■ 5-6 ■


 あれからセラ時間で丸三日が経過していた。
 Q棟三階にある301号病室が亮の現在過ごしている部屋だ。
 あの日亮を診察すると言うことで極秘病棟であるQ棟を選んだレオンだったが、まさかそれがこういう形で功を奏すとは思ってもみないことだった。だが『紛れ幸い』とでも言うべき現状は決して気持ちが晴れる類のものではない。
 今日も朝の診察をすべく、このセラに於いて日が昇ってすぐのこの時刻──約六時間ぶりに病室を訪れたレオンは眉根を寄せ息をのんだ。
 部屋の中央奥に壁へ沿う形で置かれた白いベッドの上で、少年はうつぶせのままうずくまるように眠っている。
 その傍らには、簡素なパイプ椅子を寄せたシドが座っているはずだ。
 はずだ──というのは、この位置から彼の姿を確認しきれないからで、レオンは一つ深呼吸をすると静かな声でシドの名を呼びながら近づいていく。
 信じられない熱気がレオンの頬を、髪を、じりじりと焼く。
 レオンの眼前には雪色に輝く巨大な器官が広がり、亮の呼吸に合わせて緩やかに揺れていた。それが目隠しとなり、すぐそばにいるはずのシドの姿さえ見えなくなっている。
 今や大部屋一杯に広がりを見せるほどの大きさまでに成長したそれは、まるで幾重にも重なる猛禽類の翼のようだった。
 昨日リモーネと共にその形状、枚数などを数えてみれば、左右一対となったものが背中だけで四組。腕に一組、足に一組──計六組十二枚の翼状の器官を確認した。
 翼状の器官──などと歯切れの悪い物言いになってしまうのは、それが翼や羽根の類であると言い切れない特徴を示しているからである。
 空を飛ぶための器官である鳥などの翼は空気を多く掴むための構造をしており、羽毛を有した無数の小さな羽根の集合により形作られている。
 だが亮のそれは違う。
 確かにそれと酷似した形状で雪色の羽根らしきものが翼を形成してはいる。だが、それらは一本一本が強烈な熱を持ち、燃えさかる白い炎のようなもので造られているのだ。
 そしてARIですら特定できなかった構成材質はセラ内に存在する条件を満たしていない未知のものであり、セラ的質量に揺らぎすら観測されていた。
 つまり亮の翼(実際は違うのだろうが仮にそうレオン達は呼んでいる)は、触れることが出来たり出来なかったり奇妙な現象を引き起こすことになる。
 リモーネ曰く「この世のものではない」のだそうだ。
 また、この業炎とでも言うほどの熱がどこから生み出されているのかも不明である。
 亮本人のアルマから吹き出すにしてはエネルギー量が多すぎる。一個人のアルマが生成できる熱量ではないのだ。
 通常の施設であればベッドも壁もシーツも、そして医療機器も、この白光する器官の熱により焼けたり熔けたりと、その形状を保ってすらいられないだろう。だが、このQ棟にはあらゆる熱や溶解物に対応できる特殊なコーティングが施されている。通常は超級ソムニアの能力暴走に対応する為のものだが、今回はこのコーティングのおかげでこんな状態に陥ってしまった亮を収容することができた。さきほど『紛れ幸い』と言ったのはこのことである。
 ──とにかく、以上のことを鑑みても、亮のこれは決して空を飛ぶために特化した『翼』ではないに違いない。
 何のために、そして何故、亮の身体にこのような器官が造り上げられているのか、検査してなお判明することはなかった。
 ただ一つだけわかったことは、亮が感じる熾烈な痛みは『翼』が成長する過程で与えられるものであり、この器官が完成を見て成長が止まりさえすれば消えるだろうということだけだった。そして、このスピードならば一昼夜ほどで終わるだろうと考えられていた『翼』の成長はとどまることを知らず、今や広げれば三メートルを超すサイズにまでなっている。
 その間、三度にわたりハイキューブの投与が行われていた。
「亮くんの様子はどう?」
 目の前をゆるゆると動く白い翼を回り込んで避けながら、レオンはそうシドに声を掛けた。
 ベッドの上に腕を置き、いつもの調子で表情を消したまま亮の髪をそっと撫でていた彼がちらりとレオンを見る。
「今眠ったところだ」
 そう静かな声で呟いたシドはぼんやりとペイルブルーに発光して見える。
 シドのイザが強力に発動しシド自身を保護しているのである。
 実際この部屋に入るとき、今やレオンやリモーネは防護服を着用せねばどうにもならない状況にまで追い込まれている。着用していてなお、その内側で皮膚や髪が焼けるような熱を感じるのだ。外部の熱気はどれほどのものかと顔面を覆うグラスに映し出される数字を確認すれば、軽く800度は超えているようで、その中で丸三日平然と亮に付き添っているこの男はあらためてイザのトップだったのだと実感させられ、感嘆を通り越して呆れたような溜息が出てしまう。
「おまえも少し休んだらどう? 三日もイザフル回転させてたらさすがにバテるだろ。おまえまで倒れちゃうよ。……その間私が見ているから」
「必要ない。それよりレオン、亮の根本的な治療方法は見つかったのか」
「……う。それは……」
 そう言われると立つ瀬がない。まず原因すらわからないのだ。正直なところIICR医療局としては対処療法で亮の痛みを消す以外、なんら策が見つからないでいる。
「でも今プラムがビアンコへ連絡を取ってるから、連絡がつき次第状況は変わってくると思う」
「そう言ってもう三日だ。ビアンコはどこにいるっ、状況の重要さを彼はわかっていないんじゃないのか!? やはり俺が──」
「シドが行ったら誰が亮くんの側に居てあげられるんだよっ、この子を一人にするのか!?」
「っ……」
「とにかく落ち着けよ。三日って言ってもセラ時間でなんだ。リアルで言えば二時間半とちょっとしか経ってない。そうそうすぐに彼が来られるわけないだろう」
 諭すようにレオンが言えば、珍しくシドはやりこめられたように黙り込む。
 リアルとセラ時間を混同してものを言うなど、あの冷静さと冷酷さが売りだったイザ・ヴェルミリオとは思えない言動だ。何年ソムニアをやってるんだといつものレオンなら茶化しに回るところだが、今回ばかりはそんな気も起きず、代わりにそっと亮に近づくと力尽きたように眠る少年の顔色をうかがう。
 うつぶせのまま胸元に丸めたタオルケットを抱え込み苦しげに眉根を寄せた少年の様子は、レオンにセブンスでのあの時を思い出させ憂鬱な気持ちにさせた。
 今眠ったところだ──とシドは言ったが、おそらくハイキューブが効いている間は起きていても意識は混濁し、まともな覚醒状態では有り得ない。
 壊れた人形のようにぎこちない動きでシドに手を伸ばしたり、脈絡のないことを譫言のように繰り返すしかない亮をシドはどんな気持ちで見つめているのかと考えると、ますます暗い気持ちになってしまう。
 そして眠っているはずの亮の呼吸がわずかに荒くなってきたのを感じ取り、レオンは悲痛に目を細めた。
 前回のハイキューブ投与から24時間経っている。そろそろ薬効が薄まってくる時間帯であるとわかってはいた。
「……っ、ぁ……っ、……ぐ……、ぁっ、は、…………っ」
 苦しげに呻きを上げると、ぷつぷつと亮の額に珠の汗が噴き出し始める。
 ぎゅっとタオルケットを抱きかかえた手指に、ぶるぶると震えるほどの力が込められていく。
「は……、ぁぐ……っ」
 閉じられていた亮の瞳がふるりと開かれた。
 その黒く大きな瞳にはすでに涙がにじみ、痛みと薬による混濁で光を全く映していない。
 ただそれでも視線をふらふらと彷徨わせているのは、雛が親鳥を探すかのごとき生物としての生きる反射なのかもしれない。
 シドはすぐに亮の頬へ手のひらを添えると、視線に映る位置へ顔を寄せる。
 ギシギシと軋むような音と共に、亮の身体から伸びる雪色翼は目に見えて成長速度を増していた。
 外部温度が急速に上昇している。
 レオンのモニターに映る数字はすぐに1200度を突破する。室内の空気が陽炎のように揺らめいて見えた。
 いくらこの室内が頑丈に造られているとはいえ限界はある。2200度を超えては長時間耐えられない仕様となっている。
 亮が放つ温度は三日前より明らかに上がっていた。このままこのQ棟病室がどこまで持つのか、それも頭の痛い問題だ。
「レオン、早く!」
「わかってる」
 痛みが亮を狂わせる前に薬剤の投与を行えとシドは言っているのだ。
 レオンももちろんそのつもりでここへ来ている。
 即座に注射器を用意するとシドが押さえた亮の細い腕へ、液体を注入していく。
 リモーネが計算した薬剤の濃度・容量は、亮が痛みを忘れ──かつ永眠してしまわないためのぎりぎりのラインであり、毎回綱渡り的な精度でそれを行っている。
 計算自体はきっとレオンにも可能だ。だがそれを処方するという胆力は自分にはない──と、そう思う。
 やはりカラークラウンにしかできない判断なのだとそう感じる。
「……っ、は……、ぁ…………」
 亮の口元から微かな溜息が漏れた。
 ぱちり、ぱちり、と、ゆるやかに瞬きが二度繰り返され、口づけしそうなほど近くにあるシドの顔をジッと眺める。
 そうしてにこりと微笑した。
「もう、痛くない……だろう?」
 シドが問いかければ、亮はぼんやりとその顔を見つめ数秒の時を置いて
「シドは?」
 と問い返す。
「俺は痛くはない」
 と答えると、再び亮はふんわりと微笑み、
「じゃあ、オレ、も」
 と身を起こし手を伸ばす。
 会話になっているようでまったく成立していないそんなやりとりが、今シドと亮の間で行われる全てだ。
 だがそれでも、そんな亮の回答に満足したようにシドは僅かに目を細めると、求められるまま亮を抱き寄せ首に細い腕を絡ませる。
 亮の両手首から伸びた二十センチに満たない小さな翼が僅かに触れただけで、シドの肌は焼かれ、長い後髪は煙となり瞬時に散っていった。
 しかしシドはそんなことはまるで顧みず、亮の身体を抱きしめたまま柔らかな黒髪をなで続ける。
 そうしているうちにシドの耳元で小さな寝息が聞こえ始め、そこでやっとシドは亮の身体を再びベッドへ横たえていた。
 うつぶせでうずくまる亮の胸元にタオルケットを寄せてやれば、少年は無意識のうちにそれを掻き抱き頬を埋める。
「このタオルケットは凄いね。この温度でびくともしないんだもん」
「こいつのアルマが造り出しているものだからだろう。恐らくこの得体の知れない羽根との親和性も高いんだ」
「おまえがこんな火傷だらけなのは亮くんとの親和性に問題が……」
 と冗談交じりに言いかけて、ジロリと睨まれ、レオンは顔に笑顔を貼り付けたまま言葉を切った。
 モニターの表示温度が急降下を始めているんじゃないかと思わず確認してみたが、やはり室内の温度は上がりっぱなしで現状の深刻度を見せつけられたかのようだった。
 シドのイザですら亮の発する熱の前では自衛に使われることだけで手一杯らしい。
「や、火傷の手当、しよっか。五分だけ外に出てくれるかな。その時ちょっと、そのぉ……話さなきゃならないこともあるし」
「大した傷じゃない、かまうな。それより話というのはなんだ」
「う、うん……」
 本当なら入ってきてすぐにシドへ告げなければならないことがあった。
 だがその内容はあまりに酷で、レオンはなかなか切り出せないで居たのだ。
 亮の容態が落ち着いてからと考え、落ち着いた今もできれば亮の側では語りたくない。レオンの話とはそう言う類のものだった。
 ちらりと亮を見下ろせばすでに深い眠りに落ちているようである。
 そこでようやくレオンは決断し、シドの隣にパイプ椅子を広げて座ると小さな声で切り出した。
「実は──もう、ないんだ」
「……何がだ」
「ハイキューブが、だよ」
「…………」
 レオンの言葉にシドが息を詰めるのがわかった。
 シドもうすうすは気づいていたに違いない。この薬剤がどれだけ稀少なものであり、それほど蓄えがあるわけでないことも、諜報部のトップであらゆる情報を扱ってきたこの男が知らないはずがないのだ。
 それでもそこに触れなかったのは、触れられなかったというのが正直なところだろう。
 今の亮にとってハイキューブが切れるということは、イコール身を割かれ、地獄の業火に焼かれ続ける感覚を冴えた神経のまま甘受し続けねばならないということだ。
 恐らく、良くて死亡。最悪のパターンだと人格の崩壊、アルマ消失と続く。
 それを防ぐ唯一の手段である薬がいつまで持つのか──、その点にシドは敢えて目を閉じていたに違いない。
「医療局になくとも研究局にはまだ残っているんじゃないのか!? あそこの倉庫には資料用の薬剤が多く保管されている」
「無理だよ。理事会かビアンコの命令がなければあいつらが提供するわけない。それにそれだってたかが知れてる。所詮サンプルなんだ。あってあと一回分が処方できるかどうか」
「それでもないよりはマシだ。薬剤庫の場所はわかっている。俺が取ってくるから──」
「無茶苦茶言うなよ! 亮くんのこの状況があとどれだけ続くのか見当もつかないんだ。もしおまえが薬をむりやり持ってきたとしても、その後はどうする? ハイキューブは特S級に稀少な薬だ。それを盗んで使ったとばれれば亮くんをここで保護することも難しくなる!」
「だったらどうする! 俺は何をすればいい!? どうすれば亮をこの痛みから救えるっ」
「それは──、」
 そう言ったままレオンは口を閉ざす。
 次に薬が切れ、何も方法が見つけられなかった場合──。最良の手段は一つしかない。
 亮の精神が壊れ、アルマが崩壊してしまう前に──。
「っ──、殺せとでも、言うのか、俺に……亮をっ」
 絞り出すような声が呻きのようにシドの口から漏れた。
「っ、さ、最悪の場合だよ!? それにシドが手を掛ける必要なんてない。眠るように命を終わらせる薬だって私たちは持っている。だから──うぐっ!」
 立ち上がったシドがレオンの胸ぐらを掴み上げていた。
「レオン、貴様──」
「そりゃ、亮くんはゲボだから転生周期が長いのはわかる。今世でおまえがもう会えないだろうこともっ。だけど二度と会えないわけじゃない!」
 だがレオンはそれでも負けじと言いつのる。
 この絶望的な状況が打開できない場合、亮のアルマを守る手段はこれしかないというのがここ数日リモーネと語り尽くして出た結論だったからだ。次に生まれてくるときまでに、全力を挙げて亮の状態への対策を立てるより他、手だてはない。それほどに彼の症状は荒唐無稽で得体の知れないものなのだ。医師としてつらくとも言わなければならないときもある。長い間この仕事をしてきてレオンの胸にも矜持はあった。
「ソムニアに於いて転生は日常の一部だ。そんなことおまえだってよく知っているはずだろう!?」
「そういう問題ではないっ!」
「じゃあどういう問題なんだっ。おまえはこのまま亮くんのアルマが壊れていくのを見ているつもりなのかっ」
「──っ!」
 シドが言葉を無くす。
 レオンの胸ぐらを掴んだ手が、ぐっと一際握りしめられた。
 防護服の繊維がめきめきと弾力性を失っていくのを感じ、死を覚悟する。
 今この服が破壊されればシドの凍気、そして亮の熱波によりレオンのアルマは瞬く間に粉砕されてしまうだろう。
「ヴェルミリオ。親身になってくれる友人をどうするつもりだ。少し頭を冷やせ」
 不意にそう声が聞こえた。深く腹の底に響くような男の声だ。
 シドはハッと気づいたように手を離すとゆっくりと振り返る。
 そこには厳しい表情で立っているリモーネと、その後ろにシドをも見上げる長身を持つ厳めしい黒人の男が一人。
 四十がらみのその男は僅かに眉を上げると長く角張った顎に手を添え、不思議なものでも眺めるようにシドを見下ろしている。
「話に聞いた以上だな。これはジオットがおもしろがるわけだ」
「……ビアンコ」
「うちの大事な局員を殺してもらっては困るな、シド。これ以上無法を働くようなら叩き出すぞ」
 リモーネがツカツカと歩み寄ると、びしりとシドの手をはたき、真っ青な顔をしたレオンを背後に隠す。
 彼女も同じような防護服を身に纏っていたが、後ろにいたビアンコはいつもと同じ白い長衣をまとっただけの簡素な格好だ。IICRの創設者であり、現在も長として全てのソムニアの頂点に立つオートゥハラ種にとっては、この過酷な環境も通常の病室と変わらないということなのだろうか。
「顔を見るのは久しぶりだ。外に出て少しは性格も円くなったかと思っていたが──、生まれついてのアルマはなかなか変わらんものだな」
「そんな話はいい。早くこれを何とかしてくれ。その為にここへ来てくれたのだろう」
 不機嫌な口調ではあるがその内側にどうしようもない焦りを含んでいることをビアンコは感じ取り、一つ溜息をつくと衣擦れの音をたてながらベッドの脇へと歩み寄る。
「わかっている。少し離れていろ」
 シドが開けたその場所へ立つと、大きな黒い手でそっと亮の翼を掴み、黒く深い眼で観察する。続いて亮の顔を覗き込み、寝息を立てる少年の頬や首筋にゆっくりと指先を当てていく。
 シドも、そしてリモーネやレオンも、ただその診察を言葉もなく眺めるより他にない。
 十分、十五分と時が経ち、ビアンコは亮の身体の頭のてっぺんから足先まで、何かを確かめるように撫でていく。
 そうしてシドが焦れ「まだなのか」と声を掛けかけたその時、ビアンコの手は亮の足先についた羽根をそっと放すと振り返っていた。
「ふむ、なるほど、な」
 一呼吸置いて顎を撫でる長に、リモーネが難しい顔のまま声を掛ける。
「ビアンコ、どうです? これが何なのか、我々はどうすれば良いのか教えていただきたい」
「──プラムよ。その質問に私は答えられない」
「っ!? 何を、言っている、どういうことだ」
 低い声でシドが呻く。今にも掴みかからんばかりの気をどうにか押し込め、絞り出した声は殺気立っている。
 しかしビアンコの泰然とした態度が変わることはない。ゆっくりと振り返ると亮の髪を優しく撫でながらこう続けた。
「ヴェルミリオ。私にもわからないことはたくさんある。亮のこれは異神のものともソラスのものとも違う。セラ領域に住まうあらゆる生命体の中にもない類のものだ。それ故これが何かは答えられないし、どうすればこれを亮から取り去ることが出来るのかも現状ではわからない」
「そんなことは──っ」
 ないはずだ。あってはならない。あなたに知らないことがあって良いはずがない──そう続け、ビアンコの胸元を掴み上げようとしたシドの機先を制するように、長は一つの提案をしていた。
「だから詳細に調べ、方法を見つけねばならない。入院という形を継続させ治療を続けるのが最良と思うが、どうだ?」
「──、それは、しかし、」
 思いも掛けないビアンコの発言に、シドはちらりとレオンに視線を走らせる。もちろんビアンコの提案は悪くないものだ。だがレオンは言ったのだ。もう亮の苦痛を和らげ得る唯一の薬は底をついたと。たとえ研究局のサンプルをビアンコの権限で調達してきたとて、時間は限られている。亮の病状を解明するだけの時間が取れる保証などどこにもない。
 レオンも困惑したようにシドを見て、それからビアンコを見上げる。
 それで納得したようにビアンコは微笑して見せた。
「ハイキューブか。もうストックが尽きたのだな。中世の遺物のようなあの薬を再び精製せねばならない日がくるとは」
「精製!? あれをですか!? どうやって──。あれはまだゲボが大勢いた時代だからこそ作り出せた大量のアルマ血を必要とする薬です。現代で作り出せるはずが」
「プラムよ。研究局もおまえたち医療局同様日々精励し研鑽を積んでいる。今はあの頃の技術力とは比べるべくもなく進歩を遂げているのだよ。加えてセブンスのゲボ達は皆、健勝だ。中世ゲボ達のような劣悪な環境に生きているわけではない。大量のアルマ血提供に耐えうるだけの体力があるはずだ。ガーネットの置きみやげと言ったところだな。セブンスのゲボ達に協力を仰げば、ハイキューブの調達はどうにかなるだろう」
「──っ」
 目を見開きビアンコを見つめるシドに、レオンが体当たりで抱きついていた。
「シド! 良かった、亮くん、助かるかも!」
「あの忌まわしい薬が人の命を救う為に使われるなど当時では考えられなかったが──、世の中というのはわからんものだ」
 目を伏せ遙か過去へ思いを馳せるビアンコの隣で、リモーネもほっと息をついていた。
 亮の状態が好転したわけではないが、それでもタイムリミットを大幅に引き延ばすことが出来たのだ。
「だが一つ条件がある──、ヴェルミリオ」
 飄々と変わらぬ調子で顎を撫でていたビアンコの声が、ふと重さを増した。
 シドが見上げれば、あの漆黒の瞳がシドを射抜いている。
 ビアンコの言う条件がなんなのか──、シドにはすぐ理解できてしまった。だがあえて何も言わず長の言葉を待つ。
「イザのカラークラウンとしてここへ戻れ。おまえに頼みたい仕事がある」
「えっ、ええええっ!?」
 レオンが素っ頓狂な声を上げ、ビアンコとシドの顔を交互に見比べていた。シドのIICR追放事件がフェイクであることは友人として知ってはいたが、今更それをチャラにする命令が下るとは思ってもみなかったのだ。
 状況を知るレオンでさえ目を見張るほどにシドの帰還は有り得ない人事采配だ。
「おまえにはずっと蹴られ続けていたが、もういやとはいえぬだろう。条件さえ飲んでくれれば亮の入院費用は薬代も含めすべてIICRが面倒を見る」
 レオンはさらに目を丸くした。ビアンコは冗談めかして言ってはいるが、それが値段もつけられない額になることは容易に想像できた。
 つまりこれを蹴れば、亮は入院も出来ずハイキューブも投与されず、死を待つより他にない。そして亮が死んだその後、使用した分のハイキューブ代──まさに天文学的な金額がシドの所に請求されることになるのだ。
 容赦がない──、とレオンは背筋を寒くさせる。人類で最も頼りになり、公明正大で信頼の置けるリーダー。それがオートゥハラ・ビアンコである。だがそれはイコールソムニアの未来のためならば、どんな非情にもなれる強さを持つ者であるということなのだ。
「──わかった。すぐにでも向こうを引き払い、こちらへ戻る」
「えええええっ……」
 シドならばこの状況でそう答えるだろうと思ってはいたが、改めて聞くとその回答は衝撃的だ。
 あのシドが──、イザ・ヴェルミリオがIICRに戻ってくる。
「これは……荒れるぞ」
 リモーネが溜息混じりに腕を組んだ。
「ではすぐにでもセブンスと研究局へハイキューブ精製の手配を行おう。それからQ棟が耐えきれぬほど亮の熱量が高まる前に、病室は移動させた方がいいな。恐らくまだまだ温度は上昇するはずだ」
「ここ以上に頑丈な病室などないはずですが──」
 レオンが首をひねるとビアンコは緩やかに長衣を波打たせながら、きびすを返す。
「医療局には、な。ラボの一室を改装させよう。少々不格好になるとは思うが、蒸散刑の実験施設の中には恒星の温度に耐えうるスペースもある」
「ひ……っ、じょ、蒸散刑……!?」
「響きは良くないが勘弁してくれ。では、ヴェルミリオ。亮の状況が落ち着き次第、本国で会おう」
 ちらりと肩越しに視線を送ると、ビアンコは扉の向こうに姿を消した。
 シドは表情を消したままじっと亮の顔を見下ろし、指の背で頬を撫でている。
 どこをどう見ても良いこと尽くしのこの話だが、何となくレオンはシドに言葉を掛けることができなかった。