■ 5-23 ■


 ほんの数秒の出来事だった。
 亮とルキは雲一つない紺碧の空の下、ぐるりと周囲を取り囲む白亜の環状列石中央にたたずんでいた。
 風は強く、足下の草を鳴らして亮の髪をかき乱し、天へと吹き上げていく。
 寒くもないが暑くもない。
 己の身体を見下ろせば、どうやら七ヶ瀬高校の夏服を着ているようだ。
 そしてなぜか手にはノーヴィスが買ってくれたいつものタオルケット。
 それをぐっと抱きしめて、再び顔を上げる。
 風は緑の匂いがし、少し湿っていた。
 ──外だ。と、亮は思った。
 人影こそ周囲には見えなかったが、どこか異国の世界遺産にでも観光に来たかのようなそんな場所。
 巨大な石造りの建造物は不可思議で、世界史の資料集で見たストーンヘンジの写真にとてもよく似ている。
 ただ、今亮が見上げるそれは写真で見たものとは違い真新しい。
 資料集の環状列石は崩れかけていたが、これはそうではない。
 何一つ欠けがないように亮達をぐるりと取り巻いており、ぴかぴかに磨かれた白い石は青空の色を映しほんのり縹色に輝いて見えた。
 幾つもの柱の影がさざめく草原の上にくっきりと黒い帯を刻んでいる。
 日差しが強い。
 額に手をかざし見上げた亮の頭上には、空に三つ太陽が浮かんでいた。
「ジュコンカクってどんなに凄いとこかと思ったけど、セラとあんまし変わんない感じだな」
 目を細め周囲を眺めた亮は己に確認するようにぽつりと呟く。

 亮とルキがレドグレイに連れられ、IICR旧本館にある隠しエレベーターでその部屋にやってきたのは十分ほど前のことだ。
 最新の建築技術で造り上げられたIICR本部の建物の中に埋め込まれるかのように、このような石煉瓦で作られた一画が在ること自体、亮はもとよりルキも知らないようだった。
 網膜認証と声紋認証を必要とする厳重なセキュリティ付き合金扉をいくつか抜けると、いつしか周囲の壁はぬめりを帯びた古めかしい石造りのものと取って代わり、かび臭い空気に充たされた狭い廊下がゆったりと下り続ける。湿った足音を響かせて延々歩き続けること約十分。着いた先には低い天井を持つワンルームほどの小さな空間が広がり、その奥に張り付いていたのが手動式の格子戸と指針での階数表示を持つ恐ろしく旧式のエレベーターであった。
 これがIICR本部最古のエレベーターであり、以前は蒸気機関で動いていたのだとレドグレイが説明をしてくれたのだが、亮の耳にはほとんど届いていないも同然だった。
 扉の横、床から生えた古めかしい鉄製のレバーを倒すと、同じく鋼鉄製の格子が軋みを上げて開いていく。
 隣でルキがごくりと喉を鳴らすのを聞いた。
 現れた小さな鉄製の箱は暗く、微かに揺れ、とても心許なく見える。
 これに乗り込んだら最後、二度と現実世界に戻れないようなそんな気がした。
 だがそこで歩みを止めるのは許されない。レドグレイに促されるまま亮は一歩踏みだし、自ら小箱の中へ身を投じる。
『あなたは人々の攻撃的な関心を避け、病気を治すためにこの先に赴くのだ』と、レドグレイは言った。
 だが、身体が小刻みに震え止まらない。
 目の前の鉄格子が閉まり行くとき、隣のルキがそっと手を握ってくれた。そこだけが──その体温だけが現実のような気がする。
 狭く薄暗いエレベーターの中は黄色いハロゲンランプに照らされ、目の前の格子向こうをゆるゆると上っていく岩肌を薄気味悪く浮かび上がらせる。
 亮は気持ちが暗く塗り込められていくのを感じ、右手に絡められたルキの手をぎゅっと握り返した。
 5分、10分、どのくらい下っただろうか。
 ガクンとエレベーターの箱が揺れ、扉が開く。
 光が目に染みて、思わず左腕をかざす。
 着いた先は真っ白なセラミックで覆われた現代建築そのものの空間であり、エレベーター内との光量の差に虹彩の機能が追いつかない。
「さあ、行こう」
 亮は左腕をレドグレイに引かれ、光の方へとよろけるように歩き出した。
 時間の流れが中世から現代へ、一気に飛んだようだ。
 狭い廊下の左右にはいくつか扉があるが、窓もないためその先がどうなっているのか亮にはわからない。
 床も壁も天井も白く輝き、ここが地下だと言うことさえわからなくなりそうだ。
 一番奥まったところにある扉──白い両開きの扉はとても重厚そうに見えたが、レドグレイが脇に付いたパネルを操作すると音もなくスルスルと両側へ引き込まれ、亮たちを招き入れていた。

 そこは球体をした鈍色の空間だった。

 天井や床、壁の中に無数の小さな灯りが一定間隔で点っており、銀の淡いフィルターを透過して薄ぼんやりと光を投げかけている。
 形こそ球体だが、広さは学校の教室ほどはあるだろうか。
 亮はぐるりとそれを見回し、ルキと顔を見合わせる。
 この行き止まりの部屋が樹根核なのだろうか。
「打ち上げまで少し時間が掛かる。それまでこのシステムとこれから行く場所の解説をしておこう」
 亮たちの疑問を見越したようにレドグレイが説明を開始する。
「ここは『ランチ』と呼ばれる施設だ。樹根核へ肉体ごとアルマを打ち上げるための施設だと思ってくれればいい」
「それ、プラチナも言ってましたが……そんなこと出来るんですか? セラより深層の場所へ行くのなら重たい身体なんて置いていくしかないのではないですか?」
 ルキが疑問を口にする。
 レドグレイは乱れのない髪をさらに整える仕草をすると、官僚然とした固い口調でそれに答える。
「そのためのアクシスなのだよ、ルキ。ここは地球全体にネットを張ったレイラインの集積地。何千年もの年月を掛けて過去の人々が築いてきた様々な遺跡や霊験地をつなぎ、力を集め、この部屋へそれら全てを集束させる。それこそがIICRが造り上げたアクシスというシステムだ」
 レドグレイの言葉は亮にもわかるように日本語であったが難しい単語が多く完全には理解しきれなかった。
 それでも地球全体だとか何千年だとかとてつもなく規模の大きい話だということだけはわかる。
 ルキの顔を見上げれば、どうやら彼には事の重大さがわかったようで驚きのあまり口を半分開けたまま息を止めてしまっている。
「アクシスを使えばどのセラにも──樹根核にでさえ、肉体ごとアルマを打ち上げることができる。肉体ごと上がったアルマは他の一般アルマより存在が堅固になりセラの体系を崩すことになりかねないため通常この装置が起動されることはないが……、樹根核は別だ。あそこは肉体ごと上がらねばそのままアルマは霧散し、寂静してしまう」
 どうやら亮が行かねばならない場所はシャルルが言っていた通り常軌を逸した場所らしい。
「このシステムを使う以外、肉体ごとアルマを打ち上げることなど誰にも出来はしないのだ。そしてこのシステムを動かすにはビアンコの承認書と多くのスタッフの力が必要となる。樹根核がどこよりも安全だという理由がわかっていただけたかな?」
「で、でも、肉体ごとあがるとか……戻ってこられるんですか? セラと現実は31倍もの差があるのに、肉体ごと上がっちゃうなんて戻ってきたら時間がものすごく経っていて、知り合いが誰も居ないとかそんなことは……」
「そこは安心してくれ。樹根核はリアルと時間の流れを同期させてある。セラのようなタイムラグがあっては仕事にならないからね。向こうにも何人ものスタッフが常駐しているのだ。そんな現実的ではない真似はしないよ。……もちろん、君も週に一度は休暇としてこちらに戻ってきてもらっても構わない。その間は別の人間を亮の側に置くことにしよう」
「っ、いえ、あの、そういうことじゃないんです。僕は亮くんが治ってから一緒に戻れればいいんで、休暇とかは大丈夫なんでっ」
 ルキが困ったように言い募る。
 きっとルキは本気でこんな風に思っているんだろうと亮は感じ取り、それならばなおさら自分がなんとかしてルキに休暇を取らせないとな……とぼんやり考えた。
「ただ一つ──言い置いておかねばならないことがある。このアクシスシステムの打ち上げに耐えられるのは強いアルマを持つ能力値の高いソムニアか、逆にまったく覚醒していないコモンズかの二択となる」
 意味がわからず亮は首を傾げた。
 強い力を持つソムニアが耐えられるのは何となく理解が出来たが、コモンズも耐えられるというのであれば、普通のソムニアなら誰でも大丈夫なのではないかと思ったのだ。
 そんな亮の様子を眺めるレドグレイは少し目を細めて先を続けた。
「むしろコモンズの方が樹根核に上がる負担は軽いのだよ、亮。覚醒していないコモンズは完全にアルマが肉体に閉じこめられているためダメージなく上がることが出来るが──ソムニアは肉体に縛られないアルマを持つ為、その鎧が完璧ではない。打ち上げ時に力場に晒されるアルマは熾烈な圧力に苛まれることとなる。能力値が高ければ高いほどその圧力は高くなり、ダメージも大きい。だがそれに耐えうるだけの力も持っている。それ故つらい行程とはなるが打ち上げが可能だ。それに比べある一定の能力値を下回る者は僅かな圧力でさえ耐えられず死に至る危険性を孕む。能力値で言えばS級以上あれば99.998%の確率で生存可能という試算が出ており100%とは言い切れないが、残りの0.002%は機械トラブル等による誤差と思って構わないだろう。S級以下であれば、その能力の下降に従い加速度的に打ち上げ成功率は下がっていく。……ルキも亮も確かSSという評定を受けているはず。それならばほぼ100%の確率で無事に向こうへ着くだろう。問題はない」
「あ、あはは……大丈夫かなぁ。僕の能力値測定、本当にあたってんのかな。SSもらったときも信じられなかったくらいだし、本当はA+位だったりして」」
 冗談めかしてルキは笑って見せたが、声は少し震えているようだった。
 何事につけ謙虚に過ぎる性格が彼を不安に駆り立てているに違いない。
「いいよ、ルキ。オレなら一人でも大丈夫。だってジュコンカクには先にレオン先生も行ってるんでしょ?」
「ああ。クルース医師は君たちより一時間ほど早く向こうへと向かった。無事到着の知らせも来ている」
「だったら知らない人ばっかじゃないし、なんとかやっていける……」
「ダメだよ! 僕は亮くんをちゃんと修司さんのところへ帰す約束をして来たんだ。一人で行くなんて言わないで!?」
 ルキは亮の肩を掴みぐっと額を額に寄せると、亮の身体を思い切り抱きしめていた。
「わ、わかった。わかったからルキ、あの、その……」
 身長の割りにふくよか過ぎる胸に顔を埋められ、亮は慌てて身体を離しにかかる。
 そんな二人の様子を表情すら変えず眺めていたレドグレイは、腕にはめられたクォーツを確認すると顔を上げた。
「そろそろ時刻だ」
 静かな宣告に緊張を紛らすためじゃれ合っていた亮とルキも動きを止める。
「SS級の能力値であればそれなりのダメージは受けるだろうが、半日もすれば動けるようになるはずだ。到着ゲートにまで迎えを寄こしてある。彼らに医務室へ運んでもらってくれ」
「レドグレイは来られないんですか?」
 当然向こうまで彼も来るのだろうと思いこんでいたルキは思わず声を上げていた。
 こうなれば亮を守りエスコートする人間は自分しか居なくなると別の意味の緊張が生まれたらしい。
「ああ。私はそちらへ行くことはない。事務畑の人間が行っても何の役にも立たないからね。亮の病の原因が早くわかり、寛解することを願っているよ」
 そんなルキの思いを何ら顧みることはなく、レドグレイはうなずくと迷いのない足取りで部屋を出て行った。
 残されたのは亮とルキの二人だけ。
 お互い顔を見合わせ、手を取り合う。
「それではカウントダウンに入ります。強く光がフラッシュするので目を閉じていてください」
 どこかにスピーカーが設置されているのだろう。知らない男の声が聞こえ、二人はぎゅっと目を閉じ身を寄せ合う。
 10から始まるカウントがゆっくり進んでいく。
 カウントが進む度、周囲の空気が揺らめき始め、風もないのに亮の着る患者用の白衣がぱたぱたと裾を翻した。
 甘いような苦いような匂い。
 前後左右全ての方角から圧縮され、自分が小さな球体に押し込められていく感覚。
(あれ、これ、なんだっけ──)
 なぜだかこの気味の悪い感覚を亮は知っている気がした。
 だがそれを思い出す前に、スピーカーから響くのは「ゼロ」の声。
 瞬間、全ての音が消え、光が何もかも溶かし──そして途切れた。


 そうして佇んでいたのが、この風が吹きすさぶ環状列石の中心になる。
 意識が途切れたのは数秒のような気がしていたが、実際の所はよくわからない。
 ただ、レドグレイに忠告されたようなダメージも不快感も、亮の身体には現れていないようだった。
 むしろ心地良い。
 このどこまでも澄んだ青空となびく草原に、亮は思いきり伸びをして走り出したいような気分になる。
 片手にタオルケットを抱えたまま、ぐっと手を上に伸ばし背を反らすと、背後に大きな影が覆い被さる。
「っ!?」
 何者かと振り返ってみても、そこには何もない。
 しかし背後には相変わらず何かしらの気配があるのだ。
 そろそろと首を巡らしてみれば、そこには純白の巨大な翼が亮の背中の感覚に呼応するようにゆるゆると息づいて動いている。
 おそるおそる触ってみると、確かに触られた感覚があり、引っ張ってみても取れることはない。
 確かにそういう病状であるという認識はあったが、53号施設で見たあの時の羽根より確実に大きい。
「嘘だろ、マジもんの羽根じゃん……」
 ばさばさと動かせば軽く足下が浮いてしまい、慌てて亮は羽根の動きを止めた。
 なにか人としてヤバイだろうと妙な冷や汗が額に滲む。
(どんなに羽根が生えようと、人として自力で飛んじゃダメだ。うん、ダメだ)
 不思議な矜持が胸に浮かび、亮はぐっと眉を寄せると気持ちを落ち着け、背中に広がる巨大な翼をゆっくりと畳んでいく。
 深呼吸をすると畳んだ羽根はさらに小さくなるような感覚をおぼえ、懸命にそれに集中する。
 気づけばいつのまにか背中のそれは亮が見知ったあの小さなサイズにまでランクダウンしていた。
 ぴこぴこと動かせばわずかに身体は持ち上がるものの、大空をはばたく力はないようだ。
「ひとまずこれで手を打つしかないよな、ルキ」
 これ以上どうにも小さくならないと感じた亮は溜息と共に一度天を仰ぎ、隣で黙ったまま佇むルキに話しかける。
 しかしルキは亮の言葉に反応することなく、目を閉じたままゆっくりとしゃがみ込んでいた。
「ルキっ、大丈夫か!?」
 慌てて亮が駆け寄る。
 うずくまったルキは苦しそうに肩で息をし、タトゥーの現れた精悍な顔にしたたり落ちるほどの大量の汗を掻いていた。
「ごめ……、ぎも゛ち……ゎる……」
「吐きそう? 吐いちゃった方がいいぞ?」
 いつの間にか少年の身体に戻ったルキの背を懸命にさすりながら、亮がそう声を掛けると、ルキは身体を震わせ何度か酷く嘔吐いてしまう。
 先ほど食べたオムライスをリバースしながら、「ああ、もったいない」と呟くくらいの元気はあるらしいが、それでも顔色は真っ青だ。
 確かにレドグレイが「アルマに負担がかかる」と言ってはいたが、自分が平気だったためまさかルキがこんなに具合を悪くしているとは思いもしなかった。
 こうやって見ると亮のアルマはルキに比べてずいぶんと能力値が低いということなのだろう。むしろこれほどノーダメージなのはS級ですら怪しいということになる。やはりゲボ割引で能力値が過大に評価されていたということなのかもしれない。
 しかしそうしてみると、よく無事にこちらへ渡ることができたものだと自分の運の強さに感動すら覚えてしまう。
「どうしよう、動けそうにないよな。もうちょっと落ち着いたら建物あるとこに行こう。オレ、おんぶしてやるし、羽根邪魔ならだっこしてやるしっ」
「……、だい、じょぶ……、すこし、したら……、じぶん、で、……あるく、から……」
 喋るのもつらそうなくせにルキは微笑んでみせると、再び派手に吐瀉していた。
「どうしよ……、水とかどっかにないかな……」
 どうにかルキを楽にしたいとうろたえる亮の瞳に、数名の人間が映り込んだのはその時だ。
 環状列石の間から、三名の男がこちらへ向かい歩んでくる。
 二十代から三十代だろうか、どの男も白衣を纏ってはいたが体格はやけにがっちりとしている。
「トオル・ナリサカ第八ゲボとルキ・テ・ギア構員ですね。我々は研究局で補助作業員をしている者です。お迎えに参りました」
 一番年かさに見える、若干線の細い男がそう名乗ると、後に付き従う二人の男達のうちの一人がすぐさまうずくまるルキの元へ駆け寄り軽々と抱き上げていた。
 もう一人の男も亮の方へと歩み寄って来たのだが、亮は「大丈夫だ」ということを全力アピールし、ルキを抱える男の横に付き従って歩き出す。
 石の柱を抜け広い草原のただ中に出て、亮は一度だけ元来た道を振り返る。
 シドは今頃どうしてるのかな、と、思った。
 なぜだかあの意地の悪い師匠に猛烈に会いたくなる。
 今度ここにお見舞いに来てくれたら、こないだみたいにくっつかれても少しは我慢してやろうかなとぼんやり考える。
 早く良くなって帰らなきゃ――そう決意を固めると、亮は拳を握りしめ再び歩き出した。

 



 環状列石を出てすぐ、その何の変哲もない三階建ての建物は亮の視界に映り込んでいた。
 男達の足取りに合わせ小走りに付き従っていけば、ものの五分と掛からぬ間に建物の真下へやってくる。
 真新しい煉瓦製のその赤茶けた建造物はだだっ広い緑の草原のただ中、ぽつんと孤独に建っていた。
 ヨーロッパの街並みにあればさぞ映えるであろう少し古風な外観は、歴史ある街の市庁舎を彷彿とさせる。
 ちょっとした違和感を感じたのは、この建物には塀というものが存在しない点だ。周囲は海原のような草原である。そんな中になんの囲いもない大きな建物が剥き出しで建っているというのは不思議な景色だった。
 亮が今いる地点を中心に左右に大きく張り出した形のそれは、どうやら奥行きもかなりありそうだ。
「ここが樹根核の観測基地になります。もともと安定的でないこの世界ですが、IICRの誇るイングヴァーツ種たち構築局の手によりセラ並の固定化を施され、観測基地を中心に安全な場所となっています。安心して滞在してください」
 そう紹介されながら見上げた玄関はガラス張りの広い両開きとなっていて、男達はそこを押し開け中へと入っていく。
 亮に話し掛けてくれているのは補助作業員の一人、体格のいい男たちの中にあって若干線の細い三十代の白人男性だ。茶色の短髪と青い目、少し痩けた頬を持つ彼はエレフソンと名乗った。
 エレフソンは不安そうに辺りを見回す亮に対し、歩きながら説明を続けてくれる。
 この建物はイングヴァーツ種がその能力により一から作り上げた完全な人工物だということも訛りはあるが流暢な日本語で教えてくれた。通常のセラでは既存の建物やそれらを改造して利用するというのが当たり前の感覚であるため、材料まで全てソムニアの能力により作られていると言われても俄には信じがたい気がする。
 だが、亮のカルチャーショックなど置いてけぼりで、広い玄関ロビーを抜け突き当たりにあるエレベーターホールに到着すると、亮は彼らに言われるまま最上階である三階へ向かうこととなった。
 建物の内装も少し時代がかった煉瓦と木造を組み合わせた暖かみのあるものだ。窓はアーチ状で、そこから見える景色はどこまでも広い草原でしかない。
 天井に張り付いた明かりこそ蛍光灯らしきものであるためそこまで古めかしくは見えないが、全体的には古い洋画の中で見たようなそんなイメージを亮は抱いた。
 こうしてみると日本の普通のビルが妙に懐かしく感じてしまう。
 実家の会社の自社ビルはツンとすましている感じで好きではなかったが、今にして思えばあれも良かったかなとぼんやりと思った。
 でも一番好きなのはS&Cソムニアサービスのビルだ。
 四階建ての小さな建物だったしこれと言って見栄えのするものではなかったが、それでもあの場所が亮は好きだった。
 秋人のいつも困ったような顔を思い出し、きゅっと胸が痛む。
 エレベーターに入ればそこはよく見る普通のエレベーターだ。さきほど亮とルキが下ってきた旧本館の年代物のようなものがまた現れたらと思っていたが、その見慣れた造作に少し安心する。
 何も喋らぬまま、亮はチカチカ瞬く回数表示を眺めていた。
 どのくらいそうしていただろう。
 3階までなのだからほんの十数秒のことだったろうか。
 いつの間にか亮はエレベーターを降り、L字型の廊下を曲がった辺りにある両開きの扉前で立ち止まる。
 白い鉄製のドアには窓はなく、真鍮製のノブが鈍く光って見えた。
「ここが医務室です。こちらで体調のチェックなどをしてもらいます。ギアさんもここでしばらく休んでください。成坂さんはチェック終了後、病室へご案内しますのでしばしお待ちください」
 亮を見下ろすエレフソンは、柔らかな口調でそう言った。
 なんだか妙に緊張する。
 IICRに戻されてからこちら、亮の居場所は目まぐるしく変わり続けている。その中にあっても「樹根核」という響きは訝しさピカイチで、このドアを開いたらとんでもない何かが自分を絡め取り、取り込んでしまうのではないかという得体の知れない恐怖を感じてしまうのだ。
 だがそんな亮の気持ちなどお構いなしに、男の一人が躊躇いもなくノックをし、扉を開ける。
 コクリ――と亮の喉が鳴った。
 目の前に現れた白い布張りの目隠しを抜ければ、中は少し広めの病院の処置室そのものだった。
 正面奥に大きく窓が取られているがブラインドが降ろされ、眩しくはない。隙間から差し込んだ日の光が白い部屋を柔らかく照らしている。
 正面手前には診察のためのデスクとチェア二つ、小さな診療台と薬品棚が置かれている。
 左手には先ほどと同じようなついたてが並んでおり、奥にはいくつかベッドが置かれているようだ。
「っ! 有伶さん!」
 亮はそこで初めて見知った顔に出会い、ほっとしたように思わず声を上げていた。
 診療デスクに突っ伏していた白衣の男が顔を上げれば、それは紛れもなく研究局局長ウィスタリアその人である。ぼさぼさの天然パーマと若干傾いだ丸眼鏡は相変わらず緊張感の欠片もない。
「……やぁ、亮くん。良くきたね」
 しかしそう言って笑顔を作って見せた有伶の声はやけに弱々しい。
 見れば手を振ってみせる有伶の顔にはいつもはない無精ひげがちらほらと生え、目の下にはくっきりと隈が浮かび上がっている。
「それでは私たちはこれで。また病室に移動の際はご案内に伺います」
 エレフソンは礼儀正しく亮に向かい目礼をすると、他の二人を連れて部屋を出て行った。
 男に抱えられていたルキはすぐ側の寝台の上に降ろされ、青い顔のままうずくまっている。
「ああ、ルキくんもつらそうだね。気休め程度の酔い止めはあるんだけど、飲んでみる?」
 立ち上がった有伶はよろけながら薬品棚を漁り、傍らの冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、涙目のまま呻いているルキへそれらを差し出していた。
「すい……ま、せん。いただき、ます」
 亮が身体を起こすのを手伝うと、ルキは有伶から青い錠剤二粒と水を受け取って死にそうな顔でそれを流し込む。
「ルキくんの能力値だと、半日以上はこの状態だからとにかく水分だけはたくさんとって寝てるしかないね。気分悪くなったら洗面器も用意してあるから遠慮なくどうぞ」
 ルキはもう一度消え入りそうな声で礼を言うと亮に「大丈夫」と目配せし、そのまま診療台の上で丸まって目を閉じた。
 亮は自分が抱きしめていた秘蔵のタオルケットを広げ、ルキの身体に掛けてやる。
「もう少し具合良くなったら、となりのベッドへ移動しようか。あっちの方が寝心地いいはずだから」
「オレ、今からでも運ぼうか?」
 亮が心配げな様子でルキの前髪を掻き分け、側に置かれていたタオルで汗を拭く。
「いや、今は多分それすらしんどいと思うから、もうちょっとしてからの方がいいよ。ほんと、アクシス酔いは悪魔のようだわ。特に樹根核入りは別格だし」
 そう言って有伶はふらふらと椅子へ戻り、とろけるように座り込んだ。
「亮くんはこっち来て。一応診察するから……」
 言われて亮も有伶の前の椅子に座り、青白い顔のままの有伶の顔を覗き込んだ。
 どう見ても調子が悪そうだ。
「有伶さんも具合悪そう。大丈夫?」
「ああ……、うん。僕はこっちへ来てもう三日目なんだけど、それでもお腹に力が入らなくてね。来て初日は吐きすぎて内臓が口から出てくるかと思ったよ」
 乾いた笑いを浮かべながら、聴診器を構え「お胸見せてー」とそれでも仕事をこなしていく。
「僕は医者じゃないからあまりちゃんとした診察はできないんだけど、それでも亮くんの症状に関しては僕が一番わかってると思うから……プラムはいないけど心配しないでね」
「うん、わかってる。プラム様はカラークラウンだしIICRの病院も忙しいんだろ? オレ一人のためにこんな面倒な場所まで来てもらったら悪いもん」
「はは……、僕も一応カラークラウンなんだけどね」
 有伶の主張に一瞬きょとんとした顔をした亮だったが、なにか気づいたように両手をぶんぶんと振り「別に有伶さんをディスったわけじゃないよ!? 有伶さんもエライ人だってわかってるし!」と頬を染めて言い訳をする。
「それにオレの治療のために来てくれたんだろ? ここ、こんなにしんどい思いして来る場所だなんて知らなくって……、ごめんな?」
「あ、いやいや、いいんだよ。もともとこの観測基地は研究局の管轄なんだ。ここへは定期的に当番で来ることになってるし、亮くんが気にする事じゃないよ。まぁ、アクシス酔いだけは何度経験しても慣れないんだけどね。……はい、今度は背中ー」
「そう言えばレオン先生は?」
「ちょっと亮くんシー。音が聞こえないから…………、うーんまぁ大丈夫そうだね。あとでドクターにも診察してもらうし気分が悪くないならもう病室へ移ろうか」
「後でって……レオン先生もう来てるんじゃないの?」
 聴診器を外しながら、有伶が困ったように笑った。
「レオンくんは今奥でトイレと抱き合うのに忙しくて身動きとれないんだ。こんな場所だってのに頼りない大人ばっかりでごめんね」