■ 5-75 ■



 深夜二時を回った時刻だ。
 赤々と燃え盛る暖炉の前で、黒い影が折り重なるように揺れていた。
 駆けつけたローチが昨年取り付けたばかりのルームライトをリモコンで点灯させてみれば、白い息がふわりと煙る。
 今日は特に寒い。それは外の吹雪のせいなのか、目の前の光景のせいなのか。

「縫合キットだ! 早く!」

 こちらへ背を向けているにも関わらずシドの咆吼はローチの鼓膜を殴りつけ、事態の切迫を物語っていた。
 キッチン奥棚から救急箱と呼ぶには少しばかり物々しい外科用キットを持ち出したローチが暖炉前へ駆け込めば、見るに堪えない悲痛な絵が彼の菫瞳に映り込む。
 蘇芳色の絨毯の一分が黒く染まり上がるほど、亮の左足から吹き上がる飛沫は激しかった。
 だらりと投げ出された少年の左手の傍らには苺色に染まったガラス棒が転がり、チカチカと炎の赤を瞬かせている。一目でそれが今の状況を造り上げた原因であることがわかった。
 たたき割られ先端のカップ部分を失ったワイングラスのなれの果ては、鋭利なガラスの錐として、亮の大腿部へ突き立てられたに違いない。

「なんで抜いたんだ、バカ!」

 思いもかけずローチの口からも己でも信じられない罵声が迸っていた。
 亮の足を押さえるシドの手の位置を見ると出血箇所が大腿動脈であることは火を見るより明らかだ。
 人体の血管の内、頸動脈の次に太いその動脈は、亮の全身を駆け巡る命の飛沫を大盤振る舞いで屋敷の絨毯へサーブし続けている。突き立てられたであろうガラス棒を抜きさえしなければ、ここまでの出血は避けられたはずだ。
 ゲボ血の価値を知る者が見れば驚喜の叫びを上げ、少年の太ももに吸い付き離れなくなることだろうとくだらない想像に眉をひそめ、ローチは大きめのドクターズバッグをひっくり返す。
「ひととき目を離した。寝落ちた亮に毛布を取りに行った隙だった。刺した傷を隠そうとしたらしい──くそっ」
 自ら刺した行為を咎められたくない意識から、亮自身が引き抜いたのだろう。
「おまえの癖に気を利かせようとするからだ」
 理不尽な難癖を付けながらローチはシドと逆側へしゃがみ込んでハサミを振るう。
 亮のスウェットズボンを切り裂き患部を露出させる準備を整えると、シドに押さえた手をはずすように指示する。
「手を放すが、止血は長く持たんぞ」
 どうやらシドのイザで周辺を肉体の耐えうる極限まで低温に保つことにより、血流を抑え込んでいるらしい。
「もう少し上の位置で冷やし続けて。傷の状態を見ないと方針が立たない」
 うなずきはずされた手の下からスウェットの布地を取り去り、ペットボトルの水で傷口を洗う。
 現れた刺創は小さいがしかしぽっかりと口を開け、コポリコポリと亮の命を吐き出し続けている。
「わかってたけど、確実にぶっとい動脈いっちゃってるね。亮くん勢い良すぎだよ──」
 どうしてこんな傷をつけたのか──、その問いをシドに向けることはしなかった。ローチにもこの状況の根元がなんなのかすぐに察しが付いたからだ。
 これは亮が寝落ちしたくないと朦朧とした意識で行った自傷行為の一部なのだ。
 これまでも何度か似たようなことは行っていた。
 意識断絶に恐怖感を抱く少年は、眠らないよう、意識が抜け出さないよう、自らの膝をつねってみたり真冬に水のシャワーを被ってみたり──二人には気づかれぬよう、無駄とも言える努力を払っていたことをシドもローチも知っている。
 それが極限に達した今の状況で最悪の形で現れてしまったといえた。
 いくらなんでも大腿部動脈にまで達する傷をつけるとは、寝落ちしかけていたとはいえ躊躇いがなさすぎてローチですら呆れの溜息がもれるほどだ。ゲボの能力がいかに高かろうが、相応の傷が与えられれば亮とて死ぬ。それを少年はわかっているのだろうか。
「中の動脈部分を縫合した方が良い。ここじゃ無理だ。キッチンテーブルへ運ぼう。──言っとくけど、僕はお人形制作は得意だけど人間の正式なやり方は知らない。それでいいなら処置してみるよ」
「──頼む。すまん」
 ローチの瞳が見開かれる。
 一瞬息を止めてしまったことを、傍らのシドは気づいてはいない。
 ちらりと旧知の男の顔を眺めたローチは苦い溜息を一つつくと、ぐっと背を伸ばした。
 あのシドがこともあろうかローチへ謝罪の言葉を吐くなど、あってはならない失態だ。
「これは……、僕も覚悟を決めた方が良さそうだ」
 呟きはシドの耳に届いてはいたが、その真意を汲み取る余裕が今の彼にはない。
「家中の灯りをキッチンに集めよう。手元が暗いと手術もクソもないからね」
 亮を抱えたシドに指示を出しながら、ローチは丹念に手を洗い、キッチン用のニトリル手袋を装着する。
 深夜の手術が行われたのはそれからほんの十五分ほど後のことだった。





 キッチンテーブルの上に簡易的に作られた手術台は屋敷中の照明に照らされ、真昼のごとく輝いている。
 その上に寝かされた亮に覆い被さるように、白い影が屈み込んでいた。
 いつもは嫋やかに揺れる長衣。その袖を大きくまくり上げた白い腕にはくっきりとした筋肉の陰影が刻まれ、少年の上半身を抱え上げる動作に会わせて蛇のごとく蠢いて見えた。
 汗で貼り付く少年の髪を指先で避け、ローチは薄く開いた唇へ己の興奮に染まった猩々緋の唇を寄せていく。
 頤を上げさせ血の気の失われた少年の唇をさらに開くと、たっぷりと唾液を絡めた舌を潜り込ませた。
 濡れた音をたて唇を吸い、舌先で歯列を割って亮の小さな舌を絡め取る。
 その様を傍らで眺めているであろうシドの表情を想像しながら、ローチはうっとりと目を細め、僅かながら反応を返す少年の舌を擦り上げながら必要以上に官能的な音を立てる。現役カラークラウン達を何人も色欲の呆けに落とした亮の唾液は甘く、それを飲み下すのと引き替えに己のヴンヨの滴りを少年にたっぷりと飲ませていく。
 ひくり、ひくりと亮の指先が痙攣し、薄く開かれた瞼の奥から現れた黒い瞳が幸福の薔薇に染まっていくのを確認する。
「大丈夫。亮くんも知ってるでしょ? 僕、とっても上手だから、気持ちいいことしかしないもんね」
「っ……、ぅしゃぎ、しゃ……」
「ん、いい子。ほら、ゆっくり息して……」
「、ぁ……っ、ゃ……」
「ふふ、こっちも気持ち良くなっちゃった? こんなに血が出てるのに元気でおじさん嬉しいよ」
「おいっ」
 麻酔替わりの口づけを鬼の形相で眺めていた男が、溜まりかねたように叱責の声を上げた。
 ローチの右手は剥き出しにされた亮の下半身中心へと伸び、わずかに首をもたげた小さな屹立をゆるゆると擦り上げている。
 ニトリルゴムに包まれた指先で弄られる未成熟なそれは、震えながら透明な雫を滲ませ、ちゅくちゅくと可愛らしい音を立て始めていた。
「ん〜、そうだね。出ちゃうのは良くないから──おい助手、イザで患者の局部を冷やして。やさしく、ね」
 それらしい顔をして命令を下すと、目が合うだけで凍り付きそうなシドの視線を無視して新たなグローブへとつけ変える。
 楽しんではいても手術自体には真剣であることの表れと言えた。
 テーブルの逆側に控えていたシドも屈み込み、その熱を治めるため、亮の幼い屹立へ無骨な指を絡めていく。
「シ……」
 半分眠ったような吐息が亮の唇から漏れ、シドは左手で亮の頬を撫でると瞼に唇を落とした。
「大丈夫だ。目を閉じろ」
「ゃ……、ォレ、……ねたく、なぃ…………。…………ォレ、きえたく、なぃ……」
 ローチの寄こす幸せの塊を飲み込んでなお消えることのない亮の絶望に、大人達は胸を塞ぎ息を止める。
 少年がなんとしても隠そうとしてきた本音が朦朧と煙る意識の中、ぽろりぽろりと零れだしているのだ。
「……わかってる。眠らなくていい。俺の声を聴いてろ」
 亮の唇に軽く歯を立て冷えた口づけを与えると、必死に開かれている黒い瞳を見つめながらいつか亮のせがんだ子守歌を口ずさみ始める。
 低く甘いバリトンが、薪の罅ぜる乾いた音を縫うようにシドの薄い唇から流れ出す。
「……、し、……好き。……、すき、……しど」
 少年の言葉がシドの歌を指すものなのか、それともシドがいつかした告白の応えなのか、判別が着かないままシドは古い詩を亮の青白い顔を見つめながら歌い続ける。
 ローチは長い付き合いで初めて聴くその歌声に、刹那、瞳を閉じ、そしてメスを取る。
 すぐに少年の唇から静かな寝息が立ち始め、止血のための手術が開始された。





 全てが終わり、少年がベッドの中タオルケットに包まって健やかな眠りに就いたのは、太陽が昇り始めた明け方であった。
 亮の手は手術の間からこちら、シドの手を放そうとしなかった。
 意識を無くしてからもゆるくその手は拘束を続け、シドはそんな亮の手を取ったまま今もベッドの中寄り添い、手術後の熱発を起こす亮の身体を繊細なイザで冷やし続けている。
 キッチンでオペの片付けをしながらそちらへ一度だけ視線をやると、ローチは再びシンクの中へ吸い込まれていく血の渦へ目を落とした。

 おそらく持たない──と確信する。

 何が──。それはシドと亮の二人に関してだ。
 確かにビアンコの施した枷によりミトラは亮の内側に封じられ、今後数百年間、殻である亮のアルマを食い破ることは出来ないに違いない。
 物理的には何度も何度も羊が巡る度、平和な日常が送れるだろう。
 だがこのままでは二人の心は壊れていく。
 それも――きっと、ではない。必ず、だ。
 ただでさえ自分たちしか存在しないという特殊な環境だ。ローチという不純分子が混じっているにせよ、閉じられた世界は精神に大きな変調をもたらす。
 それにプラスして何度も現れるミトラの存在。
 外の世界全てが敵であるともいえる現実。
 本来ここにいなくてもいいローチとは違い、彼らに逃げ場はない。
 だから、確信する。
 数百年どころか、十年。いや、正常であるという限定を付けるなら五年持つかどうか。
 メスにこびりついた血糊をスポンジでこすり続ける。
 いつしか血の渦は透明な清流となってシンクの奥へ落ち始めていた。

「僕は傍観者でいたいんだ──」

 呟いてみて自嘲する。
 もう十分自分も当事者なのだ。
 ローチの手が軽くコックを閉めた。