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 雨が降っている。
 しとしとと優しげに窓を叩く霧のようなそれは、集まり、水滴となって下方へ滴り落ちて、幾筋も冷えた道を作っていく。
 不意に目を開けたシュラは、腕の中で丸くなり寝息を立てる亮の頬を撫で、そっと身を起こした。
 窓の外へ視線を飛ばし、静かにベッドを抜け出る。
 また、招かれざる敵がやって来たのだとわかった。
 長年戦闘職にあるシュラには元々危険を察知する勘のようなものが備わってはいたが、この世界に来てからというものそれは鋭敏な神経にまで昇華され、“何か”がある度、シュラの身体を戦闘モードへ勝手に切り替えてしまう。
 その“何か”とは、亮の身に危機が及ぶ事態のことだとシュラは感じている。
 亮が眠っているときに限るが、数週間に一度程度の間隔を開け、異界からの敵襲のようなものがあるのだ。
 生樹のほぼ中央に位置するティファレトには九つの月があるが、異界の入り口とされている“ダァト”もその一つだ。隣接するその世界は──向こう側──との門の役割を担っており、頻繁に“異神”と呼ばれる異形が侵入してくる。それ故ミカエルの戦闘力は各世界を守る守人の中でも群を縫いて強力であり、それらを退けることも大きな役割としていたらしい。
 ミカエルのいない今、その役割を亮が担っていることになる。
 だが、実際の所、亮は未だ戦闘をしたことはない。
 常に敵襲は亮の意識が閉じているときに起こり、それを退ける役割をほぼシュラが担っているからだ。
 この世界に来て700日を超え、シュラが異神を退けたのは両手の指では足りない数になる。
 だが中には戦闘中亮が目覚め、シュラの姿を探して表に出てきてしまった状況も僅かながらに存在した。
 ダァトから関を越えて現れる異神は、ゲボが召喚する異神と同じものだ。つまり亮を認めた異神はあまねくゲボである亮を欲し、食らいつこうとする。
 しかしそこでさしたる問題は起こらなかった。
 なぜなら亮が目覚め、敵を認識した瞬間、──その敵はこの世界から締め出され存在自体を抹消されてしまうからである。
 ティファレトは今や成坂亮の敷地であると言っても過言ではないほどに、亮の存在を受け入れつつあるのだ。
 あの生樹守護者として最高位であるミカエルが復活せず未だシュラ達の目の前に現れないのも、もしかしたら亮が、シュラの腕を焼き潰した彼を”認めていない”からなのではないかと有伶は言っていた。
 タオルケットを抱え込み安らいで眠る亮の唇は僅かに開いて、とろりと涎を垂らしている。
 くぅくぅという微かな寝息に笑みを漏らすと、親指の腹で亮の顎先から唇をそっと拭ってやり前髪へ口づけを落とす。
 ヘッドボードに着けられた引き出しから使い慣れたフレイムガンを取り出し、木椅子の背に掛けられたジャケットを羽織ると静かに外へ出た。
 暖かな霧雨がシュラの蒼銀を濡らし着慣れた赤のジャケットを重くしていくが、空は明るい。
 夕陽のような赤い月が地平の向こうから顔を出し、ミルク色に煙る世界に朱の差し色を加えていた。

 そんな月を背に、月より朱い髪をし、黒いコートを着た男が一人、今、草地に着いた膝を立ち上がらせ、こちらへ近づいてくる。

 まだ数百メートルほど距離はあるだろうか。
 だがその男が誰なのか、シュラには既にわかっている。
「来やがったか」
 ゆっくりと歩を踏み出し次第にスピードを上げながら、ホルスターへ差し込んだ銃を引き抜くと隻腕を構え、躊躇なく引き金を引いた。
 黒い銃身から蒼い光輝が放たれ丸太の如く膨れあがって先の黒い影へ伸びていく。
 囂々と唸りを上げる蒼炎は霧雨を白いベールに変じ、鋭く螺旋を描かせ纏う。小さな彗星と化した銃撃はしかし、シュラと男の間で生き物のようにうねり上がると空へ伸び、消え失せていた。
 同時にこちら側へ地面を隆起させつつ伸び来る氷塊龍も、彗星と絡まり合うように空へ持ち上がり、煌めく無数の雨粒となって霧散する。
 朱い髪の男はもう一振り白刃を閃かせると、真紅の虹を描く空へ舞い上がった。
 白刃より放たれ猛烈に向かい来る凍波を、シュラも蒼炎の連檄で迎え撃ち、同じく助走を付けて舞い上がる。
 遠距離同士の攻撃ではお互い埒があかないとわかっている。朱と蒼──二人のカラークラウンが斬り結ぶべき距離はここではない。
 黒い裾をはためかせ優雅にすら見える映像で、しかしその実、弾丸並みの速度を持って、彼らの距離は一気に50メートルにまで縮まる。
 空気は凍てつき、暖かだった霧雨は煌めく飛礫となって朱い月光を受け燃えるようだ。
 数度目の跳躍の後、黒い飛影は閃く一度の閃光で三檄、角度の違う凍気を放っていた。
 それを空中で体躯を反転させ捻り上げることでかわし、シュラは銃を口へ咥えると、手の甲に仕込んだ絶糸を解き放つ。
 氷結し弾力を失う糸を援護するように、宙返りの姿勢のまま、咥えた銃を構えなおすと蒼炎をぶっ放す。
 網膜を焼く蒼に煽られて絶糸が生き生きと黒い影に絡みついていく。
 その猛撃を黒影は白刃の閃きでいなし、だがその隙を突いてシュラはもう一撃、蹴り上げた左脚の軌跡から豪炎を迸らせていた。
 お互い決定打を避けるため、すれ違いざま身をよじる。瞬間、シュラの蒼が男の脇腹を穿ち、男の朱がシュラの左肩を抉る。

「っ、シドおおおおおっ!!!!!」

 左脚と己のカウナーツに確かな手応えを感じ、シュラは吠えた。
 凍り付いた左肩に炎を巡らせ、右腕から繰り出された絶糸を引きながら地に降り立てば、微かな手応えの後切り捨てられた糸が風に吹かれ頼りなく己の元へと戻る。
 地に降り立つシドの刀身が袈裟懸けに振り抜かれ、振り返りざま左腕一本でシュラの喉元へと突きつけられた。
 同じくシュラの銃口も、伸ばされた右腕の先でピタリとシドの眉間にポイントされ動かない。
 その距離ゼロメートル3センチ。
 彼の左脇腹は白く凍り付き、シュラの左肩は蒼く燃えていた。
 お互い己の能力で相殺している所を見れば、食らったダメージは同等だろうとシュラは目測した。
 片腕の己が万全のシドと対等にやり合えるはずがない。だが目の前の男は全身を使い呼吸をし、額にいくつぶもの汗を滲ませている。同じように彼も万全とは言いがたいコンディションなのだとすぐに理解した。

「亮を、渡せ」

 地の底を引き摺る声でシドが言う。
 その声は決して大きくはないが、深く重い。
 これだけ呼吸を乱しているにも関わらず、長刀の切っ先はピクリともぶれることなくシュラの喉元を狙ったまま揺るぐことがない。

「嫌だね」
「向かえに、来た」
「はっ、今さら? 電話で声すら亮に聞かせてやらなかったおまえがどのツラ下げてだ」

 何度も通信の打診をしたと有伶は言っていた。その申し出、全てが断られたこともシュラは聞いている。
 それが有伶の大げさな嘘であれとシュラは心のどこかで祈っていたが、目の前の男は黙り込み、有伶の言は真実であったことを肯定していた。

「亮の安全のみが重要であり、必要なものを調達することがそれを全うできる唯一の方法だと考えた」
「くだらん言い訳はやめろ。亮がおまえに伸ばした手は重要じゃなかったとでも言うのか!」

 銃を握りしめたまま一歩踏み込み、シュラの右手がシドの襟首を掴み上げた。
 それをシドの右手が掴み上げ、さらに左手に携えられた刃をシュラの喉元に押しつける。
 拳から吹き上がる蒼炎と全てを停止させる氷結が絡み合い、再び二人は距離を取った。
 すでに霧雨は止み、空には黒雲が水流に墨を流したかの如く刻々と動いていく。
 肉を焼く臭いが甘く辺りを流れていた。

 シド・クライヴという男には昔から執着という感情がなかった。
 それはシュラも良く知るところであり、だからこそ諜報局局長というヒトとしての感情が邪魔なだけのポジションで一分の隙なく振る舞えたし、謀反の汚名を着せられカラークラウンを剥奪されるという常軌を逸したビアンコの作戦も難なくこなしていたのだろう。
 IICR入構よりはるか昔。秀綱という男に拾われる前は酷く爛れた生活をしていたことも知っている。
 だがその時代も特定の相手がいるとは聞いたことがなかった。
 地位も名声も金も、そして愛情も──何も欲さないこの男が唯一求めたのは、己の腕を振るい修羅の世界に身を置くことのみだ。
 命のやり取りだけを良しとするその姿はソムニアとしても常軌を逸し、自ら寂静を望み死に急いでいるようにすら見えた。
 そんな男が成坂亮にだけは執着を示した。
 あんなシド・クライヴを未だかつてシュラは見たことがなかったし、これからも見ることはないだろうとさえ思えた。
 だがそれをシド本人は認めていない。
 250年を超える生き様の中、シドの出した答えがこれだったのだ。
 必要とあらば自分はいつでも亮を解放できる。そして亮の自分への想いも刷り込みによる一過性の熱病に過ぎず、自分の代わりはいくらでも居る。
 重要なのは“亮が存在する”という絶対的な事実のみ──。
「それならおまえが迎えに来るのは悪だ。ここから連れ出せば亮は消えてなくなる。もうおまえの出る幕はねぇんだよ」
 滝のような汗を滴らせ頬に貼り付く髪もそのままに、シドの眉がピクリと動く。
 白刃を5メートル先のシュラに突きつけたまま、ジリと右足が半歩進んだ。
「有伶から同じ戯れ言を聞いた。だが、もうあいつらの……ビアンコらの言うことは何一つ信用しない。初めからあいつらは亮をここへ囲い込むことしか考えていなかった」
「周りが亮を隠したから慌てて取りに来たってか? 勝手な話だ」
「俺は俺の方法で亮を守る。ビアンコも秀綱も、亮の中の訳のわからない存在も、もう誰にも邪魔はさせない」
「おまえが豪語するような条件がおまえに用意できるとは思えんがな」
「亮は壊させない。誰にも、俺にも」
「ち。たかだかイザのクラウンごときが言う台詞か。てめぇにできることは、亮を囲う檻の材料をせっせと運んでくることだけだ」
「これ以上亮を利用するというなら、シュラ、おまえも排除する」
「てめぇこそ今は亮にとって害悪そのものだ。お前の姿が一瞬たりとも亮の目に映らねぇように焼いてやる」
 再び銃口が火を噴き、蒼い炎が凍気を纏った白刃に絡みつく。
 それを打ち消すように横薙ぎに振り抜き、イザで炎を凍てつかせる。
 膨れあがる力場に弾かれるようにお互いの間に距離が生まれた。
 亮を絶対に渡さない。
 シュラは奥歯を噛みしめ歯を剥き出し、片膝を突くと大地に右拳を突き立てる。
 その瞬間シドの影を追うように、大地の至るところより蒼い火柱が間欠泉の如く吹き上げた。
 片腕を失ったことにより手数が減るデメリットを一発の物量で強引に埋め合わせていく。
 それを同じく本調子ではないシドは、一つずつ躱すことをせず、染みついた剣技とイザをもって小手先でいなす。
 その動きに、シドはアクシス酔いやそれ以上のダメージを、あり得ないこの場に身を置くことで被っているのだろうとシュラにも容易に予想が出来た。
 この状況では片腕とは言えシュラに分があるはずだ。
 しかし的確に炎柱を凍らせ、剣檄により集約させたイザを振るうシドの動きはさすがとしか言い様がなかった。
 空気を突っ切る威烈な凍気は10メートルの距離をものともせず、刃のように針のようにシュラの行く先を切り裂き、頬の肉や脇腹の内臓を凍てつかせ壊死させようとする。
 膠着状態が数分続き、焦れたシュラの銃口が上空に舞い上がったシドへ向け引き絞られようとしたときだ。
 全く別の右手から若木色のレーザー光が桜色の雷を纏ってシドの後ろ髪を焼いた。
 長く棚引く朱い髪は瞬時に蒸気となり、湿気を含んだ重たい風に散っていく。
 思わぬ方角からの攻撃に、シドが目を剥き、転がるように大地へ着地した瞬間。

「シュラに近づくなあああああっ!」

 高い少年の声がはち切れんばかりの怒りを内包し、吠えていた。
 小さな翼から輝きが溢れその背に巨大な8枚4対の翼が現れる。
 彼の背に息づく羽根はたっぷりと風を捕らえ、羽ばたく度にスピードを上げ、弾丸の如く向かってくる。
 白いボア生地の部屋着に身を包んだままの少年は、怒りの形相でシュラの前へ立ちふさがると、燃え盛る翼でシュラを隠すようにシドと対峙していた。

「っ──!」

 数メートル先に現れた少年に、シドは声を失い立ち尽くす。
 少年は──亮は、その身体には不釣り合いなほどずっしりと大きなハンドガンを両手で構え、目の前の侵入者へ銃口を向ける。
 その銃が以前有伶のよこした対ミカエル用の武器であることをシュラはすぐに気づいて息を呑んだ。
 これに撃たれればこの世界の守護者であるミカエルとてただでは済まないのだ。ましてや異分子であるシドなど、掠めただけで寂静する可能性がある。

「シュラは怪我してるんだっ。シュラをコーゲキする悪者は、オレが倒すっ!」

「──亮っ」

 吐息のようにシドの口から名が漏れた。
 それを耳にした亮は犬のようにわずかに首を傾げる。
 見知らぬ男がいきなり自分の名を呼んだことに対しての、無意識の動きだろう。
 だが戸惑いは僅かであり、亮は怒りに燃えた黒い瞳でシドをにらみつけたまま、震える手で引き金に手を掛ける。

 セブンスから亮をすくい上げたとき、亮は名を奪われシドの記憶を消し去っていた。だがその時も彼はシドの名を一度だけ呼んだ。
 退行症状によりシドの記憶が戻らなかったあの時も、亮は愛しげにシドの手に頬を擦り寄せた。
 だが、今目の前に居る亮は敵意を剥き出しにし、シドではない別の男を庇い立てる。

「亮、俺だ」

 上ずりそうになる声を押さえつけ、シドはどうにかそれだけを口にした。
 しかし──

「知らないっ。誰だ、おまえっ! おまえなんか、知らないっ!」

 呻くように漏らされた言葉はシドの存在を真っ向から否定した。

「向かえに、来た……」

 干涸らびたような声がどうにか口の端から零れ出た。
 だが亮は小さな犬歯を剥き出して睨み続ける。

「嘘つきっ。オレを向かえになんて、誰も、来ないっ!」
「っ──!」

 ぽろりと一粒涙を零して、亮は恐ろしいものでも見るように後ずさる。
 いいから来い――と腕を引き、いつものように胸に抱いてしまえばいいと、シドはそう思った。
 だがイザの彼が凍り付いたように動けなくなっていた。
 シュラは亮に銃を下ろさせようと、燃え盛る翼を手で弾くと、横から己の肌が焼けることも厭わず抱きしめていた。
 たとえ自分がシドを殺し寂静することがあろうとも、その役割を亮に負わせることだけはしてはいけない。
 この先記憶が戻ったとき、その事実は亮を殺す刃となるからだ。
 亮はそれでも銃口をシドへと向けようともがき銃を握る両手に力を込める。

「亮、俺は──」
「うるさいっ、うるさいうるさいっ、おまえの声、嫌いだ! どっかいけ! 消えちゃえ! シュラは俺が護るんだっ」

 亮がシドへ銃口を向けているという事実はシュラにとっても衝撃的な光景だった。だが、シュラは気づいてしまう。
 亮の手は震え指先が白くなるほど力を入れているにも関わらず、引き金を引けないでいる。
 それでもシュラは嘯いた。

「わかったかよ。てめぇがぐずぐずしてる間に待って待って待ちくたびれた亮は壊れちまった。──もうおまえの亮はどこにもいねぇ」
「っ──」
「おまえがこいつのためだとかなんとかすかしてる間に。亮がおまえを想う気持ちも一時の熱病みたいなもんだと決めつけてるその内に。さみしくてさみしくて、おまえの亮は泣きながら消えてなくなったんだ」

 シドの目が悲痛に歪む。
 大人二人が何を言っているのか理解できない亮は、己の手を押さえ込み抱きしめてくれるシュラを見上げ、次にちらりと見知らぬ来訪者を見た。
 長い前髪とサイドの髪は燃えるように朱く、白い面に汗で貼り付いて、まるで彼を死人のように見せている。

「でも、落ち込むことはねぇ。おまえの亮は居なくなっても、成坂亮はちゃんと生きてる。おまえは亮がどこかで幸せに暮らしていればそれでいいんだろ? 望み通り、ここなら亮のアルマが消えることはねぇ。そばにはずっと俺がいる。今現在、二人で幸せのまっただ中さ」
「──」

 抱きしめたままシュラは腕の中の亮を見下ろした。
 シュラと目が合ったことに安心したのか、怒りで眉を吊り上げていた幼い顔が、少しだけ険を落とし頬をゆるめた。
 そんな亮に目を細めながらもシュラは次々と気づいてしまうのを止められない。
 亮本人にはシドの記憶などないように見える。名前もわからないし、シドを敵だとさえ捕らえている。
 だが違うのだ。
 亮が真に拒絶しているなら、シドの身体は亮が認識したと同時に、異神と同じように異界へはじき飛ばされているはずだからだ。
 何より、樹根核からこちら側へ来ることすら不可能だったに違いない。
 正式な手続きも踏まずここへ──亮の側へ来られるのは呼ばれた人間だけだと、シュラは身をもって知っていた。
 記憶がなくても、いや、その記憶の影に怯えてさえいても、それでも亮はこの男をここへ呼んだのだ。
 それをわかっていて、シュラはグラグラと腹の中で煮詰まっていた怒りを全てぶちまけた。
 どうせ訳知り顔のこいつのことだ。亮が真に望むのなら、シュラを殺してでも取り戻そうとする己の行為を投げ捨てようとするに違いない。

「シュラ、おうち、帰ろ? ずっと一緒って、言った。シュラとオレの家、帰ろ?」

 見上げたシュラの表情に何かを感じ取ったのか、亮は不安げに瞳を揺らし、シュラのシャツを握りしめそう強請った。
 シドは亮に手を伸ばすことをためらっている。おまえこそ、亮を諦めることなどできはしないくせに。
 シュラは亮の言葉に微笑んでみせると、身をかがめて亮の頬に頬を擦り寄せる。

「おまえを護るために言った言葉が、おまえをしばっちまってたな。ごめんな……」

 抱きしめられた亮の耳にだけその声は届き、亮は不思議そうにシュラを見上げた。

「迎えが来た。頑張ったな」

 亮に柔らかな微笑みを向け、その頬を愛しげに撫で顔を上げさせると、シュラは一度だけシドを見る。

「よく見とけシド。──これは、俺の亮だ」

 そう宣言するとシュラは身を折り、そっと亮の柔らかな唇に唇を寄せた。
 優しく甘やかに口づけを施せば、一瞬、驚いたように眼を見開いた亮は、ゆっくりと目を閉じ小さく震える。
 シュラは亮に最初で最後のキスをした。

「────っ!!!!」

 その瞬間、弾けるようにシドは手を伸ばし、亮の身体を奪い取る。
 そこには考えも意図も理屈も──面倒な理は何一つ存在していなかった。
 常に感情を伺わせない冷えた琥珀の内側に、たとえようもない強烈な激情が燃え盛っているのをシュラは見た。
 そしてその炎の意味を知るシュラはしてやったりとほくそ笑む。
 シドに抱き寄せられた亮の手がシュラへ伸ばされるが、その指先を握るシュラの手から小さな温もりはすり抜けていく。

 その瞬間、世界はひび割れ、色を無くし、そして──







「何が起きている!」
「エロハの泉のエントロピー急上昇、カオス制御不能! 抑えきれませんっ。40秒後に特異点到達します!」
「まずい、泉が裏返るぞ!」

 泉のコントロールルームには怒号が飛び交っていた。
 けたたましい警報音が鳴り響き、今まで起きたことのないレベルの地響きが、室内の危機を振動させている。
 強化硝子の向こう側に見える黄金の泉が僅かに盛り上がって見えるのが気のせいでないことは、パネルに表示されるあり得ない数値の羅列が物語っていた。
 モニターには黄金の泉に沈み行く無数の泡──それが突如逆転し、沸騰する油のように激しく吹き上げる様が映し出されている。
 隆起した水面は今や表面張力を超えて溢れ出ようとしている。
 サイレンは今や観測所全館にけたたましく鳴り響いていた。

「総員シェルターへ批難、対熱対衝撃防護!」

 泉の縁から内部を見守っていた有伶はコントロールルームに飛びこむや否や指示を飛ばす。
 猛烈な熱波が強化硝子にひびを入れ始め、泉の周囲に配置された重機は軒並み飴のように垂れ落ちていく。
 地響きは震動からうねりに変じ、誰も立ってさえいられなかった。
 所員誰もが床へうずくまると同時に観測所内全てのシャッターが一斉に落ち──そして世界が跳ねた。