■ 5-14 ■




「さいっあくだよ。僕の代になってまさか執事でもない一般人をセブンスに入れることになるなんて!」
 シャルル・ルフェーブルのマシンガン愚痴は先ほどから止まることを知らない。
 本日三杯目になる赤ワインのグラスを傾けながら、向かいのダイニングチェアに座って同じくグラスを呷りパイを囓る二人のゲボへ迸る苛立ちを吐き出し続け、すでに三十分が経過していた。
 広めの丸テーブルの上には、大きなシェパーズパイの皿とワインが数本(うち空き瓶は既に3本)、色とりどりのフルーツが盛られた深皿に、ショコラやビスケット、スコーンやマフィン、宝石のようなジャムが飾り付けられたデザートタワーまでも並べられ、ちょっとしたパーティーといった風情である。
 セブンスの最上階に位置するこの部屋は、ここの住人であるゲボ達とそれを世話する執事以外立ち入りを許されていない場所だ。
 ワンフロア全てが彼らの憩いのスペースであり、簡単なジム施設や小さなプール、入浴施設、簡易バーやキッチンなども備え付けられている。
 仲の良いゲボ同士は互いの部屋を訪問することもあるが、大抵はこのラウンジに集まってウダウダと喋ることが多い。
 全面が偏光ガラスで覆われたこの部屋から見える景色は最高で、地上22階から見る眼下の森は雨露で艶めかしいグリーンに輝き、遠くに光る湖の蒼と相まって一幅の絵画のようですらある。
 柔らかな日差しにまどろみながらおいしい食事とおいしい酒が存分に提供されるここは、ゲボ達にとって社交場として最高の場所であるといえる。
 朝の本部会議が終わったその足で、シャルルはふらりとこのゲボ専用ラウンジに足を向けていた。
 ウルツ・インカのリザーブが入っていたがそれを構うことなくキャンセルし、フルーツをつまみに飲んだくれる少年クラウンは、木製の丸テーブルへだらしなく上半身を投げ出してこの部屋の常連であるララとジュリアを相手に何度も同じ話を繰り返す。
「そんなに嫌なら今からでも断って、トオルには別の執事つけたらいいじゃない。あんた今そんだけの権限持ってんだからさ」
 ショートカットの黒髪を持つ小柄な美少女が辟易した調子で溜息をつき、パイの形をした肉とジャガ芋の塊を口の中に放り込む。
 その横でブロンドの長い髪を波打たせた二十代前半と思しき美女は、シャンパンに落としたイチゴをつまみ上げ、ぱくりと頬張ると一気にグラスを空けていた。
 但し書きをしておけば、少女にしか見えないララは四十歳を超えているし、二十代の若い色気を存分に発しているジュリアは三十後半である。
「っは〜、うまいっ。……うんうんそうだよ。こんなとこでうちら相手に管巻いてないでさ。いくら理事会の決定だろうと、セブンスの中はゲボのカラークラウンが絶対なんだし」
「……理事会相手ならとっくにしてる」
「あ〜……頼んできたの、ヴェルミリオだっけ? あんたあの男のこと大好きだもんねぇ。確かに顔とスタイルは私も好きだけど」
 呆れたように肩をすくめたジュリアは、空になったグラスへ再びシャンパンを注いでいく。
「え、うそ。ヴェルミリオ!? なんであいつが出てくんの!? 機構追放になった悪男じゃない」
「ララ、一昨日のコモンレター読んでないの? あいつ戻ってきて今イザのクラウンまた始めたんだよ!?」
「えええええっ、マジ!? よくヴァーテクスが許したね」
「ビアンコの勅令って話だもん。そりゃなんでも通るわよ。そんだけ人手不足が深刻ってことじゃないの、いまのウチの組織」
 ヴァーテクス──理事会中枢部である組織ですらそれを許していると言うことにララは衝撃を覚えたらしく、ゴホゴホとむせながら喉の奥につっかえたシェパーズパイを胸を叩いて胃の中へ収めていくことに必死だ。ひとしきり苦しんだあと傍らのワインを流し込み、目を丸くしたまま感想を続ける。
「っへぇ〜。それでもヴェルミリオがこっちに戻ってくるなんて意外。IICRなんてあいつにとって敵だらけで居心地最悪でしょうに。クラウンに固執するような権力重視のたまでもなさそうなのにねぇ」
「だーかーらートオルが入院してんでしょうが」
「??? どゆこと???」
「相変わらずララのおバカちゃん」
 呆れたように肩をすくめる親友に、ララはぷーっと頬を膨らませ「わかるように言え」と抗議の声を上げる。
「トオルを入院させる交換条件としてヴェルミリオがこちらに戻らなきゃならなかったってこと。そんだけ深刻みたいよ? あの子の病状」
「あ〜あ、なるほど。トオルを助ける為に、か。ひぇっ……あのヴェルミリオがねぇ。それはそれで驚きだわ」
「とーるはカンケーないっ。シろは僕がお願いしたから戻ってきてくれたのっ」
 若干呂律の回っていないシャルルが座った目でギロリと二人を眺める。
 そんな自分たちのボスの様子にララもジュリアも苦笑するしかない。カラークラウンを襲名したと言ってもやはり彼はまだまだ子供で、自分たちが支えてやらなきゃ──という仲間意識とも母性本能とも取れる感情が湧き出してくるのを止められなくなってしまう。
 これだけツンケンして上から物を言う態度を隠さない子供にカラークラウンを継がせたガーネットの考えに、シャルルを知らない者からは異論の声も上がったそうだが、彼をよく知るゲボたちには「やはり」という感想しか上ってこなかった。
 その能力値の強さは折り紙付きであるし、何より何をしてもどんな態度を取っても憎まれない彼の持つ元々の空気感はゲボの能力とは別のところで「特別」であると言える。
 ゲボ能力の強さの表れとも捕らえられがちだが、それがララ達ゲボにも通用しているところを見ると、人間としての元々の属性なのだろう。
 なんにせよ得な性分であるといつも彼女たちはうらやましく思う。
「シャルー、もうあんな顔だけ男やめときなよ。他だってナカナカいい男いるよ?」
「そうそう。シャルはカラークラウンになったんだから、もう相手は別にクラウンじゃなくたっていいわけだしさ。その辺あたしらと違って自由でいいなーって思うよ」
「元クラウンのラシャとかいいじゃん! 年齢的にも能力数値的にもシャルとばっちりだし、何より面食いのあんただってあれなら及第点でしょ」
「ばっか、ジュリア。ラシャにはもうラブラブ彼女いんじゃん」
「うっそ、ショック! 私いつか指名されること期待してたのにっ! 誰よその王子キラーな女わっ」
「女──というか切り替え型の子。ラグーツの男の子って話だけど……、最近くっついたばっかで目も当てられないバカップルっぷりって聞いたわ」
「は〜、いい男には絶対もう誰かいんのよねぇ。私たちってゲボでモテモテ能力のはずなのに、なぁんか報われてないよねぇ」
「それは言わんでください、ジュリアさん」
「そもそも私たちクラウンしか相手にできないってのが出会いを狭めてんのよっ。能力値高い=男としての魅力が高い……じゃないもんなぁ。シャルはその点クラウンどころか世界中の人間を相手にできるわけだし、なんなら一般人だって──」
「修司は関係ないらろっ! ボクはあんな一般人、ホント、めーわくとしか思ってないんらからねっ!」
「「へ?」」
 聞き慣れない名前が突然飛び出し、ララもジュリアも目を丸くしてマシンガントークを引っ込める。シュージとは誰なのか。そもそも何がシャルルの心の琴線に触れたのか、先ほど亮の話が出た時以上に鼻息が荒い。
 プラチナブロンドの少年はデザートタワーに並べられた高級ショコラを一気に三つつかみ取ると口に放り込み、何の感慨もなくモグモグとかみ砕き、味わう間もなく嚥下する。
「シュージって誰、なに」
 ララはこの謎の状況におそるおそる質問を口にしていた。
「とーるのチビにくっついてきた一般人の兄貴らよっ。シろに頼まれなきゃあんな市井のどこにでもいるフツーーーーの男なんかこのセブンスに入れたりしないんらボクはっ」
「……な、なんで急にその話に戻るわけ? あんたの新しい恋人候補の話してたつもりだったんだけど」
「もしかしていい男なの!? そのシュージって一般人!」
 喰い気味に来るジュリアにギロリと不機嫌な睨みを利かせると、シャルルはテーブルをバンバン叩いて「否」を口にする。
「話きいてたのか?ジュリアっ。普通で凡庸で厚顔無恥で下品な一般人らって言ってるらろっ!!」
「ええええっ、下品なの? それは嫌だなぁ。あのトオルの兄っていうから期待したんだけど」
「あのチビ助の兄らからこそ下品で十人並みの顔なんらよっ! わかるらろ、あの鼻でも垂らしてそうなアホ面の大人版なんらからっ」
「う〜ん、なんか私とあんたじゃトオルに対して見解の相違が著しい気がするけど……」
「ララ、やめときなって。シャルの目にはヴェルミリオ大好きフィルターが掛かってるから、そこ突っついても何も出てこないよ」
 ジュリアがひそひそと隣の親友に耳打ちすれば、ショートカットの美少女はなるほどとばかりこっそりと頷く。
「あとでお見舞いがてら覗きに行ってみようか」
「いーねぇ、行く行く。執事以外の一般男なんてもう三十年以上見てないもん」
 きゃっきゃと盛り上がり始めたゲボ達に、シャルルは鋭い声で釘を刺す。
「とーるの部屋に行くのは禁止らからねっ。あの一般人がゲボ能力にあてられて暴走れもしたらボクの責任問題になる。しゅーじは執事たちと違って性的不能者れもないし、おまえたちが危険にさらされるのを見過ごすわけにはいかないからっ」
「ええええ〜、大丈夫だよぉ。あのトオルの側にいてそーゆーことしてないんでしょ? だったらゲボ耐性のある血なんだよ、その男は」
「そうそう! 一般人にはごく稀にそういう血族がいるって言うじゃない。そうじゃなきゃ兄ポジションに居るような男、真っ先にあの子食べちゃってるよ」
 明らかに不満顔で口を尖らせるララと、理屈でねじ伏せようとするジュリアに対し、シャルルは頑として首を縦に振ろうとはしない。
「厚かましくれ貧弱れ足短くれ愚劣れ野蛮れ下品れ不細工らって言ったろ!? 危ないからダメらよっ」
「……そ、そこまで言ってたっけ?」
「ララ、やめとこう。ゲボ・プラチナの勅命だよ。シュージは危険人物ってことで話は終了だわ」
 そうジュリアがララの肩を叩けば、ララも渋い顔で頷く他ない。
「うん、そう。あれはホンローに危険人物。だからボクは今困ってるし不機嫌らのっ。あんな凡人の見張りをしなきゃいけにゃいなんて、ボクという人間の損失れすっ」
 深い溜息を一つつくと、完全に虎と化したゲボ・プラチナはふらりと立ち上がり、おぼつかない足取りでエレベーターへと歩き出す。
「あれっ、シャル、帰るの?」
「ん。ねるっ」
 そう一言答えて扉を出て行くゲボ・クラウンに、生暖かい視線を送る彼女たちは確実に一つの真実に気がついていた。
「ねぇ、ジュリア。シュージって絶対いい男の気がする……」
「シャルの言葉から推察するとゲボ耐性の血持ちの上に──控えめで、スタイルいいのにそれなりに逞しくて、頭良さそうで、優しそうで、上品な美形──ってとこでしょ」
「やだ、会いたい」
「私も」
 二人がどうにもならないこの状況を確認し合い深い溜息をついたとき、不意に再び扉が開く。
 シャルルが何やら忘れ物でもして戻ってきたのかと二人が視線を飛ばせば、そこに現れたのはブラウンの長い髪を二つのお下げに縛ったやせっぽちの少女である。
 黒縁のロイド眼鏡を掛け今時珍しいクラッシックな紺のワンピースを着た彼女は、神経質そうに辺りを見回し、両腰に拳を添えて肘を張りツカツカと二人の元へ歩み寄ってくる。
 南米系の褐色の肌にうっすらそばかすの乗った頬を持つ彼女は、年の頃はまだ十代前半のように幼く見えるが、これでも年齢はすでに三十路を超えている。どうしても見た目若く見えてしまうのはゲボの特性である。
 少々つり上がった意志の強そうな茶色の瞳と気の強そうな眉。むっつりと引き結ばれた薄い唇が彼女の気むずかしさを体現しているようで、こういった彼女の特徴が嗜虐心を煽り、それなりにゲストもきちんと迎えているらしい。
「あら。二人だけ? プラチナはここだってライス執事長に伺って来たのだけど」
 少女が眉を寄せいぶかしげにもう一度周囲を見回す。
「あ〜残念、入れ違いだね。今帰って行ったわよ」
「なに、グリエル。シャルになんか用事? 部屋に行けば会えるだろうけど、べろべろになってたから多分帰ったら即寝だね、あれは」
「……はぁ。もう、ゲボクラウンの身でありながら泥酔するなんて、本当にどうしようもない。それから、ララ。シャルなどと気安く呼んではいけません。きちんとプラチナとお呼びなさい」
「はいはい」
 めんどくさそうに肩をすくめたララの向かいに腰掛けたグリエルは「ハイは一回!」ともう一言注意を添えると、大きく溜息をつき、悩ましげに額に手を当てる。
 そんな彼女の前からシャルルの残したグラスや食器を片付けるため、ラウンジ付きの執事達が忙しなく動き回り始め、見る間にテーブルは新しい料理やグラスが並べられていく。
「ちょっとバズ、ワインもう一本持ってきて〜」
「あたしはシェパーズパイおかわり。あとフライドグリーントマトも」
 それを機にララとジュリアも仕切り直しとばかり注文開始だ。
「あなたたちちょっと食べ過ぎじゃなくて!? ゲボたるもの常に美しくあらねばならないとガーネットもおっしゃってたでしょうにっ」
「うっさいなぁ。ちょっと食べたくらいでゲボに体型変化が出るわけないっしょ。てかアンタは牛でも食べてもっとおっぱい大きくしなよ」
「っ!! わ、私はこの体型で満足していますし、ゲストの方々もこのくらいスリムな方がお好みだとおっしゃってくれていますっ」
「まぁグリィのとこに来る連中はそうかもねぇ。ロリコン、どSの変態ばっか」
「私のことはいいですが、クラウンの方々の悪口は感心しませんよ、ララ。みなさん素敵な紳士ばかりです」
「へーへー。あんたはゲボの鏡だよ。で、ダメゲボの私はキャビア食べ食べもう一杯おいしい白をいただくのであった」
「ジュリアは飲み過ぎですっ!」
 普段あまり部屋から出てこないグリエルがこのラウンジに顔を出したのは約2ヶ月ぶりで、いい酒のつまみが出来たとばかり、ララもジュリアも彼女を早速つつき始めた。
「あんた久々に顔出したと思ったら説教しにきたの? もっと楽しみなよ。ほら、パイ分けてあげっからさ」
「私、お肉はいただきませんの。可愛そうな動物たちを生み出さないためにも、先月からお野菜以外いただかないことにしています」
「げぇっ、ビーガン!? ソムニアの長い人生でそんなの地獄じゃん。何が哀しくてそんな苦行の日々を自分から歩むかねぇ」
「あはは、んなリアクション大きくしなくても大丈夫だよジュリア。どーせ来月はまた別のブームが来てるよグリィには。続くわけないない」
「そっ、そんなことはないですっ。今度の決意は本物で──」
「はいはい。じゃあ気の毒なグリィの前で私だけおいしいお肉をいただいちゃおう。コージィ、おいしいステーキ追加〜。コーベギューのヤツお願い」
「あ、コーベギュー食べたい! コージィ、私にも焼いてー。レアでガーリックたっぷりよろしくぅ」
「う……」
 香ばしい臭いとジュゥジュゥという食欲をそそる音を存分に発揮しながら運ばれてくる分厚い肉達に、グリエルは言葉を詰まらせると思わず手元のコーヒーを引き寄せ、グビリと呷る。
「んで? 今日はシャルルに何の用事なん?」
「そうそう、それ私も知りたい」
 モグモグと大きな肉の塊を頬張りながら、二人のゲボがグリエルを見る。
「用事……というか、少々意見を」
 両手で包み込んだコーヒーカップをコトリと置くと、グリエルは黒縁のロイド眼鏡をくいっとかけ直す。その動作の全てが気むずかしい文学少女といった風情だ。
「意見? なんの。ガーネットの後釜にはやっぱり自分の方が相応しいとかそういうこと?」
「カラークラウン襲名の件ならもうシャルに決まっちゃったんだからどうしようもないじゃない」
「ちっ、違います! そのことじゃありませんっ。私が陳情したいのは、執事でもない一般人──それも男性がこのセブンスに入り込んでいるということについてですっ」
 ダンッとカップを叩き付けるようにテーブルへ置くと、グリエルは強い視線で二人を見る。
 その勢いに気圧されて、ララもジュリアもゴクリと口の中の肉を飲み込んでいた。
 二人にとっては「また来た」とでも言うべき話題だ。
「その話は聞いてるけどさ。そもそもトオルの部屋に私たちゲボが顔でも出さない限り、その一般人と会うこともないんだし、そんな目くじらたてなくても……」
「甘いですわよっ、ララ。ここはセブンス。ゲボ達の城ですよ!? 一般人のそれも去勢もされていないような若い男子が入り込んで問題が起きないわけがありませんっ。私たちゲボの肌に触れて良いのはカラークラウンという名誉ある方々のみなのです」
「キョセイって……。いや、でもさぁ。トオルがここに滞在してること自体、トオルの安全面を考えて超極秘事項なわけじゃん? なのにわざわざ付き添いで日本くんだりから来てるお兄ちゃんが、自分から問題起こして機構の連中に大事な弟の存在を知られちゃうことするかなぁ?」
「ゲボのチャームの前には人間の家族愛とかいうそんな些細な感情など簡単に吹き飛びます。人格の出来ているカラークラウンの方々とは違い、一般人など衝動を抑えるすべも知らない猿と同じなのですから」
 ジュリアの言葉にもグリエルは納得しようとはしない。あくまで彼女の人間を計る基準はソムニアかそうでないか。カラークラウンかそうでないか。そういった単純かつ絶対のものだ。
「ふわぁ、出たカラークラウン原理主義者。引くわぁ。相変わらずの差別発言にどん引きだよ」
「どこが差別です? ララ、これは区別──です。長い間搾取され続けてきたゲボという種族として、これはあるべき自衛方法なのですから。だから私はプラチナへこの人事采配を白紙に戻すべきだと陳情しなくてはなりません」
「トオルを放り出すってこと? 可愛そうだよ。あんだけここで酷い目にあって、今度はよくわかんないアルマの病気でしょ? ドクター達の見解じゃ伝染性のある病じゃないっていうし、大目に見てあげなよ」
「ジュリア。トオルに関しては致し方ありません。何人もの死者を出すあれだけ大きな事件を起こした人物ですが、彼はゲボです。セブンスに身柄を預かって然るべき者だということは理解できます。ですが、彼の兄とかいう人物については別──。性的不能者でもない一般人男性をこのセブンスに入れることに関して、私は断固として反対です!」
「あんたはその兄って人と会ったことあんの?」
「あるわけないでしょう! どうして私がコモンズの男性などと顔を合わせなくてはならないんですか、意味がわからないっ」
「会ったこともない相手をよくそこまで落とせるわ。あたしあんたのそーゆーとこ嫌い」
 ララにジロリと睨まれるとグリエルは一瞬気圧されたように視線を反らすが、それでも負けじとぐっとにらみ返す。
「べっ、別にあなたに好かれようなどと思っていませんし結構! それで? そのコモンズと会ったプラチナの見解はどうだったのですか? どうせさきほどまでここでその話をしていたのでしょう」
「まぁ、そうだね。シャルルも大体同じようなこと言ってたわ。野蛮で下品な一般人をセブンスへ入れたくない──的なこと」
「ちょっと、ジュリアっ」
「でも一番トップからの通達で逆らいようがないってぼやいてたわよ? あんたも諦めなよ。もう今更覆らないって」
「と、トップ!? それはまさかビアンコがわざわざトオルの兄を指名したとそういうことなのですか!?」
「さぁ、そこまでは私も。トオルに関してのことは超機密事項なんだから、シャルもうちらに完全な情報はもらさないわよ」
 悪戯っぽく片目をつぶってみせるジュリアの言葉に、ララはなるほどと納得し、顔のにやつきを悟られないようにパイをかじりながらそっぽを向く。
 確かにジュリアは嘘は言っていない。「トップからの通達」としか言っておらず、どこのトップなのか──ということには言及していないわけで、シド・クライヴは今や「イザのクラウン」なのだから。
 だが「トップ」という響きはグリエルの気持ちを折るのに十分な働きをしてくれたようだ。
「シャルも無理難題押しつけられつつ慣れないクラウン業がんばってんだからさ。あんたも協力してあげなよ。ミッションこなせず上から睨まれでもしたらゲボ種の名折れだよ」
 そんな風に名誉を持ち出されるとグリエルは弱い。先ほどまでの鼻息はなりを潜め、眉間に縦皺を深く刻んだまま黙り込んでしまう。
「うちらゲボはトオルの部屋に立ち入り禁止だってシャルも言ってたしさ、そのお兄ちゃんもトオルの側を離れられないだろうし、接点がないんだもんあんたの気にしてる問題なんて起こりゃしないって」
 ジュリアの言葉を後押しするようにララがそう続ける。
 そこでようやく難しい顔をしたままのグリエルは立ち上がり、疲れたように首を振った。
「はぁ〜……。わかりました。私も極力協力することにします。しかし、何かあってからでは遅いのです。私は私なりに最善の対応を取らせてもらいます」
 ララとジュリアを前にそう宣言すると、再びキッと唇を引き結び、グリエルは回れ右をしてラウンジを出て行く。
 そのしゃっきり伸びた背に、今は亡きガーネットの面影を見た気がしたララとジュリアであった。








 雨が降っていた。
 しっとりと周囲を煙らせる霧のような雨だ。
 イングランドでも北寄りに位置するこの土地で、12月もはじめの雨はとても冷たく、室内と外部との気温差はガラス張りの渡り廊下に結露の雫をびっしりと滴らせていた。
 修司は弟を乗せた車いすを一旦止めると、膝に落ちた毛布を襟元までしっかりとかけ直してやる。
 昼時を回ろうかという時間であるのにも関わらず外部から差し込む日差しは薄暗く、曇ったガラスの向こうで眼下に広がる森は白い靄の中黒い海のようにさざめいて見える。
「やっぱりこっちは寒いな、亮。早く検査を終わらせて部屋に戻ろう」
 すぅすぅと安らかな寝息を立てる弟にそう声を掛けそっと髪を撫でると、修司は再びゆっくりと車いすを前進させた。
 セブンスから医療棟へと続く長いリノリウム張りの廊下は車いすのホイール音も修司の足音も柔らかに吸収し、完全防弾ガラスの向こうで吹いているささやかな風の音も内側には届きはしない。静かな──ひたすら静かな時が流れ、二人は医療棟へと進んでいく。
 この数時間で亮の病状が少し落ち着き、出血がすっかり止まっていた。
 安定期に入ったらしいこの状況で、主治医であるレオンが亮の肉体をもっと大きな機械で精密に検査をしたいとそう修司に提案したのがほんの一時間前のことだ。
 MRIやCT、エックス線撮影など、セブンスにいる状態ではきちんとしたデータが取れないのは事実である。
 亮の病状の今後を考えるのならばそれを拒む理由は修司には見あたらなかった。
 眠り続ける弟の顔を見下ろし、修司の秀麗な顔に苦しげな影が落ちる。今はセラへアルマが飛んでいるだけだとわかってはいても、自分を見ようとはしない亮の姿に修司の心は引き絞られるようだ。早く原因を見つけ、亮を取り戻したい。その為ならば修司はなんだってするだろう。
 自分自身で追い詰められているなと感じてはいるが、修司自身どうすることもできない。今の自分は「亮の面倒を見なくてはいけない」という一点のみで正気を保っているのだろうと自覚だけはしていた。
 渡り廊下の端。カメラの着いた分厚い金属製の扉の前へ立てば、ほんのしばしの沈黙の後、重々しい音を立て扉が開き、修司は様子を伺うように辺りを見回しながら、初めての別区域へと足を踏み入れていた。
 このエリアは医療棟とはいえセブンスと直結する特別なフロアで、他の医療棟利用者が入り込めない仕組みになっていると主治医であるレオンからは聞いている。
 ということは医療棟全体から言えばほんの狭い区域のはずなのだが、修司の前に広がる施設はちょっとした大学病院さながらといったところだ。長い廊下がいくつもに枝分かれし、その両側に象牙色の頑丈そうな扉が並んでいる。
 だがそんな病院と大きく違うところが一点。これだけの大きな施設にもかかわらず、人気というものが全くないのだ。通常ならば忙しなく働いているはずの看護師の姿もなく、掃除をしている人間の姿も、もちろん患者も見あたらない。
 それでも時折どこからか扉を開ける音や人の話し声のような物も聞こえてくる辺り全くの無人というわけではないのだろうが、これでは道を聞く相手もいない状況だ。
「これは……兄弟して迷子になりそうだな」
 冗談めかして弟に語りかけ、修司は車いすの背に設えられたポケットから一枚の紙を取り出すと、現在位置と目的の検査室の場所を再確認し始める。
 レオンの指示した検査室はこの場所からまだ少し歩かねばならないらしい。
 高めの天井から吊されたわかりにくい案内板を眺めながら、修司が再び車いすを押し始めた時だ。
 不意に横合いの扉が開かれ一人の少女が姿を現した。中にいる検査技師らしき人間に何やら言葉を述べると、すぐに扉を閉めこちらへ向けて歩いてくる。
 彼女の喋っていた言語は内容までは咄嗟に把握できなかったがどうやらポルトガル語のようだ。
 彼女に道を聞くならやはりポルトガル語を喋るべきだろうと考え、修司は瞬時に脳を切り替えると声を掛けるべく彼女の元へと近づいていく。
「こんにちは」
 まずはとりあえず挨拶をしてみる。
 しかして、二つのお下げ髪を肩に垂らした少女はいぶかしげな様子で足を止めてくれた。
 間近で見た少女はまだローティーンの域を出ていない小さな子に思えた。だが修司はふとここで思い直す。ここはIICRなのだ。ソムニアばかりがいるこの場所で年齢に即した対応をしていては相手に対し失礼になることもある。それを先日シャルルと名乗った少年に教えられた修司は、大人と変わらぬ態度で彼女に接することにした。
「すいません、道を教えていただきたいのですが」
「!?」
 修司がそう声を掛けると、少女は一瞬驚いたように目を丸くし、続いて車いすで眠り続ける亮を眺めて再び修司の顔を見上げる。
「あなたが日本から来られたというトオル ナリサカのご兄弟の方ですか」
 どうやら少女は修司達のことを知っているらしい。亮の存在はIICRに於いても極秘事項とされているそうだが、ゲボたちには安全面のことも考え全て知らされていると聞いている。ということは彼女はゲボの一員である可能性が高い。
 修司は咄嗟にそう判断すると引き続きポルトガル語で会話を試みる。
「はい。先日からこちらにお世話になっている成坂修司といいます。しばらくの間お騒がせすることもあると思いますがよろしくお願いいたします」
「……本当にそう思っていただけているのかしら」
 少女は堅い声でそう返すと、意志の強そうな茶色の瞳を半眼にしたまま修司の顔を値踏みでもするように眺め上げていた。
 どうやらあまりご機嫌がよくないようだ。
 少女の視線や仕草から警戒心とも敵愾心とも取れる尖った雰囲気を感じ取り、修司はここがIICRの本拠地であり、自分のような一般人が歓迎されない存在であることを改めて突きつけられた気がする。
 こちらに来て主治医であるレオンやベルカーノ・プラム、顔なじみでもある壬沙子といった好意的なソムニアばかりと会っていた修司にとって、わかっていたこととはいえ、少しばかりショックであることは否めない。
「もちろん、そう思ってますし、ご迷惑をおかけしないよう気を配るつもりです」
 修司が柔らかな笑みを浮かべ頭を垂れて見せれば、少女は眉間に深く皺を刻んだまま「それならば」と続けた。
「それならばどうしてあなたがトオルの私室以外をうろついているのですか? ここは私たちゲボも訪れる場所です。コモンズのあなたが我が物顔で闊歩して良い場所ではありません」
 やはり少女はゲボの一人のようだ。気むずかしそうな雰囲気は昨日会ったシャルルという少年と似通ってはいるが、どうにも違うところが一つある。それは彼女にはシャルルからは感じなかった「蔑み」とでも言うべき色が視線の中にちらちらと混じることだ。
 「コモンズ」という呼び名がソムニア達が一般人を総称するのにつけたものだということは知識として知ってはいたが、こうやって本来の使い方に乗っ取って聞いてみればどうやら蔑称に近い意味合いをも持ったものだとわかってしまう。
「こちらの医療棟がゲボ専用フロアだというのは聞いています。ですが主治医であるレオン医師から私もこちらへの入室許可をもらっているので──」
「レオン医師から許可はもらっているのかもしれませんが、私たちゲボの同意を得てはいないはずです。ここは医療棟であって医療棟でない──セブンスの別棟と考えていただいた方が正しい場所。医師よりもゲボの言葉が力を持っているのですよ? その辺りをわきまえていただかないと」
「それは──知らないことでした。申し訳ない。今後はこのようなことがないよう、事前にゲボ・プラチナへ許可を得てから行動します。しかし今日だけは大目に見てください。これから弟の大事な検査が控えているので」
「ああ、検査室への道を聞かれたのでしたわね。確かにこのフロアはとてもわかりにくい仕様になっているので、初めての方は戸惑うでしょう」
 ようやく許しを得たようでホッとした修司の手から、案内用の地図を少女は不意に取り上げていた。
「B−9検査室、ですか。ではここからは私がトオルを連れて行きましょう。あなたはすぐにでも私室に戻りなさい」
「それはっ──、いえ、そこまでしていただくことは──」
「あなたのために言っているのではありません。これは私たちゲボの安全のための措置です。シュージ ナリサカ、あなたはすぐここから立ち去り、部屋にこもっていることです」
 強い調子で言い切る言葉は、好意ではなく命令だ。
 無理矢理にでも亮の乗る車いすを奪おうとする少女は修司との間に割り入り、乱暴に車いすを押そうとする。
 ガクンと車体が揺れ、亮の身体が瞬間大きく跳ねていた。
 今は安定し静かな眠りについているとはいえ亮の病状は楽観視できるものではない。ほんの少しの振動や刺激で再び大きな発作が起こらないという保証はどこにもないのだ。
 修司は咄嗟に少女の腕を掴み、「やめてください!」と大きな声を出してしまう。
 その騒ぎに何事かと辺りの部屋から何人かの技師達が顔を覗かせる。
 少女はそんな彼らに訴えるように悲鳴を上げ、「痛い! 誰か助けて!」と繰り返し、修司はすぐさま数人の男たちに取り押さえられる格好となっていた。ほんの数秒の間の出来事だ。
 技師とは言ってもどの人物もソムニアである。それが3、4人掛かりで押さえ込んでくるとあっては、修司に抵抗するすべはない。
 亮の乗る車いすからは引き離され、修司の身体は象牙色のすべやかな床へ俯せに押しつけられ、身動きすら取れなくなる。
 ひんやりとした床の感触を頬に感じ、修司はそれでも懸命に状況を打破しようと顔を上げ抗議する。
「っ、放してくださいっ、僕は何も──」
「このコモンズがいきなり私に掴みかかってきて乱暴を働きました! すぐここからつまみ出してっ!」
 ヒステリックに叫ぶ少女の言葉に、技師達はすぐさま行動を開始し、修司の身体を半ば持ち上げるように引きずっていく。
「診療部の派遣か何かか!? コモンズがなぜこんな中心部に──」
「今日がゲボ達の検診日と知って潜り込んできたのか!? 浅ましい……、ゲボ達とお近づきにでもなりたかったか。それとも血でも奪って売りさばくつもりだったか!?」
「警備部に連絡しろ。おまえ、どこの所属か言えっ」
「違いますっ、僕は許可を得てここにいて──ドクターレオンに連絡を取ってください!」
「口から出任せを言うな、コモンズがドクターに何の用があるっ、第一グリエルに乱暴を働いたことは説明できないだろうっ!」
 事態は修司に不利な方へ不利な方へと転がっていく。
 修司の言葉は「通じて」はいてもここでは意味を持たないのだ。
 それでも精一杯の抵抗を示し身体を揺するが、亮を乗せた車いすの背は遠ざかっていく。
 自分の側から亮が引き離されると思うと、己の口から意味をなさない叫び声を上げてしまいそうで、修司はなけなしの理性でそれをぐっと押さえ込んだ。
 どうすればいい。何を言えばいい。自分はここではこれほど無力なのか──。嘆きとも絶望ともつかない感情が修司の中を蹂躙する。
「お願いだっ、弟を、すぐに検査に連れて行かないといけないんだっ!」
「何の騒ぎっ!?」
 廊下を数メートル引きずられた時点で、不意にそう声が聞こえた。
 別の通路から一人の少年が現れていた。
 プラチナブロンドの髪、人形と見まごうばかりの花のかんばせ。
 凛とした声で周囲を一喝した少年は、数名の男達に捕らえられた修司の姿を見つけ、掻き分けるように駆け寄ってくる。
「こっ、これはゲボ・プラチナ。お見苦しいところをお見せしました。少々不手際があったらしく暴漢が紛れ込みまして……」
 ガタイのいい短髪の技師が取り繕うようにいいわけをしつつ、なおも修司の腕を後ろ手に捻り上げる。
「っつ──」
 苦悶の表情で修司が声をかみ殺せば、少年はさらに激高したように男達を叱責していた。
「はぁっ!? 暴漢!? 修司が暴漢だったらおまえはマフィアかヤクザかっ!? 今すぐその手を放せっ!」
「しかし、コモンズ風情がこのセブンスフロアに入り込むなどあってはならないことで、プラチナの身にも危害を加えかねませんっ」
「僕の言ったこと、聞こえなかった!? い・ま・す・ぐ・は・な・せっ!」
 凄まじい剣幕で怒鳴りつけるプラチナに、さすがにこれはまずいと感じ取ったのか、技師達は一斉に修司から手を放すと飛び上がるように一歩後ずさっていた。
 強く捕まれていた首元をさすり少しばかり咽せながらも、修司はすぐさま体勢を整え立ち上がる。何がどうなったのか状況を把握できずにいる彼の前に、少年が一人、こちらに背を向けたまま技師との間に割り入っている。
 その全身から見たこともないような怒りのオーラが立ち上っているのを、この場にいる全員が肌でヒシヒシと感じていた。
「コモンズだからなにっ。彼はセブンスの大事な客なんだ。今度こんな真似したら僕が許さないからねっ」
 ゲボのトップ自ら擁護するこの一般人が何者なのか、技師達には知らされていない。だが、グリエル以上にプラチナの言葉は絶対である。特に医療棟でもセブンスフロアと呼ばれるこの場所に勤めている者にとっては、今のシャルルは神にも匹敵する存在だ。
「グリィ。どういうことか説明してよ」
 次にシャルルが見据えたターゲットは、思わぬ展開に呆然としているグリエルである。
 まさかここでシャルルが現れ、あまつさえ修司の味方をしようとは思ってもみなかったのだ。
「わた、私はセブンスのためを思ってその男に言っただけですっ。あなたは私室から一歩も出ないようにと。必要ならばこのフロアでの彼の弟の世話は私が引き受けるとも言いました。それの何がいけないというのです!? 全部が当たり前のことではないですかっ」
「チビの世話をおまえが? そんなこと誰が頼んだ。修司の仕事を取るなバカ。チビに今必要なのは会ったこともないおまえじゃない、グリエル。ずっと一緒に育ってきた修司なんだ。そんなこともわからなくなるのがソムニアなら、ソムニアなんて滅びて当たり前だね」
「っ──! 私は、だって……」
「コモンズが誰でもすぐにゲボを襲うとか自意識過剰なんだよっ。世の中にはそんなことより大事にしてるものがある人間がいっぱいいるのっ」
「そんなこと、言ったって、プラチナも私と同じ気持ちだと思ったから……」
 強気だったグリエルの猫目から、ぼろりと涙があふれ出す。
 シャルルはやれやれと肩をすくめると、背中にかばった修司へくるりと向き直り、
「言っておくけど今の言葉は一般論だから。僕に関しては別枠だと思って。僕は滅びないし、僕はすぐに誰もを虜にしちゃうからおまえも気をつけるように」
 と自信満々に言い放つ。
 目まぐるしく変わる眼前の展開に修司はしばし言葉をなくしていたが、シャルルの一言に思わずくすりと笑みを漏らした。
「ほら、ちょっとそこどいて。チビの検査なんでしょ? どこの部屋? 面倒だけど仕事だから僕も一緒に行ってあげる」
 泣きじゃくり始めたグリエルの手から車いすを受け取ると、ゲボのトップは修司へそのハンドルを手渡していた。
「……ありがとうございます、プラチナ。助かりました」
「昨日シャルでいいって言った。もう忘れたの? さすがコモンズ、サル同然」
 しかし修司の礼が気にくわなかったようで、少年はぷうっと膨れてみせるとさきほど自分の言ったこととは真逆に、差別用語をガンガン放り込んでくる。
 だが修司にはそれが心地よくさえ感じられるのだ。
 先ほどグリエルや技師達に浴びせられた言葉と同じとは思えない響きが、そこにはある。
「ありがとう、シャル。……もし可能でしたら、B−9検査室までおつきあいいただけるとありがたいのですが」
 冗談めかしてそう言えば、さもイヤイヤだ──とでも言いたげな溜息をつき「ちょっとだけだよ?」と歩き始める。
 その歩みが軽やかに弾んで見えるのは気のせいではなさそうだ。
「ほらグリィ。いつまでも泣いてないで一緒においで。おまえはちゃんと修司に謝った方がいい」
 行きがけに横で未だぐずぐず鼻をすすっていた少女の腕を取り、少年は強引に進んでいく。
「でも、私は──」
「帰ったらラウンジのジャグジーで顔洗った方がいいよ。ただでさえブスが今凶悪にブスだから」
「ぅぅうううっ、うえぇぇぇえっっ、わた、私、ブス、じゃ、ない、です〜〜」
 先ほどまで亮と二人物音一つしない静かな道行きだったはずが、今はとても騒々しい。
 修司はゆっくりと歩みながら、車いすの中で眠る弟の顔をそっと眺めた。
 きっと亮はこの方が好きに違いない。
 こんな風に周りが楽しければ、亮は早く目を覚ますのではないか──そんな気がした。