■ 5-16 ■



 セラ中にけたたましいサイレンの音が鳴り響いていた。
 非常事態を知らせる警報はこの広い『研究局実験棟集積地第3セラ』全体を席巻し、何人もの警備を呼び寄せる。
 マニュアル通りに状況確認と空間隔離作業を行い始める彼らを尻目に、ぐったりとした亮を抱きかかえたシドはそのまま飛ぶように53号施設へと取って返していた。
 扉の前にはヤキモキした様子の有伶が立っており、シドとその腕に抱えられた亮の姿を見るやいなや扉を開けて中へ収容を促す。
「ルキくんはハルくんに連れられてリアルに一度戻ってもらったよ。外で肉体ごと医療局の治療を受けた方がいいからね。──亮くんは残念ながら戻ってもらうわけにはいかないけど……」
「わかっている。亮はおそらく怪我はない。だが病状の悪化は考えられる。プラムはどこだ」
「僕と交代で通常業務に戻ったところだったんだ。今は外で職務に当たってる。知っての通りカラークラウンの業務は身体がいくつあっても足りないもんだから、とりあえず今は僕が亮くんの診察を……」
「すぐに呼び戻せ」
「僕が亮くんの診察を……」
「呼び戻せ」
「…………そう言うと思ったよ」
 二度の簡潔なやりとりに己の信用のなさと昔なじみの変わらぬ強引さの両面から打ちのめされた有伶は、不服そうに唇を突き出すとだらしなく着崩した白衣のポケットから電話を取り出しナンバーを打ち込む。
 その間にもシドはほの暗い53号施設の中を大股で進んでいき、カーテンに仕切られた部屋の中へ亮を運び入れると、未だ目を閉じたままの少年の身体を中央のベッドへうつぶせに横たえた。
 背中の部分が大きく開いたデザインのパジャマを着ている為、背骨の両側に沿うように青白く光る文様が浮かび上がっているのがよくわかる。
 おそらくあの巨大な炎翼が生えていた場所なのだろう。
 背中に息づいていた巨大な副翼が今は跡だけ残して消失し、最も大きかった一番上の二枚の主翼のみ、キューピットの羽根のごとくコンパクトに縮んで肩胛骨の上辺りでゆるゆると動いている。
 触れてみれば小動物の体温のようにほんのり暖かい感触はあるものの、ふわりとした鳥の羽根のようだ。
 あの威烈な超超高温を噴出していた炎翼とは思えない穏和な器官がそこにはあった。
「このくらいならそう邪魔でもないし、おまえも好きに転がれるんじゃないか?」
 言いながらうつぶせでうずくまる亮の髪を撫でてやると、少年はもぞりと身体を動かし目蓋を震えさせる。
 そして誰かを捜すように首を巡らせ、ゆっくりと目を開けていた。
 黒く艶やかな瞳にシドの姿が映り込み、シドはそれを確認すると亮の頬を柔らかに撫でる。その体温で自分がここにいることを少年に示すかのように。
「シ……」
 手のひらの温度にすり寄るような仕草を見せた亮は小さな羽根を押しつぶして仰向けになり、シドの名をかすれた声で呟きながら珍しく甘えたように腕を伸ばす。
 恐らくまだ意識が正常に戻りきってはいないのだろう。
 そうでなくてはすぐに噛み付くこの弟子が、こんな仕草を見せるわけがない。──そう判断をつけ、シドはされるまま首に腕を巻き付かせ、少年の身体を抱き寄せる。
「ん……、ここいいる」
 耳元でそう囁いてやれば、亮はわずかに身体を離しシドの顔をじっと見上げた。
 ぼんやりとした表情のまましばらくシドを見つめる亮の様子はやけに幼く、記憶を失い退行していた頃を彷彿とさせて、シドは己でも気付かぬうちに対応が甘くなっていく。
「なんだ、どうした?」
 額と目蓋へ順番にキスを落とし、再びその大きな瞳を覗き込みながら頬をこすると、少年はようやく言葉を思い出したように「あの子、は?」と呟いた。
 少しかすれた声は痛みで悲鳴を上げ続けた後遺症だろう。
 シドの姿を映してはいるが像を結びきっていない様子の視線には、亮の意識が未だはっきりしていないことが伺えた。
 そんな状況ではあるが、どうやら亮には先の記憶が残っているらしい。
 亮の言う「あの子」が、ルキ・テ・ギアのことを指すのだということがシドはすぐに理解する。
「あの、子、おれ、を、たすけてくれよ、と、して、……、なのに、おれ、あの子を……」
「大丈夫だ。ルキなら今リアルで治療を受けている。うちの医療局が優秀なことはおまえも知っているだろう? すぐに治って戻ってくる」
「ほん、と?」
「ああ。だからおまえは何も心配しなくていい」
 シドが亮を安心させるようにあえてゆったりとそう語ると、少年はようやくほっと息をついていた。
「よか……た。オレ、あの子、に、あやまら、ないと……」
「そうだな。彼が戻ったらそうしろ。だが……体調を整えておかねばそれもできんぞ?」
「ん……」
 再びシドが抱き寄せ目蓋に口づけを落とすと、亮はくすぐったそうに身をよじった。
「シド……、オレ、ごめん。オレ、シドの仕事のセラ、入ったの、ダメ、だった」
「仕事……?」
 亮が何について語り出したのか、一瞬シドにはわからなかった。
 だが、次の言葉を聞き理解し、苦しげに目蓋を閉じる。
「秋人さんの、せいじゃ、ないのに。オレ、が、勝手に入ったから……。秋人、さんにも、謝らない、と……」
「亮……」
 亮の時間は事務所でシドと喧嘩をしたまま止まっている。
 おそらく今自分がおかれている場所も、状況も、何も気付いていないのだろう。
 己の身体やアルマの変化も、今の亮にはわかっていないに違いない。
「事務所、秋人さん、いる、かな。……今、から降りて、オレ、もっかい、謝って、くる」
「亮、秋人は……」
 シドが珍しく逡巡し、言葉を選んで口を開きかけた時だった。
 仕切りのカーテンが乱暴に開かれ、一人の青年が半ば突っ込むように駆け込んでくる。
 普段は怜悧に澄んだ深緑の瞳が怒りで燃え上がり、沈着で知られる人物像とは真逆に完全に激昂している。
 青年は脇目もふらずベッドに横たわる亮に掴みかかり、「貴様──」と呻くように呟いていた。
 だが、伸ばされた腕が亮へと届く直前、青年の腕は眼前の男につかまれ、流れるような動きで捻り上げられてしまう。
 気付いたときにはベッドの上の少年からは遠ざけられ、背後から羽交い締めにされている状態であった。
「っ、放して下さいヴェルミリオ! 俺はこいつに話があるんですっ、あなたには関係ないっ!」
「今回のことは俺の責任だ。非は亮にではなく俺にある。話があるなら俺が聞く」
 首に腕を回し、完全に動きを封じた状態で、シドは殴り込んできたハルフレズに強い口調でそう言い募っていた。
 しかしその一言でハルフレズの怒りがさらに燃え上がる。
 尊敬し敬愛するイザ・クラウンに対し、ありえない暴言が生まれて初めて彼の口を突いて零れ出た。
「は!? 何であんたの責任なんだ、やったのはこいつだろ、っざけんなよっ!!!!」
 感情に任せて身体をよじり叫ぶと同時に、自由になった右拳を振り返りざま背後の男へ叩き付ける。
 瞬間、ドンッ──と低い地響きが鳴り、部屋を仕切っていたクリーム色のカーテンが粉砕され粉末と化して周囲に散っていた。
 壮絶な凍気が辺りの空気を凍てつかせ、壁から放たれる輝きを反射させてキラキラと光らせる。
「っ!?」
 ハルフレズの前に、床に倒れ込み叩き付けられた男の姿があった。
 男はその髪の色と同様の朱い雫を口元に滴らせ、それをぐっと拳で拭うとハルフレズを見据えたまま立ち上がる。
「な……んで…………」
 しかし動きを止めたのは殴られたシドではなく、殴りつけた方のハルフレズだ。
 ありえないものを見た──とでも言うように殴りつけた姿勢のまま目を見開き言葉を失う。
「何だ、病室で何を騒いでいる!」
 外部に続く扉が開かれ53号施設に足を踏み入れたリモーネと有伶は、その異様な凍気と雰囲気に慌てたように駆け寄り、状況を察すると困ったものだとでも言いたげに溜息をついていた。
「あーあー、イザ・ヴェルミリオともあろう者が部下に殴られて顔腫らしてちゃ、あんたに憧れてるモノを知らない女子たちががっかりするよ?」
「ハルも。気持ちはわかるが落ち着け。ルキならもうすぐ治療室から戻ってくる。まったく──こんなことなら追い出さずに付き添いを認めるべきだったな」
 この状況にハルフレズ以外の人間は驚いてもいないようだ。
 狂気の武を誇り朱の氷神と謳われたあのイザ・ヴェルミリオが易々と人に殴られ、受け身すら取らずに床へたたきつけられたというのにだ。
 ハルフレズも過去、何度も稽古をつけてもらったが、彼に対し一度もまともに攻撃を当てられたことはない。
 それが今、右の拳が痺れるほどに、かの先輩の頬を真芯で打ち殴ったのだ。
「ハル──、すまなかった。おまえの大切なモノを傷つけた」
「っ──!」
 立ち上がったシドは家族とも呼ぶべき彼の後継者に頭を垂れると、その凍てつく琥珀の瞳でじっとハルフレズの目を見下ろす。
 その言葉、態度、全てがハルフレズにとって、逆に殴り飛ばされたような衝撃を受けるもので──。
「あなたが言う、言葉じゃ、ない……。あんたはイザ・ヴェルミリオなのに、なんで、こんな……」
 要領を得ない独言とも取れる呟きを漏らすしかない青年に対し、彼にとって絶対的な王は今一度「すまなかった」と言葉を重ね、呆然と立ちつくす彼の肩に手を置いた。
 何がこの冷徹で傲慢で完璧だった王をこうさせるのか。
 何が彼を変えたのか。
 その答えがベッドの上で身を起こす。
「シ、ド……?」
 少しかすれた小さな声で、原因はイザの王の名を呼ぶ。
 茫洋としたまま辺りを見回す様は、まだこの少年が完全に覚醒しきっていないことを示しているようだった。
「ここにいる」
 すぐさま応えたその声音は、ハルフレズの知らない色をしている。
 他人に命令し、弾劾し、斬って捨てるために使われていた冷えた低音が、そこにはない。
 ハルフレズもよく知る冷めたようなバリトンなのに、その響きには少年を安堵させるための温かな血が通っているようだ。
 王はハルフレズの脇を通り抜けると、ベッドを軋ませ乗り上げるように少年の身体を抱き寄せる。
 そこに人目があることなど全く意に介す様子も見せず、イザ・ヴェルミリオは成坂 亮の額に、目蓋に口づけを落とし、その長い指で髪を撫で梳きながら「もう少し休んでいろ」と目を細めて腕の中の少年を覗き込む。
 ハルフレズには、毒気を抜かれたようにその光景を見つめ続けるしか起こせる行動はなかった。
「うんうん、キミのその反応はよくわかるよ。僕も初めて見たときは悪夢でも見てるのかと思ったもん」
 背後からポンポンと肩を叩かれ、青年はようやく呼吸を思い出したかのように大きく息をついていた。
「俺は、あいつに言ってやることがあってここに来たはずなのに──」
「それはもう少し経ってからだな。亮にはまだ意識混濁が見られるようだし正常な会話は無理だろう。それに──今はアレが誰も亮には近づけようとすまい。診察するのにも許可がいりそうだ」
 辟易した様子のリモーネが言うように、シドは己の身体で少年を隠すかのように亮を懐へ入れ込んでしまっている。
「さて。ここはプラムに任せて、僕はさっきの事故の後処理に出てくるとするよ。──はぁ。報告書どうしよう。警備部の連中怒ってるだろうなぁ」
「何人死んだかは知らんが、現在の転生状況での死亡は警備部も頭を抱えるだろうな」
「ぬぅ〜、理由をどうつけるか──。亮くんを見た人間が何人いたかにもよるよねぇ。ウチの犠牲者もどれだけいるか不明だし、参ったね、どうも」
 ぶつぶつ言いながら研究局のトップは鬱陶しいモッサリ頭を掻き回して部屋を出て行く。
 それと入れ替わりで入ってきた少年が、まずだだっ広い部屋が仕切りのカーテンを失ったことに目を丸くし、次にその中心でたたずむ青年に視線を奪われ駆け寄ってくる。
 すぐさま気付いたハルフレズもその少年に向かい駆け寄ると、飛び込んできたしなやかな身体を全身で抱き留めていた。
 その様子をちらりと振り返ったリモーネはまぶしそうに目を細め、どこもかしこも羨ましいことだと苦笑を浮かべる。
「あの光景が失われなかっただけでも僥倖と言うべきか。……しかしこうなってしまった今、こちらの光景はこのままではいられんかもしれん」
 安心したように身を任せる少年と、それを大事そうに抱き込んだシドの様子を目に映し、リモーネは手にした鞄より診療器具を取り出しながら近づいていった。