■ 1-12 ■



 派手に皿の割れる音がした。
 リビングのソファーで書類を読んでいたシドは、隣のキッチンへと立ち上がる。
「うわ、ごめ、やっちゃったな……」
 顔を覗かせたシドに、亮は申し訳なさそうに微笑むと、床に散らばった陶器の欠片を拾い集め始めた。
 この惨状を見ると、どうやら水切りかごごとひっくり返したらしい。
 欠片の散乱した床に膝をつき、自分の失敗を処理しようとする亮に歩み寄ると、シドは何も言わず背後から亮の身体を持ち上げる。
「!? 何? ちょ……」
 脇から手を入れられ軽々と抱え上げられた亮は、そのままダイニングの椅子へと座らされていた。
 そんなシドの行動に、困惑気味に亮が顔を上げる。
「片付けがまだ――」
「何を考えている。手も足も切っているだろう」
 亮が下を向くとシドの言うとおり、膝や指先から、じんわりと血が滲み出し、滴となってTシャツや足を汚していた。
「……あ、悪い、床、汚しちゃうか」
 そこで亮は初めて自分の身体に傷が走っていたことに気がついたようだった。短パンを履いている亮の足は、膝から滴る血を止める布もなく、するすると赤が滑り降りていく。
 それを慌てて手で押さえようとする亮の肩をつかみ、顔を無理矢理あげさせると、シドはじっと亮の顔を見据える。
「――シド、血が落ちる……」
「おまえ、昨日からどうした」
 亮の言葉になど耳を貸す風もなく、シドは自分の質問をした。
 しかしそれに答えようとしない亮に、椅子の前にしゃがみ込むと、少し低い視線から亮の顔を見上げる。こうすれば、ともすれば下を向いてしまう亮の表情をよく見ることが出来る。
「……。べ、つに、何も」
 亮はシドの思った通り、困惑した様子でうつむくと、取り繕うように微笑んで見せた。
 シドはそれに不機嫌そうな表情で続ける。
「何も? 何もなくてここ二日、あんな不抜けた訓練しかこなせず、今日は大量に皿を割るのか」
「わ、悪かったって言ってるだろ。弁償するよ。バイト代から引いて――」
「明日、兄の修司が帰ってくる。おまえはその話を聞いてからバカに磨きがかかった。違うか」
 亮がはっと視線を上げた。
 シドの琥珀色の目が亮を捕らえている。
「あのマンションに帰るのが不安なら、修司が帰ってこようがここにいればいい。理由は壬沙子や秋人がうまくやってくれている」
 亮はシドの言葉に何も返せない。
 再び目を伏せると、煮え切らない相づちを意識もなく口にしている。
 少しずつ亮の呼吸が速くなっていることに、シドは気づいていた。
「兄には薬のことも、おまえがされていたことも、話してはいない。流したのは、マンションで滝沢という男とトラブルがあったという話だけだ。だから――」
「ダメだよ! もう、ダメなんだ!」
 シドの言葉を打ち切って、亮は叫んでいた。
 ぼんやりとシドを見つめる亮の黒い瞳には、絶望の色がありありと浮かんでいた。
「だって、オレ、ちゃんとできなかった! 仕事も、途中でどうなったかわかんない。滝沢の言うこと、聞けなかった。滝沢から、逃げ出した! しゅう兄の、言うとおり、の、いい子には、なれなかった……」
 様子がおかしい。
 まるでうわごとのように呟かれ始めた亮の言葉には、催眠状態の者が持つ浮遊感のようなものが混じっている。
「亮、何を言って――」
「だから、オレ、叱られる。しゅう兄に、しかられ、て、もう、弟じゃ、ないって、か、ぞくじゃ、ないて……、」
 亮の呼吸は、水を欲しがる子犬のように早く浅い。
 血の滲んだ指先で、ぎゅっとTシャツの裾を握りしめる。
「オレ、しゅ、ニイに、酷いこと、した。ォレ、しゅう兄に、あんな、こと、させて、気持ちい、って、しゅにぃの、いいよぉって、っ…、いぱい、ォレ、しゅに、と、して――」
 亮の身体ががくがくと震え始める。
 シドを見つめる瞳は潤み、シドでない別の誰かを見つめているようであった。
 シドは反射的に亮の身体を抱きしめていた。
 これ以上催眠状態の亮に尋問を続ければ、ノック・バックの引き金を引いてしまうことになりかねない。
 胸に埋めた亮の耳元に「Si・・・、大丈夫だ、大丈夫」と繰り返してやる。
 それでもしばらくシドの腕の中で、亮は修司との痴態を熱に浮かされたように呟いていたが、徐々に落ち着きを取り戻し、身体の震えも収まっていく。

――『なりすまし』をしたか。

 震える小さな身体を抱きながら、シドは虚空を切り裂くような目でにらみ据えていた。
 GMDを使われたゲボは、その薬効によって身体も精神もぎりぎりのラインを割ってしまうことがある。そんなとき、聴覚や嗅覚、味覚といった所からもたらされる情報はより深く脳に食い込み、恐ろしいまでのリアルな幻覚を生み出すのである。
 言葉による命令は絶対であり、視覚はそれに従って映像を作り上げる。
 遙か昔、まだGMDが作られて間もない頃、一部のソムニアの間でゲボを楽しむためのこういった趣向が流行ったという記録が残っている。
 そのゲボの親や兄弟、親友、恩人、果てはゲボ自身を演じて行為を行う。その異様な快楽に、力あるソムニアたちが酔いしれたというのだ。
 当時、今より数のずっと多かったゲボはこういった陰惨な環境により、数を減らしていった。
 同じようにあの滝沢という男は、言葉による誘導で自分を修司だと思いこませ、亮を陵辱したのだ。
 ただ一人の家族だと亮が慕っていた兄への想いは、その時踏みにじられ、汚された。
 あの日以来、亮は本当の意味で独りを感じ続けていたのだろう。帰る場所がないんだと、いつかノック・バックのうわごとで呟いていたことを、シドは思い出す。
「それは修司ではない。全部薬の見せた幻覚だ。だから大丈夫、何も変わってなどいない」
 意識を朦朧とさせ始めた亮の背中をゆっくりとさすってやりながら、一言一言、区切るように亮へ囁きかける。
「しゅ、にぃ、じゃ…ない」
「そうだ。修司は一月前から一度も日本へ帰ってきていない。全部嘘だ。本当じゃない」
「うそ…、しゅ、にぃ、ほんと、じゃない…」
「おまえは修司に酷いことなどしていない。大丈夫。俺を信じろ」
 何度か背中をさすり、もう片方の手で髪を撫でてやるうちに、胸元から小さな寝息が聞こえ始める。
 シドはそっと身体を離すと亮を抱き上げ、寝室へと運んでやった。
 意識低下を起こし眠りについた亮を見て、胸が痛む。
 ノック・バックが起こらなかった事に関しては安心もしたが、それでもここ数日は意識低下を起こすこともなかっただけに、自分のやり方がまずかったのではと唇を噛む。
 手足の傷をウェットティッシュと絆創膏で手当てしてやると、ベッドの傍らへ静かに腰を落とす。
 その寝顔をのぞき込むと、汗で額に張り付いた柔らかな前髪をそっとよけてやった。
 自分は、ずっと独りを感じ続けてきた亮に、もっと早く気づいてやるべきだったのだ。
 誰にも言えずたった一人で、どんな想いでこの出来事を処理しようとしていたのだろう。
 そう考えると口からこぼれるのは苦いため息ばかりだ。
 ソラスを狩ったり、お尋ね者の超級ソムニアを消したりする方が、比べようもないくらい簡単なことに思えた。
 明日には修司が帰国する。
 その前に、もう一度順序立ててこのことを話してやる必要があるだろうと、シドは思った。