■ 2-31 前編 ■



 シュラは自宅玄関の扉を開けると、いつもと同じくまずダイニングへと向かった。
 何でも放り込めるようにと買った大きめの冷蔵庫を開けると、ガス抜きのミネラルウォーターを取り出し、ペットボトルに直に口をつけ喉を鳴らして呷る。
 痛いほどに冷えた水が、食道から胃にかけて流れ落ちていく感覚が心地良い。
「――ふぅ」
 1.5リットルの中程まで一気に飲み、ようやく息をついたシュラは、バタンと寝室のドアが閉じられた音を耳にし、瞬間情けなく顔をしかめていた。
――しまった。やっちまった。
 「直接口をつけて飲むな」と再三リモーネに言われている。
 しかし、一人暮らし時代から続けていた癖はなかなか抜けないもので、元来おおざっぱなシュラは、いつも彼女を怒らせては謝る羽目になるのだ。
 今回は更に悪いことに、目撃されたにもかかわらずその場で注意もされなかった。
 これは相当キレているに違いない。
 髪を掻きながらため息混じりに歩くと、奥の寝室ドアを開く。
 今度は枕でも窓から投げ捨てられていそうな予感がした。
「あー、すまん。その、ちょっと疲れててだな。勢いで飲んじまっ・・・」
 扉を開けたシュラは、最後まで言葉を発することなく動きを完全停止させていた。
「おかえり、シュラ。仕事、疲れたろ? すぐごはん用意するから!」
 キングサイズのベッドシーツを、小さな身体で一生懸命取り替えていた少年が、肩越しに零れるような笑顔を向ける。
 ユベントスのレプリカユニフォームにハーフパンツの彼は、フリルの付いた真っ白のエプロンをつけ、忙しそうに立ち振る舞っていた。
「――っ、? あ? え? な?」
 思いも寄らない光景に、シュラはバカみたいに口をぱくぱくさせて意味にならない音を発する。
「――? どしたんだ? あ、このエプロン、あったから勝手に使っちゃったけど、もしかしてダメだった?」
 立ち上がるとはたと気づいたように自分の格好を見下ろし、少年はエプロンの裾を広げてみせた。
「ごめん、大事なものだって知らなくて。すぐ脱ぐから――」
 しゅんとした彼は背中に手を伸ばし、大きくちょうちょ結びにした背中のリボンをほどこうとする。
 シュラは反射的に言葉でそれを制止していた。
「いや、いいんだ。そうじゃなくて、あれ――、俺、どうかしちまったかな。なんか一瞬、すげぇ戸惑っちまって――」
 寝室の扉を閉じ少年に歩み寄ると、吸い込まれそうな黒い瞳で見上げてくるその子の髪を撫でてやる。
「ただいま、亮」
「うん、おかえり、シュラ」
 亮はもう一度嬉しそうに出迎えの言葉を言うと、無邪気にシュラの腰に両手を回し、すり寄っていた。
「今日も一日、いい子にしてたか?」
「大丈夫だよ。昼はノーヴィスも居てくれるし、心配いらないって。シュラはすぐそうやってオレのこと子供扱いすんだからな!」
 不服そうに唇を尖らせる亮に、シュラは「すまん」と笑ってみせる。
 そうなのだ。
 全て事件はうまく解決し、亮はセブンスを出てシュラのマンションで共に暮らすことになったのである。
 リモーネはシュラのその提案に「こんな大きな子はまだいらん!」と腹を立て出て行ってしまったが、シュラに後悔はなかった。
 セブンスなどというあんな忌まわしい場所に、亮をこのまま置いておくことなど、どうしても出来なかったのだ。
「しかし――、おまえがつけると同じエプロンとは思えんな」
 ダイナマイトバディのリモーネが愛用していたこの新妻エプロン。
 以前は、プレイボーイ誌のグラビア専用に作られたセクシー衣装のように思えたものである。
 だが今は、全く同じエプロンが、まるでアリスが置き忘れていった禁断のドレスのように見える。
 エプロンから直接伸びる亮のすんなりとした素足が、気まずいほどイヤらしい。
 シュラは思わず視線を上へ逸らすと、ぎこちない咳払いをしていた。
――なんなんだ。俺はレオンの変態とは違うはずだぞ、コラ。
「シュラ?」
「ん、ああ、すまん。め、メシの前に、シャワー浴びてこようかな」
 取り繕うように言ったシュラの言葉に、亮が言葉を重ねる。
「もうほとんど準備出来てんだ。あとはよそうだけ。だから、オレも一緒に風呂入っていい? ベッドメーキングしてたら汗だくになっちゃったから――」
 あのサイズのベッドを慣れない子供が一人で整えたのだ。
 暖房の効いたこの部屋では汗をかいても仕方ない。
「かまわんが、なんならおまえ、先に入るか? 汗かいてほっといて風邪引いたらいかんからな。俺は後でも――」
「ううん。一緒でいいよ。オレ、シュラなら一緒でもいい」
 そう言ってシュラの腰に回した手をほどくと、亮は少しだけ俯いて幸せそうに頬をほころばせていた。
 暖房のせいか頬が桜色に上気しているのがわかる。
――っ!!!! 
 シュラは意味なく己の心臓が跳ね上がるのを感じていた。
 心なしか身体が熱い。
 やはり空調が効きすぎているのかとも思ったが、そもそもカウナーツ種である自分が『熱い』と感じるなど有り得ないことだと思い返す。
――なんなんだ、これっ! オレは変態か!? 犯罪者か!? ああっ!? しっかりしろよ、俺っ!!!!
 目を閉じたシュラの眉間に深く縦皺が刻まれ、盛大なため息がその口から漏れ聞こえていた。
「ぁ――、ごめ、やっぱ大丈夫。オレ、大して汗かいてなかったかも。シュラもゆっくり一人で入りたいよな。ホント気が利かないな、オレって」
 亮は小さく笑うと、弾かれたように背を向け、小走りに寝室を出て行く。
「オレ、ごはん、用意しとくっ」
「ちょ、違う、亮! そういうことじゃなくてだなっ……」
 つかもうとする自分の腕をすり抜けた少年の背中を、シュラは咄嗟に追いかけていた。
 自分の無神経な行動に再びため息が漏れそうになる。
 あんなタイミングであんな態度を取れば、亮に対して当てつけているように取られて当然だ。
 ましてや、リモーネの反対を押し切って、セブンスから自分を引き取ってくれたという負い目をシュラに対し常に感じている亮である。
 今が二人にとってデリケートな時期であることを、もっと自分は自覚しなくてはならない。
 寝室を飛び出し、キッチンに向かおうとする亮の身体を、シュラはリビングで捕まえていた。
 右手で肩をつかみ、逃げないように左腕を腰に回す。
「おらっ、人の話は最後まで聞け」
「いいよ、ホントに大丈夫だから、シュラ、ゆっくりシャワー浴びてこいって」
「何が大丈夫だ。ユニ、ずいぶん湿ってるじゃないか。一緒に風呂入るぞ」
「で、でも――」
 再び亮の睫毛が伏せられ、白い目元に影を落とした。
「でも――なんだ?」
「オレ、ゲボだし男だし、シュラ、お姉ちゃんが好きだから、一緒に入るの気持ち悪いよな。オレそんなこと全然考えてなかったから……。ただ、昔しゅう兄と風呂入ってたこと、思い出して――なんかちょっと嬉しくて……」
 勢いで吐き出され始めた言葉は次第に力をなくし、最後は明らかに何かを堪えるように震え始める。
「亮――」
「っ、ごめ、オレ、なんも考えてなかった――。ォレ、最低なのに。オレ、すげぇ汚いのに――、いっぱい、男の人とヤらしいことしたのに――」
「亮、もういい。やめろ――」
「シュラ、優しいから、ォレ、調子に乗っちゃって――、っ、ぇぐっ、ぅっ……、も、言わないから、ぅっ…、ごめ、なさい。も、言わないからっ…、ぇぅっ…、嫌いにならないでぇ…ぇぐっ…」
 ぎゅっと閉じた瞳から、大粒の涙がぽろぽろと頬を伝い零れ始めていた。
 後ろから肩に回したシュラの腕に、暖かな雫がいくつも降り注ぐ。
 シュラは衝動的に身をかがめると、背後から亮の瞼に唇を寄せ、涙を舐め取っていた。
「バカだな――、おまえは」
 言いながら、あぐらを掻いた己の膝の中に強引に亮を座らせ、横抱きにもう片方の瞼にもキスを落とす。
――いや、バカなのは俺か。こんな風に亮を泣かせちまって……
「シュ…?」
 突然の事に驚いたように視線を上げた亮に、シュラはゆっくりと唇を重ねていた。
「俺が亮を嫌いになるわけがないだろう――」
 吐息混じりに唇を着けたままそう告げると、固く引き結ばれていた少年のそこに舌を這わせくすぐってやる。
 最初は戸惑っていた柔らかな膨らみが、その愛撫に次第とほどけていくのがわかる。
「――ん……」
 入り込もうとする舌に反射的に逃げようとする身体を強く抱き寄せ、シュラは亮の歯列を割り、それを中へと忍び込ませる。
「っ、んふ――、っ…、」
 おずおずと差し出される小さな舌を絡め取り、優しく吸い上げてやると、強ばっていた亮の身体から力が抜けていくのが感じられた。
 まだこぼれ落ちようとする涙を親指でぬぐってやり、ちゅっと音をたてて下唇を甘く吸ってやる。
 名残を惜しむように顔を上げると、自分の腕の中で亮は荒い呼吸をついていた。
「んぁっ…、シュラの、ちゅ、熱い――」
 頬を紅潮させ茫とした瞳で見上げてくる亮の言葉に、シュラは突き上げるような愛しさを感じる。
 無意識に、亮を支える腕をぐいと引き寄せた。
「亮。俺はおまえに触れるのが恐い。それは、おまえがゲボだからじゃねぇ。男の子だからでもねぇ。――俺は、おまえを傷つけちまうことが……恐いんだ」
 抱きかかえた亮の髪を、無骨な指先が優しげに愛撫する。
「セブンスであんなつらい目にあってきたおまえを、これ以上同じように苦しめることはできないって、わかってんだ。だが――俺は、自信がない」
「自信?」
 苦しげに顰められたシュラの青い目を見つめ、亮は不思議そうに繰り返した。
「今わかった。俺もまた、あいつらと同じように、自分の薄汚い欲望でおまえを傷つけちまうんじゃないかって――。俺はそれが恐くてたまらなかったんだ」
「シュラ……」
「おまえを引き取るって決めたときに絶対そういうことはしないって決めてたんだがな。はは……結果はどうだ。こうやっておまえに欲望丸出しのキスまでしちまって。――ザマぁないな」
 シュラは自嘲の笑みを浮かべて見せる。
「だから、おまえが自分のことを卑下する必要はないんだ、亮。――もう二度と、あんなこと言うな。俺も二度とこんな真似、しねぇから」
 そう言うとシュラは大きく深呼吸をしていた。
 亮の身体を抱えたまま立ち上がると、バスルームへと歩き出す。
「やっぱりおまえ、一人で入れ。表の回は譲ってやる」
 もったいをつけて、わざと偉そうに言ってみせるシュラに、亮は思わず笑っていた。
「・・・シュラ、サッカー好きなら前半戦とか言おうよ」
「んー? そうか? おまえの好きな野球じゃ、表の回と裏の回なんだろ?」
「――オレ、ヤじゃなかったよ?」
 ぽつりとなされた繋がらない会話に、シュラが怪訝そうに亮の顔を見下ろす。
 そんなシュラを見上げ、亮は真っ赤な顔で思い切ったように先を続けていた。
「シュ、シュラのキス、熱くて舌、やけどしそうだったけど、胸の奥まであったかくなった」
「――っ」
「オレ、もうセブンスでのことは言わない。だから、――だからさ。や、やっぱ、一緒に入っちゃ、――だめ、かな?」
「――!! おまえ、だって、そんな……」
「オレ、今のちゅうでわかったんだ。きっと、シュラだったら平気。どんなヨクボーなことされても、傷ついたりしない。だって――だって、オレ、シュラのこと好き……だから」
 まさにゆでだこ状態に真っ赤になった亮は、最後、消え入りそうな声でそう告げていた。
 カウナーツであるシュラよりも、今の亮の方がよほど熱を発しているようである。
「お、おまえ、自分で、わかって言ってんのか? そんな風に言われりゃ、俺は自分のいいように解釈しちまうぞ!?」
 シュラも亮の照れがうつったように、ガラにもなく頬に朱をのせる。
 レオンにでも見られれば、酒を飲む度、一生これを肴に何時間でもつつかれそうな光景だ。
「いいよ、別に。だって、オレの好きは、ホントの好きだもん」
 亮は口を尖らせ強がってみせるが、その声の震えは、少年がいっぱいいっぱいであることを如実に物語っている。
 シュラはそんな亮の様子に、雄叫びを上げながら抱きしめて、頭もほっぺも撫でて撫でて撫でまくって、気を失わせるほどにキスしたい衝動に駆られる。
 が、そこは六度も人生を経験したソムニアである。
 ぐっと堪えると、大人の余裕でもう一度だけ、確認の言葉をかけていた。
「いいのか? 止まんねぇぞ? もう泣いてもやめてやらねぇぞ?」
「ぃ、ぃいよ。オレ、泣かねーもん。絶対泣かない!」
「ほお――」
 バスルームの扉を足で開けながら、シュラが好戦的に笑って見せた。
 プツン――と、自分の中で何かが弾けた音がする。
「じゃあその覚悟、見せてもらおうじゃねぇか」