■ 2-26 ■



『西欧地区、グラスゲートのいつもの店に来い』
 明け方六時。
 そう連絡が入ったのは、シドが新たな渡航ルートを探すため、不眠のまま部屋を出ようとした矢先のことであった。
 S&Cソムニアサービスに直接掛かってきたその国際電話の内容は、秋人からシドに伝えられ、シドはすぐさま地下のシールドルームへと入っていた。
 グラスゲートと言えば、犯罪者のアルマが多く集っている物騒なセラの代表のような場所である。
 しかしシドにとっては何代か前からの馴染みのセラだ。
 以前はグラスゲートでだらだらとただ日を過ごすこともあった。
 その時よく連んでいた者の一人。
 それが今、再びあの場所へシドを呼び出していた。
 うらぶれた商業ビルの地下にある、カジノ。
 こんな場所にこれほどの人間が、と驚くほど多くの人間がそこには溢れ、それぞれに嬌声や怒号を発している。
 その更に奥に、小さなバーカウンターがある。
 しょぼくれたバーテンが一人で飲み物を作っているのだが、多くの者はカジノ中央付近に設置された大きなカウンターへ集中し、そこだけは異空間のようにぽっかりと薄暗い世界ができあがってしまっていた。
 シドがその寂れたカウンターへ近づくと、既に奥の席に着いていた男が肩越しに視線を寄越す。
「よお。意外と早かったな」
 氷も入れていない濃い琥珀色のグラスを一口煽ると、銀髪、無精髭のその男は再び視線を前へ戻していた。
「おまえのことだから、二ヶ月も三ヶ月も待たされるかと思ったぜ」
 シドは男の言葉に返事をする代わり、彼から一つ空けた席へ腰を落とすと、注文を取りに来たバーテンを視線で追い払う。
「何も飲まないのか」
「用件はなんだ。嫌みを言うために呼んだわけではないだろう、シュラ」
 七年ぶりに会う昔なじみの顔をちらりと眺めると、シドは低い声でそう言った。
「おまえがどういうつもりなのか、聞こうと思ってな」
 シドは黙したままシュラの次の言葉を待つ。
 仕事の話かプライベートか。
 東亜地区で起こったソムニア連続殺害について、何かかまを掛けられる可能性が一番高い。
 この事件は獄卒との絡みが指摘され始めていただけに、獄卒対策部に属するシュラが出張ってきてもおかしくはない。
 今はそんなことに関わり合っている場合ではないのだが、それでもとにかくシドは少しでもIICRの内情が知りたかった。
「おまえ、日本で何やってる。いつまであの子を待たせる気だ」
 しかしシュラの言葉は、シドの思ってもみないものだった。
 シドは僅かに目を細め、シュラを見る。
「シド。おまえが封鎖くらってんのは知ってる。あんな島国だ。機構の封鎖食らえば、どう足掻いたって脱出することはできねぇ。それもわかる。だがな――」
 シュラは手にしたグラスを乱暴にテーブルへ置くと、ナイフのような眼光でシドを見据えた。
「泳いででも来いよ! おまえをキルリストに載せないために――自分の帰る場所を守るために、あいつは必死に戦ってる。あいつ、あんなボロボロんなって……。あんな小っちぇーガキがだぜ!?」
「シュラ、おまえ、なんで――」
「なんで!? 俺はおまえが消えてからカラークラウン様になったからな。セブンスにだって出入りできる」
 この男が数年前カラークラウンを襲名し、今は獄卒対策部の部長をしていることはシドも聞いていた。
 しかし獄卒対策部などという無骨な部署ではセブンスと関わることは少ない上、シュラの性格上あそこへ出入りすることはあり得ない。
 そんな思いも掛けない相手からの情報提供に、シドは体をシュラへと向け直す。
「おまえ、どこまで聞いてる。レオンから連絡が行ってるはずだが、壬沙子は全部を話しちゃいないだろう」
「――ガーネットの亮への対応が酷いという話は聞いている。ゲストを毎日強制的に取らされている状態だと……」
「毎日――確かにな。毎日ゲストは三件から四件。何人か連れ立ってくる輩もいる」
 シドの瞳が見開かれる。
 これではまるで十八世紀のゲボの扱いだ。
「二週間前、違法GMDの過剰摂取により、心肺停止。まぁ、すぐに回復はして今は大分体力も――」
「っ、馬鹿な。セブンス内でか!? セブンスで違法GMDなど――!」
「使用者のフェフ・ライラックはすぐに転生刑を食らって電気椅子だ。今はもういねぇ。それ以来、亮への強制ゲストはなくなり、ようやくまともになったかと思ってたわけなんだが……」
 呼吸をすることすら止めたシドの様子に、シュラはわずかに言葉を濁す。
 だが、天井の明かりを映し出すグラスの中へ視線を落とすと、先を続けた。
「――――亮は今、受胎してる」
 グラスの中の琥珀が、瞬間にシュラの手の中で白く凍り付いていた。
 ミシミシとグラスが軋む。
「なんの、冗談だ、シュラ――それは……」
「俺も最初は冗談だと思ったよ。だがレオンが言うには、イェーラ・スティール本人が宣言したらしい。イェーラ種は受胎させた瞬間わかるらしいからな。これ以上ない診断だ」
「有り得ん! ゲボがイェーラにそんな――」
「俺もそう思うよ。スティールが誰もが惚れる男前ならともかく、あいつは最低の部類の人間だ。亮から求めるはずもない。――しかも亮は男の子だ。混乱と嫌悪感は女性以上に激しいだろう」
「やめろ。もう、それ以上言うな」
「宿主は使い魔にアルマの力を削り取られ、能力も著しく後退する。それ以上に、ソムニアにとってイェーラの使い魔を生まされるってことが、どれほど屈辱的なことか――」
「やめろ、シュラ」
「だがな、俺たちがどう思おうと、三ヶ月後には亮のアルマからスティールの使い魔が――」
 甲高い音が連響し、次々と棚上の酒瓶が砕け散っていく。
 シュラの手の中にあるグラスも、次の瞬間真っ白な砂となって弾け飛んでいた。
「やめろと言っている!」
 低いシドの唸りが聞こえた頃には、バーテンも周囲の客も、悲鳴を上げて入り口側へ逃げ出してしまっていた。
 陽気なビッグバンドが流れる店内で、シドは肩で大きく息をつき苦しげに瞳を閉じている。
「俺にはどうしてやることもできねぇ。あの子を連れて飛び出して、機構を相手に戦う覚悟もないし、やりきる自信もねぇ。今ある仕事を放り出すこともできねぇ。それに――俺にも可愛くはないが大事な女がいる。泣かすわけにはいかねぇしな。――つまり、亮をどうにかしてやれるのはおまえしかいねぇってこった」
 シドは目を開けると、言葉もなく立ち上がる。
 乱れていた息も、既にいつもと変わらないまでに整っていた。
 シドの中で何かが固められたらしかった。
「どんな方法で来る気かしらねぇが、三ヶ月は待てねぇぞ。泳いで来るなら、背中にエンジンでも背負うんだな」
 かき消えていくシドの姿を眺めながら、シュラは手に光る、解けたスコッチの雫をぺろりと舐める。
 シュラにもシドを渡航させる方法など思いつかない。
 だがあの男はきっと二、三日中には本部へ顔を出すだろう。
「俺に出来るのはハッパ掛けるくらいか。情けねぇ」
 大きく息をつくとガシガシと髪を掻き、シュラもそのままの様子でカウンターから消えていった。






――まさか、こんなことになるなんて!
 ガーネットは一人暗い廊下を歩いている。
 深夜一時を回ったセブンスでは、ほとんど物音というものがしない。
 常夜灯のみにぼんやりと青く照らされた通路は、今のガーネットの心情そのものを描きだしているように、不安と闇で充ち満ちていた。
『亮がイェーラ・スティールのファミリアを受胎したらしい』
 その報告を受けたのが六時間前。
 それから今まで、ガーネットは全ての仕事を打ち切って、一人執務室にこもっていた。
 そして決意を固めきれぬまま、彼女は今こうしてセブンス六階の通路を歩いている。
 その手に銀に輝くナイフを携えて。
――ゲボがイェーラの使い魔を受胎するなど・・・。これはやはり亮だからなのか。それとも何か別に理由があるのか。
 ガーネットはぶるりと体を震わせると、肩に掛けられたショールを羽織り直す。
――どちらにせよ、これはあってはならないことだ。
 緩み掛けた歩みを再び速めると、ガーネットは亮の私室の玄関前で立ち止まっていた。
――三ヶ月後。亮のアルマから使い魔が分かれ出てからでは遅い。
「そうすれば、――セブンスが終わる」
――もっと早くに、直接私が手を下すべきだった。
――私が、あの子を自ら・・・。
 ガーネットの手がドアノブに掛けられる。
 ゆっくりと回しかけた真鍮製の取っ手はしかし、半分も回りきらないうちにガチリと固い音をたて止まっていた。
 鍵が掛かっているのだ。
 ガーネットは目を閉じ、ふっと息を吐くとノブから手を離していた。

 深夜一時。
 当然のことながら、セブンス内の私室は厳重な戸締まりが執事達によって成されている。
 これは日頃からガーネットが徹底させている基本事項だ。
 そんなことすら、ガーネットは失念してしまっていた。
 当然のことながら、マスターキーも持ってきてはいない。
 冷静なつもりでいて、実のところガーネットの頭は熱に浮かされきってしまっていたらしい。
 その薄い唇から、小さく乾いた笑い声が漏れた。
 ノブを握っていた右手を見れば、冷え切った汗で明かりを反射し、薄青くぬめっている。
「私は――初めから覚悟など決まっていなかったのか」
 扉がガーネットを拒んだ瞬間、彼女は凄まじい安堵感に襲われていたのだ。
 結局、亮をこの手で自らと思い詰めてここまで来たものの、それは自分自身すら誤魔化すための道行きに過ぎなかったらしい。
 本気で覚悟を決めていたのなら、マスターキーを忘れてくるはずなどないのだ。
――ゲボ・レイニー。こんなことでは、セブンスを守ることなど私にはできませんね。
 自嘲気味に口の端をゆがめ扉を見つめると、ゆっくりと元来た廊下を戻り始める。
 ひんやりと冷たい薄青の中、疲れ切った足取りで、のろのろとガーネットはエレベーターへと向かっていく。
「まったく――あの男は何をしている」
 しずやかな衣擦れの音を引きながら、苦々しい口調で彼女はそう呟いていた。