■ キミの不機嫌で僕は上機嫌になる・2 ■





 亮はぽかんと口を開け逆光気味に立つその店を見上げていた。
 表通りから路地を二本ほど入った狭い道沿いに立つそこは、左右から古ぼけたビルに押しつぶされたようなそんないつも通りのたたずまいで亮を出迎えてくれている。
 だが、そこには『空巣堂−からすどう書店−』と妙に達筆な筆裁きで書かれた古くさい看板は下がっておらず、代わりに、『BOOK LIKE』と青地に黄色でポップに描かれたプラスチック製の看板が、チェーン店らしい小綺麗さでもって亮のことを見下ろしていた。
 ガラス戸の向こうは暗かったが、おでこをくっつけるようにして中を覗き込めば、うずたかく積まれていた埃っぽい本の山はどこにも見当たらず、それどころか重そうな木製の本棚も、柱に掛けられていた大きな古時計も、壁に貼られていた薄気味の悪い妖怪みたいな絵も、なにもかも綺麗さっぱりなくなっており、ガランとした空間が広がっているばかりだった。
 こんなに広かったっけ――と首を傾げた亮は、店の奥の和室がなくなっていることに気がつく。居住スペースに使われていた場所まで内装工事の手が加えられ、全てが店舗の為の空間としてぶち抜かれてしまっているのだ。
 何が起こっているのか咄嗟に理解できず、亮はこの店が本当に古本屋さんの『空巣堂』なのかどうか、なんどもキョロキョロ辺りを見回して確認し、再びガラス戸におでこをくっつけ中を覗き込んだ。
 やはり場所はここで間違いない。となると、もしかしたら古本屋さんの古本屋はお客が来なさ過ぎて、ついに大手チェーン店に飲み込まれ、雇われ店長としてやっていくことにしたのかもしれない――などと想像を働かせ、雨森の姿を探す。
「………………うーん、奥の方暗くて見えないな」
 背伸びをしてみたりおでこの上に手のひらを翳してみたりして覗き込む亮の肩を、不意に誰かがポンと叩いていた。
 ビクッと身体を強張らせ、咄嗟に振り返る。
「おっと、びっくりさせちゃった? ごめんごめん」
「っ…………」
 だがそこに立っていたのは、亮の探す和服の冴えない中年ではなく、ぱりっと白いシャツを着こなす二十代半ばの青年。
 小ざっぱりとした短めの茶髪を掻いてみせるその男は、小さな目をしばたかせ、申し訳なさそうに微笑んでいた。
「ごめんねー、ボク。オープンは二十日後なんだ。漫画だけじゃなくてゲームの買い取りなんかもやってるから、また学校のお友達にも宣伝しておいて」
「は? オレ客じゃないし。ってか、ボクって……。オレ一応高校生なんですけどっ」
 明らかに亮を中学生――場合によっては小学生と勘違いした風の男の言い方に、カチンと来た亮はついつい語気を荒げて憤然と言い返してしまう。男は「ああ、ホントにぃ」と呟き、驚いたように目を見開いた。
「もしかしてバイト希望の子?」
 男の視線に気がつき亮が振り返れば、ガラス戸の上に『バイト募集』の告知が目立つように貼り付けてある。
「学校から許可はもらってる? うちは高校生でも基本大丈夫だから――名前と連絡先、書いていってくれるかな」
 納得納得と肯きながら店の中へ入っていこうとする男を制止するように、慌てて亮は言い募る。
「っ、ちが……違います。オレはえっと、ここの前の店、どうなったのかなって思って、急になくなっちゃったからっ」
「前の店……、ってカラスだか空き巣だかなんとか言う変な名前の古本屋? きみ、そこのお客だったの? へぇ……、意外だな。あんなカビ臭い本ばかりの店にキミみたいな子ど……若い子が通ってただなんて」
「通ってたっていうか、うん、まぁ……えと、そんなことよか、空巣堂、どうしちゃったんですか? 別の場所にお店ごと引越しとか?」
「うーん、僕もチェーンの雇われ店長だから詳しいことは知らないんだ。ただ前の店の片付けもうちで引き受けたから商品のラインナップだけはわかったけどね」
「片付け……?」
「ああ、売り物だった古本もみんなうちで引き取ったんだ。だから別の場所でお店やるとかはないんじゃないかなぁ。うちは片付け賃も貰えた上在庫も増えるしありがたい話だったんだけどね」
 亮は言葉も忘れ、男の顔を見上げたまま立ち尽くしてしまう。全身から力が抜けて行くような感じがした。
 古本屋は古本を全て売り払い、どこへ行ってしまったというのだろう。
「そう……ですか……」
 どうにかそれだけ呟くと、亮はぺこりと頭を下げふらふらと道を歩き始める。
「あ、ちょっとキミ、バイトする気ない? うちまだ人員揃ってなくて……」
 ふわふわと遠ざかっていく背中に男が声を掛けたが、亮には全く届いていないようだった。
 そんな亮の背を強い視線で見送る男の前を、不意にゆっくりと一台の黒いミニバンが走りすぎていく。
 車は亮の姿が消えた路地を同じような速度でゆっくりと曲がっていった。
「…………」
 BOOK LIKEの雇われ店長はそれをじっと眺めたまま、おもむろにジーンズポケットから携帯を取り出すとどこかへ電話をかけ始めた。






 いったい古本屋さんはどこへ行ってしまったんだろう――。なぜ急に消えてしまったんだろう――。
 亮はほてほてと歩きながらそればかり考え、だがその答えはいっこうに見つからないままだった。
 いつしか亮の足は自然と慣れた道を辿り青陵学園へと向かっていたが、それすら本人は気づいていない。はちきれそうに巡る疑問だけに亮の脳みそは占拠されていて、目に映る光景は網膜を素通りしてしまっていたし、動かしているはずの足は完全に自動処理に切り替わっていた。
「…………はぁ」
 何度目かのため息が、自動で動く足と同じく自動的に零れ出た。
 思い返してみれば、亮は古本屋のことを何一つ知らないのだ。
 名前が『雨森至郎』であるということ。年齢が三十代の終わりくらいだということ。
 いつも和服を着ていること。料理やお菓子作りが上手なこと。
 学校にパンと文房具を卸していて、パンは本人が売っていたこと。本職の古本屋にはいつもお客がいなかったこと。
 いつもニコニコ優しくて、亮が困ったときはいつでも助けてくれたこと――。
 それが亮の知る古本屋の全てだ。
「古本屋さんの出身地ってどこなんだろ。地元に帰った……とか?」
 ――友達とか彼女とかはいるのかな。その人達は古本屋さんの行き先、知ってるのかな……。あー、なんで携帯番号聞いとかなかったんだろ。メルアドも、RhineのIDも知らない。ってか、オレRhineやってねーけど。
 呟きの最後は音を失い、後悔と心残りが亮の脳内でぽつぽつと浮かんでは消える。
 昨日とは打って変わっての青く高い秋空を見上げてみたが、亮の心は灰色に煙って晴れそうにない。
 日曜の車の行き交う都道の端――。きちんと仕切られた広めの歩道には、こんなに天気が良いというのに亮以外だれも歩いていなくて、それもまた亮の気持ちに少し寒い風をひゅるりと通していた。
 街路の常緑樹たちがざわざわと葉を揺らし、その音に誘われるようにふと、亮は自分が学校付近の良く知る道を歩いていることに気がつく。
 ああ、それで人が居ないんだ。今日は日曜だし、そういえば青陵テスト期間だし――。などとぼんやりどうでもいいことが胸を去来し、亮は改めてため息を吐いていた。
 シドの言いつけを破って午後の訓練さぼったのは失敗だったのかな――と、泣きたい気分になる。
 古本屋には会えず、それどころか行方もわからなくなってしまい、完全に凹んだこの状態で、帰ったらシドにすごい叱られて鬼みたいにしごかれるんだろうと考えただけで道路に足がのめり込んでいくようだ。
「お悩み事ですかな?」
 ふと目の前からそう声が聞こえ、亮は進めていた足取りをピタリと止めた。
 ぼんやりと上に向けていた視線を少しずつ下に落としていけば、黒髪混じりの白髪頭が見え、続いてにこやかな目をした皺深い顔が現われる。
 亮とほぼ同じくらいの身長の小さな老人は、日本人にしては彫りの深い顔立ちを優しげに弛め、優雅な動作で会釈する。
 亮は思わず目をパチクリさせると、釣られてペコリと頭を下げていた。
「成坂亮様ですね?」
 亮の丸い目がますます大きく丸く見開かれる。と、同時に危機感を感じ取ったイヌのように姿勢を低くし、一歩後ろへ左足を引いていた。
「ふふ……。そのように耳を倒して警戒しないでくださいまし。申し遅れました、わたくしは空巣堂の元店主・雨森至郎にお仕えする者で、名をコーレイと申します」
 耳なんか倒してねーけど! とますますいきり立とうとした亮が聞いたのは、先ほどまで散々亮の胸をふさぎ込ませていた古本屋の名で、亮は再び毒を抜かれたようにぽかんと目の前の老人を眺めた。
「古本屋さん……の?」
「はい。亮様が空巣堂のお近くへお見えになられたら、亮さまをお連れするようにと申しつけられておりまして」
 コーレイと名乗った老人を、頭の天辺からつま先までもう一度亮は眺めてみる。
 すっきりとまとめられた黒髪混じりの白髪は長すぎず短すぎず清潔で、グレーのスーツはこの初秋の季節にあって暑苦しさを感じさせない生地であり、彼の体型にぴったりとあつらえられていて、亮にはよく分からなかったが多分安物ではないに違いない。靴は嫌味なく綺麗に整えられた渋皮の茶靴で、輝きを抑えた風合いは年月を経たこの男にとてもよく似合っていた。亮の知る人物で一番近いのは、セブンスで執事頭を務めていたライス執事長だ。あの贅沢と品位の巣窟であるセブンスを取り仕切っていた彼を彷彿とさせるコーレイの服装と空気感は、ともすれば亮に威圧感と恐怖を与えかねなかったが、不思議と亮にその感情が想起されることはなかった。
 どうやらそんな隙のない服装も、喉元にちょこんとついた、桜色をした犬キャラクターの蝶ネクタイによって堅苦しさを払拭されているらしい。ライス執事長はこんなアメコミの犬キャラネクタイなど絶対に締めたりはしない。
 和服ばかり身につけていた古本屋とはまったく違った洋装だが、亮には、この老人の格好からなぜか古本屋と共通する匂いが感じられた。
「……。」
 亮が言葉もなくじっと眺めてくるのをどう感じたのか、コーレイは穏やかに声を立てて笑うと「なるほど、至郎様の言われたとおり、随分と用心深いことですね。知らない大人について行ってはいけないという、保護者の方の言いつけを守っていらっしゃるとはとてもお偉いことです」とうなずく。
 途端に亮の頬が真っ赤に上気していた。こういう子供扱いが亮にはやけに癇に障る。特に今回に限っては『保護者』という単語にある男の顔が否応なしに胸の内に浮かび上がりますます亮を煽ってしまう。
「っ、べっ、別にオレはっ!」
「わたくしにご不審を持たれるのは当然のこと。ですが、主も急な引越しで亮様にご挨拶も出来なかったことを酷く気に病んでおりまして――、ぜひ亮様にはわたくしとご一緒していただきたいのです。その為、主は私を空巣堂付近へ定期的に見回りに来させていたのでございますよ。今日の見回りがすれ違いにならずに済んで本当に良かった」
「…………。」
 それでも亮は何も言わず、コーレイの目をじっと眺める。
 こんな風に街中で知らない人間に声を掛けられ、ほいほいついて行ってしまうなど愚の骨頂だと亮もよくわかっているのだ。ガーネットが居なくなった今、自分が世界に七人しかいないゲボの内の一人であり、残りの六人はIICR管轄の元、セブンスから一歩も外へ出ることはない。つまり亮は世界で只一人、IICRにも関与されず在野でフラフラしている野良ゲボということになる。
 このことを知ったソムニアが居れば――いや、ソムニアでなくともこの重要性がわかる人間であれば、亮のゲボとしての価値をどうにかできないかと考えてもおかしくはない。
 その為であれば古本屋と亮の関係を探り出し、利用しようとする者も出てくるのではないのか。
 あまり普段使い慣れていない頭をフル回転させ、亮は相手を見極めるべく、極力冷静を保って目の前の老人を観察する。
 確かに怪しい。だが、本当に古本屋の使いだったのなら、ここで別れてしまっては永遠に彼とは会えなくなってしまう。
 着いて来いというこの男を信じるべきか、振り切って逃げるべきか――、亮はめいっぱい眉根を寄せ、頭から煙りでも噴きそうな勢いで脳みそをフル回転させて考えていた。
 そんな亮の様子を、目を細め楽しげに眺めていたコーレイは不意に懐から携帯電話を取り出すと、どこかへコールを掛け始める。
 必死に聞き耳を立てる亮をちらりと見やると、コーレイはおもむろに手にした携帯を亮へ差し出す。
 大きな画面と大きなボタンのついたそれは、ご高齢者用の簡単フォンだった。
 亮は似合わないほど難しい顔をしながらそれを受け取ると、おそるおそる耳をスピーカーへ近づける。
 目の前のコーレイが何か行動を起こしても、いや、たとえ耳に近づけたスピーカーから毒針が飛び出そうとも、速攻対応できる構えと体勢で、亮は「もしもし」と低く声を発していた。
「あ。亮くん? 良かった〜! コーレイと逢えたんだね。ホッとしたよぉ」
「! っ、ふ、古本屋さん!? ホントに!?」
「それはこっちのセリフだよ。ホント、よく逢えたよ! 亮くん、急に転校しちゃうんだもん。なにも聞いてなかったしびっくりしちゃったじゃない」
「それは、その、ごめん。ちょっと色々あって、さ……。てか、古本屋さんこそ、お店」
「ああ、それはね、こっちも大人の事情で急に、ね」
「大人の事情って……」
 問いかけつつも、亮は自分の中でなんとなく納得してしまう。
 ――あれだけ売れていない古本屋だったんだ。きっと借金で大変なことなんかになって、夜逃げっぽい感じにでもなったに違いない――。大人なオレはあまり深く聞いちゃいけない。
 などと真剣に思い、一人肯く。
「まぁ、色々、だよ。詳しい話もしたいし、これから逢えないかな? ディズミーランドにでも行かない?」
「えっ! ディズミーランド!?」
 突然の古本屋の申し出に、亮の声が弾むように裏返った。
 ディズミーランドと言えば、千葉県にあるにもかかわらず「東京ディズミーランド」と銘打った世界屈指の夢のテーマパークである。亮も我が儘を言い何度か修司と出かけたことはあるが、それも中学生の頃までだ。
 あれからまた新しいアトラクションも増えたと聞いている。
 ここ一年、怒濤のような生活が続き遊園地のことなど言える雰囲気ではなかったが、改めて名前を聞くとトキメク気持ちを抑えられない。
「行く……。行くっ、オレもいっぱい話したいこと、あんだ!」
「あはは、それじゃ決まりね。代金は心配しないで。そのくらいはオジサンである僕が何とかするし。……それじゃコーレイが案内するから彼に着いて来て」
「うん、わかった。古本屋さんの奢りかぁ。楽しみ」
「あ、お家の人に連絡取らなくて平気? 必要なら電話とかして……」
「そんなのいらねーよ。夜までに帰れば平気だし。オレだって高校生だぜ!?」
 今さらながらにシドの顔が脳裏に浮かび、亮はムッとしたようにぶんぶんと首を振る。
「…………ふふ、そうだったね」
 しばしの沈黙の後、古本屋はおかしそうに笑った。
 亮は電話をコーレイに返すと、
「あの、オレ、コーレイさんのことちょっとだけ疑っちゃって、……ごめんなさい」
 と、ペコリと頭を下げ謝ってみせる。
「いいえ、当然のことです。世の中恐い人ばかりですから、気をつけませんと」
 コーレイはそれを少しだけ目を丸くし見つめると、穏やかに微笑んでいた。








 携帯電話を懐にしまい、左手に携えたチュロスを一口頬張った雨森至郎は、目の前に立っている大きなリスの着ぐるみへ握手を求めつつ、
「というわけで、よろしくね。ティップちゃん」
 のほほんと笑って見せた。
 ディズミーランドで十二番人気のキャラクター、下から数えた方が早い微妙な立ち位置のディップちゃんは、真っ赤なリボンの付いた大きな頭を左右に振り、両手を恥ずかしそうに口元へ寄せると、女の子キャラらしくくねくねと身体を揺すり、可愛らしい仕草で和服の中年男へ手のひらを差し出す。
『ホント、お頭にも困ったものだわ』
 中年男の手を取った可愛いディップちゃんは、低く蠱惑的な女の声でそう言った。
 絶対に言葉を発しない、鉄の掟があるはずのディズミーキャラの中から聞こえたくぐもった声。その声が届くのは目の前にいる雨森只一人である。
『IICR警察局が動いてるんですよ? それで急遽店も引き払ったっていうのに、こんな大がかりな仕掛け、今しなきゃいけない仕事なのかしら』
 そう盛大にため息を吐き身をよじってみせるティップちゃんは、三等身のリスだというのに恐ろしいほどの色気を発している。
「そうは言うけど短時遡航――だよ? そんなもの、目の前で手に入れられてごらんよ。誰だって欲しくなっちゃうってもんでしょ」
 握手した手をぶんぶん上下に振りながら、雨森は首を傾げ覗き込むようにディップちゃんの目を見つめる。
『……。こっち見ないでもらえます?』
「ひどいよ、ディップちゃん」
『あなたねぇっ! ぬいぐるみ越しでもお頭の目は十分凶器だって自覚してちょうだいよ! ……まったく。その情報だって信憑性があるとは思えませんけどね。Cクラスのクズソムニアがゲボの血摂取したくらいでそんなことになります? ほんの数分とはいえ時を戻すんですよ!? それがまかり通るならブラッドリキッド配給されてるカラークラウンは全員大変なことになってますよ』
「どういう仕組みでそういうことになっちゃってるかはわかんないんだけど、短時遡航は確実だよ。なにせカウナーツ・ジオットと向こうの医療局のヤツのお墨付きらしいし。久我くんから亮くんへ直接届いたメールをちょこっと盗み読みさせてもらったんだからその点のミスもない。当事者同士、親友同士に嘘も偽情報もありえないよ」
『男の子同士の熱いお手紙盗み見ちゃうなんて、相変わらず趣味がお悪いこと』
「そんな褒めてもお給料増えないよ?」
『褒めてません』
 疲れ切ったような彼女の声に雨森は喉の奥で楽しげに笑う。冴えない眼鏡の奥の視線が流され、赤い舌が唇の端をゾロリと舐めると、野暮ったい和服の中年男から壮絶な艶が放たれる。
 ディップちゃんは一瞬ぞくりと身をすくめると、何か危険を察知したかのように一歩身を引いていた。
 抜けるような青空と昼下がりの燦々とした太陽の下だというのに、そこだけ真夜中の地下室のような濡れた空気が支配する。
 しかし近くを行き交う家族連れや恋人達は、このことにまるで気がつかないのだ。そんな男がここにいるかとも気に留めない。それこそが異様だと、彼女は改めて自分の組織のトップの顔をちらりと眺めた。
「とにかく、あの子はちょっとスペシャルなんだよね。近頃起こる面白いことにはみぃんな彼が関わってる」
 そんな彼女の畏れを知ってか知らずか、雨森は今度は視線を合わせないように青空を見上げたまま大きなリス頭の顎を撫でていた。
『シド・クライヴの大事な子だということ含め、ですか?』
「敦子ちゃんこそ人の恋路突っついて趣味が悪いな。コーレイそっくりだよ、そういうとこ」
『父があなたの恋路に興味があるとは思えませんけど』
「侮っちゃ駄目だよ、ああ見えてあの男は恐ろしいロマンチストだからね。リアリストのロマンチストほどタチの悪いものはない」
 渋面を作って見せた雨森に、ディップちゃんは大袈裟に身体を揺らして笑ってみせる。
 端から見ると熱心なファンとそれに応えるキャラクターの組み合わせにしか見えない光景だ。
『ソムニアでない私はたかだか二十八年の父しか知りませんから……。今度ぜひ私の知らない古くからの父を、お頭に教えて欲しいところだわ』
「そんなことバレたらコーレイに殺されちゃうよ。ただでさえ彼は今度の仕事乗り気じゃないってのに」
『それは珍しく私も父と同意見。膨大な生体エネルギーを消費するトゥリザーツゲートを、IICRに追われているこんな状況下で開こうとするなんて馬鹿のすること――いえ、馬鹿だってしないもの』
「…………そんな罵られると好きになっちゃうからやめて」
 雨森は右手小指に嵌めた漆黒のリングを磨くように指で撫でると、薄い唇をついと添える。
 その一瞬。マットな質感の漆黒のリングが、幻の如く虹色に輝き揺らめいたように見えた。
「僕の力だけじゃこの小指一本飛ばすのがやっとだってのが、コレのやっかいなところなんだよね。あ〜あ、うちもIICRみたいに金と権力でもってゲートを固定設置できたりすればいいんだけど。そしたらわざわざこんな人混みの中に亮くんを呼び出す手間なんかかからないのに」
『トゥリザーツゲートは現実に存在する物質・肉体をアルマごとセラへ飛ばす機関ですもの。数百人規模の生体エネルギーくらいじゃどうにもならないのは仕方ないわ。っていうか、そんな激レアな機関をIICR以外で所有してるうちの組織もどうかと思うし、それを一人の力で多少なりとも起動させるお頭もどうかと思うわ』
「そんなにけなさなくてもいいじゃない……」
『褒めてるんです』
 疲れたような敦子の言葉に、雨森はしっとりと目を細めると残ったチュロスを口の中に放り込み、くるりとぬいぐるみに背を向けた。
「警察局対策は任せたよ。ゲート起動のKick-assは甲斐たちが動いてくれている」
『はい。パレード周りにソケットを配置したと聞いています。IICRの犬たちは私にお任せ下さい』
 ディップちゃんが短い両手をバタバタ振って見せ、雨森はちらりとそれを振り返るとにっこり笑って手を振り返し歩き出す。
 午後のパレードがもうすぐ始まる。
 九月に入って新たなハロウィン仕様へ変わったばかりのそれは、マニアの間でも出来がよいと非常に人気で、週末ともなれば数千人規模の観客が集まるのだ。
 今もコースに沿って徐々に人が集まりつつある。
 雨森は目を細め周囲をぐるりと眺めながら、人混みの中を進んでいく。






 空巣堂を訪ねた少年は、接触してきた小柄な老人に連れられ近場の駅から電車へと乗り込んでいた。
 張り込み中の車から連絡を受けた堂上斎は、チームを組んだ『地上勤』の人間二名と共にそれを尾行し、電車へと乗り込む。ちなみに『地上勤』とはソムニアではないIICR職員の通称であり、リアル世界での実務的な仕事などを行いソムニアを補佐する役割を担っている。
 張り込み車からの連絡が迅速だったお陰でうまい具合に同じ車両へ乗車できた堂上と補佐二人は、ターゲットの少年からつかず離れずの位置でそれぞれ携帯を触ったり寝たふりをしたりと素知らぬ素振りで少年を見張っていた。
 目的地は分からなかったが、湾岸を千葉方面に走るこの線を利用しているとなると、彼等が東京を離れる可能性は高い。必要とあらば千葉県警への応援要請も視野に入れ、堂上は傍らで雑誌を捲っている補佐へ指示を出す。
 今回堂上と行動を共にしている二人はどちらも古参の地上勤であり、微かな目配せだけで堂上の意図を察し的確に指示に応えていく。
 リーダーとして初めて事件にあたる堂上にとって、ソムニアでない一般人であるとはいえ彼等地上勤の補佐は頼もしい以外の何者でもないと感じてしまう。

『都内にある“空巣堂”という古本屋がストーンコールドとつながっている可能性がある』

 そんな情報をIICR警察局東京支部が手に入れたのはつい先日のことだ。
 ストーンコールドと言えば、おそらく世界で最も有名な一大ソムニア犯罪組織であり、あらゆるソムニア能力を利用した詐欺行為により各国の富豪から莫大な金銭を巻き上げたり、政治における極秘情報を非合法に入手しそれを脅迫や取引の材料に使ったり、数億の価値のある美術品をまったく足のつかない形でかすめ取ったりと、主にソムニア能力を利用した詐欺・窃盗・情報漏洩・脅迫行為などで荒稼ぎしている一団である。
 犯罪の多様性や出没地域の範囲の広さ等を考えると、構成員の人数は百人とも千人とも言われているが、霧のように包囲の手からすり抜けてしまう手際や彼等の団結力を鑑みるに、中心構成員自体は十数名足らずの小さな組織ではないかとの声もある。
 とにかく彼等の正体は不明で全貌は全くというほど明らかにされていない。
 それでも過去、IICR警察局は彼等ストーンコールド事件に絡んだ人間を両手の数に余るほどの人数、捕らえてはいるのだ。
 だが捕らえたどの人間も、その仕事のみで雇われたフリーランスの者達ばかりであり、彼等に直接指示を下していた者の顔すら知らないありさまであり、リーダーがどこの誰でどのような人物なのか――いや、それ以前に幹部の一人ですら正体がつかめないのである。
 しかも彼等はなぜか、人を殺す――という行為をまったく行わない。それがたまたまなのか、警察局が気づいていないだけなのか、はたまた彼等なりの理念なのかは知ることができないが、これがまた一般的なソムニア達に彼等を英雄視させ『伝説的な犯罪集団』へと認知させる材料となっているのだ。
 警察局としてはそんな状況を許せるはずもないし、犯罪者は犯罪者であり、ソムニア能力を悪事に利用する彼等を堂上は心から許せないと感じている。

(絶対に捕まえてやる――!)

 堂上はめらめらと燃える炎を漆黒の瞳の中に宿らせ、じっと数メートル先の少年を見つめていた。
 今回の情報は数いる情報屋の一人から寄せられた小さなもので、このような情報の場合ガセである可能性も非常に高い。
 だが、それでも堂上はこの情報に手応えを感じていた。
 なぜならこの情報が東京支局の末端に寄せられてから数時間も経たないうちに、件(くだん)の古本屋は店をたたみ、そこの店主は姿をくらましたのだから――。しかもその後の足取りはまったくつかめていない。
 このタイミングでの失踪――、そして足跡抹消の見事さを見るにつけ、どう考えても偶然とは考えにくい。
 空巣堂は明らかに、後ろ暗いところのある店だったに違いないと堂上は考えたのだ。
 が、そうは言っても今までの警察局での経験則に基づけば、おそらく今度の店の店主もフリーランスの犯罪者で単純に雇われただけであり、いわゆる情報収集場所として店を機能させていただけに過ぎないのだろうということも理解している。
 それ故、『Stone Cold』などというバカげたほどに大きな名の組織の探索が、堂上のような『初回転生、現在18歳・現役高校生兼IICR警察局東京支部付けの駆け出し捜査官』に回ってきたのだから。
 しかも堂上が先輩達の指導から離れ、一人で一人前として働くことが課せられた初のチームリーダーとしての仕事がこれだというのだから、相手の規模もお察しである。
 それでも堂上斎(どうがみ・いつき)という男は手を抜くことを知らない人間であり、転生初回というウブさもあいまって、この事件に並々ならぬ闘志を燃やしていた。

(あの少年は何者だ? 彼等の仲間か――? それとも犯罪に巻き込まれようとしている被害者なのか……)

 堂上の視線の先で、キラキラと瞳を輝かせ窓外を眺めている少年はとても犯罪者の一員には思えない。第一、空巣堂の人間ならば自分たちが追われている状況なのを知っているはずなのに、こんなにも楽しそうな表情で屈託なく笑えるとは到底思えなかった。
 それに――と、堂上は思う。
 どう見ても彼はローティーンの学生にしか思えない。
 現在の堂上の年齢より五歳は下であろうと予想される。彼がソムニアであるというならこんな年齢情報は意味をなさないが、一般人であるならどう考えても仲間というより被害者と見るべきだろう。
 彼がどんな目的でストーンコールドなどという大きな組織に狙われているのかはわからないが、もしかしたらどこかの財閥や国際企業トップの御曹司なのかもしれない。
 午後の太陽の光に溶けてしまいそうな透明感を持った不思議な色を放つ少年は、傍らの老人の何気ない言葉に、その儚さに見合わないほどくるくると表情を変え、恐ろしく整った顔をしているのに人形臭さをまるで感じさせない生命力でもって堂上の視線を惹きつけてやまない。
 ふと、堂上は、よく自分も人形のようだと人に指摘されることがあるのを思い出す。彼と親しくなった者達の多くから「おまえは顔は綺麗だけど人形みたいでとっつきにくい」だの「顔と同じように性格も堅くて融通が利かない」などと言われることがあるのだ。
 自分ではピンとはこないが、どうやら自分は顔も性格もお堅くて取っつきにくいらしい。
 あんな風に笑えれば、そんなことを言われることもなくなるのだろうな――と、堂上はぼんやりと思った。
 少年の桜色の唇が『ふるほんやさん』という形に動いたのが見て取れた。
 やはり、彼は空巣堂の店主のことを知っているらしい――。
 あの少年を彼等犯罪者集団の魔の手から救わねばならない。
 だが、それは彼を呼んでいるストーンコールドの手先を捕らえた後だ。
 堂上は一度も染めたことのないさらりとした漆黒の髪を一度がりりと掻くと、一歩踏み出す。
 列車はディズミーリゾート駅へと滑り込み、開いたドアから他の大勢の客と共に少年が外へと降り立っていくのがわかったからだ。
 目的地はディズミーランド――。
 これから何が起ころうとしているのか皆目見当も付かなかったが、堂上は二人の地上勤を引き連れて、少年達の数メートル後を追うように駅へと降り立っていた。