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駄目だ、とシドが言い、亮は、嫌だ、と言った。 二回そのやりとりが聞こえた後、軽い足音が背後を駆けていき、その後に続いて重量のある靴音がそれを追う。 振り返らずともローチには理解できた。 またシドが亮に押し切られた音だ。 ここに来たときの暴君ぶりが嘘のように、今のシドは亮に甘い。特に先日亮が己の大腿動脈を刺し貫き昏睡状態に陥って以降はその甘さが苦みを増すほどなのだ。 未だ片足を引き摺る亮が「アブとアズに餌をやりに行く」と言い張り、「どうせそれだけじゃ済まなくなる」と亮の本質を理解したシドが否を唱えたものの、勝敗は三分で片が付き、勝者はキッチンから人参の束を持って階段を降りていく。 「亮くん、まだ馬に乗っちゃだめだよ!」 敗者の肩をたまには持ってやるかと背後から声を掛ければ、亮は「わかってる!」とまったくわかっていなさそうな元気な返事をよこしてきた。 何にせよ、あれだけ弱っていた亮が少しながら持ち直したことはこの三人の生活に久々の光を灯している。 昏睡することで十分な睡眠を取ることが出来、逆に良かったのかもしれないとさえ思う。 「走るな」 シドの注意にも「わかってる!」と同じ台詞を返しながら、タタタタと回転数の早い足音が玄関ホールを突っ切っていた。 「何がわかってるんだ……」 ローチと同じ感想を口にしながら大股で続くシドの溜息はどこか嬉しげですらある。 「ランチまでには戻ってよ。今日は亮くん リクエストの和定食作るから」 「……わかっている」 揃って同じような台詞吐きやがって──と苦笑いを浮かべたローチに構うことなく、シドもポーチを出て行った。 厩の方からアブヤドとアスワドが嬉しげにいななく声が聞こえる。 亮が来ることを察してはしゃいでいるのだろう。 「硝子張りの幸せは──綺麗だけど切ないね」 呟いたローチは刻んでいた高菜をボールに放り込むと懐からスマホを取り出す。 ローチの持つこの道具は亮やシドに渡したものとは違い、唯一外部との連絡が取れる特別仕様となっている。己のアルマを削って混ぜ込んだ彼の魂の一部とでもいうべき代物だ。 ただやはりループザシープという特殊セラに居る以上、通常のセラアイテムとは違い、どんな高価な特殊アイテムを用いて創り出した携帯電話だとしても、無制限に外部につなぐことは不可能だ。ローチがあらん限りの技術力と財力を注ぎ込んで造り上げたこのアイテムも、つなげられるのは一カ所のみ。もう一つ彼が全く同じ手法で造り上げた通信機器を持つ腹心・コーレイの元だけである。 そのコーレイからの連絡が入ったのは今から一年と少し前。昨年の十月に入って程なくした頃だっただろうか。 ここでも連絡を取ることが出来るという事実と己の創り出したアイテムの有能さに嬉しい驚愕を覚えたローチだったが、その喜びも束の間の出来事だった。 音声での連絡は繋がったとほぼ同時に切れてしまう。文字での連絡は繋がっている気配はあるものの、通信速度が驚異的に遅い。 最初はサーキットレベルが低すぎて情報を伝達するまでの威力がないのかと疑った。確かに深層セラではその深度によりレベルが上がらず通信が阻害されるケースが頻繁に起こる。 しかしそうでないとわかったのは、意外にも文字入力のメール機能ではなく──、音声での連絡からであった。 ローチ側のスマホへ送られている留守録は、その性質上スマホの電源が落とされていても回り続けている。その録音記録は一つのみ。 そう。ただ一つしか記録は残されていない。つまり、あれだけ何度も通信が切断されているにも関わらず、通話記録は繋がった回数作られるのではなく、最初に繋がった十月初頭から延々と回り続けている一つのみなのだ。 それもほんのコンマ数秒ずつ、一年以上の時をかけても未だ三.二七秒の録音しかなされていない。 いやそれどころか、時には数秒飛ばしたように進み三分五十二秒を示したこともあり、それが巻き戻りコンマゼロ秒台になることもある。 現在も、端末上部に現れる電波レベルを模した『コミュニケーション サーキット』レベルが、ほんの瞬きの間四本全て立ち上がったかと思えば、次の瞬間にはゼロになる。完立ちかゼロか二択の揺らぎは今のように秒を開けずに繰り返されることもあれば数週間もゼロのまま動きを見せないこともある。 その法則はこの一年あまり観察を続けてきたローチにもつかめていない。おそらく完全なランダムなのではないかと推察している。 それでいて溜まった分の録音中データを聴いてみると、今は「お頭、そちらでの──」と途切れることなく滑らかに、馴染みあるコーレイの渋い声が再生されるのだ。 その先の台詞も、録音時間が比較的長い時を狙って再生を掛けてみたところ「お頭、そちらでの生活は落ち着かれましたか。こちらは未だIICRに感づかれることもなく指示通り組織の運営を」と続くことがわかっている。 とにかくこれで推察できることは、ループザシープで特筆すべきなのがその遮断性だけでなく時間の流れ方にある──ということだ。 自分たちがここに居る間も、外世界はゆっくり、確実に進んでいる。 ここへローチらが腰を落ち着けている間に、外世界はどのように進んでいくのだろう。 それを実際に己の目で見極めたいとも思うが、ここを出たら最後──時の波に攫われて、二度と『現在の心を持つ亮とシドのいるループザシープ』へ戻ることはできなくなるだろう。 「今はまだ外の世界は、僕らが樹根核をぶっ壊してからほんの一日程度しか進んでないみたいだけど──。この先もし数百年、亮くんがここから出なかったとしたら世界はどうなっちゃうんだろうね」 滅んでいく世界と壊れていく二人。 ある意味バランスは取れているのかもしれない──。そう妙に穏やかな気持ちになり、ローチは口元をゆるめた。 スマホをしまい、冷蔵庫から新鮮なサンマを取り出しに行く。 眩しいほどの窓辺には日の光と共に亮のシドを呼ぶ声が入り込んでいる。 冷蔵庫を覗き込んでいたローチは思い立ったように顔を上げ、光の中へ向かうと少し固めの窓枠を大きく押し上げた。 冷たく澄んだ風がプラチナブロンドの長い髪を瞬間棚引かせる。 「シド! 近くの薬局でガーゼと抗生剤入りの化膿止め買ってきて! ──は? テラマイかドルマイでいいから。そう、夕べ切れたんだよ、まだ亮くんの傷には必要だろ? さっさと行く。亮くんはランチの支度手伝いにきて、今すぐ!」 有無を言わさずぴしゃりと窓を閉めると、良い香りの立ち始めたキッチンへ踵を返す。 ローチの白い指先が懐の中でスマホの縁をゆっくりと撫でた。 手を洗い始めた亮は落ち着かない様子で、ちらりちらりと窓の方へ視線を送る。 近頃の亮は今まで通り強がって見せてはいるが、隠しきれない不安と恐れで常にシドのそばを離れない。 シドの意見に反抗する素振りすらも、無意識にシドに追わせる行為を繰り返しているに過ぎないと、この世界における唯一の第三者であるローチには目の前に答えを提示されているかのごとくはっきりと見て取れた。 「アブとアスは喜んでくれた?」 白く湯気の上がるキノコと生姜の炊き込みご飯を小櫃に移しながら声を掛ければ、ワンテンポ遅れて「うん。人参、嬉しそうだった」と返事が寄こされる。 「人参より亮くんが顔見せてくれたから喜んだんだよ。あいつら亮くんのこと大好きだから、今回のこと心配してたみたいだよ?」 手を拭きながら顔を上げた亮は、言葉少なに「そっか」とだけ呟く。 「そうだよ」と穏やかに返したローチは大根をすり下ろす。 「なぁ、ローチ。いつもおいしいのいっぱいサンキューな」 アボカドと塩昆布の乗った冷奴。なめことネギの赤だし、ひじきと大豆の五目煮。そしてサンマの焼ける良い匂い。 ローチの作る食卓はいつも亮の胃袋を刺激する。味だけでなく彩りも鮮やかで、一緒に作るのも作るのを見ているのも亮は好きだった。ローチの手先が器用に動いて食材が見る見るご馳走に変わっていくのは魔法のようだった。 「好きでやってることだからね。僕は好きなことしかしないし」 「あはは、そうだね」 ローチの軽口と長い菜箸の先で美しく形を整えられていく副菜たちに、先ほどまでの不安が少しだけなりを潜め、亮はやっと微笑むができた。 「それに、もう何回も作ってあげられる機会もないしね」 「え?」 唐突に発されたローチの言葉に、亮はその意味を捉えかね笑顔のまま思わず聞き返す。 しかしローチはそんな亮の様子に気づく素振りを見せず、続ける。 「僕は明後日、ここを出る」 亮はやはり意味がわからなかった。 右に小さく首を傾け、今度は左に小さく首を傾けた。 無意識になされるその仕草が犬のようで、ローチは目を細め、エプロンで手をぬぐって亮の頬に触れる。 「ごめんね」 「……なんで? なんで? オレがもっと手伝う? 洗濯物もちゃんと畳むし、タオルケットも洗う。だから──」 「それが理由だと、本当に亮くんは思ってる?」 亮は黙り込むしかない。ただ黙り込んでおどおどと視線を彷徨わせる様は大人の顔色を伺うそれで、十七歳という恐い物知らずの年頃とは思えぬ幼さを感じさせた。 こんな顔を見せる子供が、ローチは嫌いだ。 それは不自然で不幸な症状だと思うからだ。ローチの与える不自然な幸福にとてもよく似た形状をしていると本能的に悟ってしまうからだ。 「ふふ、ちょっと意地悪な言い方だった」 だがその負の感情をおくびにも出さず、ローチはおかしそうに亮を流し見ると長衣の懐からスマートフォンを取り出し、亮へ提示する。 その行動の意図がわからない亮は揺れる黒瞳で、何度もローチの顔と画面を見比べた。 「理由はね、これ──なんだ」 白く節のない長い指先が画面を滑ると、唐突に音声が流れ出る。 『 羊歴0年。十月三日。 今はもう夕方の四時半。もうすぐ晩ご飯の支度をローチが始める頃だ。 日が暮れるのも最近は早くなってきて、風も乾いて冷たい。 外はもう空が赤くて窓から見える海の上は紫色に変わってきてた。 秋なんだなって思う。 』 亮の全ての動きが静止した。 揺れていた大きな瞳が零れそうに見開かれていた。 亮の頬が見る見る真っ赤に染まり上がり、細い肩も小さな羽根も、痙攣するように不規則に震え始める。 これは、亮の秘密日記だ。 内緒の秘密で吹き込んでいる亮の全てが、ローチの手のひらで、今まさに目の前で暴かれていた。 「どうして、これ、ローチ、オレの……っ!」 吐息に紛れるように声が漏れた。 激高が亮の言語機能を破壊する。 羞恥。羞恥。怒り。羞恥――。 全身の毛穴が開き、亮の全ての肌表面から湯気を立てるほどの汗が吹き上がる。 聴かれていたのだ。 全部。全て。亮の恥ずかしい独白、丸ごと――、目の前の美しい友人に聴かれてしまっていたのだ。 片言の単語と疑問符を並べ立てるだけの少年に、「僕が作ったスマホをこんなにも活用してくれて嬉しかったな」などと、敢えて空気を読まない感想を付け加えるローチは、全身から喜びと悦楽を立ち上らせている。ヴンヨの桃色のエキスが滴り昇華していくようだ。 「っ、プライバシーとか、オレにだってあるのにっ、……盗聴とか最低だ。ひでぇよっ、ローチは卑怯だ!」 「理由を知りたいって言ったね? 答えはこれなんだ」 怒りに震える亮の言葉などまるで聴かず、ローチは勝手に先を続けた。 もう一度繊細な指先が画面を滑れば、再生される新たなファイル。 先ほど同様再生されたのは亮の声。だがそれを聴いた亮の表情は徐々に色を失っていく。 怒りの赤から戦慄の白へ──。 二人だけのキッチンに響き渡るのは、スピーカーを通した単調な亮の声。 『乞う』『Sheep』『出たい』『教えろ』『亮へ』『亮へ』『兎』『兎』『聞いているだろう』 確かにこれは亮の声だと。自分自身の声だと――少年は自覚した。 だが、自分ではないのだ。 しゃべり方が、違う。 こんなことを口にした記憶もない。 ローチが再生しているこの音がなんなのか、亮には一切わからない。 「ね?」 一九〇に僅かに足らない長身のローチが身を折り、亮の顔を覗き込んだ。 窓からの光が遮られ、白い影となって亮に差す。 彼の求める「ね?」は同意を求める為のものなのか。それとも揶揄する為のものなのか。 「…………な、に? これ……」 辛うじて絞り出された声は擦れていた。 それはローチの問いかけに対する返事ではなく、亮の脳が起こしたエラーメッセージに近かっただろう。 しかしそのアラートにローチは額面通り、こともなげにこう返す。 「これはね、亮くんの日記の一部を逆再生したものだ。兎って僕のことだよ。……まるでホラーだよね」 「っ、なんで、こんな、オレ、こんなこと、言ってないっ!」 「うん。でも、これを言ったのが誰だかは……わかってるはずだよ」 悪魔のように冷酷に、ローチは告げる。 亮は再び黙り込んだ。 ローチの言うことは理解できた。全て。全くもって。 これを語ったのは自分であり自分でない。自分の内側にいるアレ。 「これを聴いてわかることが一つある。……な〜んだ?」 なぞなぞでも出すように緩い空気で問うてくるローチに、亮は青白い顔をしたまま黙ってテーブルの上のソルトミルを眺め続けるしかない。 思考も動きも呼吸さえも、亮は完全に止めてしまった。 自分の心を守るために、肉体が考えることを放棄してしまったかのようだった。 「降参?」 容赦なく追い込む明るい声に、亮の内側で止まっていた思考が軋みを上げて回り始める。 噛み合わないギアはガチガチと不快な音を鳴らし、薙いだ感情が徐々に吹き荒れ出していた。 「……そんなの、オレの中にやっぱりアレが生きてて、オレを消そうとしてるってことしか、ない」 ルキを殺そうとしたアレ。IICRの所員を何人も亮に殺させたのもアレ。学校に居たころ、潜入捜査で気持ちの悪い男をくびり殺そうとしたのもアレだろう。 亮の罪。――その大本は一つだった。そしてそれは今も亮の内側で亮を見つめている。 「ブッブー。はずれ。ふはは、ブッブッブー」 しかし罪への悪感情も悲劇の少年に対する哀れみも何もなく、ヴンヨの狂王は楽しげに唇を尖らせ、ビープ音を連呼する。 「――っ、な…………、何がはずれなんだよ! どこがはずれなんだよ! ローチはそれに気づいたから出て行くんだろ!? オレの中にいるアレがいつ出てくるかわからないから。ここにいたら自分も死ぬってわかるから。だから出てくんだ! オレもシドも捨てて、一人で元の世界に戻るんだ!」 決壊した河の濁流のように、亮の内側から叫びが迸っていた。 消える事への恐怖。自由への渇望。 今まで誤魔化し、抑えつけていた感情が怒濤の如くローチに叩き付けられる。 「あらら。全部ハズレ。亮くんは相変わらず、おばかちゃんだ」 「な――、何が、バカなんだよっ。オレは本当のこと、言ってる。みんな居なくなるのはオレの中にアレが居るからだっ。オレは。オレを――みんな、嫌いになる。みんな、捨てていく。オレが人間じゃないから。みんなを、幸せじゃなくするからっ――だからローチも捨てるんだっ。やっぱり。――やっぱり、オレはいちゃいけないから、だから、アレも父さんも、オレに消えろって言うんだっ!」 声帯から血が滲む程に叫び荒ぶる少年の硬く軋んだ身体を、ローチはそっと抱き寄せる。 腕の中で暴れる小さな暴君の耳元へ唇を寄せるとキリリと耳朶を咬み、滲む甘い血を啜りながら同等に甘い唾液を流し込む。 「はい。ぜーんぶハズレ」 ひくんとローチの眼前で羽根が震え、ローチは少年の頬を撫でながら視線を明るい窓辺へ向けた。視線が絡まないように。これ以上亮の意志を奪わないように。 「答えは――――アレは亮くんがここに居る限り、復活することができない。でした」 思いも掛けない解答の提示に、亮は戸惑ったように言葉を澱ませる。 「嘘、だ。だって、今こいつ、喋ってた。オレの意志なんて無視して、勝手に喋ってた……」 亮はローチの視線の意味するところなど気づくこともなく、ようやく保てた理性を頼りにかすかに光る考慮の欠片をローチに訴える。 「内容、聞いてごらん? ほら。このループザシープから出たがってる。ここから出ないとアレは――ミトラはしばらく氷漬けになったまま動けないって証拠だ」 「………………で、も」 「ギリギリセーフだったんだよ。亮くんがここに到着したのが。もうあと数時間でキミが壊れて消えてしまうって時に、キミはここへ入ってミトラの時間を止めた」 「ギリギリセーフ……?」 「うん、そう。だから亮くんはそんなに怯える必要はないんだ。勝負はキミとシドの勝ち」 「オレとシドの、勝ち――」 「そうだよ。卵の殻のヒビにようやく現れたくちばしは、一年経てば元通り、また殻の内側に押し戻されてしまう。あいつが干渉できるのはせいぜいキミに隠れてこそこそ言葉を紡ぐくらい。おおっぴらにキミの身体を操ることもできはしない」 抱きしめた亮の身体からふっと力が抜けた。 いきり立ち倍の容量にふくれあがっていた翼がゆるゆると元の大きさを取り戻し、ローチはその柔らかな感触を手のひらで楽しむ。 「それが、この音声から得られる唯一の答えだ」 「それじゃなんで? ……なんでローチは出て行くって言うんだ? ここに居ればずっと死なないし、ずっと消えないんだろ? 永遠の命ってヤツになれるんだろ? ならずっと一緒にいればいい。ずっとここで暮らせばいいじゃんか……」 「だから、だよ」 吐息のように漏らされた言葉に、亮はようやく身体を離し、ローチの瞳をのぞき込んだ。 ヴンヨの瞳を眺めることがどれほど危険なのか、知識として知ってはいてもそんなことは今の亮の頭の片隅にもない。 彼とここで暮らすようになって、もう随分――ソムニアとしての意識を感じなくなっていた。 ヴンヨもゲボもない。 亮はローチの真意を知りたかった。 「意味わかん、ない。オレが嫌いだから、か? ローチ、前に言った。オレのこと嫌いだって。……だったら、嫌いなとこ全部なくすから。だから――お願い。……オレはローチと一緒に居たいよ」 「………………」 アメジストの瞳が亮を映している。 人外の光を宿す彼の視光は、なぜかしんと優しく輝いていた。 「そういうあざといこと言う所が嫌いだよ」 言葉とは裏腹に、人なつっこさを秘めた指先が、亮の唇をアヒルのようにくいっとつまむ。 唇を強くつねられたまま、亮は上目遣いでローチを見上げた。 「僕は傍観者でいたかったんだ。亮くんとシド、二人の行く末はこの世界の顛末だ。だからキミたち二人をずっと観察していようと思った。――でもね」 一呼吸置いてローチは続ける。 外から馬たちの楽しげな鳴き声が漏れ聞こえてきた。 ここは、とても穏やかな場所だ。 「ここに居る限り、僕は全てを見ることはできない。ここに居る限り、僕は当事者になってしまうんだ」 クチバシをつまんでいた指先は離されると、溜まりかねたようにそそくさと亮の髪をなで上げた。 亮は眉をひそめ睨むようにローチを見る。 すがりつく指先が白くなるほど、強く、ローチの腕を掴んでいた。 「ローチが何を言ってるのか、わかんないよ」 「じゃ。はっきり言おうか」 呂色と菫。二つの視線が重なった。 ゲボとヴンヨ。特級の二つのクラスはかち合い、霧散する。 そうしてただの人としての二人が、見つめ合う。 「こちらの結末はもう見えたんだ。だから、もう一方を見に行こうと思ったわけ」 ローチが語った虚心担懐な言葉の意味することを、少年が噛み砕く前に、ローチはさらに追い打ちをかける。 「キミたちか世界か、だよ」 語る言葉の分母には見合わぬ穏やかさで白い美丈夫は謳うように語る。 キミたちか世界か。 一種、厨二病的世界観すら感じさせるセンテンスは、亮のアルマの表層から、切れ込むほどの奥底へこの瞬間彫り込まれたのだ。 「――本当に最後まで付き合うとしたら、どちらか一方の結末しか見られない。僕は普通の人間だからね。せっかくのチャンスだし最初は君らの結末まで追おうかとも思ってたんだけど、……ミトラの言葉を聞く限り、結果はわかっちゃったからさ」 「結果が見えたって……、オレの中のミトラが復活しないってこと言ってるのか?」 「そ。そして――復活しないなら、状況はなにも変わらないよね? だから、面白くない。……それだけ」 見上げる黒い瞳が切なげに細められる。 「ローチは……。…………。ローチはオレのことあざとくて嫌いだって言ったけど。でも。……オレはローチこそ悪ぶってると思う。ほんとはオレのことなんてどうでもいい。ただ――外の世界の仲間が心配なんだろ。コーレイさん、オレにも優しくしてくれた。絶対いい人だ」 おまえは偽悪的だ――。そう言う意味で語られた少年のえぐりこむような意見はローチにしてみれば的外れだと感じたが、長い人生で初めて宣告された人格評に、新鮮なしっぺいを食らった気持ちになり、目を見開いた。 少なからず衝撃を受けはしたがそこは大人の強かさがある。 これ以上の言及をせず、体格差の膂力でさりげなく少年を突き放し靴音も高らかに、ローチの足はオーブングリルへ向かう。 「それからもう一つ気になってることがある」 視線を寄こしながら、流し台の前で突っ立っている亮へ告げる。 「キミの日記にいくつか、決まった単語が不定期に現れる。多分亮くんが言おうとして言ってることじゃない。あの逆再生と同じ類いの声だが、……わかるように語られている所を見ると、キミに気づかせたい言葉なんだろう」 「オレに気づかせたい――不定期に現れる言葉? そんなの……」 言いかけた亮の唇がすぐに閉じられた。 ある日見た夢の光景がフラッシュバックする。 あれはいつ見た夢だったか――。 ローチの言う『単語』が何かはわからなかったが、繰り返し、昔通った駄菓子屋の光景が脳裏に弾けた。 「その単語がなんなのか、僕には予想の域しか出ないけど――きっと何かの『鍵』だ」 「――鍵?」 「キーワードみたいなもの? ……これはさっきのホラー音声よりよっぽど危険だと思う。無意識下でキミにミトラが気づかせたいと働きかけてる言葉だからさ。気になるなら後から日記を聴き直してみるしかないけど……、十分注意して。………………僕が伝えたかったのはこれだけ」 「……これだけって、濃すぎる“これだけ”だよ」 「ふふ。そうだね。――あ、あと、僕がここを出ること、シドには内緒ね。言ったらあいつ、善は急げとか言ってすぐにでも僕を叩き出しそうだし。僕にも荷物の整理する時間は必要なのよ」 「シドはきっと止めるよ。叩き出したりなんかしない」 「奴隷がいなくなるから? はは、ないない。あいつは亮くんと二人でいたいんだ。プライバシーを喰らう床や壁はお断りなんだよ」 床や壁――という言葉の意味は不明だったが、確固たる確信を持ってローチはそう言った。 きっとローチの確信通り、シドはローチの離反を良くは思わないだろう。 良くは思わないが、それを止めることもしない気がする。 小難しい事はわからない。 だが、亮にはシドの考えることだけは不思議とわかる。 「……。また、戻ってくる?」 「一度出たら今の時間の亮くん達にはもう会えない。――さよなら、だね」 「っ、でも、未来のオレたちになら――」 ローチは二度、亮の頭をぽんぽんと撫でる。 優しい手つきなのに亮にはとても痛かった。 それは決別の合図だったから。 亮が何を言っても揺るがない、二百年を超す大人の決断を要約するそんな行動だったから。 それを、たかだか十数年生きただけの亮は、本能で感じ取る。 ローチの行動も行く末も信念も思考の上下位も何もかも亮の意志の外側のファクターで、たかだか十数年しか生きていない自分が揺るがすことの出来ない世界の構成要素だ。 「さ、そろそろお使いに行かせた王様が戻ってくる。サンマも焼き上がったし、お腹もペコペコだ」 これでもう話は終わりだという合図が、世界に対するギロチンのように下された。 グリルの扉が開けられ、香ばしい香りがキッチンを満たす。 カットボードに乗せられたままだったスダチに、亮はナイフを入れた。 尖ったシトラスノートが鼻の奥に沁みて、亮の薄い胸は微かな痛みを覚えた。 |