■ 5-97 ■





 助手席の扉を閉めると亮はメモに書かれたリストを真剣な顔で睨み付ける。。

「シートベルト」

 シドが言うが亮は無言で首を振った。
 もちろんここでは交通ルールどころか法律すらあるわけではないが、亮には気になることがあるとすぐに窓から身を乗り出し、転げ落ちそうになるという見過ごせない癖がある。
 ソムニアでもある亮に対し少々過保護だとはシド自身も思ってはいるが、目の離せなさは出会った頃から変わることはなく、ああでもないこうでもないと一人呟きながらメモに何やら書き足している少年を横目で眺めると小さく溜息をついた。
 車が緩やかにガレージを出ると砂利を踏む小気味良い音色をかき消すように、強く雨粒がフロントガラスを叩く。
 水墨画の如く滲んだ景色がワイパーの軌跡に沿ってクリアーさを取り戻し、すぐまた滲み出す。

 今日も雨は降り続いている。

 ここ一週間ほど空の機嫌は頗る悪いようだった。
 車が大きくカーブを描き敷地内から出ていくとき亮はチラリと外を見た。

「馬たちはいいのか?」
「……うん。雨、降ってるし」

 いつもなら車で出かけるときも馬を連れていくと言い張る亮も、さすがにこの天気ではいつもの意見を引っ込まさざるを得ないらしい。
 ジープグラディエーターの巨体がゆっくりと坂道を下っていく。

「スマホはどうした」

 ここのところあの忌々しい偽iPhoneを持ち歩かなくなった亮の手には今日も紙のメモ帳とペンしか装備されていない。

「うん。……おいてきた。だってシドいっつも一緒にいるから電話いらないし、他に電話する相手もいない。ゲームももう何回もクリアしちゃったし」

 一瞬の間を開けて亮が答える。
 亮からの答えはシドが想像した理由と寸分違わぬものだ。
 二人だけのこの世界には“もう必要のない道具”をシドが亮に許していたのは、亮がそれを必要としていたからである。

「メモ、手で書く方が早いことに気づいた」

 亮は羽織ったラッシュガードのポケットへメモを突っ込みながら唇を尖らせる。
 シドは無表情のままアクセルを踏み込んだ。

「そうか」

 ローチの不穏な置き土産になど触れて欲しくなかったシドとしては、亮の手元にアレがないことは歓迎すべきことだった。
 それからは特に会話を交わすこともなく車は進んでいく。
 ほんの二、三十分の距離だが雨の中のドライブは時が止まっているかのようだった。
 亮が途中、歌っていることにシドは気づいた。
 歌詞はない。
 不思議なメロディーだけを口ずさんでいた。
 それは何の曲だと聞こうとしたが、その前に歌は止んでしまった。



 雨の市場に傘が二つ。
 水色の小振りな傘は右へ左へと店先を縫うように落ち着きなく動き回り、その後を大きな黒い傘がゆったりと着いていく。

「もういいだろう。今日は随分と冷える。そろそろ引き上げだ」

 シドが背後から声を掛けたのに振り向きざま亮は「もうちょっと」と答えた。

「薬局も寄って帰んなきゃ。傷薬多めに買わなきゃ駄目だ」
「家にある分だけで十分だ」
「そうかもしれないけどもう少しあった方が困らねーよ」

 亮の頑なさに呆れながらもシドは亮の後を追い歩いて行く。
 片手に抱えた紙袋の中には肉やら野菜やらフルーツやら──ぎっしりと詰められており、この土砂降りでは湿気にやられて破れてしまいそうだ。

「亮!」

 そう呼ぶと水色の傘がくるりと回り、目の前の水溜まりを跳ね飛んだ少年が振り返った。
 雨のヴェールの向こう側で「なに?」と唇が動く。

「いったん車に荷物を置いてからにしよう」

 シドが提案すると少年は一度目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
 買い物とは名ばかりのただの物資調達を続けることのどこにそんな笑顔の素がひそんでいるのか、シドにはさっぱりわからない。
 小石を叩き付けるようだった雨粒が絹糸の細さに変じ、古い映画のスクリーンのように二人の間を隔てていた。

「わかった!」

 亮はシドの下に駆け戻ると、肩に掛けたリュックを背負い直しシドの顔を見上げてくる。

「いこ、シド」

 シドは少しだけ唇の端を上げ応えると「おまえもその中身を置いていけよ。また人参でカバンが弾けるぞ」と釘を刺す。
 亮はすぐ横で「毎回同じこと言う!」と鼻の上に皺を寄せ、シドは満足そうに笑った。



 薬局の中はエアコンが効いていて、濡れた身体には少しばかり肌寒さを感じる。
 亮は羽織った黒のラッシュガードのポケットへ手を突っ込むと、左手に触る小瓶の硬い感触を握りしめる。
 ひんやりとしたそれは確かな重さを持ち、少量の液体が中で揺らいでいる様子が伝わってくる。

「どれにするんだ」

 すぐ背後にシドの体温を感じ亮はポケットから手を引き抜いた。
 その手には小さな紙切れがあり、ほぼ平仮名ばかりで書かれた買い物リストを眺め「う〜ん」と唸ると首を傾げる。

「ガーゼじゃキリがないからデカくて長い包帯みたいな布がいいんだけど、そういうのって薬局で売ってなかったっけ?」

 取り繕うように早口でそう言った。
 シドに気づかれれば唯一亮を解放してくれるこの薬はあっという間に捨てられてしまうだろう。
 もしそうなったとしたら──自分はホッとするのだろうか。それとも絶望を感じるのだろうか。

「……に、あるはずだ」

 一瞬ぼんやりとしてしまったのか、シドが怪訝そうな顔でこちらを見下ろしていることに気づく。

「え、なに?」
「雨で冷えてまた熱が上がっているんじゃないのか」

 何かを答える前にシドが亮の二の腕を掴み、しっとりと濡れたラッシュガードを脱がしてしまう。

「いい、大丈夫、やだ、シド、返してよ!」

 ポケットにつっしりと重い小瓶を入れたまま奪われたラッシュガードはシドの手で一はたきされる。
 気づかれた!と、思わずうつむいた。
 だが、亮の頭上でお気に入りのラッシュガードは凍気によって瞬時に水気を飛ばされ、再び亮の肩に掛けられていた。
 片膝を着き顔を覗き込んでくるシドの大きな手のひらが亮の頬を包む。

「……熱くはないが……どうした」

 無表情なはずのその整った瞳の色に己を案ずる影を見つけ、亮はくしゃりと顔を歪めてシドの首にしがみつく。

「シド、どこにもいかない?」

 強い力で縋る亮の背を緩くさすりながら、シドは柔らかに抱きしめる。

「ああ。ここにいる。永遠におまえと共に俺は生きる」

 他にどこに行くと言うんだ? と、耳元で低音が吐息を甘く震動させる。
 ポケットの重みは変わらず亮の腰元で揺れていた。
 小瓶はシドには触れない。
 亮にしか存在しない。
 やっぱりこれは自分の鍵なんだと嫌というほど悟る。
 ずっと一緒に居ると言ってくれたシドがここを出ていく日。
 自分は残され、また待つを始める日。
 その日の光景が亮には容易に見えてしまった。
 だとしたら今。
 この幸せで幸せで融けてしまいたいこの日に全てを終わらせて、世界ごと全てまるっと消えてしまえたらいいと思う。
 シドが好きで好きでどうしようもなくて、しがみついたまま手のひらを固く握りしめた。

「亮……。おまえはどうしたい? このままここで俺と暮らしていくのは嫌ではないか?」

 亮はかぶりを振る。
 嫌なわけがなかった。
 シドしか要らなかった。
 自分を嫌いな世界も。自分を引き裂く人間達も。自分を苦しめる記憶も。全部いらない。
 シドだけ居ればそれでいい。

「ここがいい。シドがいればいい。何もいらない! シドとここで暮らす。オレはずっとここで、シドと一緒にいたいんだ!
 だから……どこにもいかないで? シド。
 お願いだから。お願いだから……っ」

 いつか言うだろう言葉を、亮は今シドの腕の中で連呼した。
 未来のシドへ向けて何度も何度も懇願した。
 シドは強く、優しく、抱きしめてくれる。
 何度も根気強く亮の名を呼んでくれる。
 それなのに、亮の胸の中は土砂降りのままなのだ。
 何かが間違っている気がした。
 雨は止まない。
 こんなに優しい世界なのに。
 こんなに待ち望んだ言葉なのに。
 ミトラのくれた毒薬を亮はきっと捨てられない。
 ポケットの中の重みに安らぎを感じてしまう自分を──誰か赦してくださいと、そう思った。