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 本部本館48階にある総合通信監理局へ赴いたその足で、シドはPROCのブリーフィングルームへと向かい廊下を進む。
 すれ違う構員達は皆彼に気づいた瞬間、我知らず道を開け、恐ろしいモノでも見たように顔面を強ばらせその後ろ姿を目で追った。目に映る姿形に恐怖を覚えたわけではない。イザ・ヴェルミリオは相も変わらず無表情であったし、荒々しく足を踏み鳴らしながら歩いていたわけでも、ましてやイザに任せた凍気をまき散らしていたわけでもない。だが、彼の全身から立ち上るオーラとも呼ぶべき気配は異様なまでで、すれ違った者たちは気温ではない寒気に一様に身をすくませた。若い構員以外は追放される前のヴェルミリオを思い出し、あの男も変わらないなと首を振る。
 廊下を大股で進みながら携帯電話を取りだしたシドは、一度だけ思案するように目を伏せたが、通路を曲がりエレベーターの下りボタンを押すときにはもう、フォンブックの中から“Pervo”とだけ記された人物のナンバーをタップする。
 だがスピーカーから流れたのは“Currently unable to connect”――現在お繋ぎできません、という電子音声の素っ気ないものだ。
 数秒でやってきたエレベーターの狭い箱に乗り込みながら、シドは再びナンバーをタップする。
 頭上に流れ行くミルク色の空と、広大な森林地帯に切り開かれたIICR本部の見慣れた景色を網膜に映しながらも、シドの目はそれらを一切見ていない。繰り返ししつこいほど同じ作業を繰り返すだけだ。
 3階に辿り着きエレベーターを降りる頃、5度目のタップの後、ようやく繋がった先からは、呆れ返ったような男の声が流暢な日本語で
『そんな場所からノーガードで何度もコールするとか僕をどうする気?』
 と、文句をぶつけてきた。
「時間が無い。今すぐアレを使わせろ」
『アレ!? どれよ。オールマイティパスなら制作に時間掛かるから三日はいるけど』
 挨拶も何もなくいきなり訳のわからない発注をするシドに対し、通話相手は慣れた調子で軽快に受け答える。
 だが次の言葉に相手はしばらく沈黙することとなる。

「おまえが東京の夢の国で使ったあの指輪だ」

 黙り込んだ相手は深く息を吐いた後、
『あれがなんだかわかってて言ってんの?』
 と別人の如く声のトーンを落とし問うた。
 だがシドは黙したまま彼の答えを待つばかりだ。
 一転、男はやれやれとでも言いたげに鼻先で笑う。
『可愛い亮くんがまた攫われでもしたってとこか。相変わらず間抜けだね。しかしカラークラウン様はIICRの中枢に居るんだろ? そこの豪華な設備を使わせてもらえないなんて、相手はどこの誰さ』
「ビアンコだ。亮は樹根核にいる」
『……っ、は?』
「アクシス使用は拒否され、正規でのルートは絶たれている。樹根核への通話さえも現在全て不可能だ」

 ルールィードからリアルに戻ったシドはすぐさま亮へ面会の申請を出したがしかし、その申請の審議には一週間はかかると告げられた。
 それはとりもなおさず、シドが久我から得た情報により気づいた事象が間違っていないことを示しているものだと言えた。PROC就任の際の規約にはビアンコのサインが入った公的書面で、亮への面会を希望する折は申請後半日以内に引き合わせるとはっきりと記されているからだ。亮の存在がオープンになったとされる今、この書類はどの窓口へ持ち込んでも絶対であり、申請は“許可を取るため”ではなく、“アクシスを動かす準備を開始するため”のものでしかないはずなのである。窓口が“審議”という単語を使った時点で上からの圧力があると確信し、ヴァーテクスへ抗議をすべくレドグレイへ電話を入れさせろと言えば、彼は既に失脚したと告げられる。亮に対し妙な執着を見せていたあの男が既に退いているとなれば、ストップを掛けているのはサインをした当のビアンコであることは明白だった。
 その後、状況を知るため、樹根核への回線を開くよう通信監理局へ申し出たが、それも現在機材トラブルのため不可能だと突っぱねられた。回復の見込みは不明とのことで、リアル側も鋭意復旧に努めてはいるが、最も通信に精通しているウィスタリアが樹根核側へ上がったままのため、向こうからのコネクトがないとどうにもならないと、寝不足気味の若い通信士は不満を漏らしていた。彼曰く「以前はこんなことはなかったのに、ここ一週間ばかりかつてない通信の不安定が続いている」そうだ。
 あの有伶が通信網をおろそかにするなどあるわけがない。彼が樹根核とリアルを結ぶ映像フォンのシステムにどれだけ心血を注いで来たのか、以前諜報局に籍を置いたシドならずとも誰もが知る事実だ。あの研究バカなら通信障害が発生しようものなら、一分たりとも我慢できないに違いない。
 この一週間が何を指しているのか、シドに量り知る材料はないが、時は一刻を争う状況であることに間違いはない。
 通信士に「PROCの任務に戻る前にウィスタリアへ確認を入れたかったのだが仕方がない。回線が開いたら、俺はそのまま任務を開始したと伝えてくれ」と伝言を残し、今、言葉の通りPROCのブリーフィングルームへと向かっているわけである。
 今ここで拘束されては亮の元へたどり着くことは不可能になる。諜報局で前線に出張っていた頃同様、息をするように嘘を吐く。

『樹根核って……ティファレトにビアンコとテーヴェが建てたっていう越境施設のことか!? なんだってそんなとこに拉致させてんだ、アクシスなきゃ煉獄以上のセフィラにはどうあがいても生きてたどり着けないってわかってるだろうが!』
「おまえのあの指輪なら行けるんじゃないのか。あの日おまえは亮を肉体ごと持ち帰ろうとしたはずだ」
『…………肉体ごと上がれるってだけで、生きて帰れる保証はどこにもないぞ? 地球丸ごとのエネルギー集積を果たしているアクシスだから安定して打ち上げられるだけで、僕の指輪は人間の感情起伏から発生する不安定な量子エネルギーを燃料にできる、祭具と僕のヴンヨで練り上げただけのオモチャみたいなもんだ』
「原理はどうでもいい。行けるのか行けないのかどっちなんだ」
 とりつく島もないシドの言い回しに、男は小さく呻くと諦めたかのようにこう続けた。
『行けるが穴を開ける場所が必要だ。目的地が樹根核なら、この間みたいにリアルから扉を開くことは無理だ。樹根核のあるティファレトに最も近い位置に面した深層セラ──ヴィーナスダイス辺りなら可能かもしれない。だがもしそこからうまく樹根核へ上がることが出来たとしても、打ち上げに僕らの身体が耐えられるかどうかはわからない。アクシスで快適なランチを使ったとしても酷い酔いにやられるって聞いてる。あっちが最新鋭の宇宙船だとしたら、僕らは気球と酸素ボンベで大気圏を目指すようなもんだ。生存確率10%がいいとこだろうな』
「わかった。他に必要なものはあるか」
『わかったって、おまえさ……』
 何か言いたいことがあるようだったが、シドの性格を知り尽くしている男はそれ以上言葉にせず、必要な回答を送る。
『必要なのは打ち上げのためのエネルギーだ。前回は夢の国の観客たちの力を集積して利用したけど、深層セラには感情を持つ生き物が存在しない。アルマ的量子エネルギーを集めることは不可能だ。代替になる大きな何かが必要になる。その辺のセラ生命体から凝縮して使いやすい燃料があれば狩りでもするんだけど』
「時間が無い。白炎でいいか」
『……うそでしょ、なんでそんなの持ってんだ。てかそんな強力な燃料使って気球で打ち上げたら確率10%どころか、一桁切るぞ。アクシスがレイライン使って緩やかなエネルギー収集してる意味わかってる?』
「他に候補があるか?」
『……いや、手元にはないけど。せめて白炎使うなら黒炎で緩和しながらじゃないと制御できないよ』
「……黒炎も少しなら用意できる」
『そっちもあるって今どんな仕事してるんだ、おまえ』
「ヴィーナスダイスへ今から潜行するとなると──落ち合うのはセラタイムで約120時間後、エントランスの中でいいな」
『断定するかね。……そもそも僕がおまえの要望に応えると本気で思ってんの? 指輪を使うからには僕自身も危険に晒されるわけ。しかも帰りは3人でしょ? 帰還率一桁の救出劇に付き合う僕の見返りは何だよ』
「金なら言い値で出す」
『金で命は買えないからね。寂静はさすがの僕もノーサンキューだ』
「ループ・ザ・シープを開く。おまえもあそこを使えばいい」
 シドの言葉に男は初めて息をのむ。“ループ・ザ・シープ”というセラ名に彼はシドの真意を知ったとも言える。
 250年を超す昔、男とシドが出会ってまもなくのあの頃。ソムニアであるというその一点のみを頼り、命もアルマも無謀なまでに酷使してきた時代である。
 その頃、くだらない事件に首を突っ込み死にかけた彼らが偶然たどり着いた深層セラの一つ。それがループ・ザ・シープである。
 広大な深層煉獄の片隅にあるその小さなセラは、ある特殊な性質を有していた。星の数ほど在るセラに於いても、このような特徴を持つ場所を彼もシドもここ以外知らない。
 しかも圧倒的に閉じられたそのセラは、最初に受け入れたアルマ以外に何者をも受け入れることをしないらしい。
 電話口の主はあの時以来5度当該セラを訪ねたが、シドと共に内部に入った2度以降、個人ではどのような手段を講じても決して中へ入り込むことは出来なかった。それでも後に3度そこを訪れたのには、わけがある。それはループ・ザ・シープがあまりに異常で魅力的なセラに他ならなかったからだ。
 唯一の家主であるシドはそれ以降あのセラへ興味を示すことはなかったが、彼はその後も中に仕込んだカメラから内部をモニターするため、そこを訪れた。
 それ故彼は理解できたのだ。あの場所は原初セラ──最も始めに創り出されたセラの一つだということを。
 原初セラで有名なものは現在まで2つ存在が確認されている。それらはループ・ザ・シープと近い特徴を有しているがこれほど厳格で顕著ではなく、もっと大きく、受け入れるアルマの数も多い。まるでプライベートセラの如く他を寄せ付けないそことは規模も存在感も違っている。
 当然原初セラへは、深層煉獄へたどり着けるようになった時代から様々なソムニアがその場所を訪れ、教科書に載るほどの知名度を誇るまでになっており、現在はIICRの管轄の元、何人も入ることを禁止されている神の領域にも等しい。
 だが彼らの見つけたループ・ザ・シープは違う。誰にも知られていない、原初セラの欠片とも言うべき場所だ。深層煉獄の中においても密度の高い屑セラの集う場所に紛れるようにあることも、発見されない奇跡の原因と言えるかもしれない。
 250年開かれなかったその奇跡のセラを、あの興味を示さなかったシドが使うと言い出した。
『わお。本気なんだ。なるほど、ね。……ま、ビアンコ相手じゃそこくらいしか逃げ場はないか』
「異存がないなら切る」
『待って待って。それだけじゃ命ははれないからね』
「……いくらだ。1000万か。1億か」
『USドルでそれだけもらえるならありがたいけど金は辞退しておくよ。大金流れたらすぐ足が着く。……僕が欲しいのは情報』
「…………」
『今回の件。おまえが知る全ての情報を僕に渡すこと』
「わかった」
『あとそれから、おまえのケータイの中にある僕の名前。せめて“古本屋”くらいに変えておいてくれ。いくらなんでも“変質者”は酷い。悪口かよ』
「事実だが──。……善処する」
『いつまでもドMの僕だと思うなよ嗜好は進化するんだ。あと……言っておくけどおまえの頼みだから動くわけじゃない。僕は借りを返すだけだ。あの子に、ね』
 そう言って籠もった笑いを残すと、通話は切れていた。
 シドはそのまま携帯電話の“S”の項目をスクロールし、シュラ・リベリオンの名をタップする。
 だがしかし7度掛けてもそのコールが取られることはなく、彼の足は招集を掛けた部下達の集まるブリーフィングルームへと到着を果たしてしまう。
 扉を開けたシドを待っていたのは、笑顔のリー・ミンに眠そうなカイ。落ち着かない様子のユーラと、不服顔を隠そうともしないU子。──次の仕事に向け準備万端のいつもの顔ぶれだ。
「私があれだけ飛ばしてあげたってのに、恩知らずな男ね」
 開口一番分厚い唇を尖らせ言い捨てたU子は、野太い指を何度もテーブル上にトントンと打ち付け苛立ちを顕わにしている。
 そんな彼女の言葉を聞かなかったように流すと、シドはいつもと変わらず、次の目的地と依頼されている獲物についての資料を、室内に設えられたモニター画面へ映していた。
「今回は事前予告通りセラ建築に必要な上質のグルーデンを確保するため、ミケランジェロを目指す。行程はリアルタイムで三週間。細かな指示は車内で行う。十五分後にガレージに集合しろ」
「へあっ!? 15分!? 短くないですか!? 僕まだ荷造り終わってないんですが……」
「おまえは余分な服持って来すぎだ。Tシャツ3枚、パンツ3枚でいいだろうが」
「そんな、先輩じゃあるまいし、服ないと僕死んじゃいますよ……」
「1分たりとも待たない。解散」
 容赦ない指示を与えると、振り返ることもなくシドは部屋を後にする。
 ローチへ約束した白炎と黒炎は、小瓶に分けて密かにイザ執務室へ隠し置いてあるものだ。
 何かの役に立つかと納品物以外に個人的に持ち帰ったものだが、まさかこのような形で使うことになるとは思ってもみなかった。
 炎を扱うに辺り、シュラから助言を得たいと考えたがしかし、獄卒対策部という多忙な部署を抱える彼とは連絡が取れないようだ。
 タイミングの悪さは今に始まったことではないが、少しばかり苛立ちが増す。
 何を使ってでも、誰を利用してでも、シドは止まらない。
 感情と脳を切り離し、淡々と事を進める。
 表情無く廊下を進む彼の内側は、吹き上がる怨嗟の炎が全身の毛穴から吹き出さんばかりに荒れ狂っている。