■ 5-88  ■


 ノックをすると返ってきたのは「はいはーい」というよく通る陽気な声容で、レドグレイの時とは大いに違う雰囲気に口角を上げながら扉を開ける。
「おうシュラ。もうそんな時間か」
 各カラークラウン執務室の倍の広さはあるヴァーテクス執行室であるが、今日においてはいささか狭く見えた。
 応接セットのソファーに座したまま片手を上げるレグホーンの横には深緑のローブを纏った山羊鬚の老人が仏頂面で腰を沈めており、彼の正面には丸眼鏡に白衣がトレードマークのウィスタリアが珍しく難しい顔で視線を寄こしてくる。
「ちょうどいい、じいさん達にも挨拶していけよ。コーヒーでいいか?」
 レグホーンがソファーを立ち部屋の隅に置かれたドリップマシンにカップをセットする。
 彼はシュラの同期であり、顔を合わせれば会話もするクラウン内では比較的親しい男だ。
 このアルギツ種を地で行く軽薄な男が、レドグレイの後ヴァーテクス室長を引き受けたと初めて聞いたとき、できの悪いフェイクニュースだと軽く笑って流したことを覚えている。
 数日後それが真実だと改めて知らされたとき、思わず手にしていたカップを握りつぶしてしまったのは失態だった。面倒な義手の出力調整を再度施すとリモーネに無理矢理左腕を外され、レグホーンにいわれのない恨みを持ったのはそう昔のことではない。
「お主もIICRを離れるか。まったく嘆かわしいことじゃわい」
 老人は手持ち無沙汰に卓上に広げられたカードを集め手遊びを始める。
 大ぶりのカードには一枚一枚色鮮やかなスートが描かれ、老人の皺深い手中ではらはらと蠢いている。シュラはこう言った占具の類いに明るくはなかったが、タロットカードと呼ばれるこの一揃えの札が老人の能力を補佐する役目を持つことは心得ていた。
 どうやらシュラがここを訪れる寸前まで、ヴァーテクス執行室でIICRの行く末を占う会合が元老院と研究局のトップの元行われていただろう事は想像に難くなかった。
「そう虐めないでくれよノースシー。俺だって好きで出て行くわけじゃねぇ」
「おまえに物申したいのはじいさんだけじゃないぞ? 俺だっておまえには色々と言いたいことがあるんだがな」
 レグホーンが苦笑交じりに手にしたカップを渡しつつ席を勧めると、シュラは肩をすくめ、渋々と言った調子で空いていた有伶の隣の革張りへ浅く腰を下ろす。柔らかでありそれでいてしっかりと体重を支える感触は、不必要なまでにこれらの調度品が高価な物であるということを物語っている。
「今更なんだよ俺はこいつを受理してもらいに来ただけなんだが」
 ひらりと手に持つ三枚の紙切れをテーブル上に置くシュラに対し、レグホーンはそれを一瞥することなく先を続ける。
「なぁシュラ。おまえの言うように今更ではあるんだが――こないだの提案、受けちゃくれねぇか。たとえおまえがセラへ上がれず、ソムニアとしての職務を果たせなくなったのだとしても、リアルでのソムニア能力そのものは健在だ。しかもおまえの知識や経験は純粋な戦力となる。今、機構が未曾有の人材不足だとわかってるだろ? 力貸してくれよ」
 現ヴァーテクス室長が眦を下げ、いかにも情けない顔をして懇願してみせる。
 これもこの男の手管の一つだとわかっているシュラは笑うだけで取り合うつもりはない。
「リアルで隊を率いてコールドストーンとかいう詐欺集団を追うっていうあの話か?」
「ああ。二年ほど前、何人か幹部クラスの構成員を捕まえることに成功してな。コールドストーンのトップがローチ・カラスという化け物級のヴンヨであるというプライムな情報を得ることができたんだ。奇跡的だぞ? 何もかもがわからなかった国際ソムニア犯罪集団のトップの名がわかったんだから。その後も順調に組織解明と構成員の逮捕を続けてきたわけだが――なぜかある時期を境にぱたっと足取り掴めなくなっちまって、人海戦術で追い詰めても金を掛けた罠を張っても鼻先かすめるように逃げられちまう。俺のアルギツに陰りが出たんじゃねーのかって疑うほどだ」
「そりゃおまえが直接指揮してないからだろ。警察局にでも転向しておまえ自身で追ったらどうだ。そしたらいつだって運良く相手を追い込める」
「底意地の悪いこと言うなよ。そんなことできるわけないでしょ」
 と、ため息をついてみせるレグホーンはヴァーテクス室長という重責でここ二年ほどたったの一日も休みを取れていないことを、この場に居る全員が知っていた。
 しかも現状どのカラークラウンも要職に就いており、彼がヴァーテクスを放り出したとして、後を引き継げる者などいないことも周知の事実だ。
「そもそも今まで警察局内だけの話だった“コールドストーン”なんていう一詐欺窃盗組織をどうしてヴァーテクスが目くじら立てて追い回し始めたんだ」
「……それは、まあ、あれだ……。世界平和のためにもソムニアのイメージ向上のためにも、ソムニア能力を使った泥棒連中を野放しにしておくわけにはいかんだろ」
「どうせ亮を見つける手がかりを、ローチ・カラスが握ってるとかそんな落ちだろ。誰が引き受けるかよ」
 辟易したかのように声を荒げると、視線を合わせようとしないヴァーテクス室長をにらみ据える。
 正鵠をついたシュラの一言に沈黙が落ちた。
 室内にいる誰も、この男がローチと亮の関係性に気づいたような口ぶりをしようとは思っていなかったのだ。
 出来れば何も知らさぬまま警察局の一員として動いてくれればと考えていた浅はかな目論見は、取っ付きから崩されてしまったことになる。
 成坂亮の話が出ればシュラの態度が硬化することをよく心得ているレグホーンは、どう言ったものかと言葉が続かない。それを引き継ぐように有伶が口を開いた。
「ジオットもニュースは見ているだろ? 今世界がどんな状況に置かれているのか。ここ数年世界中のあらゆる国で出生率が大幅に低下し始めている。元々下降傾向にあった先進諸国だけじゃない。インドやアフリカ諸国等までその傾向が現れ、このままじゃ十年で人類の約十パーセント――概算七億の人間が消えると予想されている。二十年後には約半数の三十五億。そして五十年後には……。現在はネオ・スパニッシュフルが原因で死亡率が上がっているための人口減少だと世界中でアナウンスされているけど、本当の患部はそこじゃない。生樹の枯衰によるアルマ転生の遅延と停滞、腐敗が原因だ。このままじゃ人類は百年持たない。もちろんオルタナの稼働でそれを遅らせることはやってのけるつもりだが、後を引き継いだルキくんの力では劇的な効果は望めない。ダリヤの影響も大きくなってきてる。正直次の大きな一手を組まなきゃジリ貧なんだよ」
「…………」
「ローチはシドと旧知だ。しかも彼には得体の知れない情報力と技術力がある。僕はこの組織に入る前から彼とは顔見知りだけど、樹根核へ生身で上がる方法があるとしてそれを成し遂げられる在野の人間は彼以外にないと思うんだ。あの襲撃の日、樹根核内でローチらしき者を見たという情報もある。十中八九シドを運んだのはあの男だ」
 シュラの沈黙をどう受け取ったのかギーク特有の早口でまくし立てるように有伶が続ける。
「しかもノースシーのペルトゥロでは、彼はマルクトへ戻っていると出ている。彼はシドと亮くんの元を去り、今は僕たちの近くに居るんだよ。具体的な場所をノースシーに視てもらってはいるんだけど、実行部隊が脆弱なお陰で相手のスピードについて行けてない。とても歯がゆい状態なんだ」
「だからどうしたよ。俺はもうこれ以上あの小さな肩にみんなで乗っかるなって言ってるんだ。ローチなんて頭のおかしい男の話はどうだっていい」
「なるほどの。お主もかの男を知っておったか」
「さぁな。遙か昔に一、二度顔を合わせただけだ。いけ好かねぇ変態野郎だってことしか知らねぇ。どの道協力する気はない。俺はここを出て溜まりに溜まった有休の消化がてらのんびり旅に出る予定なんだ。あんたらに俺を留める権利はない。IICRの規約にもあるはずだぜ、ソムニアとしての道が立たなくなった者はビアンコや元老院の許可なく機構を離れられるってな」
「まぁ聴いてくれ、ジオット。あんたも知ってるって今言っただろう? ローチがどんな男なのか。欲望の忠実なしもべである彼が二人の側を離れた理由が気にはならないのか? 亮くんがどんな状況に置かれているのか知りたくはないのか」
 硬い表情で諭してくる有伶に対し、シュラは一つ大きなため息をついた。
「ペルトゥロ・ノースシー様も同じ意見なのか? 爺さんの『視える眼』で占えば、亮が楽しく過ごしているだろうことは一目瞭然だろ? あいつの横にはシドが居る。あの男が亮の側に居る限り誰にも手は出させねぇだろうし、それだけでどこにいようと亮の心は安らげる」
 ノースシーは鼻頭に皺を寄せ
「儂のペルトゥロ以上におまえの目は視えているようで癪に障るわい」
 と舌打ちをする。
「確かに、トオル ナリサカとシドのクソ餓鬼は共におる」
「相変わらず口が悪いな」
 呆れたようなシュラのぼやきを無視し、ノースシーは続ける。
「この世のどこかで二人、息を潜めて――だがおまえの言う通り、究極の安定と安らぎを謳歌していると儂のペルトゥロはそう言っておる。だが、その場所へ行く手立てが何一つわからんのだ。
 未だかつて儂が本気で望んだ答えがペルトゥロのカードに描き出されなかったことなど一度もないというのに」
 ノースシーの持つペルトゥロの能力は、予言・予知・千里眼――。
 この世の過去未来空間全てを見通せるものである。
 世界においてただの一人しか所持していないこの強力無比な力はリアルでもさることながら、セラに上がれば無類の強さを発揮する。
 彼が数十枚のカードにペルトゥロを込めて捲る度、彼の視たい答えが、時には象徴的な映像で。時には具体的な文字で。明明と浮かび上がる。
 その力が強力であるが故、本気のリーディングは凄まじいアルマの消耗を起こし能力の後退や寂静の危機を彼に与えることになる。それ故滅多に行われることはないが、セラ内に作られた彼専用の庵――天眼書楼――へ籠もっての能力行使で彼に視えない世界などないと言われている。
 ノースシーは今回そのリーディングを行ったと言っているのだ。
 シュラの知る限り、直近のリーディングは第二次世界大戦の折、僅か数分行われたのみであったらしい。
 だがその結果を基にIICRは世界大戦の勝ち馬に乗り、現在の世界的地位と莫大な資産を築きあげたのだ。
 普段図書館棟の管理などという閑職に付きながらも元老院の長という絶大な権力を持つこの老人は、そういった功績を定期的にもたらすことの出来る奇世の存在である。
「儂が場所を聞いて浮かぶ文字の内容はいつも具体的なものじゃ。それはもう克明正確でありすぐにでもドアベルを鳴らしにいける。しかし今回そこに浮かんだ文字、それが大いに問題でのう」
「……問題? 二人はロマニーよろしく放浪のトレーラーハウスに住んでますとでも出たか?」
「当たらずとも遠からず、じゃな」
 売り言葉に買い言葉の調子で軽口を叩いて見せたシュラに対しノースシーは山羊鬚を一撫ですると、手にしたカードから一枚を引き抜きスイと投げ寄こす。
 薄いガラスで出来上がったようなカードはぼんやりと燐光を放ち、その素材感にそぐわぬ柔らかさでシュラの前へ滑り込んでくる。
 他のカードと違い、たった一枚異様な圧を持つそれはセラから持ち出したノースシーのペルトゥロの一部であることは一目瞭然であった。
 シュラがその札を手に取ると、白い磨り硝子の向こうからインクの染みが広がるように一枚の真景が描き出される。
 青空と海。小ぶりな塔を一対備えた古めかしい洋館――。
 小鳥の影が風に乗って横切り鮮やかな新緑が笑うようにさざめいている。
 ストップ・モーションアニメのようにキリキリと動く映像は象徴的であるのにあまりにも生き生きしており、観ているだけで吸い込まれそうな恐怖すら湧いてしまう。
 そしてその景色に紛れ込むよう焼き付けられる黒い文字。
 描かれるのは煉獄のセラ座標か地球のデカルト座標か――。
 目を凝らすシュラはすぐに眉を寄せ険しい面持ちで
「こりゃあ……」
 と言ったまま言葉を失った。
 彼の蒼い瞳に映ったのはただの四文字。

 ―― Eden

 どうだ、と言わんばかりの表情でレグホーンが鼻を鳴らす。
「な? 俺らじゃどうにもならねぇのわかってくれるだろ? まったく冗談にしちゃ出来が悪すぎるぜ。今どきハリウッドのC級映画だってこんな馬鹿げた設定は使わないさ。
 よりによって、エデン。
 あらゆる宗教からさんざん迫害されてきた俺たちソムニアが、かの聖書に記されたエデンの園を血眼になって探してるだなんてバチカンの連中に聞かれたら馬鹿笑いされるぞ」
 不機嫌さを冗談の綿で包んで吐き捨てるヴァーテクス室長に対し、だがシュラはじっとカードの中に流れる景色を眺め続けるだけだ。
「エデンという名はあくまで人類が知りうる情報の中で選び取られた文字配列に過ぎん。そしてそれ以外の情報が記されないというのはこの“エデン”は我らのあらゆる知恵知識をもってしても空間的な位置を知覚できない存在だということじゃ。
 エデンという名が示す通り、この絵に現れた場所は人類最初のアルマ――アダム・カドモンが封じられていた箱そのものなのじゃろう。そこは時の外にあり我らが属する生樹の周囲を漂う泡のごとき場所なのだ。それ故こんなザマのない検索結果しか提示できない」
「検索結果とは――随分と身近な言い回しではっきり仰いますね、ノースシー。こんな御伽噺のような非現実的場所の存在をまるで教科書に出てきたどこかの街のように言ってのけるとは。ペルトゥロはまさに神の眼ということですか」
 有伶がぼんやりとした話し口調とは裏腹に、黒目の奥を輝かせ老人を見た。
 老人は「いや――」と一度小さく首を振ると、思い出したくもないというように天井を仰ぐ。
「これはペルトゥロの力などではない。……学んだんじゃよ、おまえの言うように教科書でな」
「は?」
 レグホーンが首をかしげた。
 どうやらこの話はノースシーの胸の内にのみあったもので、ヴァーテクスの長にも研究局のトップにも伏せられていた秘事であったらしい。
「かつてマダーレイクという男がおった。アンズーツ・マダーレイク。あらゆる言語を読み解ける奇蹟の能力の持ち主じゃ」
「十一年前、イザ・ヴェルミリオにより寂静され世界から消え去ってしまった、唯一のアンズーツ種ですね」
「彼がこっそりと儂を呼んだことがあった。同じ古い時代の爺ソムニアじゃ。人嫌いのヤツもたまには茶飲み話の一つでもしたいと思ったんじゃろう」
 長くなりそうな話にレグホーンは複雑な気色を浮かべながらも「それで?」と相づちを打ってみせる。
「ヤツは古めかしい文体で書かれた真新しい手帳を見せて得意げにこう言ったんじゃ。
 『ノースシー、私は遂にエデンを見つけたぞ』と。
 走り書きで読みにくいものだったが、そこに書かれていた内容は信じがたいものばかりじゃった。
 『羊の寝所と描かれたこの地こそ、我々人類最初のアルマが封じられていたエデンに他ならない。私が読んだこの“ラジエルの書”をエノクが書き記したのもこの地だったとの記述もみつけた――。間違いない。私は彼の地への行き方を遂に見いだしたんだ!』
 そう言って珍しくあの陰キャが心の底から笑っておった。
 “ラジエルの書”と銘打たれた秘本の中でも特に難解なその一節は、あやつのアンズーツをもってしても容易には読み解けなかったと散々苦労話を聞かされたわい。肝心の内容は……儂はちらりと見るに止まったが――なんにせよ一筋縄では行かん場所だったことは覚えておる」
「なんでもっとしっかり見とかないんだよ、そんなとんでもないお宝、一言一句余すところなく覚えておかねぇと勿体ないだろう」
「お主のようなアルギツにはわからん話かもしれんが、世の中欲望のまま進んで身を滅ぼすことはままある。現にそう言ってシワシワの笑顔を見せておったマダーレイクはその日の夜、寂静された」
 レグホーンは口に含んだコーヒーを吹き出しかけ思わず咳き込んだ。
「っげほ……、いきなり恐い話にするなよ爺さん。……そうか。確かにありゃシド・クライヴのありえない暴走だと言われているが――その後の顛末を考えりゃ、爺さんが内容をしっかり見なかったのは正解なのかもな」
「あの時、わしのペルトゥロが有り得んほど騒いだでな。手帳一冊にびっしり書かれた内容はエデンについてだけではなかったろう。アレを全て知る人間は現世にあって神の智を持つのと同等になる」
「それをわかっててよくそれをこんな場所で今更発表したな。恐くないのか? 長く長く生きてきた人生が今日で終わる可能性は考えないのか」
「ペルトゥロの予言じゃよ。わしはわしの力を信じておる」
「なんだよ、予言て」
「ビアンコがもう戻らんという予言……いや、事実じゃ」
「…………、ちょ、おい、それってそういう意味で確定なのか? つまりマダーレイクをやっちまったのはヴェルミリオじゃなく……」
 レグホーンが目を見開き、有伶も息を呑んで顔を上げる。
「勘違いするでないぞ? わしはあの事件の詳細を占ってはいない。だが予想はできる。あの場に居たのは死んだマダーレイクを含め三人のみであり、諜報局の敏腕局長などといかにもてはやされようと、シドごとき小僧があんな爺の読む胡散臭い本の内容などに興味を持つはずもない。……そして我らが長はソムニアの未来のためなれば良いも悪いも躊躇なく断を下す人間だ」
「その頼もしくも恐ろしいビアンコも寂静されていると――ご老体はそう視たわけですか」
 有伶が苦り切った顔で呻いてみせる。
 しかしその言葉をノースシーは軽く一蹴した。
「いや、そうではない。長は恐らく死んではおらん。この生樹のどこかで時を伺っておるのじゃろう」
「そう、ですか。それは朗報ですね。オルタナの新たな稼働と存続にはビアンコの力が必要不可欠だ」
「お主には申し訳ないがの、ウィスタリア。ビアンコに期待するのは止しておけ。今言ったじゃろう。儂がお主らにこの話をしたのはこれから先、この世界軸の間では二度とあの男がIICRへ戻ることはないとそう視えたからじゃ。それ故ビアンコの居場所を占うこともしておらん。無駄なペルトゥロを使いたくはないからのう。もちろん、時の流れは無数にある。予言が書き換えられるほどの何かが起きれば話は変わってくるが――、」
「そんな爆弾みたいな何かなんて起こせるのは、あの二人だけって話に落ち着くわけだ。この世界の軸を握っているのはビアンコでも秀綱でもなく、あの二人だということか――」
 テーブルからウェットティッシュを取り念入りに指のコーヒーを拭いながら、参った――とレグホーンは頭を振った。
「ジオット、これでもここを出て行くっていうのか? あんたはビアンコに目を掛けられていたじゃないか。今度は僕らが彼の力となり、IICRを……いや、人類と文化そのものの消滅を防ぐために――」
「それで消えるっていうなら、そういう運命だったってことだ。俺も、ウィスタリア、おまえも――この世界もな」
「そうさせないために創り出されたのが成坂 亮だ。人類滅失という運命を回避するための手段として使命を与えられているあの子はそれを果たす義務がある。あんたも一時はそれに賛同してくれたじゃないか!」
 怒気をはらんだ有伶の声が高く響いた。
 カード内でざわめく新緑を眺めていたシュラはようやく視線を現実と有伶に向け、静かに言う。
「そんなもんに賛同したんじゃねぇ。俺がオルタナに入ったのは、亮を一人にしないため、それだけだ」
 再びカードを眺め、口元にふと笑みをたわめる。
「……いい所じゃねぇか。気が済むまでシドとのんびりしてりゃいい」
 あまりに穏やかな微笑みにそれを眺めていたノースシーは呆れたような吐息を漏らした。
「俺は何も変わってねぇし、俺のやりたいことは一つだけだ。……だがウィスタリア、あんたは変わったように見えるぜ」
「……僕が? ……確かに療養開けから今まで以上に頑張らなきゃと思っては居るけど」
「そういうことじゃねぇ。まぁいいけどな。俺は研究局の奴らとは元々は肌が合わねぇんだ」
「――っ」
 思わず視線を強めた有伶を手で制するとノースシーが口を開く。
「シュラ。お主の心持ちは良くわかった。儂らも、IICRの勝手でアルマ癒着を起こさせてしまったお主にこれ以上意に沿わぬ負担を強いるわけには行かんと思っておる。のう、レグホーン」
 レグホーンは肩をすくめると、テーブル上の書類を手に取りトントンと端を揃えた。
「あんな目してエデンの園を眺める男、危なくて使えないしな。――こいつは確かに受理したからあとは好きにしてくれ」
 カードの向こうの景色に今一度目を細め、シュラはそれを静かにテーブルへと置くと立ち上がる。馬の嘶きが微かに聞こえた気がした。
「ちょっと待て、シュラよ。餞にお主の近い未来を視てやろう」
 ノースシーの手にあるタロットカードが生き物のようにさらさらと蠢き、三枚の札がテーブル上へ舞い降りる。
 内一枚のみ、裏返しのまま図柄はわからない。
 老人の骨張った手が一番右に舞い落ちたそのカードに触れた瞬間、シュラは彼の手を止めた。
「じいさん、気持ちだけもらっとく。俺にはもう視てもらいたい何かがあるわけじゃねぇ。人として俺は俺の好きに残りの人生生きてくだけだ。――じゃあな。達者で暮らせよ」
 立ち去るシュラを見送り、ヴァーテクス執務室から会話が消える。
 右も左も、そして未来も――どこもかしこも閉ざされているような切迫感が室内に漂い誰とはなくため息を漏らした。
「それでは僕も帰ります。樹根核でルキ君の調整を続けなくてはいけないので」
 そんな空気に耐えかねたのか、のろりと有伶が立ち上がる。
「……お、そうだな。まぁよろしく頼むわ。今世界中が頼れるのは彼だけだ」
「はい。……ところで、そのカード、かなり不吉な気がするんですが。ジオットの未来は大丈夫なんでしょうかね。まぁIICRを去る者のことなど心配する義理はないですが」
 そう有伶が言い置いて立ち去ったテーブルに開かれている二枚のカード。
 大きな鎌を持った死神と雷土に撃たれて崩れ落ちる塔――。
「俺はこういうの全くわかんねぇんだけど、見た目からして縁起でもないな」
「死神は何かが終わりを告げることを示しておるし、塔は積み上げてきた物が完全に崩壊する暗示じゃな。確かに今のシュラそのものじゃ。しかしあやつの今までの生き方を考えれば逆に良い暗示ともとれる」
「常に破滅的に生きてたからな、あいつ」
 レグホーンが脳天気に笑った。
「そして最後のカードは――」
 ノースシーは軽い気持ちで最後のカードを開いた。
 そこに描かれていたのは――
「これは……。どうとったものか」
 ノースシーが髭を撫でながら最後のカードを掲げじっと眺める。
 天使やスフィンクスに囲まれた懐中時計にも似た大きな輪の図様は他の二枚と比べずいぶんと明るく見えたが、ノースシーは小さく首をかしげたままだ。
「見た目明るそうだが、こいつも悪いカードなのか?」
「いや、新たな希望を表す意味を持つ一般的には良い札の類いじゃ。しかし……、これだけ裏を向いて落ちてきたというのは何の暗示か。全てを失ったシュラにとってに果たして希望と呼べるものが訪れるのか……」
「爺さんにも見えないことがあるのかい?」
「所詮コレは占いに毛の生えたようなもんじゃからな。セラでペルトゥロを使うようなはっきりした答えは出やせんよ。あくまで占者の解釈次第。この場におらんシュラの占いをこれ以上続けても意味はないが……儂は吉と出てやって欲しいがのう。……ふむ。どうじゃ、レグホーン。お主も何か占ってやろうか?」
「いや結構だ。俺にこそ占いは意味がない」
「ほっほっほ、たいした自信じゃわい。」
 ノースシーはカードをかき集め長衣の袖へしまい込むと立ち上がり、今年米寿を迎えたとは思えぬかくしゃくたる足取りで扉をくぐる。
「アルギツの長よ、ゆめゆめ気を抜くな。ヴァーテクス室長の椅子は魔席じゃからの」
 意地の悪い笑いを浮かべて立ち去るノースシーを見送ると、ただ一人残されたこの部屋の主は三枚の書類を手にしたままソファーに身を沈め、疲れたように天井を仰ぎ見る。
「はあああぁぁぁぁ、聴くんじゃなかったなぁ。ビアンコ帰ってこないってよ、もーーー」
 彼なりの絶望を表して深々と息を吐いたレグホーンの耳にノックの音が飛び込んだのは、ノースシーが席を立って一分と経たぬ時間だった。
「はーい、どうしたノースシー、杖でも忘れたか?」
 身を起こすことなく顔だけ横を向けた彼の視界に映ったのは、だが、見知らぬ作業着の男。
 白髪交じりの短髪と顔に張り付いた柔らかな笑みが目に付くその男は、服装からしてソムニアではなくIICR内の準機構員であるようだ。
 今日何か執務室の機材点検などあったかな――、と一瞬呆けた疑問がレグホーンの脳裏に浮かぶ。
「え? 誰だ? 今秘書も副官もいないんで俺じゃなんもわかんねーんだけど」
 ヴァーテクスの室長とも思えぬ対応をとる危機感の欠片さえないレグホーンの前まで歩んできた男は、軽く首を振って問題ないといった素振りを見せる。
「いえ、そういうんじゃないんです。僕はここへ歩いてきただけで、用があるのは僕ではないんです」
 謳うように解るようで解らない内容を語る男の様子はどこか恍惚としており、レグホーンは瞬間身を起こし距離を取ろうと床を蹴り上げた。
 しかしそれよりも早くコモンズであるはずの男の手が床を蹴りリスのような素早さでレグホーンの肩を掴む。そして握りつぶさんばかりの握力をもってアルギツの長を引き寄せると、勢いよく額に額を打ち付ける。
「ぐっ――」
 まさかIICRの中枢であるヴァーテクス執務室でコモンズの男から頭突きを食らうという破天荒な状況がありえるのかと、レグホーンの脳内は混乱を極めていた。
 この意味のわからぬ状況からどうにか逃れようと右腕を引き絞り、下からえぐるように打ち抜く。拳に大きな衝撃が伝わり捕らえたことを悟る。
 男の顎がガクンと上に持ち上がり身体が反り返った。
 しかしありえないバネで彼はグルンとこちらに顔を向け、レグホーンの目に己の目をぶち当てた。
 嫌、実際に当たったわけではないが、見知らぬ親父と彼の視線距離がゼロになったその瞬間、ガツンとした衝撃がレグホーンの両目を穿ったのだ。
「っつ!」
 ソムニアである自分が持てる膂力の全てを使って相手を引き離す。
 彼の力を持ってすれば男の身体は確かに離れていく。
 しかし視界は一向にクリアにならない。
 ずる、ずる、ずる、という、何かが這いずり己の瞳の中に割り込んでくる感触が、頭蓋骨を伝わって脳内へ響き続ける。
 レグホーンは声なき声で叫びを上げていた。
 作業服を着た準機構員はレグホーンにされるまま投げ飛ばされ、秘書室とのパーティションへ背をぶつけると派手な音をたて床へと崩れ落ちる。
 ずず、ずず、ずずずず……
 目から、鼻、頭蓋骨、首、背骨、腰骨、大腿骨、足指、そして頭の中――。
 神経系に沿うかのように冷たい感触が絡みつき、それがギリギリと締め付け激痛に転げ回る。
 内側を冒す者を引きずり出そうと目を引っ掻くように擦り続け、生暖かい液体がぬるぬると彼の手を汚した。
 何が起こっているのかわからなかったが、何者かがレグホーンの体内の隅々にまで侵入してきているのだけは確かだった。

 ――嘘だろ。嘘だろ。嘘だろ。

 その一言だけが激痛で爆発しそうな脳内に回り続ける。
 アルギツ最強の自分がこんな不幸に見舞われるなどあるはずもないのに。

 ――こんなはずねぇ!
 ――俺のアルギツが負けることなんざ、ぜってーにぜってーにぜってーにねぇ!!

 喉は引き攣りうまく発声が出来なかったが、それでもレグホーンは何度も何度も声帯を震わせる。
「そうですよ。これはあなたのアルギツの陰りではない。むしろ幸運の類いだ」
 そう声が聞こえた。
 作業着の男がこちらを見て笑っている。
 笑ってはいるが、男の目からは真っ赤な雫がしたたり落ち頬を生肉のようにぬらしていた。
 瞳はうつろで、そして口はぽかんと開いたまま全く動いていない。
 全く、動いて、いないのだ。
 では誰が今レグホーンへ語りかけたのか。
「あなたのアルギツを間借りしに来ました」
「――っ!?」
 聞こえたのは己の声。
 レグホーンの。ゼリコ・ジョノヴァヴィッチの声が、同じくゼリコ・ジョノヴァヴィッチに向けて語りかけていた。
 自分の口が意志とは関係なく他人の口のように動き、言葉を発しそれを自分の耳が受け取り自分の脳が考える。
 未だかつて感じたことのない吐き気のする恐怖で身体が震え出す。実際に悪寒がこみ上げ僅かに嘔吐した。
「っげほっ、っ、てめぇは……誰だ。俺の口で勝手に喋るんじゃねぇっ」
「少々手荒になってしまったことは謝ります。ですが不快感は今だけです。すぐに馴染んでくるはずだ」
「馴染む!? 勝手なこと抜かすな! 俺の力は俺のもんだ。得体の知れないてめぇなんかに貸すいわれはねぇっ」
 引きつる喉で咳き込みながらも、レグホーンが己に言い返す。
 だが体中を駆け巡る冷たい痛みはますます隅々まで浸食していく。
 これは本格的にまずい――と、思考を巡らせる。
 しかし己の身体の奥深くにこうも入り込まれていてはもはやどうにもならない。
 普段からのんべんだらりと生きてきたアルギツはこういう状況に全く慣れていないのだ。名案どころか愚策一つ浮かんでは来ない。
「あなたに間借りをお願いする代わりに、僕は僕の知識をあなたへ提供しますよ。大丈夫、僕はいつだってギブアンドテイクを心得てます」