■ キミの不機嫌で僕は上機嫌になる・3 ■




 少年と老人はチケットを買うと入場者の列に並び、ゲートから園内へと入っていく。
 地上勤の二人はそれぞれチケットを買いに走り、堂上は一人、ターゲットから目を離さぬよう、すぐ後を追う。
 堂上は己のスーツのポケットに収まった警察局バッジを今一度確認し、それをちらりとゲート係員に見せる。係員は一瞬表情を硬くし、次に堂上の容貌を見て驚いたように眼を見張ったが、他の客達同様に「東京ディズミーランドへようこそ!」と笑顔で迎え入れてくれる。そこでようやく堂上も息を吐いた。
 IICR警察局バッジは日本警察のものと同様、提示すれば様々な施設で捜査権を行使することができる。だが、このTDLという夢を売りにした施設は色々と規定が厳しく、警察と名の付くものが何をするにもいい顔をされない場所でもあるのだ。
 しかも堂上は実年齢に見合い、やはり容貌も若い。いくら学校の制服でなくスーツを着用しているとはいえ、バッジを見せても残念ながら取り合って貰えなかったことも過去に何度か経験している。その時は先輩のソムニアが笑いながらフォローを入れてくれたものだが、今回のチームでは堂上がリーダーであり唯一のバッジ保持者である。からかいつつも手を差し伸べてくれるありがたい存在はいない。チケットを購入し入園している助っ人の地上勤二人に尻ぬぐいさせる羽目になれば、かっこうがつかないところだった。
 堂上は前の列に続きゲートをくぐると辺りを見回した。
 ターゲットの背中をまず視界に入れ、その後仲間の姿を探す。
 だが、見当たらない。
 チケットを買いに行った分堂上より後の入場ではあったはずだが、彼等が並んだ位置であれば、そろそろゲートを抜けてきても良い頃合いだ。
 何かあったのかと訝しがる堂上の携帯が次の瞬間バイブし、地上勤の一人、塩見からの連絡とわかると、慌てて電話を受ける。
「塩見さんどうしました? 僕はもうゲート内ですが……」
『すまない、堂上さん。やられた! やつら先手を打ってたようで、私も佐東も足止め喰らって別室連行です』
「えっ、なんでそんな……」
『顔認証システムって知ってます? TDLではそれを近頃トラブル回避のためにも導入しているんですが、そのブラックリストへ私と佐東の顔もばっちり登録されていたらしく、二人揃って弾かれてしまいました。堂上さんは新人だということでヤツらのチェックからもれていたのかもしれません。これは不幸中の幸い、ですね』
「っ、まさかソムニアでないキミ達の情報までストーンコールドは握っているということか……」
『すぐ東京支部と連絡とってこの状況をどうにかしてもらうので、少し中に入るのが遅れるかと思います。本当に申し訳ない』
「わかりました。僕はターゲットを追います。位置は僕のビーコンを拾ってください」
『了解です。よろしく頼みます』
 堂上は一歩を踏み出す。視界の端に入れていた少年と老人の背中は二十メートルほど前をゆったりと歩いている。
 一見すると気づかれてはいないように思える。おそらく地上勤の二人が掛かった網も、今日このためではなく、前々からストーンコールドの連中が予防的に張り巡らせていた罠の一つなのだろう。だが、その罠が常に起動状態だったのか、それとも今堂上たちの追跡を知り起動させたのかがわからない。前者であれば相手は尾行に気づいていないということになるが、後者であった場合、既に事態は戦闘状態に突入したも同じである。
「楽観視するべきじゃないな」
 己に言い聞かせるように堂上は呟くと、そっと左腰辺りに触れる。
 スーツの内側に仕込ませたガンホルダー。そこには堂上の能力に合わせ中央研究局が製作した、特殊仕様銃が収められている。セラでの能力をリアルへと可能な限り引き出せるその銃は、堂上のアルマ形態に合わせた代物であり、彼以外の使用は意味をなさないものである。こういった特定個人のみが使用できるソムニア用銃器の携帯は、IICR警察局の人間に許された特権ではあるのだが、当然使用には大きな責任がついて回ることになる。人の多いこのような施設内ではできれば使用を避けたいところだ。
 しかし、最悪の場合これを使うことも考えておかねばならない。
 屹然と前方を見据え進んでいく少年を、すれ違うカップルが不思議そうな顔で見送る。幸せな笑顔行き交うこの場所にあって、ただ一人触れれば切れそうなほどの緊張感を迸らせている堂上は、明らかに異質な存在だ。しかしバックアップを欠いたこの状況で、どうやら本人は自分の顔つきになど気づく余裕はないらしい。
 と、堂上の目の前を大きな影が横切った。
 園内一の人気キャラクター、ネズミのニッキーだ。陽気に堂上にも手を振り、大きな身振りでスキップをしていく。
 その後を子供達や女子高生などがはしゃぎながらついて行くのだ。
 正直あまりこのような施設に縁のない堂上は、少々ついて行けないものを感じながら、その一団をすり抜け足早にターゲットを追う。が――
「っ!?」
 堂上の視線の先には楽しげにはしゃぎ回る親子連れや恋人達がいるばかりで、目指す背中が見当たらない。
 焦る心を抑えるようにぐっと拳を握りしめ、きょろきょろと辺りを何度も見回してみるが、どちらの方角に延びる道にも彼等二人の姿はないようだ。
「くそっ」
 もしかしたらどこかの店に入ったのかもしれない。
 ついに堪えきれず、堂上は走り出していた。






「やっぱ人多いな! みんなちゃんと来てんだなぁ、こういうとこ」
 妙にしみじみと呟くと、亮は腕を組み難しい顔でうなっていた。
 休日かつ晴天の今日は格好の行楽日和であり、これだけ広い園内だというのに、道を歩くのにも他の客とぶつからないように気をつけねばならないほどだ。
 隣を歩くコーレイはそんな亮の様子をまるで可愛い孫でも見るように眺めると、くすりと微笑んでいた。
「亮さん、久しぶりだとおっしゃってましたものね」
「来たいとは思うんだけど、なかなか時間もないし、一緒に来る人もいなくてさ。いいなぁ、みんな」
「はは、亮さんも彼女さんを連れて遊びに来たらいいじゃないですか」
「は!?」
 コーレイの言葉に亮は目を丸くし、反射的に隣の皺深い顔を見る。
「どうしました?」
「な、なんでいきなり彼女なんだよっ。オレ、そんなのいねぇもん」
「おや。亮さんは格好良くてらっしゃるから、いくらでもおつきあいしたい女性がいらっしゃるでしょうに」
 見る見る亮の頬が紅潮していく。
「か、かっこいいとか、言われたことないから。コーレイさん何言ってんのっ!?」
「そんなことないですよ。亮さんは今時風に言えば――えー、……イケメン?だと思いますよ、私は」
 頭の天辺から湯気を噴きそうなほど紅潮した顔で、亮はぷいっと目を逸らし、「イケ、イケメンとか、ありえねーしっ。変だよっ、コーレイさん変だっ」と口の中でもぐもぐと呟く。
 あまりに言われ慣れていない類の褒め言葉に、気恥ずかしさと高揚で亮はどんな顔をしてよいか分からなくなってしまったらしい。
 コーレイはそんな亮を目を細め眺めながら、追撃の手を弛めない。
「いーえ、イケメンです。私が亮さんだったら、好きな子にどんどんアタックしてしまいますけどね。いないのですか? 気になるお相手は」
「へっ?」
 違うアングルからまたしても慣れない内容の会話を振られ、真っ赤になったまま亮は目をぱちくりさせコーレイを見る。
「いけませんよ。高校時代という燦めいた季節は短いのです。亮さんも今のうちにたくさん恋をしておきませんと」
「恋とか、そんなのオレは興味ないっていうか……」
「高校生活と言っても、別にクラスの女の子と恋しなくてはいけないというわけではないのですよ? たとえば……アルバイト先の先輩や学校の先生だっていいんです。一人や二人顔が浮かんでくるでしょう」
「アルバイト先? ガッコのせんせ……」
 アルバイト先にいる恐い顔の赤毛の先輩。
 学校にいた鬼のように課題を乱れ打ちしてくる外国人講師。
 期せずして思い浮かんだのは違う人間の素振りをした同一人物の顔で――。
「ふふ、やはりいらっしゃるんですね」
「ちが……っ!」
 夕べケンカしたばかりのムカツク奴の顔を思い出してしまった自分に、「なんなんだオレ!」と怒りを覚え打ち消すように首を振った亮の耳元で、コーレイは穏やかにこう告げた。

「それが亮さんの『恋する人』ですよ」

 諭すようなその声音に亮は顔を上げ、ゆっくりと二度瞬きをする。
「気づいていないのなら、今気づくべきです。何十年も後からあれがそうだったんだと思い返しても――得られるのは切ない後悔と小さな甘い記憶だけですから」
「でも、オレは、別に、そーゆーんじゃないし、あいつは……」
「何をそう否定することがあります? お相手の年齢? 人種? 立場? 性別? どれも気にすることではありません。いや……でも、お相手が五歳の女の子ということならいくら亮さんでも犯罪になってしまいますが……」
「っ、んなわけあるかっ! オレはロリコンじゃねえっ! あいつはオレより一回りもおっさん……っ」
 言い掛けて亮は自分の口を自分の手で漫画のように塞いでいた。
 コーレイはそれを見て楽しげに微笑む。
「恋愛に関して若い頃のプライドなどクソです。特に自分自身に向けたプライドは本当に害悪でしかない」
「……クソって」
 柄に合わないコーレイの悪い口に、亮は却って毒を抜かれたかのようにきょとんとする。
「悪い大人たちに取り返しの付かない悪さをされる前に、恋せよ若者――ということです」
 コーレイが何を言おうとしているのか本当のところは亮にはまるでわからなかったし、思い浮かんだ腹の立つアイツがコーレイの言うところのものであるのかも未だ判然としなかったが、この人生の大先輩が自分に大事なことを教えてくれようとしているのだけは亮も感じ取っていた。
 その意味を知ろうと、きょとんとした顔つきながらこちらを伺ってくる少年の表情に、コーレイは柔和に笑むと足を止める。
「すいません、亮さん。年寄りは用足しが近いものでして――。申し訳ありませんが、先に行っていていただけますか?」
「え、あ、トイレ? うん、わかった。オレ、どこに行けばいい?」
「このまままっすぐ。三分も歩けば左手に小さなシェイブアイスのワゴンが出ていますから、そこへ向かってください」
「了解。じゃ、先に行ってるね」
「はい。それでは」
 小さく手を振り言われた方角を目指す亮の後ろ姿を確認すると、コーレイは一人方向を変え、今までとはまったく違う速度で歩き出す。この人手の中他人とぶつかることもなく滑らかに進むそのスピードは、とても老体の為しえる身のこなしではない。
「一匹紛れ込みましたか……。存外排除班の連中も甘い」
 呟いた声は聞くものをゾクリとさせる恐さを孕んでいたが、あくまで表情は柔和なままだ。
 コーレイの前方八十メートルほどに、こちらへと疾走してくるスーツ姿の少年がいた。
 ピリピリと張り詰めた気を放つ彼の波動を感じるに、慣れた人間ではないが、一般人というわけではなさそうだ。
 と、一人の男性客がコーレイの眼前のゴミ箱へドリンクカップを無造作に捨てて去っていく。
 しかし捨て方が悪かったせいでカップは落下。風に煽られコロコロと転がり来たそれを拾うと、コーレイはストローを抜き取り、カップはそのままゴミ箱へ放り込む。
 迷いながらもこちらへ向けぐんぐんと近づいてくる気配に、コーレイもまた歩き始める。
 どうやら新人ながら勘は悪くない相手のようだ。
 手にしたブルーラインのストローにちらりと視線を落とすと、そっと手の内に握り込む。
 無言のまま彼のティヴァーツ能力を指先に乗せれば、ストローは完全に硬化し、ティヴァーツの名の通り一本の剣と化し彼の手の中で時を待つ。
 視線を巡らせ人を探すように駆けてきた少年は、おそらく亮と同じくらいの年頃だろう。
 真剣な表情で内心の焦りを隠しようもなく動くその行動が、敵に自分の存在を大声で叫んでいるようなものだと気づきもしていないようだ。
 コーレイは好々爺とした表情を崩さぬままゆったりと歩を進め、着慣れないスーツに身を包んだ少年とすれ違う。
 とん、と軽く肩が当たった。
「っ!?」
 一瞬少年の目が驚いたように見開かれ、自分とぶつかった相手を振り返る。
 その頃にはもう、コーレイの小さな姿は他の客達に紛れ定かではない。
 次に少年は己の右脇腹当たりにふと手をやった。
 紺色のスーツにじんわりと染みが広がり、次に焼きごてを押し当てたかのような熱がほとばしる。
 それを痛みだとようやく脳が理解し、少年の口からうめき声が漏れた。
「っ、くそっ、どこに行った!?」
 己の傷がどの程度なのか、そんなことすら頓着しないで少年は方向を変え再び走り出す。
 コーレイはその気配を背後に感じながら、手の中に握ったままになっていたストローへ視線を落とした。
「……さすがはIICRの人間と言ったところですか」
 完全に剣として硬化させたはずのストローは、半ばから溶け、ぐにゃりと曲がっている。
 この形状を見る限り、出血目的で肝臓をめがけて差し込んだはずのストローは、内臓に達することなく返り討ちにあってしまったらしい。
 相手の能力が何なのかは不明だが、炎を司るカウナーツか原初水を使えるラグーツ、太陽に表されるソヴィロの可能性もある。
「素人ながら才能だけは一流か」
 先ほどの様子を考えれば、おそらく相手は反射的に能力を起動させただけに過ぎないだろう。
 それでこれほどまで完璧に、しかも現実世界で賦与能力を発動させているとなると、甘く見てはいけない相手と言うことになる。
 コーレイは口元を歪め強い笑みの形を作ると、走り出していた。
 一般客が驚いたように声を上げ、道を空ける。
「!!」
 背後の気配がコーレイの存在に気づいたようだ。
「…………」
 ちらりと振返りそれを確認すると、コーレイはスピードを上げた。







 言われたとおり三分ほど歩くと少し開けた石畳の広場へ出た。
 見ればカラフルなワゴンがいくつか出ており、季節柄ハロウィンを意識したであろうオレンジとブラックを基調としたパラソル付きのテーブルが少しばかり並べてある。
 昼食時にそろそろ差し掛かろうというこの時間帯もあってか、キャラクターの手を模ったホットドッグ屋や、チキンを丸ごと焼いてほぐしたチキンカップの店の前には列が出来ていたが、亮の目指すシェイブアイス屋は若干人気薄のようだ。
 亮がワゴンの前できょろきょろしていると、ワゴンの向こう側――若干影になった位置にあるパラソルから聞き知った声がかかる。
「こっちだよ、亮くん」
「!」
 亮はぱっと表情を輝かせると駆け寄っていく。
「古本屋さん!」
「ごめんね、呼びつけちゃって。かき氷、食べる? なに味がいい?」
 席から腰を浮かせ手を振る雨森の前にはピンク色のかき氷が、くまのフーさんカップの中で溶けかけている。
 亮がグレープフルーツ味ソフトクリーム乗せを宣言すると、和服姿のいつもの彼は「はいはい」と笑い、席を取っておくよう頼んで店の前へと並んだ。
「お待たせ。はい、どうぞ」
 向かいの席に座りながらフーさんジョッキのかき氷を手渡す雨森にお礼を言いながら、亮は早速かき氷を頬張る。
 まだ暑いこの季節、緊張の時間の続いた亮にとって、かき氷の甘い冷たさと雨森のふにゃりとした笑顔がじんわりと染み渡り、ほっと小さなため息が出た。
「よく来てくれたね。会えて良かった」
「ホントだよ! いきなりお店なくなっちゃってるし、オレまじで焦ったんだからな」
「あはは、ごめんごめん。色々大人の事情があんのよ」
「わかってんよ。オレだってそのくらいわかる年齢だっつーの」
 少し口を尖らせ、ソフトクリームの乗ったストロースプーンをぱくりと咥える。
「ん、そっか。とにかくご心配おかけしました」
 ぺこりと下げられたモサモサ頭に亮は大袈裟にふんぞり返り、「おうっ」と片手を上げて見せた。
 雨森は亮のその様子にたまらず声を立てて笑う。
「なんだよ、古本屋さん、笑い事じゃないぞ!? もう勝手にどっかいくとかナシだかんなっ」
「はははは、っ、ごめん。そうだよね。もうしないよ、これはホント」
「ん。じゃーいい」
 照れたように頬を染め、カップを持ち上げると一気に氷を頬張る亮を眺める雨森の表情はどこまでも穏やかだ。
「でもそういう亮くんだって、学校何も言わないでやめちゃうし、寮だってひきはらっちゃうしで、僕だってさみしかったんだよ?」
「っ、う。あ。……んー、それは、……ごめん。お、オレも、その、大人の事情で……」
「学校で先生がたくさん辞められたことと関係してるのかな。詳しくは分からないけど、あまり雰囲気が良くなかったから学校変わる子も多かったものね。それでも一言言ってくれたら嬉しかったな」
「ごめん。ホント、急だったんだ。だからそれもあって、古本屋さんに会えなかったのすごくショックでさ。今日こうやって会えて良かったなーって、今シミジミしてるよ」
「ふふ……僕も。……かき氷おいしい?」
「うん。めちゃうま。古本屋さんも食べる?」
「いいの? じゃ、あ〜ん」
「っ!! ええええっ、なんだよそれっ、キモいんだけどっ」
「いいじゃない。甥っ子と叔父さんの久々の再会なんだから。僕寂しかったなぁ〜」
「……………卑怯だぞっ」
 ムッツリと眉根を寄せながらも、亮は氷とソフトクリームを一緒に乗せたスプーンをこれ見よがしに突き出された雨森の口元へ突っ込む。
 ぱくりとそれを咥えた雨森は、にんまりと頬を弛め、「あーおいしv」と幸せ顔だ。
「実は冷たいの、大好きなんだ、僕」
「オレも好き」
 嬉しそうに笑う亮の言葉に目を細め、雨森は「知ってるよ」と柔らかな頬に光る氷の粒を指でぬぐってやる。
「ちょ、自分でやるからいいって」
 その仕草に抵抗してみせる亮の髪をなでると、雨森は立ち上がりこう提案する。
「そろそろパレードが始まる時間なんだけどさ。せっかくだから見に行かない?」
「パレード? 行く! オレちゃんと見たことないんだ」
「じゃあ食べながら歩こうか。よく見える穴場知ってるんだ」
「よし、じゃー出発!」
 雨森の後に続き、かき氷をご機嫌に頬張りながら亮もついていく。
 真昼の太陽はきらきらと二人を照りつけ短い影を石畳に焼き付けているが、夏のような厳しさはない。どこまでも高く青い空と少しばかり涼しくなった風が、心地よさと、不思議な物寂しさを亮の胸に運んでくる。
「なぁ、古本屋さん。今どこに住んでんの?」
 隣を歩く雨森を見上げると、困ったような笑顔で見返される。
「そうだね。ちょっと遠いところ、かな」
「遠いって、……外国? タカトビ?」
「ははは、高飛びは凄いな。ちゃんと日本国内だよ。……今度遊びに来る?」
「いいの? 大人のジジョウがあんだろ? 借金取りにばれて古本屋さん困らない?」
「大丈夫だよ。もうすぐ事情は解決する予定だし、ね」
「ふぅん。……そっか。早く全部解決するといいな」
 かき氷を底まで掻き込み顔を上げた亮の視線の先に、色とりどりの風船が上っていく。
 紺碧の空に流れていく風船は太陽の光を受けてぴかぴかと光り、本当に夢の国にいるようだ。
 どこからともなく楽しげな音楽が聞こえてくる。
 花火の音。
 空に舞う紙吹雪。
 人々が笑いさざめく声。
 パレードが始まったのだ。
「古本屋さん?」
 ふと気づけば周囲に人の壁が出来つつあった。
「こっちだよ」
 そう声が聞こえると、横から手をつかまれ、ぐいぐいと引っ張られる。これがあのいつもふにゃりとした雨森のものかと信じられぬほどの力だ。
「この辺りは人が多すぎてよく見えないからね。もう少し向こうへ行こう」
「……ぅん」
 なんだか声が遠くで聞こえるようで、亮は視線を彷徨わせる。
 だが雨森の背中はすぐ前にあり、ちゃんと自分の手を取り引っ張ってくれている。
 青い空。
 紙吹雪。
 真っ赤な風船。
 きらきらした世界。
 雨森の黒髪の上に、白くて長い耳が見えた気がした。
「ほら、カップ、捨ててあげる」
 抱き寄せるように頬を寄せられ、今にも取り落としそうだった空のカップを取り上げられるが、亮にはもうそんなことを意識する余裕はなかった。
 鳴り響くファンファーレとたくさんの歌声が頭の中をぐるぐると巡る。
 幸せで満たされ、吐く息も桃色になりそうだ。
 この感覚を、亮は知っている。
 不安で溜らなかったあの時、現われた白くて大きな友達。
 約束の風船。
 真っ赤なサクランボ。
「古本屋、さん……、」
「ん。大丈夫、ここにいるよ?」
 大きな手が頬を包み撫でられると、ぞくりと甘い戦慄が亮の背中を這い昇る。
 すぐそばに自分を見つめる雨森の黒い瞳があった。
 じっと見つめられると、次第に亮の呼吸は熱を帯びて上がり、全身に甘やかなうずきが生まれ始める。
 いつのまにか、雨森の黒い瞳は蕩けそうなラベンダー色に変わっていた。
「あれぇ、その色、知ってる、よ?」
 えへへと笑うと、亮の膝がかくりと崩れる。
「おっと。大丈夫? ほら、歩けるかな……」
「うん。だいじょうぶ。へーき、あるける……」
 白金の髪。
 大きな背丈。
 女神さまみたいに綺麗な顔。
 亮の古本屋さんとはまるで似てもにつかない容貌。
 なぜそんなものが目の前の雨森と被って見えるのか――なんだっけな、と二度ほど首を傾げ、亮はもう一度雨森の顔を見上げた。
 亮の肩を抱くように立ち上がった雨森は、そんな亮に微笑み返す。
「じゃ、行こうか、亮くん。パレードは始まったよ」