■ 1-0 ■



――ブンッ
 空気を斬り、唸りを上げて、物干し竿にも似た棍が打ち下ろされる。
――ヒュッ
 淡いグリーンのその棒は、地面すれすれで急旋回し、軽やかに回転しながら斜め上へと振り上げられた。
 流れるようなその動きは美しく、見る者を釘付けにする引力がある。
「――フッ」
 息を吐きながら棍を操る少年の額や頬から、幾つもの大粒の煌めきが散らばる。
 降り注ぐ柔らかな日差しがそれに反射し、きらきらと輝いた。
 しなやかな手足を自在に使い、まるで見えない敵と相対すかの如く動き回る少年は、見たところ十代前半の中学生のようである。
 柔らかな黒髪と、大きめの黒い瞳。
 愛くるしい顔の作りであるが、その表情には凛としたものが宿っている。
「――っ!」
 膝をたわめると、少年の身体が華麗に舞い上がる。
 その高さ約三メートル。
 手にしていた棍を頭上に放り投げると、太陽を背に、少年は大きく体を一回転させていた。
 そのまま空中で落下してくる棍を受け取る。
 しかし、
――ゴチッ
「あだっ!」
 紙一重で少年の右手はそれをつかみ損ね、回転していた棍は少年の後頭部にクリーンヒットしていた。
 少年は棍と共に落下し、薄く草の生えた地面へ、見事にぶち当たるはめになる。
 無惨にも顔面から墜落した少年は、半ば地面に埋まった状態でしばしの沈黙だ。
 少年の頭上をひらひらとモンシロチョウが横断していった。
「・・・・・・・・・ぶはぁっ」
 大仰に息をつくと、少年はくるりと反転し、仰向けで大地に寝転がる。
「いってーっ!! やっべぇ、今日覚えた単語全部忘れた!」
「嘘をつくな。――元から一つも覚えていないだろう」
 少年のすぐそばに何者かが立っていた。
 少年が視線を上げると、黒い靴、黒いズボン。
 黒いコートと腰に携えた長刀、白いシャツ。
 その上には白く氷像のような綺麗な顔と、深紅の髪が見える。
 腕を組んだまま無表情に見下ろすその態度に、少年は少々ムッとしながら起き上がった。
「勝手に決めんなよ、バカシド。オレだって今日は三十個覚えてから訓練来たんだからな」
 立ち上がると、制服らしきシャツやズボンをパンパンと払い、ムッとしたままシドと呼ばれた男を見上げる。
「ほお。どうせまたAのページの上から三十個だろう」
「!! な、なんでわかんだ……?」
「――亮。すぐに忘れるおまえのことだ。今忘れても大差はない。つまらんことを気にしないで続けろ」
 亮の英単語本にはAの一枚目だけ、しっかりと癖が付いていることを、シドはちゃんとわかっているようだ。
 亮は自分より随分高い位置にある顔を見上げながら、不機嫌な様子で食ってかかる。
「どういう意味だよっ!」
「そういう意味だ」
「!? ・・・???」
 頭をひねり始めた亮にシドが軽くゲンコをくれる。
「って!」
「いいから、早く棍を拾ってこい。後三十分したら俺は仕事に戻るからな」
「うわ、ホントだ。もうこんな時間かよ」
 右手に巻かれた腕時計を確認すると、亮は焦ったように走り出す。ちなみにこの時計は亮がバイト代を貯めまくって買った、自慢の『大王イカモデル』だ。

 そもそも現実世界でない、この『セラ』と呼ばれる空間では、こういった精密機器を自分の実体化能力で作り出すことが難しい。
 一般の人間ならば、セラ内に現れるとき、衣服やアクセサリー程度の実体化を無意識に行える程度で、携帯や時計などの電子機器は持ち合わせることがない。
 しかし亮は現実世界で気に入っていた時計を、無意識にセラ内で実体化させている。
 これは彼が『ソムニア』と呼ばれる特殊な立場にいる人間だからだ。
 ソムニアとは、『真実の名』と呼ばれる魂のパスワードを思い出すことの出来た特殊な人間の事である。
 真実の名を思い出した者は、セラ内に自由に出入りし、セラ内では超人的な体術を操ることが可能になる。そして、持ち合わせる魂の種類によって、様々な賦与能力が与えられるのだ。つまり、己の持つ魂をフルスペックで使用することが可能となる。
 そして一番の特徴は、ソムニアとなった者は、転生後も前世での記憶をある程度維持することが可能という点だろう。
 二十五万人に一人現れると言われるソムニアたちは、その多くが何度目かの人生を意識しながら歩んでいる者たちである。
 シドもそう言ったソムニアの一人であり、既に六度の転生を経て今に至っている。
 たった一ヶ月前、偶然シドと同じセラで事件に巻き込まれ、その時真実の名を思い出した亮とは歴史が違う。
 亮が口げんかですら勝てるはずがなかった。

 亮はその事件のおり、セラに閉じこめられた友人を救うため、シドの居るソムニア事務所に救出を依頼した。
 無事事件は解決され、友人の救出にも成功したわけであるが、その時の請求金額がなんと二百五十万円。
 とても高校一年生の小遣いで払いきれる額ではない。
 ましてや、母の連れ子として今の家に入った亮である。
 八歳で母が姿を消してからは父とは折り合いが悪く、親に泣きつくわけにも行かない。唯一の味方である血の繋がらない兄には、絶対に心配を掛けたくない。
 結果、時給八百円で二百五十万の請求相手である『S&Cソムニアサービス』にただ働きとしてバイトへ来る嵌めになったのである。
 今日もバイトとして事務所にやってきた亮は、一人前のソムニアになるために、訓練専門に使っているセラにて稽古の真っ最中なのだ。

「シド、そんなに仕事忙しいのかなぁ」
 いつも事務所地下のシールドルームで煙草を吹かしているイメージしかない亮には、シドがそれほど働いているとは思えない。
「セラ時間であと三十分ってことは、リアル時間で言うと……あと一分くらいってことだろ。ありえねぇって」
 セラとは、現実世界とは遊離した全くの別空間である。
 人は睡眠中夢を見る。しかし、夢すら見ない深い眠りについたとき、人の『アルマ』と呼ばれる魂のようなものは、自らの身体を離れ、『煉獄』と呼ばれる空間に迷い込む。
 その煉獄に集まる無数のアルマは、それぞれ似た色や形のものが集まり、『セラ』という一つの世界を作り出す。
 煉獄にはそんなセラが無数にあり、それぞれのアルマが持つ色合いを反映して、独自の世界が成り立っているのだ。
 人はそんなセラにいくつも所属し、深い眠りに落ちる度にどこかのセラでもう一つの生活を送っている。
 セラ内での出来事は現実と密接に関係しており、セラ内でアルマが傷つけられると、現実の肉体も同じ位置に同じ傷を受けることとなる。もちろん、セラ内で殺されれば、現実の肉体も死亡する。
 アルマがセラで危険に遭った時、アルマはすぐに肉体へと非難するため、こういったことは起こりにくい。だが、運悪くこういった事故や事件に巻き込まれ、死亡する人々も少なくはない。
 ほとんどの人間はセラ内での記憶をリアルに持ち帰る事が出来ない。それは肉体での記憶を司る脳がアルマから置き去りにされているのだから当たり前なのだが、それ故この『セラ』や『ソムニア』というものは世界ではまだあまり認知されていなかったりする。
 ほとんどの人間がオカルトの一分野程度にしか見ていないのが現状だ。
 しかし、否応なくこの世界は存在する。
 この世界を知るものは、現実世界でも大きな力を奮うことが可能になる。その為、世界の政財界に通ずる者たちの多くが、密かにソムニアの力を利用しているのだ。
 古くからこの研究がなされてきた欧州では、世界中のソムニアを管理し、各国首脳や財界の大物達とも繋がった、『国際セラ研究機構・通称IICR』と呼ばれる組織も存在している。
 そのIICRの研究によると、セラ内は現実とは時間の流れが違うというのだ。
 『現実の一秒が、セラ内の三十一秒』に相当すると言われている。
 つまり亮の言うように、セラであと三十分ということは、現実では約一分しか経っていないということなのだ。

「よいしょっと」
 亮が半ばまで地面に突き立っていた棍を、片腕でぐいっと引き抜く。
 軽々と担ぎ上げられたその長い棒は、一見すると竹かプラスチックか区別のつかない、不思議な材質で出来ていた。
 しかしその重さたるや、地面の突き刺さり方でわかるとおり、鋼鉄並みのものがある。
 とてもこんな小さく華奢な身体で扱えそうな代物ではない。
 だが亮はそんな棍を肩に担いだまま、まるで地面の数センチ上を走っているかのように、軽やかに走っていく。
「ほら、さっきの続きだ。三十五の型からやれ」
「なぁ、シド。これさ、もっかいやりなおしちゃダメかな」
 腕を組んだまま亮を待っていたシドに、亮は駆け寄るなり話も聞かずに切り出した。
 シドは黙ったまま相変わらずの無表情でそれを見下ろす。
「だってさ、これ、どー見たって物干し竿じゃん。すっげーかっこわりぃし、気合い乗らないよ」
 肩から下ろし地面に着けたその棍は、両端に白いゴムキャップが着けられ、竹を模したような綺麗なグリーンで全体を着色されている。
「しかもまだステンレスっぽいのなら良かったけど、これって旧式じゃん? こんな物干し竿、昭和村でしか見ねぇよ」
「おまえが作ったものだろう」
「オレだってシドのみたいなちゃんとした刀とかが良かったよ! でも、いくらイメージしてみても、温泉のおみやげみたいなのしか作れないし、銃とかもBB弾のしかできないし。だって、ちゃんと本物とか見たことないからさぁ」
「・・・・・・。」
「鉄の棒ならイメージ簡単だと思ったんだよ。でも言葉で考えたら、ほんとに鉄棒出てきちゃうし、形は良くても長すぎたり短すぎたり。で、長さとか太さ的には物干し竿くらいのがいいかなーって思ったら、本気で物干し竿になっちゃってさぁ……」
「あきらめろ」
 不満そうに唇をとがらせ始めた亮に、シドが無情に言葉を吐き捨てる。
「一度イメージの着いてしまったものを、新たに作り直すのはなかなか難しいものだ。マナーツでもないおまえに、そんな芸当は当分できん」
 ソムニアには二十五の種類が存在する。
 一番多いのは『マナーツ種』と呼ばれる者で、全ソムニアの八割に上る。
 彼らはソムニアの基本能力である『イメージの実体化』に長けていると言われているが、そのほかの賦与能力は一切持っていない。
 亮の能力は『ゲボ種』と呼ばれるものだ。
 基本能力の他に『生贄』と呼ばれる、己の血を使い、異界から異形のものを呼び出す力をその身に宿している。
 ゲボ種は現在では圧倒的に数が少なく、IICRが現在確認しているだけで、世界に七名しか存在していない。
 ちなみにシドは『イザ種』と呼ばれる氷結能力を有しているが、この種はそこそこ多く、珍しいものではない。 
「ええぇぇえっ!? じゃ、ずっとコレでやれってのかよ!」
 亮は思いきり不機嫌そうに頬を膨らませると、手にした物干し竿をくるりと回して見せた。
「なぁ、それよりさ、召還訓練とかもっとやった方がいいって。そうすればこんな物干し竿使わなくても済むし、もっと楽だしさ――」
「召還は二度とするな。ゲボの力は忘れろと言ったはずだ」
 亮はシドの意向により、ゲボとしてIICRへ登録をしていない。
 あくまで『マナーツ種』として、申請を出してある。
「でも――」
「デモもストもない。もう一度言ったら借金を百億円にしてやる」
「っ!! お、オーボーだっ! バカシド!」
「漢字で横暴も書けないヤツにバカ呼ばわりされるいわれはないな」
「――!! お、おまえこそ、デモもストもって今時聞かねーよ、オヤジギャグかよ、変態イギリス人っ!」
「合わせてやったんだよ。――おまえは昭和が好きなんだろう?」
 シドの視線が亮の棍へ落とされる。
「――!? っ、ばかっ、バカシド! サイアクっ!!」
 しばしの沈黙の後、やっと意味を理解した亮は、頬にかぁっと朱を上らせた。
 勢いに任せて手にした棍をぶんぶん振り回す。
 しかしどれだけ振り回しても、シドの長身はゆったりとしたスピードでそれをかわし、当てることができない。
「あと千回は通して型をやらないと、使い物にならんな」
 シドの手がふわりと動き、顔の横でぴたりと止まった。
 その手の先には白いゴムキャップ付きの鉄棍が、ぴくりともせず支えられている。
 亮が渾身の力で振り下ろした棍を、シドは人差し指と中指のたった二本で捕らえていた。
 亮は目を丸くし、必死に棍を引こうとする。
 しかしそれは微動だにしない。
「放せよ、コラァッ!」
「時間切れだ。今日は帰るぞ」
 それでもじたばたと棍を引き抜こうとする亮の姿が、うっすらと透明になり、消えていく。それと共に、シドの姿も空気の中へかき消えていた。
 緩やかに風の吹き抜ける草原と、小さなクラブハウスだけが、午後の陽光の中残されていた。












「へぇ、じゃ、おまえシドさんトコでがんばってんだな」
「まぁな。っつーか、秋人さんに死ぬほどこき使われてる」
 亮は自転車を引きながら、学校からのいつもの道を友人の西田俊紀と共に下っていた。
 以前までバス通学だった亮だが、今では帰りに事務所へ寄るために、健康的な自転車通学になっている。
「ああ、あの頭軽そうな兄ちゃんか。……壬沙子さん、だっけか。あ、あのお姉さんともしゃべったりすんのか?」
 以前亮がシドに頼んでセラから助け出した友人というのが、この俊紀である。
 俊紀は現実へ戻ってきてから、一度、お礼の挨拶に事務所へ顔を出したことがあるのだ。
「壬沙子さん? ああ、しゃべるよ。なんで?」
「なんでって、おまえ。くっそぉ、いいなぁ。あんな綺麗なおねぃさんと一緒のバイトかぁ。――お姉さんが、手取り足取り教えて、あ・げ・るv――的なさぁ……」
「――ば、バカじゃねぇのっ!? そんなんあるわけないだろっ。夢見てんじゃねーよ」
 何か想像してしまったのか、亮の頬が一気に赤くなる。
 亮はこういったことに全く持って奥手なタイプである。
「なんだ、ないのかよぉ」
 自分のことでもないのにいきなりしょげかえる俊紀。
 彼もまた純情な彼女いない歴十六年の高校一年生だ。
 亮とは小学校五年からの幼なじみで、中学高校と腐れ縁が続いている。
 百六十なさそうな亮と違い、俊紀は百八十を超える大柄な少年である。
 いや、少年という言い方もはばかられるような、大変イカツイ容貌だ。
 茶色に染めたソフトモヒカンは、規定の緩い彼らの学校だからこそ許されている感があるものだし、凶悪な三白眼は鋭い眼光を放ち、街を歩くだけでケンカの押し売りにあってしまう飛び道具だったりする。
 実際学校でもやたら上の連中から絡まれ、往生しているのだ。だが、昔からそんなことに慣れてしまっているため、彼はその腕っ節でしっかり学校でのポジションをものにしてしまっていた。
 そんな彼の体質は、友人である亮にも飛び火している。
 学校では口数も少なくあまり人と関わらない亮は、元々友人が多い方ではない。だがその上、俊紀とつるんでいることが多いせいで、さらに怖がって人が寄ってこないのだ。
 確かに俊紀とはケンカ仲間であったが、「成坂くんは不良の仲間」と分類されているのは、亮としては釈然としなかったりする。
「まぁあれだ。オレがすっげえソムニアになったら、きっと可愛い彼女も即ゲットできるわけだから、今は我慢の時だと思って、オレはがんばってるわけだ」
「ほお、自慢ですか。出来る前から彼女自慢ですか」
「うらやましいか」
「誰が可愛いって決めたよ! そんなの出来てからじゃないとわかんねーだろうが!」
「ばーか、可愛いと思うから彼女にすんだろ? オレ基準だよ、オレ基準」
「――っ!! ふ、深いっ!」
 俊紀が驚愕のポーズで立ち止まる。
「亮よぉ、やっぱ借金持ちは大人になるもんなんだなぁ……」
 思わず目頭を押さえる俊紀。
「お、おまえなぁ、誰のせいでできた借金だと思ってんだ! 哀れんでくれるならおまえもバイトくらいしろや!」
「おーし、たこ焼き喰うどーっ!!」
 明後日の方角を見て吠える俊紀に、亮は渋い顔だ。
 そんな二人の目の前に、一台の車が滑り込んでくる。
 黒塗りの大きな車体を見て、亮は急に黙り込む。
「お? なんだ? 親父さんの車か? すっげ、ベンツだぜ、ベンツ!」
 亮の父親は、二千人の社員を抱える大手ホテルグループの総帥である。彼一人で作り上げたと言っても過言ではないそのグループは、僅か十年弱で今の大きさにまで成長したものだ。
 今は十歳離れた兄もこの会社に勤めており、忙しい毎日を送っている。
 兄が独立し家を出た三年前、亮も一緒に家を出た。
 折り合いの悪い父はそれを「勝手にしろ」の一言で済ませ、それ以来一度も顔を合わせていない。
 気まずいことではあったが、仲のいい兄と二人のマンション暮らしは快適で、しばらくは父親のことなど考えないでいられたのだ。
 ちなみに亮の学費も生活費も、今は全て兄が負担している。
「行こう、俊紀」
 亮が自転車を反転させ、今来た道を引き返そうとする。
 しかしそれを呼び止める声が、スモーク張りのガラス窓の向こうから聞こえてくる。
 音もなく、ガラスが沈んでいた。
「亮さん、今帰りですか?」
 運転席から顔を覗かせた男は、神経質そうな顔をした四十がらみの男であった。
 メタルフレームの眼鏡を人差し指でかけ直しながら、薄く笑ってみせる。
「――何の用だよ」
 亮は立ち止まると、ちらりと背中越しに視線をやった。
 俊紀は亮の態度に驚いたように目を丸くし、おろおろとその間で状況を見守っている。
「おやおや、ご挨拶ですね。私が何か、亮さんのお気に入らないことでもしましたか?」
「別に。ただオレはおまえが嫌いなだけだ」
「それは困りましたねぇ。私はお父様の秘書であるし、あなたの事も色々任されているんですよ? そんな子供みたいな理由で遠ざけられては、滝沢が怒られます」
 眉根を寄せ、やれやれと行った調子で肩をすくめてみせる滝沢に、亮が食ってかかる。
「そんなん頼んでないっ! オレは滝沢が嫌いだって言ってんだろっ! それにもうあの人とオレは関係ないっ。学費だって生活費だって、全部しゅう兄が出してくれてる! いいから帰れよっ!」
「修司さんはお忙しいでしょう。近々またヨーロッパ支社に長期出張が決まっていますしね。その間、あなたのような血筋の子供は何をしでかすかわかりませんからね。よぉく、見張っておかないと――」
 薄い唇が酷薄そうな笑みを浮かべた。
 亮の背中に、ぞくりと冷たいものが走る。
 この滝沢という男を、亮は初めて会った八年前から嫌っていた。
 父親の秘書ということで、何度となく顔を合わせる機会があったが、その度に嫌みを言われ、侮蔑の視線で眺め下ろされる。その目つきが恐くて、小さい頃はよく修司の後ろに隠れたものだった。
 秘書とは言っても彼は父親の第二秘書であり、会社の黒い部分を一手に引き受ける存在である。
 そのことを亮は兄に聞かされ知っていた。
 きっとそういう仕事をしている人間だから、こんな冷たい目をしているんだろうと、亮は一人納得したものだ。
「バカじゃねーの!? そんなヒマあるならちゃんとした仕事しろよ」
 亮は視線を前に戻すと再び歩き始める。
 その後ろ姿に、かまわず滝沢が声を掛けた。
「仕事ですよ。亮さんの携帯がつながらないものでね」
 亮は滝沢の携帯を、思い切り着信拒否に設定している。
「今日、料亭重野で社長と取引先とで会食があるのですが、その席にある書類を持ってきていただきたいのです」
「――書類? そんなのおまえが持ってけばいいだろ」
「それが修司さんの自室に置かれているものですから。淡いグリーンの封筒に入れられた企画書なんですがね」
 亮の足がはたりと止まる。
「それがないと修司さんが困ってしまうんですよ」
「……しゅう兄は、何も言ってこないけど」
「あの方の性格は亮さんが一番ご存じでしょう。お父様とあなたを合わせたくないと思ってらっしゃるんですよ」
「……」
 言われて亮は黙り込んでしまう。
 確かに、たとえどんな大事な書類だろうと、そんな場所へ持って来いと修司が言うはずがなかった。
「十六時までに、重野まで持ってきていただきたいのですが――場所はここにプリントしてあります」
 そう言うと、滝沢はそばに立っていた俊紀に一枚の封筒を手渡した。
 俊紀は困惑しながらもそれを受け取り、亮の背中を眺めやる。
「私が預かれれば一番いいのですが、今から先方をお迎えする準備がありましてね」
「……」
「亮さん?」
「――わかったよ。持ってけばいいんだろ」
 亮は振り返りもせず不機嫌そうに呟いた。
「でも絶対父さんには会わないからな! しゅう兄に渡すだけだからな!」
 そう叫んだ亮の背中を、滝沢は、は虫類のような視線でじっと見つめている。
「――ええ、結構ですよ。書類さえ届けばいいんですから。……修司さんを助けるためです。必ず届けてくださいね」
 再び黒いガラス窓は音もなく閉まっていく。
 亮は車が走り出すのも待たず、ずんずんと歩き始めていた。 慌ててそれを俊樹が追いかける。
「おい亮!」
 亮のスピードは瞬く間に上がり、今では自転車を押しながら全速力でダッシュ状態だ。
「ちょ、待てって! とおるっ!!」
 中学時代陸上でならした亮の足に俊紀はついて行けず、遙か後方で息を切らしながら追い縋る。
「地図っ、地図、いるんだろっ!?」
 その声に、ようやく亮の足が止まった。
 ヒーヒー言いながらも、俊樹が追いついてくる。
「あ、あいつなんなんだ? 最悪のイヤミヤローだな」
 俊紀は手にした封筒を手渡すと、亮の顔をのぞき込んだ。
 こんな不機嫌顔の亮は久しぶりに見た気がする。
「滝沢っつって、父さんの秘書だ。昔っからオレや諒子のこと色々言ってくるインケンなヤツでさ」
「諒子って、おまえの母ちゃんだっけか。変わってんな。母ちゃんのこと名前で呼び捨てって……クレヨンしんちゃんかよ」
「うるせー、バカ」
「ああ!?」
 俊紀が見下ろそうとした瞬間、亮はにやりと笑って華麗に後ろ回し蹴りを食らわしていた。
 同時に俊紀の膝がカックンとなる。
 自転車ハンドルを押さえたままの器用な攻撃は、見事に俊紀の膝裏にヒットしていたのだ。
 俊紀は公衆の面前で奇しくも土下座ポーズだ。
「じゃあまた明日なー!」
 顔を上げれば亮が片手を上げ、夕日に向かって自転車で走り去っていく姿が見えた。
「っ、て、てめーっ! なんでオレに八つ当たりすんだよ、このいじめっ子がああああっ!!!」









「本当に大丈夫か? 熱は何度あった」
 そう言って青年は、ベッドに横になったままの亮に氷枕を運んでくる。
 優等生然とした整った顔立ちが、心配そうに曇っている。
「平気だって。大したことないから」
 亮はわきに挟んでいた体温計を確認すると、ぽっちりと電源ボタンを押していた。
「コラ、おまえ何で兄ちゃんに見せない! 高かったんだろう? もっかい計れ」
「いいよ! もう、七度八分! 微熱だよ微熱。しゅう兄心配しすぎなんだよ」
 亮は体温計を背中の下に隠してしまうと、それを取り上げようとする修司の手をぐいぐい押し返す。
「しゅう兄飛行機の時間いいのか? 置いてかれたら困るんだろ!?」
 あの日、書類を持ってこいと言いに来た滝沢の言葉通り、一週間後の今日から修司はイギリス支社へ一ヶ月の出張が入っていた。
 そんな日に、亮は運悪く風邪で熱発してしまったのだ。
「しかしだなぁ、こんな状態のおまえを放って――」
 自分を押し返す亮の力が弱いことに、修司は気づいていた。握った手の温度もやたら高い。
 実際かなりキツイのだろう。
 亮の呼吸は起きてからずっとあがりっぱなしだ。
「大丈夫だって。寝て汗かけば治るし。今日は学校休んでおとなしくしてるからさ」
「本当におとなしくしてるか? バイトも休めよ?」
「わかってるよ。しゅう兄がここでグズグズしてる方が、熱、上がりそうだ。――飛行機大丈夫かとか、怒られないのかとか、心配ばっかで」
 亮の言葉に修司はやれやれとため息をつくと、亮の頬をむにむにとつまんだ。
「わかった。じゃあ僕は行くけど、本当にムリはするなよ? キツイ時は武智に電話してこき使ってやれ」
「ん。カツ兄におかゆ作らせる」
「それから、しばらくは電話も繋がらない場所に行くことになる。連絡がとれなくなるけど、一人でしっかりできるか?」
「できるって。オレ、もう十五だよ? 子供じゃないんだから心配すんなよ」
 そう言って笑って見せた亮の顔に、修司はつられて笑ってしまう。「十五に見えないだろう、おまえは」と、突っ込みを入れたいところは山々だったが、今の亮にそんな血の気が上がるようなことは絶対に言えない。
「そうだな。もう高校生だったな。――じゃ、土産買ってくるから、ちゃんといい子にして待ってるんだぞ?」
「だから子供じゃないって言ってんだろ!」
「ははは、すまんすまん。ほら、起き上がるな、寝てろ。大人はそんなことで熱くならない」
「――うぅ……」
 その日の朝は、いつもと同じように和やかに、優しさに満ちて過ぎていった。