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 ループザシープの朝は、いつだって優しい。
 晴れた日も雨の日も風の日も――、この世界は全てがシドと亮のために回っていく。
 昨夜冷え込んだはずの空気は四月初旬の陽気に照らされ、牙が抜け落ち、子猫のように喉を鳴らして二人にすり寄っているようだった。

「今日の訓練、昨日見た新しい技、もっかい見せて。オレもやりたい」

 フライパンの上に割り入れた卵をかき混ぜながら振り返り、亮は背後でコーヒーを入れるシドへ提案する。
 今朝の朝食はシドが担当することになっていて取り決め通り切り立てのバケットと電子レンジで温めたミルクを食卓へ乗せたのだが、後から開かない目を擦りながら起きてきた亮は露骨に不服顔をし、寝癖の付いたパジャマ姿のままスクランブルエッグを作り始めていた。
 シドとしてはタンパク質もカルシウムも牛乳に入っているのだから卵は別に要らないのではないかと思ったのだが、亮曰くそういう問題ではないらしい。

「体調は大丈夫なのか」
「ん? 別に普通だけど。なんで?」
「……いや。悪くないのならいい」
「オレはいつもゼッコーチョーだし」

 そう言って笑う亮の頬は白く、眠れていないのは明らかだった。にもかかわらずそれを亮はシドへいうことをしない。
 自分がここのところ毎晩酷くうなされていることを気づいていないのか、それとも隠そうとしているのか──。シドはあえて亮の本心に踏み込もうとせず、黙ってテーブルに着き真新しいが古めかしい革表紙の本を開く。
 東京に居た頃は毎朝数社もの新聞を広げるのが常だったシドだが、時の流れのないループザシープにあってはその行為に意味はなくなる。代わりにこうして以前ここの主だった男の蔵書や手記を開くのが彼のもっぱらの習慣となっていた。
 亮はシドの興味が本に移ったことに気づかれないようほっと息を吐くと、スクランブルエッグとスライスしたプチトマトをバケットの上に乗せ、テーブルに着くなりかぶりつく。
 ポトポトと具を皿にこぼしながら頬張ると、湯気を立てるミルクを口に含んで「あちち」と声を漏らす。

「ゆっくり食え。咽せるぞ」
「うん、わかってる。……わかってるけどなんか焦る」
「焦る? 誰もおまえの朝飯を盗ったりしないぞ」
「そーじゃねーよ! なんかさ、学校行く感覚になるのかな。ここにいるとちょっと東京の家みたいだから」
「…………そうか」

 コーヒーを口に運びながらシドは向かいで二つ目のパンにかじりつく亮を見た。
 青白い頬のまま必死に朝食を平らげる亮の表情は穏やかだ。
 確かに二人だけの食事は、さほど長くはなかったあの事務所四階の部屋を思い出させるのかもしれない。
 しかもローチが去りしばらくして後より、二人の生活は格段に意識したわけでなく、東京時代の休日と同じルーティンへいつの間にかもどりつつあった。
 朝食の後午前中はS&Cソムニアサービスの事務所をクリーニングさせられていたあの時代と同じく、キッチンやリビングを亮が片付け、シドは依頼案件のセラの資料を読み解いてでもいるかのように、積み上げられた文書の山をひたすら読み進めている。
 唯一違うのはそれが鍵の掛かった書斎でも秋人と顔をつきあわせての事務所二階でもなく、亮と同じ空間にあるリビングのソファーの上だということだけだ。
 そして昼食を摂った後は地下のトレーニングルームで亮の基礎体力作りとセラでの武術訓練がみっちり行われていたものだが、今は陽光眩しい芝の上で馬たちの興味深げな視線を向けられながら同じように棒術の稽古が行われていた。
 シドが「やれ」と言ったわけでもなく、亮が「教えろ」と請うたわけでもない。
 日課のトレーニングを怠らないシドの傍らで、いつの間にか亮も同じように慣れ親しんだ若草色の棒を振っていたのだ。

「昨日の新技、一瞬シドが消えたみたいに見えてびっくりした。気がついたら後ろにいてもう三回くらい殺されてそうだったもん。オレも使えるようになりたい」
「あれをしたいならもう少し腹と背中に筋肉をつけなくては無理だな」
「え、オレだってけっこうシックスパックだけど」

 言いながらTシャツを捲って腹を覗き込む亮の腹直筋は薄く内臓すら入っていないのではないかと疑うほどで、シドはどこからそんな自信が出て来るのかと思わず片眉を上げていた。

「ぺらぺらでワンパックすらないようだが」
「は? ぺらぺらじゃねーし!」
「ここでは毎年訓練の成果がリセットされる。あれをやりたいなら三ヶ月で鍛え上げなくては技を教える段階に永久に入れん」

 亮の眉間に深い皺が刻まれ、愕然とした様子で口がぱかりと開かれる。
 本気でショックを受けたらしい少年の顔に目を細め、シドは本を閉じると立ち上がった。

「今日は天気も良い。久しぶりに買い出しに行くか」

 思わぬ申し出に亮はぴょこんと顔を上げると先ほどまでの不機嫌は嘘のような笑顔を見せる。

「行く! 東に行こうよ。弁当持って!」
「……買い出しに弁当か?」
「いいじゃん、今絶対桜咲いてるもん。目黒川みたいなとこあったじゃん、あそこがいいよ!」

 言いながら既に食器を片付け始めた亮は、バタバタとキッチンを駆け回り始める。

「屋台でたこ焼き食べる」

 弁当を準備しながらとは思えない台詞を吐きながら冷蔵庫に頭を突っ込んだ少年に、シドは
「昼過ぎには出るぞ」
 と宣言し食洗機に食器を突っ込むとソファーへ移動する。

「そんな本ばっか読んでると、シドだってワンパックすらなくなるぞ!」

 背中越しに『ぺらぺら』の意趣返しを試みた亮は
「ここでは訓練してもしなくても体型はリセットされる。持ち越せるのはアルマに刻まれた知識だけだ。亮こそ、ここでしっかり勉強しておけよ」
 と見事なカウンターをくらってしまい、唇を尖らせて冷蔵庫に再び顔を突っ込んだ。







 花曇りの昼下がりだった。2007年製シボレー・シルバラードの助手席で窓を開け身を乗り出した亮は、湿った春風に髪を遊ばれながら背後の伴走者たちに手を振る。
 オフロードに強いピックアップトラックとは言え丘を下る急な坂道は体重の軽い少年の身体を今にも外へと放り出してしまいそうで、シドは左手でハンドルを握ったまま右手で亮の白いTシャツの裾をしっかりとつかんでいた。

「車を出しているのに馬は必要ないだろう」
「別にオレが連れてきたんじゃねーもん。アブとアスが勝手についてくるだけだし」

 ミラー越しに車の後をノンビリと追ってくる二頭の姿を眺め、シドはやれやれと息を吐く。

「今まで勝手に出歩くことなどなかったんだぞ。まったく──おまえが甘やかすからだ」
「甘やかしてなんかねーよ? なー!?」

 そう言いながらさらに身を乗り出すと、いつのまにか速度を上げ車の横に併走を始めた白い鼻先に手を伸ばす。

「落ちる」

 先日の雨で削れた道の凹凸にバランスを崩しかけた亮の裾をぐっと引き寄せると、「わ」と声が上がり、ふわりと細いからだが宙を舞ってシドの膝上に落下する。
 右腕一本でその衝撃を殺し抱きかかえると、期せずして膝枕のような格好になった亮の顔を渋い顔で見下ろした。
 一瞬きょとんとした顔をした亮は、次の瞬間嬉しそうに笑う。

「びびった、まじ落ちたかと思った」
「道路交通法違反だぞ、大人しくしてろ」
「……意味わかんね、変なギャグ」

 どこがギャグなのか何がおかしいのかシドにはさっぱりわからなかったが、亮はシドの腹筋にぐりぐりと鼻先を擦りつけながら一人で大笑いをしている。

「意味がわからんのはおまえだ」
 
 そう言いながら柔らかな髪を撫で、シドはアクセルを踏み込んだ。
 普段の亮であればあの程度の揺れでバランスを崩すことなどあり得ないのだが、ここ一月以上、満足に眠れていないであろう少年の体力は少しずつ削られ、シドは片時も目を離せずにいる。
 窓の外を併走する彼らもそうなのではないかと、シドはちらりとミラーに視線を走らせた。
 輝く白い毛並みと滑らかな黒い毛並みが速度を上げたトラックに、興味を失うこともせずついてくる。
 遙か昔シドとローチがここでしばらく過ごした時代には、こんなことは一度たりとてなかった。
 主を失くしたこの地で永遠に近い時間を繰り返してきた彼らがこうして、自らの意志のようなもので動くのをシドは見たことがない。
 アブヤドとアスワドという、ミュートロギア級のライドゥホ能力と恐るべき錬金術の手腕によって生み出された『馬の形を模した宝具』には感情と呼べるものなど在るはずもないのだ。──そうシドは思っていた。
 だが、笑い転げる亮の姿を窓の外から眺める黒い眼の主は、それを確認すると同時に自らも楽しげにいななく。

「目黒川まではまだ少し距離がある。これ以上運転の邪魔はするな。しばらくここでじっとしていろ。いいな」
「……ん、しょうがないから、じっとす、る」

 今の今まではしゃいでいた声がぼんやりした返事に変わり、すぐに小さな寝息が聞こえ始めていた。
 恐らく限界だったのだろう。
 小さな翼はしんなりと身体のラインに沿い、緩やかに上下している。
 素晴らしい速度で併走しこちらを覗き込む白と黒の影に向かい「Si」と小さく合図を送れば、彼らは音を消して走り始めていた。
 彼らの蹄が道路ではなくほんの数センチ浮いた宙を蹴っていることを、シドは心得ている。
 なだらかになる坂道の先に、灰色の街並みが現れ始めていた。
 所々に淡いピンク色の輝きが風に合わせて揺れている。
 踏み込んでいたアクセルを弛めながら、シドはゆっくりと車を走らせ、目的だと言った買い出しのための商業施設へはハンドルを切らず、亮の強請ったあの懐かしい景色へまっすぐに向かっていった。