■ 5-64 ■






 室内は時折小さく爆ぜる薪の音が響くだけの静かな世界だった。
 閉じられたカーテンの隙間から幾筋も光の帯が部屋へと差し込み、中世錬金術師の仕立てた室内の見事な装飾を彩っていた。
 その細い腰を抱え、柔らかな薄い腹に顔を埋めたシドは、今度こそピクリとも瞼を揺らすことなく意識を閉じている。
 亮は己の腹の上で眠るシドの朱い髪へ左手の指を絡め、右手は丸めたタオルケットを抱え込んだまま、すぅすぅと寝息を立てていた。
 ローチはその様をじっと眺め降ろすとやれやれとばかり溜息を漏らし、亮の抱えるタオルケットを取り除く。
 そしてそのままベッドへ乗り上げ、タオルケットの在った位置に己の身体を滑り込ませると、未だ湿ったままの亮の髪を撫で梳きながら小さな頭を抱き寄せる。
 眼前に寄せた無邪気な寝顔を眺め降ろしたローチは、閉じられたままの亮の瞼へ赤い舌を伸ばすと表面を使ってべろりと舐め、乾いた涙の塩味に満足げに酔いしれて目を閉じた。

「おい──」

 そう声が聞こえたのはローチの身体が何かの力で強烈にはじき飛ばされ、ベッドの下に転げ落ちた後である。
 毛足の長い豪奢な敷物が敷かれているとは言えその下は石造りだ。受け身ゼロで落とされればそれなりのダメージを被ることになる。
 強か打ち付けた腰をさすりながらベッドの上へ顔を出すと、眠りこけた亮をその腕に抱き込んだシドが殺意に満ちた形相でローチを見下ろしていた。

「痛ったいなぁもおおお。モーションゼロで蹴り落とすか?普通」
「なんでおまえがここにいる。ここから出ると言っていただろう」
「あれ、ちゃんと覚えてんだ。死にかけが脊髄反射で応えてただけかと思ったけど」

 立ち上がったローチは首を左右にコキコキと倒すと、羽根の生えた少年を抱え込んだ裸の男を眺め下ろす。
 亮の身体を隠すために紫黒のシーツを腰元に巻き込んでいるが、それでもそこから投げ出された細い腿の内側に無数の赤い花弁が散っているのが見て取れ、ローチは片眉だけくいっと高く持ち上げた。

「おまえさ。まだ起きてから三日と経ってないだろうに、その調子じゃもう亮くん確実に赤ちゃん出来ちゃってるよ」

 よく見るまでもなく掻き寄せられたシーツには目も当てられないほどの白い汚れが至るところに散っている。
 此方に向けられた亮の背中や腰にも赤い跡は点々と記され、極め付けはその左首筋に着けられた歯形だ。
 ゲボの亮の肌に未だこれだけ派手な傷が残ると言うことは、何度も何度も同じ部分を噛まれたとしか思えない。
 そういえばここに来る車の中でも真っ先にそこへかぶりついていたことを思い出し、ローチはヒヒヒと下品な笑い声をたてた。
 亮が樹根核で奪還されてきたその時から、既にそこには小さな花弁が咲いていたのをローチは気づいている。大方、亮を保護していた何者かがつけたものだろう。
 遙か昔はたとえどんなお気に入りであろうと他人が汚したものには興味をなくしていたこの男の、こんな無様なムーブを今さら見ることになろうとは。
 誰がこんな愉快なことをしでかしてくれたのか。これだけシドが固執しているところを見れば相手はシドにとっても顔見知りの人間だろう。しかも無理矢理着けられたものではない。シドが今まで見せなかったこれほど異常な執着は、亮も同意のもと行われた行為の結果としか考えられない。
 シドはそれを知っているからこそ消したくてたまらないのだ。
 あまりの面白さにローチは秀麗な顔を歪めてヒーヒーと笑い続ける。
 その笑い方が気に入らなかったのか、シドはローチをにらみ据えると「くだらん話は壁に向かって一人でしてろ」と斬って捨てる。

「んん? くだらなくないさ。ボロボロの亮くん相手にそんな寝る間も惜しんでせっせとやりまくるなんて父親代わりが聞いて呆れるって僕は言ってんの」
「──そんなことはわかっている」
「いやいやわかってないね。男の嫉妬は見苦しいぜ? たとえこの子のココを噛み千切ったとしても、亮くんと蒼い炎の愛の証は消えないんじゃない?」

 トントンと己の左首筋を指先で指し示しながら両の口の端を耳まで引き上げれば、周囲の空気が突如キンと音を立て凍り付く。
 その様子にローチは菫瞳を大きく見開いた。
 あら大当たり──と口中で聞こえないほどに呟く。
 樹根核などというIICRでも最重要秘匿ポイントへ出張っていて、なおかつIICRで悲惨な目にあい続けてきた“あの”亮が強い好意を寄せている人間などそう多くはない。
 シュラ・リベリオンは昔からローチが全く興味を引かれないいけ好かない人物だが、なんだかんだでシドとは縁のある男だ。
 しかも珍しくこの男が一目置く存在だと言うことも知っている。
 そんな相手に目の前で大事な亮を寝取られ見せつけられたシドなど、想像するだけで達してしまいそうだ──。ローチは思わず熱い息を吐いて白く滑らかな人差し指の背をくっと噛み締め小さく震えた。

「──なんの、話をしてる。勝手な妄想を垂れ流すな」
「勝手な妄想でそんな怒るなよ」

 眉尻を下げ口の端を耳まで引き上げたローチの周囲に、チカチカと光の点が現れ始める。凍り付いた空気中の蒸気が太陽光に反射し幻のように煌めくのだ。
 まさに一触即発ともいえる状況で、不意にモゾリと亮が身じろぐ。
 強く抱きしめられたせいか苦しげに呻くと、

「さむい……」

 ともっともな意見を擦れた声で上げていた。
 シドはすぐに腕を弛めると足下にわだかまっていた毛布を亮の肩から掛けてやる。

「ん……、シ、身体冷たい。熱、下がったな」

 着痩せする分厚い筋肉に覆われた胸元に頬を擦り寄せ体温を確認した亮は、半分寝ぼけ眼のまま微笑んでみせる。
 それに対し目を細め「ああ」と応えたシドの頬からは険が消え、あれだけ張り詰めていた空気は瞬く間に融解していた。
 ごちそうさま──とでも言いたげに肩を竦めたローチは、あっという間にモードを切り替え

「おはよ、亮くん」

 と、満面の笑顔で愛想良く手を振ってみせる。
 初めて自分たち以外に人間がいたことに気がついた亮は文字通り飛び上がるほど驚いたようで、猫のようにピャッとベッドの上で垂直にジャンプしていた。
 羽ばたいた翼のせいでせっかく掛けられていたシーツがふわりと舞い落ち、振り返った亮は、目の前で手を振る190センチの美丈夫を見上げる。
 白い長衣を身に纏ったその男はいつか亮が見たプラチナブロンドとサファイアの瞳を持ち、蕩けそうな甘い声音で「よく眠れた?」と問うてくる。
 パチパチと何度か瞬きした亮は彼の頭上に長く白い耳を探し、ないとわかると何度かキョロリと視線を彷徨わせて、ようやく納得いったように瞳を輝かせた。

「そうだ、うさぎさんはローチだっけ! 変なの、古本屋さんなのにうさぎさんの顔だ。背もでっけー」

 興味深そうにキラキラした眼で見上げた亮は、四つん這いになりベッドの上を移動してローチの足下まで寄ってくると「おはよ」と微笑んだ。
 ぷりんとした小尻がちょこちょこ動いて寄ってくるのを目尻を下げて見つめていたローチの視界が紫黒のシーツによって遮られる。
 シドが後ろから亮の身体へ広げたシーツを投網でも打つかの如く投げかけたのだ。
 その表情はとんでもなく厳めしい。
 亮は後ろから覆い被さってきたシーツからモゴモゴと顔を覗かせ、初めて自分が素っ裸だったことに気がついたらしい。
 シーツから突き出された顔は真っ赤に茹で上がり、己の全てを覆い隠すべく首元まで紫黒にくるまって、ローチを見上げたままハクハクと口を開閉させていた。
 犬みたいにお尻丸出しで近寄って素っ裸で暢気に朝の挨拶をしてしまったうそだろオレのバカ──とでも考えて、この状況をなんとかなかったことにできないだろうかとない知恵をフル回転させているのだろう。
 だがこの様子では残念ながら何も思いついてはいないらしい。
 ローチは敢えてそれに気づかぬ振りを装ってやるがしかし、無情とも言える今後の方針を笑顔で提示していた。

「亮くんとシドはまずはお洋服着ようか。それから朝ご飯食べて…………、洗濯だね」

 自分の包まる紫黒のシーツを見下ろした亮は、光沢あるシルクの至るところがごわつき良からぬ汚れに塗れていることに気がつくと、ますます身体を縮こまらせ「……だね」と消え入りそうな声で頷いていた。








「るーぷざしーぷ……。…………輪っかの羊?????」

 表面を炙った硬い白パンを食いちぎり香りの良い淹れ立て紅茶を口に含むと、何度か咀嚼して飲み込む。
 その間もう一度考えを整理し頭を回転させてみたが、やはり亮にはよくはわからなかった。
 ダイニングテーブルの向こう側に座したローチが言うには、このセラは『ループ・ザ・シープ』という名のセラで、煉獄の中でも超深層に位置する原初セラの内の一つ──とのことだった。“ゲンショセラ”という単語は亮にとって初めて耳にするものであるし、セラの特質を表しがちなセラ名の“るーぷざしーぷ”という言葉も何を指し示しているのか見当も付かない。

「そ。輪っか羊。亮くんもやったことあるでしょ、眠れないとき羊を数えるあのおまじない」
「……羊が一匹、羊が二匹、ってヤツ?」
「あれって眠ったらそこでリセットされて、次の日はまた一から数えるじゃない?」
「うん。普通一からじゃね? 続きから数えるヤツ見たことないよ」
「ここはそんな感じのセラなんだよ」
「??????」

 説明を聞いてもまったくピンと来ず頭の上にいくつも疑問符を浮かべて首を傾げる。
 それに連動するように背中の小翼がふわりと揺れた。
 仕立ての良い白シャツには穴が空いてるわけでもないが、袖を通し身につけただけで、羽根は見事に布地を透過し当たり前のように亮の背へ現れていた。
 七分丈の黒いズボンを黒のサスペンダーで吊った亮の出で立ちは、錬金術師の住まいにはとてもよく馴染んでいる。

「ここでは時が流転する。一定の周期が来ると戻るんだ。原初セラには時があるようでない。だからこそ、おまえの中の異物がこれ以上成長することもない」

 すぐ隣の木椅子に腰を下ろしたシドは二つ目のパンを皿に取りながらローチの説明に補足をした。
 黒に銀の刺繍が施されたピッタリとしたジョッキーパンツに黒の皮ゲートルとブーツを身につけた長い足を邪魔そうに組み直し、レースアップの白いコットンシャツに身を包んだシドの姿は時代を超えて恐ろしく似合っていて、亮はモグモグと口を動かしながら「世界はやっぱり不公平だよな」と独りごちる。
 時があるだとかないだとか、シドの解説を聞いてもなんだか哲学的過ぎてやはり亮の頭では理解が追いつかないため、シドの服やローチの格好を眺めて「RPGのコスプレみたいだ」などと関係のない方向に気を取られてしまうのを止められない。
 ただなんとなく、ここに居れば自分の中のアイツは動くことがなく、亮は消えないで済むらしいということは理解できた。

「そうだなぁ。亮くんにわかりやすくっていうと、あれだ。サザエさんワールド。何年経っても磯野家の皆さんは変わらないだろ? タラちゃんはいつまでも小学生にはならないし、カツオくんは毎日中島と野球だ」
「おお! うん、なるほど!」
「ココも同じなんだよ。季節が巡っても時は進まない。一定期間巡れば元に戻ってしまう。ただしそれは肉体的空間的な問題だけで、記憶はずっと続いていくんだ」
「すげぇ! じゃあ無敵じゃん。ここに居たらずっと普通に暮らせるってことだろ? 記憶は巻き戻らないならその間になんか良い方法考えればいいもんな」
「……そうだな」

 少し間を置いてうなずいて見せたシドの様子をちらりと流し見たローチは、話を切り替えるように紅茶を一口啜ってこう切り出した。

「さて。それじゃまずは僕らの住むこのスイートホームの住環境を整えるところから始めようか。たとえ時が進まないセラとは言え、実質200年以上誰も出入りしてない家だ。不都合は色々ある」
「僕ら?」

 低い声音で繰り返したシドへ、正面から「そう、僕ら」と当たり前のように言ってのけた美貌の青年は「ね」と亮に首を傾げて見せた。
 パチクリと瞬きをした亮が反射的に「うん」と頷いてしまう。当の亮は何が「ね」なのかわかってはいないようだ。

「シドと僕の服は昔のものがまだたくさん残ってるけど、亮くんのは急遽僕が僕の服からリメイクしたその一着しかないからもう少し用意したいし、食べ物も調達してきたい。ここにはパンと紅茶、ちょっとした乾物みたいなものしか残ってないから」
「え! この服、ローチが作ったの? ローチの服から? すご。サイズとかピッタリだ」
「サイズはね、僕が亮くんよりちょっと大きかった時代のを使ったからそんな驚くことでもないんだ。……こう見えて僕も若い頃は可愛かったんだよ? ね、シド」
「…………」

 黙したままギロリとローチを睨んだシドは取り出した煙草に火を点け、そっぽを向き深く煙を吸い込んだ。
 ローチは楽しくてたまらないというように口の端を震わせると、状況がわからずニコニコしている亮へ微笑み返して続ける。

「あとはそうだな。冷蔵庫、洗濯機、エアコン、掃除機、ガス台、湯沸かし、電子レンジにオーブン。現代人の僕らに必要なアイテムも揃えたい。200年前の設備じゃ不便で仕方ない」
「え? そんなのどこから持ってくるんだ? 超深層セラってどこも地獄みたいな場所ばっかで、普通のセラみたく街なんてないんじゃないの? ソムニア覚醒した新人に配られる『煉獄世界の基礎知識』って教科書に書いてあったよ」
「へ〜、今はIICRそんなテキストも配ってくれるんだ。まともな活動もしてんだね。亮くんもちゃんとお勉強したこと覚えてるじゃない、偉い偉い」
「基本の超深層セラはテキスト通りのものばかりだ。だがここは、この世界の生樹が誕生して最初に生まれたと言われる“原初セラ”の一つであり、存在する場所が煉獄の超深層階層というだけで、他の超深層セラとは存在そのものが違う。現実世界の時空全てと重なり合う存在だ。だからセラ内部の時間はないに等しく、重なり合う現実世界の時間全てに存在することが可能になる。もちろん重なりあってはいても一方通行の非干渉ではあるが」
「・・・・・・。」

 煙草の灰を銀製の灰皿へ落としながらシドが解説するが、亮は三つ目のパンにかじりついたまま、蛇に睨まれたカエルの如くピタリと動きを止めていた。
 なんとか今の説明を理解しようと努力した結果、完全にフリーズしてしまったらしい。

「うん。大丈夫、落ち着こう亮くん。まずはそのパン飲み込んじゃおうか」

 苦笑するローチの一言でギクシャクと動き出した亮はなんとか口の中の塊を飲み下し、もそもそと紅茶を口に含んだ。
 高校生男子らしいささやかなプライドで「オレは今の説明で理解しました」──という風に見せかけたい少年は、大きな黒目をあちこちへ彷徨わせた後、「なるほどね」と蚊の鳴くような小声で呟いてみる。
 声の小ささに自信のなさが如実に表れてしまっている様に、ローチは笑いをかみ殺しつつ助け船を出す。

「まぁ原理なんて所詮僕たち人間には理解しきれないんだ、深く考えてもしょうがない。どうなってるのかは実際に見に行けばいいよ。今なら200年前とは違ってもっと街も広がってるだろうし車も手に入れよう。なんなら帰りは亮くんが車を運転してもいい」
「え!?」
「おいローチ」
「このセラには人間は僕ら三人しかいないからね。普通のセラにあるアルマ間での独自ルールも存在しないんだ。ココ全てがシドの私有地みたいなものさ」
「すげぇ! オレまだどこのセラでも運転したことないよ。シュラの車みたいにでっかいやつ運転したい!」

 興奮気味に声を高くする亮に対しシドは渋い顔だ。

「駄目だ。おまえのことだ、どうせ崖から転げ落ちる」
「なんでだよ、落ちねーし!」

 根拠のない自信に裏打ちされた亮の迷いない断言に、シドは派手な溜息をついてローチを眺めやる。
 余計なことをと言わんばかりのその目つきは十二分にローチを喜ばせた。

「それじゃ、食事も終わったことだしすぐにでも買い出しに出かけるとしますか」
「おおーっ!」

 意気揚々と声を上げた亮はシドの腕を引き立ち上がらせるとローチの後を追う。
 こんな風に笑顔を見せていても決してシドから離れようとしないその様子に、後ろを振り返ったローチは笑みの彩度を落とす。
 左首元についた痛々しい噛み痕と、照れもなくシドの手を強く掴んだままの左手。
 シドも亮も深い闇の中にとっぷり浸かったままなのだと、唯一の第三者であるローチは改めて気づくのだった。





 薄暗い廊下を抜け、豪奢なシャンデリアの下がった玄関ホールを左右に巡る階段を降り、見上げるほど大きな両開きの扉を押し開けると──思わず亮は目を閉じた。
 鮮烈な太陽の輝きが白く網膜を焼き、目が眩む。
 強く湿った風が吹き上がり、一瞬亮の髪を掻き乱した。
 潮の香りが微かに鼻孔をくすぐって、その正体を知ろうと亮はおそるおそる目を開ける。
 まず黒い瞳に映ったのは真昼の空。
 青く輝き、濃く白い晩夏の雲がもくりと立ち昇っている。
 そしてそれより濃い青が、遙か彼方、空の向こうまで延々と広がっていた。

「……海だ」

 思わず口を突いた呟きは吹き抜ける潮風に散って消えていく。
 亮の立つ玄関ポーチはその先に続く庭先より一段高く作られていて眼下を一望できた。
 彼らの家は小高い丘の上にあり、葉の生い茂る背丈の低い木々に囲まれている。
 濃緑の覆う大地を縫うように続く黒々とした土の道は眼下に広がるいくつかの集落を抜け、その先に続いているようだ。
 海はそのさらに向こう側で耿然とした原っぱのようにざわめいていた。
「屋敷の裏からならすぐに海に降りられるよ。もう今は寒くなっちゃったけど、来年の夏は泳いでもいいんじゃない?」
 ローチの言葉に亮は瞳を輝かせる。
 握ったシドの手をさらに強く握り確認するように顔を上げれば、目を細めたシドは「一人じゃなければな」とうなずいて見せた。
「もっと大きな島になってるかと思ったけど、周囲はそんなに変わってないね。街の割合は増えたみたいだけど欲しいものちゃんと手に入るかな」
「俺が必要だと思えば手に入る。問題はない」
「……やだねぇ、家主感出しちゃってイヤラシイ。僕はおまえが必要だと思わないものも欲しいんだ」
 大人達がヤイヤイと話ながら進むのに付き従って亮も庭を進んでいく。
 目の前の大きな道を街へ向かって降りていくだけだと思っていた亮は、そちらへ行かず庭の端の方へ向かう二人に首をひねった。
 もっと近道があるのだろうか──と、そう考える。
 だが亮の予想を否定する形で、数分後、結果は目の前に提示された。広々とした芝生の先に、小さな小屋が現れたのだ。
 野太い木材で組まれた丈夫そうなその小屋からはなにやら嗅ぎ慣れない臭いが漏れ出ている。
 入り口のすぐそばまで来たというのに、横に立つシドもローチも何も言わない。
 ローチはいつもと変わらぬニヤニヤ笑いを浮かべ、シドは無表情のまま亮の髪を撫でている。
 亮は訝しげに眉を寄せ薄暗い中を覗き込む。
 そして次の瞬間。悲鳴にも似た嬌声をあげていた。
「わあっ、馬! シド、馬!!!!」
「大声を出すな。あいつらが驚く」
 そう言われて慌てて声を飲み込んだ亮は、そろそろと再び中をのぞき込み、広い厩につながれた二頭のサラブレッドを見上げる。
 青毛と葦毛、二頭の馬はどちらもがっしりと体格が良く、落ち着き払った黒い瞳を亮へ向けて二百年ぶりに現れた客を観察しているかのようだ。
 おっかなびっくりで伸ばした亮の手に葦毛の馬が鼻先を近づけぴとりと擦りつける。
 手のひらに感じる鼻息がくすぐったく亮は声を立てて笑うと、そのまま鼻先を撫でてみる。
「こうやって首の辺りを撫でてやると喜ぶよ。……ふふ、白い子は好奇心旺盛だから初めて見る亮くんに興味津々みたいだね」
「こいつらの名前なんていうの?」
「うーん、この子達作ったご主人は名前なんて付けずに、アブヤド、アスワドとしか呼んでなかったからなぁ」
「アブヤ……?」
「アブヤドは白いの。アスワドは黒いのって意味。単純に色で呼んでただけなんだ」
「……じゃあお前がアブヤド? 白くて綺麗だもんな。んでこっちの黒くてかっこいいのがアスワド」
 名を呼ばれたと思ったのか、亮に撫でられながら葦毛の馬が嬉しそうに鼻を鳴らし、青毛の馬は視線だけでちらりと亮を眺めた。
 馬ってやっぱり頭が良さそうだなぁ……という頭の悪い感想を抱きながらアブヤドを撫でているとシドが馬たちを引き出しに掛かる。
 彼らはシドの考えていることがわかっているのか、当たり前のように従い、大人しく二百年ぶりの太陽の下へその身を晒していた。
 陽光の下で二頭の毛並みはきらめき、筋肉のうねりまでわかるようだ。
 テレビでしか見たことのないその動物は、亮が想像していたよりずっと大きく美しい。
「馬で買い出しに出る。おまえは俺の前に乗れ」
 厩の傍らに置かれていた馬具を慣れた調子で取り付けながらシドが言う。
「え!? 今から乗るの!? こいつらに!? マジで!?」
 疑問形を連呼し興奮気味に捲し立てていた亮は、7分後、黒く艶やかな毛並みの輝くアスワドの背にまたがり、背後からシドに抱えられたまま、丘から街へと続く土の道をゆったりと下っていた。
 潮風に髪を靡かせ遙か眼下に街並みを見下ろしながら揺られる亮は、思った以上の高さと景色の良さに上機嫌で辺りを見渡し、「鳥が飛んでる」だの「船が見えた」だの後ろのシドへ報告することに忙しい。それに対し適当に相づちを返すシドの手が亮の前で巧みに手綱を操る様に、今度はそちらへ興味を引かれたらしい亮は、自分もそれに参加しようと手綱に添えていた手を動かし始めていた。
「こら、勝手をするな。崖から落ちる」
 シドが叱れば亮は「落ちねーもん」と、またいつもの根拠のない自信に満ちた答えを返す。
「まったく……大人しくしていろ。大きな道へ出たら手綱捌きを教えてやる」
「ホントに!? オレの言うことでもアスワド、聞いてくれるかな」
「さあな。舐められないようにもっと強そうな感じでも出したらどうだ」
「……ん。こんな感じか?」
 横をアブヤドに乗って歩くローチがブッと文字通り堪えきれず吹き出した。
 ローチを乗せたアブヤドもブルルと鼻息を吹き出す。
 背筋を伸ばし肩を怒らせた亮の顔がどんな“強そう”になっているのか背後にいるシドには見えなかったが、なんとなく予想は出来る。やれやれといった調子でシドの口から溜息が漏れていた。
「眉間に皺を寄せるな」
 背後から手を伸ばし亮の眉間をシドの指先がグイグイと揉む。その手を掴んで「なんだよ! シドっぽくしてるだけだろ!?」と抵抗して見せる亮に、「どこが俺っぽいんだ」とシドの眉間に深い皺が寄る。
「いやいや同じ顔してるって。親子みたい」
 ローチの一言に「は!?」と声を荒げた亮が「こんな親イヤだ!」と食い気味に言ってのけた。