訓練を終えたのが二十時十二分。その後、垂れ流される秋人の文句を聞き流しながら立て込んだ仕事三つをこなし、ようやくの帰宅である。
 玄関の電気こそ消えていたが、廊下を進めば奥の扉の隙間からは明かりが漏れている。八月まっただ中であるこの季節、室内に入ればエアコンが快適な室温を届ける音が微かに響いていた。
 だが、聞こえる音はそれだけだ。
 いつもやかましい同居人の声が聞こえず、不審に思ったシドは明かりの点いていた寝室を覗く。が、そこに探す姿はない。
 そこで眉をひそめ、今度はキッチンへ足を向ける。
 案の定、亮をそこに見付けシドはため息を吐く。
「……」
 明かりの煌々と点いたキッチン。ガスレンジの前で、亮は右手にお玉を握りしめ、左手からは菜箸をこぼし、まるでひざまづくように腰を落とし、おでこを台にくっつけて瞑想状態だったのだ。近づけばくーくーと笑ってしまいそうなほど安らかな寝息が聞こえる。
 ガスレンジの上にはすでに湯気をたてていない鍋が鎮座していて、中を覗けば豆腐と油揚げの味噌汁が無表情なシドの顔を映し込んでいる。どうやら亮はガスの火を止め味噌を溶かしている最中に眠ってしまったらしい。
 呆れかえったシドは、
「おい、いつからこんな格好で寝てる」
 と、亮を起こすべく屈み込み声を掛けてみた。その問いかけに微かに身じろぎし、それでもどうにか、目を半眼に開いた亮はうにゃうにゃと聞き取れない言語をいくつか喋った後、
「……ぉ、しろ……、今日の味噌汁、味噌味でいいか?……」
 と真顔で問いかけてきた。
「…………」
 だが、味噌汁に味噌味意外何があるのかという素朴な疑問を問いかける隙をシドに与えず、亮は再び目を閉じ、ごちり、と鈍い音を立ててガス台と仲良くしてしまう。
 ため息混じりにシドがその手に握りしめられたままのお玉を取り上げ、「こんなところで寝るな。邪魔だ」と不機嫌そうに亮の身体を抱き上げれば、不意に体勢を崩された亮は、「んん〜……芋はもうぃぃ……」などと少しばかり抗議の声を上げてみる。だが、そばに馴染みの首根っこがあることに気がつくと、仕方がないとでも言うようにしがみつき、口元にむにゃむにゃと間抜けな笑みを掃いて本格的に眠り始めていた。
 シドはそんな亮を仏頂面のまま寝室へ運び、ベッドの上へ放り捨てる。
 バフンとシーツの海へ投げ出された亮の軽い身体はしかし、起き上がるでもなく文句を言うでもなくそのままの格好からピクリとも動かない。信じられないことに爆睡体勢に入っているようだ。
 ギシリとベッドに乗り上げ、シドは眠り続ける少年の顔を見下ろす。
 コンロ台に長時間くっつけていたせいで少し赤くなった額を撫で、次に頬についた微かな切り傷を指でなぞれば、既に傷が塞がりかけているのがわかった。
 よく見れば、シャツから零れた細い肩や二の腕、脇腹にも絆創膏が貼られているようだ。今日の鍛錬でついた傷を、壬沙子辺りに治療してもらったのだろう。
「まったく……少し気合いを入れすぎだ。極端すぎるんだ、おまえは」
 低い声で呟けば、亮の白いまぶたが微かに動き、左手がもぞもぞとベッドの上を這い始める。どうやらお気に入りのタオルケットを探しているらしい。その仕草に気づくと、シドは足下に丸まっていたそれを亮の顔の上に無造作に落としてやった。
「…………ん」
 ノーヴィスに買って貰ったという肌触りの良いそれを抱え込むと、亮は続いて右手をぺたぺたと動かし、再び何かを探し始める。
 探索ポイントはいつもシドが寝ているはずの、ベッド右半分にあたるスペースだ。
「…………」
 あまりにも苦悶に満ちた表情で右手を動かす同居人に、シドは再び深いため息を零していた。
 セラから上がった後、下のシャワールームで汗は流してきたが、夕飯はまだである。
 この後の彼の予定としては、ガッツリ夕食を食べた後、ゆっくりとバスルームを使い、珈琲でも飲みながら新聞や情報機関誌などをチェックするつもりだったのだが――。
 眉根を寄せ難しい顔で右手を動かす亮の傍らへ腰を沈めると、シドはシャツにスラックスといういつもの服装のまま肘を立てて身を横たえる。
 と、すぐにそれを探し当てた亮は、「お、あったあった」とでも言いたげな様子でもそもそと寄ってきてピトリとシドの胸元に頬を寄せ、半開きの口のまま満足げに寝息を立て始めていた。
 冬場、やたらとシドから距離を取りたがる亮は、夏場、暑い季節になると現金なまでにシドへと寄ってくる。
 八月という夏まっただ中の今夜も、酷い熱帯夜になりそうな気配だ。
 やれやれと眉をひそめた元イザ種カラークラウンは体温の高い少年の身体を抱き寄せ、ブランケットを肩まで掛けると静かに目を閉じていた。

 いつの間に自分は眠ってしまったのだろう。ここはどこだ? あれ、ご飯どうしたっけ――、などといくつもの疑問符を寝ぼけた頭に巡らせつつも目を覚ました亮は、自分の身体が気持ちの良いひんやりとした体温に包まれていることに気がついた。微かに視線だけを上げてみれば、煌々とした眩しい明かりの下、シドの整った顔がすぐそばにある。
 瞳を閉じたまま緩い呼吸を繰り返すシドの顔を、珍しいものでも見るように亮はしばしの間じっと見上げていたが、それも束の間のこと。すぐにまぶたがゆるゆると下がってきて、再び眠りの中に落ちていく。その口元に微かな笑みを携えて。
 これが今の彼らの日常。日々はゆるやかに流れていく――。



                         − 四章 了 −