■ 1-8 ■






 シドが四階にある自室へ戻ったとき、ベッドの上には赤い染みが何かをこすりつけたように広がっていた。
 一瞬息を詰めかけたシドだったが、その原因がすぐにわかると、敢えてゆったりとした足取りでベッドへ近づいていく。
「取ってはだめだと言ったろう」
 ぼんやりと夢うつつ状態をさまよう亮は、無意識のうちに左足に巻かれた包帯を、はぎ取ってしまうのだ。
 しかも何度も爪を立てるものだから、その際にふさがりかけた傷が開き、ベッドは芸術的な筆遣いで彩られてしまっていた。
 今も、丸めた身体でしきりに左足首をひっかき、すでに存在しない鉄輪を取ろうとしている。
 シドは言葉もなくその手をぐっとつかむと、血にまみれた指先をウェットティッシュでぬぐってやった。
 そこでようやく亮の意識が浮上し始める。
「シド……」
 かろうじて焦点を結んだ目に、シドは自分の姿を見いだし、ふっと息をついた。
 第一回目のGMD投与後、十時間が経過していた。
 目を覚ました亮が何か食べたいというので、秋人に言っておかゆを用意させてみたが、結局食べることはできなかった。
 正気を取り戻したかに見えた亮は、すぐに意識レベルが下がり、夢でも現実でも、ましてやセラでもない場所を延々と彷徨っているようである。
 しばらくはこういった状態が続くことはわかっている。
 見ている側にはつらいが、亮にとっては一番安らぐ時間のはずだ。
「少しは眠れたか」
 シドの言葉が亮の中に届くのには、若干のタイムラグがあるようで、しばらく考え込むように視線を落とした後、亮は小さくうなずいていた。
「――あの、さ」
 そう言った声は、少しかすれている。
 ここ二週間の待遇は、亮の声帯にも大きな負担をかけていたようであった。
「おかゆ、ごめん。食べられなかった」
 シドに拭いてもらった手を引っ込めると、申し訳なさそうに抱え込んだタオルケットに顔を埋める。
「かまわん。どうせ秋人のまずい料理だ。無理はしなくていい」
 秋人が聞いたら失礼千万と眉をひそめそうな言いぐさだ。
「気分はどうだ。熱は少し下がったみたいだが。傷むところがあれば早めに言え」
「……、うん。平気。ごめん」
 顔を埋めたままの亮の言葉は、消え入りそうに小さい。
「何を謝ってる。そういうのが日本人のわからん所だ」
「ごめん――、ごめん……」
 亮の声は震えていた。
 小さくほとんど聞き取れないその声は、何度も何度も謝ることしかしていない。
 震える肩に手を置くと、亮はますます縮こまり、まるでこのまま消えてなくなりたいと思っているかのようであった。
 泣いているのが、シドにもわかった。
 こういうとき、かけるべき日本語をシドは知らない。
 いや、たとえ母国語だとしても何と言うべきなのか、まるで思いつかなかった。
 正気を取り戻した時、一気に記憶が蘇る。
 それは熱に浮かされ完全な物でないぶん、よりリアルに亮を苛むのだろう。
 顔を上げさせようとするシドにいやいやを繰り返し、亮はただひたすら謝る。
 そして数分後、何度も同じ言葉を繰り返しながら、亮は再び昏睡の海に落ちていった。
「どうしておまえが謝ることがある」
 ようやく顔を上げさせた亮は、哀しいほどに安らかに寝息を立てている。
 目元を濡らす涙をぬぐってやり、丸めたタオルケットはそのまま抱かせて、上から毛布をかけてやった。
 二十四時間後には、ノック・バック症状が現れるだろう。
 薬が切れてから起こるこの症状が危険なため、GMDは薄めながらしばらくつかってやらなければならない。
 しかし正気に戻った亮は、恐らく薬を投与されることを拒むはずだ。
 この状況を見ればシドにはそれがよくわかった。
 次もまたうまく眠っているときに静脈注射で入れることが出来ればいいが、時間があわなければノック・バックが起こり意識が飛んでから入れてやるしかない。
「無理をさせるかもしれんな」
 涙ではりついた髪を横顔からよけてやりながら、シドはつらそうに一言呟いていた。



 


 



『亮さん』
 そう呼ぶ声がする。
『亮さん、また逃げだそうとしましたね』
 目の前には冷酷そうなあの男がいる。
『あなたは本当に悪い子だ。いや、本当はそう見せているだけなのかな?』
 自分はベッドの上。
 足には冷たい輪っか。
 逃げようとするがうまく身体が動かない。
『お仕置きされたいのでしょう? この滝沢に。だからそうやって逃げてみせる』
 違う。
 違う。
「違う!」
 それでも手足を精一杯動かし抵抗しようとするが、男の力は強い。
「いやだっ、触るな、あっち行けよ!」
 鈴の音が聞こえる。
 滝沢の手が亮の身体をまさぐり、無理矢理身体を開かせられる。
 身体を反転させ逃げようとする亮の首に、突然大きな力が加わった。
 真上からぐいと首輪が引かれ、息を詰まらせ咳き込む。
『亮はもっといい子になってると思ったのに、本当にだめな弟だね』
「しゅ…にぃ――」
 見上げれば、兄の修司が哀しそうな表情で亮を見下ろしていた。
 鈴の音がまた聞こえる。
『僕にこんなことさせるなんて、哀しいよ、亮』
 修司のものが後ろから亮の内側をえぐっている。
 恥ずかしげもなく卑猥な水音が、ぐちゃぐちゃと後ろから聞こえていた。
 嫌だ。
 嫌だ。
 こんなの、嫌だ。
 そう自分は叫んでいるはずなのに。
「きもちぃいよぉっ! しゅ、にぃ、の、もっと、欲しいよぉ」
 亮の耳に聞こえるのは甘く、せっぱ詰まったように媚を売る自分の声。
 やめろ。
 うるさい。
 もう何もしゃべんな!
 鈴の音、うるさい。
『亮さん。さぁ、お口をあけて――』
 目の前に滝沢がいた。
 言われるまま口を開き、何度も自分をえぐった滝沢のものへ唇を寄せる。
『教えたとおり、ちゃんとできれば、アイスクリームをあげましょうね』
 ああ、そうだ。
 冷たくて甘い。
 あれが食べたいんだ。
「ん…」
 後ろを修司に責められながらも、亮は必死で滝沢のものをしゃぶった。
 わざといやらしく音を立て、滝沢の目を楽しませるようにねぶるように舌を這わせる。
 喉の奥まで咥え込むと、むせ返りそうになるのを堪えながら吸い上げる。
 立ち上がった滝沢の先端から次第にあの味が広がり始める。
 気持ち悪い。
 アイスなんかいらない。
 気持ち悪い。
 誰か、助けて。
「んっ、んむっ、」
 髪の中に上から滝沢の指が入り込み、亮の頭を撫でている。
 気持ち悪い。
 気持ち悪い。
――ぴちゃぴちゃ
「んんっ、ん…きざっゎの、ぃしいよぉ」
 おいしいわけない。
 オレは何を言ってる?
――ちゅっくちゅ
「たきざ…、好き――」
 胸の飾りを滝沢の片手につままれ、弄ばれる。
 好きってなんだ?
 オレ、は、誰だ?
『亮さんの大好きなミルクをいっぱいあげましょうね』
「ん、っ、んんぐぅ、んっ!!!」
 喉の奥に熱いものがたたきつけられ、それを必死で亮は飲み下した。
 戻しそうになるのを何度も飲み込む。
 目の端にじんわりと涙がたまっていく。
 滝沢のものが抜かれると、修司はさらに激しく亮を突き上げ始め、亮は四つんばいでがくがくと揺すられ続けた。
 ちりちりと鈴の音が鳴り、亮はシーツを握りしめ、悲鳴を上げる。
「あっ、ふあっ、やぁっ、しゅ…にぃ、しゅ、にぃっ!」
『亮、こんなに僕をしめつけて。それほど僕にされたかったんだね。本当に最低の弟だ』
「んんっ、はっ、とぉる…ダメな…子です、しゅ、にぃ、き…ちぃ、い、熱いよ、しゅにぃの、熱くて…も、っ」
 やめて。
 違うんだ。
 誰か、オレを止めて。
 こんなの違う。
 とおるって誰だ?
 なりさか とおる。
 違う。
 もう、そんな奴いない。
 みょうじん とおる。
 そうだ。
 オレは、もう、家族じゃない。
 父さんは、もうオレがいらない。
 だから、もう、なりさか とおるはいないんだ。
「ォレ、の、名前、明神、亮、です。十五、歳、です……」

「亮っ、おい、亮っ!」
 シドは、自分の横で苦しげに足をもがき、うわごとを繰り返す亮の身体を抱き起こした。
 しかし亮は反応を示さない。
 目は開いているのだ。
 しかしその瞳は何者をも映していない。
「予定より十時間も早いな」
 シドは枕元の時計を見ると、舌打ちをし、携帯電話に手を伸ばす。
 抱き起こした亮の身体は異様に熱い。
 呼吸は途切れ途切れで、何かから逃れようと動かされる四肢が弱々しくシーツを掻いている。
 先ほどまでしずやかに寝息を立てていた亮の様態が急変したのは五分前。
 まだ時間はあると思っていたシドは虚を突かれた。
 ノック・バック症状が始まったのである。
 深夜、階下の秋人をたたき起こすと呼びつける。
 秋人はすぐに器具をそろえ姿を見せた。
「前回よりも早いって、なんで!? ちゃんと血中濃度をはかって処方したのに」
 一回目の投与は一日半を経過してからであった。
 しかし今回はそれよりも早くその時が訪れたのだ。
「まずいよ。かなり大きな発作だ。心室細動でも起こしたら命の保証はできない。すぐにでも薬入れてあげないと」
 シドがもがく亮を押さえつけると、秋人が静脈注射を開始する。
 すると徐々に亮の動きは緩慢になり、急激に体温が下降し始める。
 虚空を見つめていた瞳に、意識の光が戻っていくのをシドも秋人も感じていた。
「亮くんの精神状態も関係してるのかな。とにかく症状が不安定だ。これはしばらく目を離せないね」
 シドがうなずくと、秋人は大きなため息をついて部屋を出て行った。
 これからまた、つらい時間が始まる。
 投与後数分間訪れる正気の時間も、その後襲い来る狂気の時間もだ。