■ 5-38 ■


 ルキはひた走っていた。
 通話室から処置室へ向かう順路も正直どう走ったのか覚えていない。
 呼吸するのも忘れ、階段を駆け上がり、廊下を走り抜け、再び階段を駆け下りる。
 耳の奥が脈打ち、全ての音が水の中のように籠もって聞こえた。
 眼前に揺れる景色はぐらぐらと紅く煮え立つように見える気がする。
 迫ってきた扉に飛びつくと、ルキは強くドアノブを回していた。
 だがそれはガチリと音を立てたきり回転を許さず、押しても引いてもルキを中へ入れようとはしない。
 ルキは一度息をすうっと大きく吸うと、ドアノブを握ったまま一気に力を込めていた。
 本日は少女の姿をしているルキの上腕二頭筋が瞬間膨れあがり、筋肉の輪郭を隆隆と現していく。
 音もなく合金製の扉はドアノブの根本から歪められ、そして二秒を待たずに鈍い音を立て大きく内側へ開かれていた。
 まず目に飛びこんだもの。
 処置室中央。バスタブ横の床の上。最初は白い看護師服を纏った男の背中が揺れているのが見えただけだ。
 きっちり撫でつけられた茶色い髪とその雰囲気で、彼が亮の生活補助員リーダーであるエレフソンだとすぐにわかった。
 膝立ちで揺れる彼のズボンがわずかに下へずり落ちている。
 よろりと一歩ルキが進んだ。
 エレフソンの向こう側へこちらを向いて熱心に腰を動かすもう一人の姿があった。
 がっちりとした体躯を持つ若い男、ソウザだ。同じく白い看護師服を纏ってはいるが、こちらは胸元をはだけ、乱れきった身形と成り下がっている。
 長く垂れる前髪の向こうから覗く黒い目は血走り、欲望の色をありありと湛えたまま、己のすぐ下へ向けられ続けている。
 二人の補助員はルキがこの場に侵入してきたことにすら気づかないようであった。
 バスタブにはお湯が注がれ続けており、溢れ出た湯は床へと溢れだして彼らの足下を濡らしている。
 男達が動く度パシャリと水音が鳴るが、それに混ざってもっと別の淫靡な水音が一定のリズムを持って綴られ続けていた。
 その音の源は彼らの下側にあるようだった。
 揺れる小さな羽根をソウザが掴み、乱暴に引っ張り上げた。
 微かなうめき声が上がり、彼らの足下で何かが動く。
 ふらふらとサイドに回り込んだルキの大きな瞳に、一つの光景が焼き付けられた。
 二人の男に挟まれていたのは、ルキが弟のように大切にしている友人だった。
 犬のように四つん這いにさせられた彼は、背後から彼の生活補佐リーダーにより貫かれ、その小さな口に大柄な補助員のものをねじ込まれていた。
 淡い湯気が室内に立ちこめ、白く煙った景色は現実感がまるでなかった。

『ヒトゴロシ。ヒトゴロシ。コノ、バケモノ』
『ヒトゴロシ ノ バケモノハ、アラッテモ アラッテモ キタナラシイ デスネ』

 全く意味のわからない文字列を、男達は荒い呼吸の合間に垂れ流し続ける。
 耳の奥がキンと凍り付いたようになり、よく音が聞き取れなくなる。
 それでも男達の呟きに埋もれながら見え隠れする、くぐもった鳴き声と、とぎれとぎれに繰り返される『ゴメンナサイ ゴメンナサイ』という響きは、ルキのアルマをナイフのようにえぐっていく。
 室内に入ってからわずか九秒足らず──。
 だがその時間はルキの中で永遠のように引き延ばされ、景色はぐんにゃりと歪んで見えた。
「なにを……」
 ぽろりと──吐息にも似た言葉が口の端から転がり出る。
「なにを、して、いるんですか……」
 男達の動きが止まった。
 彼らはゆっくりと顔を上げ、獣のような顔のままこちらを見た。
 男の一人はそれでも構わず、少年の顔を両手で固定したまま、喉の奥深くまで今一度腰を突き入れる。
 彼らの足下で細い身体がぶるりと震え、激しく嘔吐き、噎せ返るが、顔を押さえられ、後ろから羽根を引かれたままの少年はうずくまることも許されない。
 ──ルキの中で何かがぶつりと切れる音がした。

「なにをしてるんですかあなたたちはああああああっ!」

 怒号がほとばしり出ていた。
 それと共に男達二人の身体がぶわりと宙へ浮かび上がっていく。バランスを崩した彼らはよろけ、抱えた少年の身体へすがりつくように手を伸ばす。
 だが、全身のバネを使い一気に距離を詰めたルキの華奢な手が、それよりも早く亮の身体を奪還していた。

「この子に触るなっ、離れろおおおおおおおっっっっっ!!!!」

 亮の身体を両手で抱えたルキの周囲には渦巻く水流が立ち上り、渦は濛々と白い湯気を纏いながら男達の身体を飲み込んでいく。
 床よりむくむくと膨れあがり室内を埋め尽くしていくその透明な液体は、バスタブより溢れ出た湯に他ならない。
 だがそれは明らかにその場にあるはずの量を遙かに陵駕し、不条理なまでの体積を持って辺りを飲み込み始めていた。
 悲鳴にならない悲鳴が水の中で男達の口から泡となって溢れ出た。
 男達だけではない。ありとあらゆるものが浮遊し始める。
 簡易ベッドのマットレス、バスタブ、医療器具やケア用品の詰まった棚、ストレッチャー──、通常水に浮くはずのないものまで全てだ。
 跪いたまま亮を抱くルキの周囲のみ空間が存在し、正常な物理法則が生きている。
「許さない……、あなたたちを、僕は……」
 怒りに燃える黒瞳で彼らをにらみ据えながら、ルキは抱えた少年の身体をぎゅっと抱きしめた。
 震えていた。
 亮が震えているのかルキ自身が震えているのか、わからなかった。
 ばちばちと目の前がスパークし、どこかから分厚いガラスがひび割れるような、乾いた低音が聞こえた気がする。
 これは来たな──、とルキは思った。
 また、やってしまった……のだと。
 音が聞こえた瞬間から、周囲の水塊が意志を持った生き物であるかのようにうねり始めていた。
 水塊そのものの質が変化していく。脈打ち、鼓動し、部屋中の物体と男たちを内包したまま辺りを囂々と巡り始める。
 大蛇がのたうつようなその状況は竜巻そのものといってもいい。
 それでも室内の灯りはなぜか生きていて、一際明るさを増したり一瞬陰ったりしながら災害のごとき惨状を照らし続ける。
 こうなったらもうルキには止めることが出来ない。鬼子の力が暴走すると、そこから先は何が起こるのか彼にもわからないのだ。
 生き物の咆吼が水流を震わせた。
 明滅する灯りはいかづちにも似て、内包された物影を浮かび上がらせる。
 補助員の二人はこのまま水塊につぶされ死んでしまうに違いない──、だがそれは仕方のないことのように思えた。
 自分の中にこんな絶対的な怒りが存在することをルキは知らなかった。絶対的な怒りは、ルキの上空で翻弄される二人の男が「人間である」と確信していてなお、放置をよしとしてしまう。
 異様な金属音が響いたと思った刹那、前方奥の扉がひしゃげ水流は先の通路へ唸り込んでいく。
 分厚い合金製の扉が紙くずのように巻かれ奥へと進んでいき、突き当たりの壁へ押しつけられたまま微動だにしなくなった。
 水流はそこへぶち当たると左右に枝分かれし、通路両側についている二つの扉を飲み込もうとうねり続けていた。
 すでに意識を手放した男達の身体も流れに任せ通路を下っていく。
 このままあのひしゃげた扉に叩き付けられれば彼らは人間をやめ、ただの肉塊へと変わり果てるに違いない。
 一弾指──。
 水の流れがぴたりと止まった。
 代わりに左扉より、茶褐色をした野太い何かが恐ろしい速度で走り出でていた。
 それは天井に、壁に何度もぶち当たりながらゴツゴツと自身に瘤を作り出しこちらへ伸び上がってくると、部屋の扉跡で弾けるように網目状に広がった。
 室内を包み込むように床へ壁へ天井へ、大人の腕ほどの太さを持つ枝は各々意志を持ち網目を形成していく。
 ベッドもバスタブも──邪魔となる浮かび上がった備品達も全て次々と枝網に捕らわれ、まるでオブジェのように木壁の一画へ縫い止められていた。そしてその中には通路奥へ流されていった二人の男の姿もある。
 彼らは水中で藻掻く姿勢のまま枝網に縫われ、奇妙なポーズで固められていたが、その姿はどこかヒエログリフを思わせ非現実的でコミカルにすら見える。
 どのような仕組みで壁として取り込まれたのか瞬時にはわからなかったが、徐々に水が消えいくうち明らかになっていく。
 今やルキの呼び出した異界の水は凄まじいスピードで枝網に吸い取られ、同時に男達を縫い止めた木壁の周囲へじんわりと赤黒い滴りが滲み始めたのだ。
 枝は規則正しい模様を描くように何度も男達の身体を貫き美しいステッチを描いて、文字通り彼らを中空へ縫い止めていた。
 それでも彼らは未だ意識があるようで、時折うめき声を上げながら、固められた腕の先で指だけがうねうねと動く。
 変化は三度瞬く間に完遂し、その様子を声も出せずにルキは見守るしかない。
 己のラグーツが鬼子としての力で暴走してしまったところまでは理解できた。だがそこから先は理解不能だ。
 めきめきと音を立て天井へ床へ枝が伸び続ける。金属製だった周囲一帯は、まるでデフラグ作業で塗り替えられるモニター画面の如く整然と木製へ置き換わっていく。
 このままではルキと亮もエレフソン達と同じ壁飾りに成り果ててしまうに違いない。
 亮を抱え直し立ち上がったルキはちらりと背後の扉を確認し、絶望する。
 すでにそこには扉はなかった。
 枝網はもはやルキ達のいる床を残し室内全てを取り込んでいたのだ。
 ふと気づけば、ルキの細い足首に細い枝が触れていた。
「──!」
 咄嗟に跳ぼうとした彼のふくらはぎに激痛が走る。
 巻き締める枝の内側よりさらなる枝が針のように伸び、螺旋状に次々とルキの硬い筋肉を貫いていた。
「っ!!」
 下方へ引かれ床にたたきつけられる。
 瞬間受け身を取り抱きしめた亮の身体を守ったが、己の足から伸びる螺旋に加え、四方から別の枝網が波のように押し寄せていた。
 まずいと思いぎゅっと身体を丸め亮を抱え込む。
 どこかで子供のはしゃぐ声が聞こえた気がする。くぐもって聞こえるということは枝網の向こう側からだろうか。
 死ぬ間際の幻聴だと思われるそれは、大水や木の怪物が現れた事へ単純に興奮しているようで、純粋無垢な残酷さを持って甲高く彼の耳朶を叩く。
 不思議なことに、その声の主をルキは知っている気がした。
 だがそれが誰なのか俄には思い出せない。とてもよく知っている声なのに、だ。
 誰だろう、誰だろう、これは、誰なのか──思い出さなくてはいけない気がして恐ろしい焦燥感に駆られる。
 だがその思考は強引に止められていた。
 今度は肩に激痛が走る。
 枝は今から縫い取ろうとする相手がどんな味なのか確かめるように、スピードを緩めじりじりとルキの肉体へ潜り込んでくる。
「っ──」
 漏れ出そうになる苦鳴をかみ殺すと、腕の中で亮の身体がびくりと揺れた。
 亮の足にも枝が絡みつき始めているらしい。
 ほぼ意識のない亮の唇が「ごめんなさい……」と小さく動いたのが見えた。
 この痛みすら自分への罰だと思っているのだろうか。
 ルキの胸が締め付けられるように痛んだ。
「フレズくん、ごめん……、僕は……」
 もう一度ルキは意識を開くべく大きく息を吸い込んだ。
 故意に鬼子の力を解放したことは一度もない。だが、今こそそれをしてやるんだと、唇を噛み締め天を振り仰いだ。
 鬼子の力は一度異界へ落ち、有り得ない力を持ってこちらへ戻ってしまった者を、もう一度在るべき場所へ戻そうとする力に他ならない。
 ゲボでもない人間が異界へ干渉できる能力を得ると言うことは、常に異界落ちと背中合わせであるということになる。
 だからこそ鬼子は忌みの対象であり、その能力を純粋に使用することは硬く禁止されている。
 不意の暴走で鬼子の力が漏れてしまう程度でも危険だというのに、故意に解放しようものならどうなるのか──ルキ自身にもわからなかった。
 過去の文献では数多くの悲惨な事例が示されている。だがそれをしなくては、今亮を救うことは出来ないだろうと確信する。
 ハルフレズは怒るだろうな……と、一番会いたい人の顔を思い浮かべた。
 こんな時に思い出された顔すら眉間に深く皺が入った仏頂面で、ルキの口元に思わず笑みがのぼる。
 そうしてルキは全身の筋肉に力をたわめた。
 入れ墨の施された少女の細い手足に見事な筋が浮き上がり、這い進もうとする枝の動きを強引に停滞させる。
 手足に食い込んだ枝はルキの原初水に触れ溶け落ちていく。
 己のラグーツを使い亮の身体を保護水に包み込むとそっと手を離した。
 大きな水球に包まれた亮の身体が宙に浮き、ふわりと漂っていく。
「亮くん、少しだけ待っててね……」
 ルキがそう囁くように呟いたその時である。
「何の真似だ。貴様は何をしたかわかっているのか」
 不意に木々のざわめきが止まった。
 網目の一画が溶け落ちるように形を変えアーチを描き出すと、向こう側から一人の人間を排出していた。
 最初それが誰なのかルキには判断が出来なかった。
 白いシャツと黒いスラックス。その上からだらしなく白衣を羽織っただけの男は、ウェーブの掛かった髪を肩まで垂らし、前髪でその顔立ちはよくわからない。
 だがこちらへ進みながら栗色の髪を後ろで縛り上げ、鬱蒼とした前髪を後ろへ撫でつければ、感情の薄い鋭い眼光が現れる。
 スルト樹根核観測所管理統括官──。ウィスタリアに唯一もの申せる、事実上この施設のトップに君臨する人間だ。
 ルキも数回しか顔を合わせたことのない彼だが、彼がウィスタリアを凌ぐほどのエイヴァーツ能力者であることは周知の事実である。
 どうやらこの枝網は彼のエイヴァーツが作り出したものらしいとルキは理解した。
 発動しかけた鬼子の力が急速に閉じていくのがわかる。
「鬼子。貴様は樹根核のセントラルを潰すつもりか」
 歩みながら襟元までぴっちり白衣を閉じ終わった彼は、いつものスルトの姿でルキを睨み降ろす。
 だがルキも負けてはいない。この事態を招いたのには研究局側の落ち度も大いにあるからだ。
 ふわふわと浮いていた亮に手を伸ばすと保護水は瞬く間に霧散し、細い身体を再び抱き寄せた。
「そちらこそ亮くんの安全を全然考慮できていないじゃないですかっ! ここが壊れたっていうなら僕が命を持ってでも償います。でも、亮くんが酷い目に遭うのは絶対に許されないっ!!」
「おまえ如きの命など何千個あってもここのネジ一本にも能わないわ。──原因はこれか」
 燃える瞳でにらみ据えるルキに興味を失ったかのように顔をそらしたスルトは、己の背後、天井付近に貼り付けとなった二人の男へ目を向ける。
 あれほど穴だらけにされているにもかかわらず、彼らはまだ息をし意識を持って蠢いていた。
 恐らくスルトの操るエイヴァーツが彼らを敢えて生かし続けているに違いない。
 通常ならば即座に安らかな死が与えられるはずの有様であるにも関わらず、それを赦さない彼の能力は逆にグロテスクなまでの峻酷さを感じさせた。
「詳細はこれらから分析する。おまえはそれを持って部屋で待機していろ。追って沙汰する」
 「これら」だの「それ」だの──、およそ人間をさす言葉とは思えない指示で言い放つと、スルトはあっという間にルキを部屋の外へ追い出していた。
 亮を横抱きに抱えたままルキはしばし呆然と通路へ立ちつくし、素肌のままの亮を抱きしめ走り出す。
 こんな姿の亮に毛布一つ寄こさず叩き出すデリカシーのなさに、ルキは次第に険しい顔になり、やり場のない怒りに唇を噛み締めた。





 ルキが今回の件を知り得たのは、リアルからの電話によるものだった。
 通話室に着いたルキを待っていたのは通話担当官ではなくなぜか酷く真面目な顔をしたラージであり、腹痛で本日は休息を取っているはずの彼に促され、訳もわからず部屋に入ったルキはモニター画面に映るハルフレズの顔を見て、瞬間、通話予約のキャンセルの件について叱られると身構えたのであるが──。
 ──不機嫌であるはずのハルフレズからもたらされた話は、そんな痴話喧嘩からはほど遠い実に深刻なものであった。
『成坂亮が治療後、クラウドリングで記憶操作をされた状態のまま生活補助員に悪戯されている』
 ハルフレズからもたらされた情報はそれだけに止まらなかった。
 どうやら彼らは亮が起こした事故の件で、彼を責め立てているらしいというのだ。
 その証拠音源をハルフレズは入手しており、その一部をルキもその場で聞かされることとなった。
「うちの諜報官が一人そちらへ潜り込んでいるわけだが、今回の件で彼も表向きの責を負いこちらへ戻されることになるだろう。今後は諜報局もフォローできなくなる。だからルキ。おまえも一緒にこちらへ戻って来い。入れ替わりで成坂修司がそちらへ赴く。それから、くれぐれも今すぐどうこうしようと思うな。無茶をせずまずはウィスタリアと連絡を取って……おい。聞いているか? こらルキ! 待て──」
 ハルフレズの言葉が終わる前に、ルキは部屋を飛び出していた。
 背後でラージが呼び止める声が聞こえたが、最早前しか見えない。
 自分の迂闊さに赫怒し、喉の奥が干涸らびていくのがわかった。
 なぜ亮の変化に気づかなかったのか。
 亮が悪夢にうなされるようになったあの日から、醜悪な犯罪は行われていたのではないのか。
 亮を助け出した今になっても、ルキは自分を責め立てる感情に身体の内側から炙り続けられている。
 ジェルでぬめった亮の身体を部屋の浴室で洗い落としてやりながら、ルキはゴシゴシと己の目もこすった。
 拭いても拭いても涙がこぼれてくる。怒りで、悔しさで、感情が制御できない。
 湯がかかるのも構わず服のままバスタブの中の亮を支え、泡立てた手のひらで亮の全身を洗っていけば、足の付け根に指先が差し掛かった時、ドロリとした湯でもジェルでもない何かが亮の内側から零れかかり、ルキは躍起になってそれを細い指で掻き出した。
 いつしか口元から呻き声が上がっていた。
 堪えようと思えば思うほどその呻きはルキの口から大きく漏れ出し、時折自らの二の腕を噛んでその声を押し殺す。
 なぜこんな声が出てしまうのか、わからなかった。もっと静かに亮を清めてやりたいのに、自分にはそれすらできないのか――。
 しかも湯煙のせいなのか、視界も揺れて定まらない。
 視界が定まらないのは号泣している為であり、呻き声が止まらないのは嗚咽しているせいである――そんなことにもルキは気づけないでいた。
 背後から中の様子を心配するレオンが何度も扉を叩き、バスルームへ入れるように声をかけ続けていたが、今のルキには何も聞こえはしなかった。
「亮くん、っ、ごめ、ごめんね? 僕、守るって、約束、したのにっ……、ごめん、ね?」
 嗚咽の合間に何度も謝りながら亮の頬をこする。
 人肌の湯の中でクラウドリングを装着したままの亮はただボンヤリとルキを見上げていた。
 おそらくルキの言葉など半分も理解出来ていないに違いない。
 だがそんな亮の細い腕がゆらりと持ち上がると、自分がされているのをなぞるように、同じく優しくルキの頬を撫でていく。
 ルキの丸い頬を流れ落ちる熱い雫を親指でぬぐいながら、亮はわずかに小首をかしげた。
「……るき、意地悪、された? オレが、やっつけて、やるから……、も、だいじょぶ、だよ?」
 朧な意識しか持ち得ないにも関わらず、亮はそう言ってルキに微笑みかける。
 自分の状況もルキの涙の意味も――何一つわかっていない亮は、それでも大好きな友達の涙を止めようと、何度も何度もルキの頬を撫でた。
「うん……、うん…………」
 そう返事をするのが精一杯だった。
 蹲って亮を抱きしめ、噎せ返るように泣く。
 以前、亮がセブンスにいた頃亮に仕えていた執事は、主人を守るためにコモンズの身でありながら楯となり死んでいったとフレズに聞いたことがある。
 転生すらできないコモンズの人間がソムニアの為にそこまですることがあるのかと、当時その主従関係に感動を覚えたルキだったが、今なら彼の気持ちが痛いほどわかる。
 きっと彼は亮が主だから助けたのではない。
 単に成坂亮という少年を救いたかっただけなのだ。彼の笑顔を失くしたくなかっただけなのだ。
 だからたった一つしかない命を惜しげもなく投げ出したのだ。
 亮の肩口に顔を埋めたまま震えるルキの髪を、亮の小さな手が大事そうに撫でている。
 時折その動きがぎこちなく止まるのは、リングにより亮の記憶と意識がリセットされるからであり、それでも再び撫で始めるのは、きっと亮がルキをとても好きであってくれるからだ。
 だが同時にそれは亮の苦しみにもつながっているのだとルキは理解する。
 こんなに自分を好きで居てくれる亮が、その手で大事な友人を殺しかけてしまったという記憶を突きつけられ続ければ――早晩彼は壊れてしまうに違いない。
 亮の耳元で「人殺し」だの「化け物」だの囁いていた醜い男達の姿が脳裏によみがえる。
「あんなの、違う……。悪いのはキミじゃない。あいつらの方こそ、人殺しの化け物だ……」
 亮には聞こえないほどの声で呟くとルキはぎゅっと亮を抱きしめ、しばし間近でじっと見つめ合うと、頬を優しくすりあわせた。