■ 2-34 ■



 検査室の扉が開き中からシュラが出てきたことに、スティールは少なからず驚いたようであった。
 廊下の向かい側ソファーに掛けたまま顔を上げると、その名の通り鉄色の目を一瞬見張る。
 そしてすぐにそれは疑惑を憎悪で割ったようなものへと変貌していた。
「どうしてあなたがそこに?」
「亮の付き添いでね。友達だからな――」
「ほう――。ファミリアの検診に関係のないお友達が付きそうとは、ここのしきたりも随分様変わりしたものですね」
 スティールは目を細めすらりと立ち上がると、シュラのブルーアイズを刺すようににらみ据えた。
 しかしシュラはそれを凍り付いた視線で真正面から受ける。
「勘違いするなよ? てめぇはただのゲストの一人で、亮にとっちゃ嫌々ながら構ってやってる気色の悪い変態野郎でしかねぇ。映像見せてもらったが、てめぇの薄汚ねぇ使い魔なんか、欠片も亮の中には存在しちゃいなかったぜ?」
「とんだ横恋慕ですね。どちらが薄汚いのやら。あなたの願望や妄想を聞いているヒマはあいにく私にはないのです。そこをどきなさい。こんな非常識な暴漢を入れるとは――後から医療局長に文句を言ってやらねば」
 歩き出しながら、スティールのだらりと下げられていた指先が、何かをたぐるようにぴくりと動く。
 すれ違いざまその手をシュラの手がぐっと封じ込めていた。
「おっと、ここは医療棟だ。ファミリアなんて騒々しいモノ呼ぶなよ」
 ジュッと小気味いい音が上がり、シュラの手の中でスティールの白い袖が炭化していく。
「――っ!!」
 目を剥き引こうとしたスティールの腕は、しかし幾筋もの細い煙を上らせぐいとひねり上げられていた。
「安心しな、燃やしゃぁしねぇ。火気厳禁の文字くらい読めるぜ」
 鼻先数センチまで顔を近づけると、シュラが恫喝するような低い声でそう吐きかける。
「――人間の身体なんてな、一瞬で炭になるもんなんだ」
 ギリギリと睨み合いながら、スティールが残された右手を上げる。
 その瞬間、耳障りな雑音と、切り裂くような烈風がシュラの左鼓膜を叩いていた。
「!!」
 反射的に腕を放し身体を大きくのけぞらせると、目の前をどす黒い影が横断していくのが見えた。
――まだ来るっ!
 シュラの閃き通り、それを前触れに大きな塊が襲い来る。
 天井を仰いだ体勢で床に触れんばかりに一瞬で体を落とす。
 膝と腰の力だけで水平になる上半身を支え、倒れ込みざま肩に掛かったホルスターから銃を引き抜いていた。
 二発の轟音。
――パンッ!
 銃声の尻に被るように甲高い破裂音がし、白い粉が辺りを覆った。
「――ちっ」
 弾丸は上空を過ぎ去る黒い塊を通り抜け、この戦場を白く浮き上がらせていた蛍光灯を砕け散らせたに過ぎない。
 降り注ぐガラス片に構うこともなく、シュラはサイドへ身を転じる。
「あなたの方こそ医療棟でそんな恐ろしいモノを振り回して、どうかしていますよ」
 ワンワンと響き渡る無数の羽音はそれぞれが共鳴し、漆黒の煙となってスティールの周囲を巡り始めていた。
 それは、数千、数万という蝿の群れ。
 彼の自慢の使い魔の一つだ。
 炭化した袖の屑をぼろぼろと指で払いながら、スティールは廊下でひざまずいたシュラを見下ろす。
「恋は盲目っていうだろ?」
 ぺろりと親指の腹を舐めると、シュラは再びスティールへ銃口を向ける。
 しかしスティールは特に慌てた様子もない。
 それどころか、口元に笑みを浮かべ得心がいったというように何度も頷いていた。
「なるほど。やはりそうですか。ははは――とんだ悪い虫が寄ってきたモノです。いくらあなたが亮を想おうが、どうしようもないことなのですよ。亮は私との間にファミリアを作るほど、私のことを愛しているのですから」
「おまえさえここから消えてくれれば、俺にもチャンスは回ってくると思うんだがな」
「――こんな場所で私を殺すと・・・? 愚かな。後で処分されるのは目に見えているでしょう」
「後のことなんざ知るか。亮がおまえにべたべたしているのが気に入らねぇんだよ。もう、一瞬だってあんな光景見ていられねぇ――」
 スティールの口から高笑が上がる。
 あのいつも良識派然としたいけ好かないジオットが、スティールの所有物を欲し、目の色を変え、己の身を滅ぼす行動を起こしている。
 その事実が溜まらなく彼の優越感を刺激し、突き抜ける快感に興奮が駆けめぐる。
 できるならこの男の目の前で、亮を犯しつくしてやりたい。
 自ら望んでスティールのモノをしゃぶる亮を見せつけてやりたい。
 ああ、そんなことをすればきっとこの男は狂ってしまうな。
 狂ってしまったジオットになら、亮を抱かせてやってもいいかもしれない。
 スティールの中で欲望という名の妄想が一瞬にして描き出されていた。
 優越感と情欲に潤んだ瞳でシュラを見据えると、しかしスティールは沈痛なため息をつく。
「残念ですよ、ジオット。もう少し早くおっしゃってくれれば、あなたも私の遊びに加えてあげられたのに」
「っ! ――てめぇが俺の遊びに付き合えよ。たった今からよ」
 いいざま、デザートイーグルが咆哮を上げる。
 硝煙の臭いが再び辺りに充満する。
――ヴァン
 電子のような音をたて、スティールの眼前に漆黒の壁ができあがっていた。
 奥行きのある影はぶち込まれる弾丸を飲み込むと、次の瞬間黒い塊を吐き出しボトリと落下させる。
「っハハハハハ! カウナーツの力はどうしたんです? そんなマナーツでも扱える無粋な武器ばかり使って」
「うるせえっ! 医療棟じゃ使わねぇって言ったろうが!」
「ふふ、こんな状態で炎を出せば、検査室ごと溶解してしまいますか? 強い力も制御できなくては意味がありませんね、ジオット」
 角度を変え、徐々に後退しながらシュラは銃を撃ち続ける。
 しかし弾丸は全て黒壁に突き刺さり、むなしく吐き捨てられるばかりだ。
「――どこへ行くんです。私はここから動きませんよ? 亮の側にいてあげなくてはいけませんからね」
 ジオットが彼をこの場から引き離そうとしていることを、スティールは敏感に察知していた。
 ここから離れれば、遠慮なくあの男は青い剛炎と呼ばれる彼の能力を使ってくるだろう。
 しかしここにいる限りは安全だ。亮の側で無茶な真似はできまい。
 切り札の使えないジオットを、じわじわと嬲り殺す。
 しかもこれはあくまで正当防衛だ。
 なかなか楽しい趣向の遊びになるだろう。
「獄卒対策部部長などとは言っても他愛のないものですね。所詮、部下が居なくてはあなたには何一つできはしない」
 シュラは後退の足を止めると、手にした銃を再びホルスターへ収めていた。
 それをスティールは満足そうに眺める。
「おや、もうおしまいですか? ですが、あなたの始めた遊びです。付き合ってあげた私をおざなりにすると言う法はないでしょう」
 黒い壁が一斉に散った。
 それは雲塊となり瞬く間にシュラの周囲に群がっていく。
 いつしかシュラの全身は蝿たちのベールに覆い尽くされ、人の輪郭だけ保った忌まわしい怪物となりはてていた。
 表面で蠢く幾万もの黒点。
 蝿の下に蝿。黒の下に黒。
 シュラだった身体の部分はもうどこにも見えなくなっていた。
 視界ゼロの暗黒の闇が立ちつくす彼を取り巻き、シュラの耳の穴や目の中に潜り込もうとする。
 狂ったようなノイズがシュラの平衡感覚すら奪っていく。
「――っ!!!」
 手で霧を払うような仕草をしながら、よたよたとシュラの身体がスティールの方へ向かってくる。
「私はまだまだ遊び足りませんねぇ、カウナーツ・ジオット」
 今、スティールの小さなファミリアたちが、このカウナーツ種カラークラウンの柔らかな目玉や鼻の粘膜、内耳から脳に掛けて食い破っているのだ。
 大きな顎で肉を食い破り、細い六本の手足を蠢かせ、羽を小刻みに羽ばたかせながら我先にと忌まわしい身を潜り込ませて行っている様が目に浮かぶ。
 スティールはその光景に、ぞくぞくと背筋を粟立たせた。
 シュラの足の運びは完全に酔っぱらいのそれで、あちらこちらの壁にぶつかりながら、苦悶の黒い雲から逃れるためだけに動かされているのがよくわかる。
 もう脳の一部は食われてしまっているのかもしれない。
 蝿たちを手で払う仕草も徐々に緩慢になり、今やヴードゥーの動く屍そのものだ。
「ふふふ……、ハハハハハハハハっ、どうしました? 足がもつれていますよ?」
 スティールのすぐ前まで、それでもこの男はたどり着いていた。しかし蠢く黒い塊でびっしりと覆い尽くされたそれは、すでに人だとの判別もつかない。
「可哀想に。苦しいですか? それとももう感覚もありませんか? ――ああ、あなたのこのバカみたいな姿を、私の亮にも見せて一緒に笑ってあげたい」
 一メートル手前。
 黒い影は腕らしき二本の棒を差しのばす。
 それを笑って払いのけようとしたスティールの目が、一瞬、有り得ないものを見ていた。
「っ!?」
 リノリウム製の褐色の通路。
 そこに、まるでカタツムリでも這ったように黒い筋がついていた。不規則な動きを見せるその一本線は、明らかにシュラが歩いてきた道そのものだ。
――まさかっ!!!!
 スティールが前面に顔を向けた瞬間、左目が自分を見ていた。
 片方だけ黒い衣の内から現れた青い瞳は、まさに炎を宿し、スティールをにらみ据えている。
 身を引こうとしたスティールの肩が、二本の黒い腕にがっしりと捕らえられていた。
 ざらざらと無機物な音が鳴り、黒い塊が床にこぼれ落ちていく。
 青銀の髪が現われ、続いて日に焼けた精悍な顔が現われる。
 肩も、腕も、足も、次々と黒いベールは取り去られ、色彩を取り戻したカウナーツ・ジオットの姿がそこにはあった。
「――ひっ!」
 ジオットが肩をつかんだままもう一歩踏み出すと、サクリと小気味いい音が足下から上がる。
 黒い忠実な使い魔たちは、既にただの炭素の塊へと姿を変えていたのだ。
 プッと口の中から小さな黒い欠片を吐き捨て、シュラが笑った。
「バカはてめぇだ、宴会芸で騙されてんじゃねーよ、クソ野郎」
 セラ内で能力を制御することなど、シュラにとっては朝飯前の話なのだ。
 体表面に群がる蝿たちだけ、薄皮一枚程度の熱の壁で焼き落としていく。
 しかも炎を上げさせる前に、一瞬で炭化させる。
 その結果があの黒い道なのだ。
 よたよたとした歩き方は、去年のハロウィンでの練習のたまものである。獄卒対策部一同で、ゾンビの真似をして総務部に酒と肴を強奪しに行った前科が彼にあったことを、研究局局長は知るよしもなかった。
「ひっ、まさか本当に殺したりはしないでしょう!? まさかっ!」
「ああ、殺しゃしねぇさ――」
 シュラの言葉をどうとったのか、一瞬ひくりと安堵の表情を浮かべかけたスティールの顔が、恐怖に強ばった。
 右腕で肩をつかんだまま、シュラは左腕を高々と上げ、拳をスティール側へ向けて一気に振り下げていた。
――ヴォン
 スティールも良く知る『あの』音を、研究局局長は信じられないと行った顔で聞かされる。
 この音はスティールも開発に関わった、獄卒対策部専用の特殊兵器のものだ。
「――ぃぃいいいいいいっ!!!!!!」
 逃れようと引かれたスティールの身体に銀色の糸が降りかかる。
 手袋の甲に仕込まれた膨らみには、研究局の粋を集めて作り上げられた対獄卒用捕縛溶液が充填されている。
 それがシュラの腕の動きに合わせて開けられた微少の穴から噴出され、空気中で固まることによって銀糸の形状を現わすのだ。
 頭のてっぺんから足の先まで、細く溶けた飴のようなそれは幾筋も重なり、スティールが暴れる度に絡まって締め上げていく。
 ドサリと身体が転がった。
「なんれ、しょんなもの、人にちゅかうっぅぅいぃいいい!!!!!」
「言ったじゃねぇか。殺さない為だってな。――あんたの作ったこいつは最高に優秀だぜ?」
 獄卒を捕らえるために作られた、捕縛用ネット。
 これで捕縛されたものはセラ内に拘束されるだけでなく、手足の動き、指の動き、目の動き、舌の動き、全てが固定されてしまう。
 獄卒用の為パワーを制限せずに作られたこのネットはあまりに威力が高く、人間のアルマに利用する事は禁じられている。
 捕らえられた者は全身が焼けただれ、糸が徐々に肉へ食い込んでいく感覚に苛まれ続けるのだ。
 だが動きが封じられているため、苦悶に転がり回ることも出来なければ、涙を流すことも出来ない。
 そして当然のことながら、死ぬこともできなくなる。
 特定危険兵器の認定を受ける捕縛用ネット――これの個人携帯が許されているのは、世界中で、IICR獄卒対策部部長カウナーツ・ジオットただ一人である。
「――アガガガガガガガァァッ!!!!」
 既にスティールは銀の繭状にまで膨れあがり、床の上で礼儀正しく気をつけ姿勢のまま奇声を発するしかない。
 開けっ放しに固定された口から、だらだらと唾液が滴り落ち、耳の中へと垂れ下がっていた。
 捕縛を完了すると、シュラは手袋を外し、ポケットへとねじ込む。
 半透明の銀の中で、スティールは目を剥き、ただただ上空を見上げるしかない。
 全身を焼く痛みと混乱で正しい思考が阻害されていた。
 だが一つだけわかることがある。
 自分の計画は失敗したのだ。
 ジオットが検査室から現われた段階で、自らの命を絶つべきだった。
 なぜ自分はそうしなかったのか。
 あれほど細心の注意を払って計画を進めてきたのに。
 死ぬことなどどうということもなかったのに。
「俺が恋に狂ったと本気で信じたのか? めでてーぜ」
 シュラのブーツで、銀の繭ごとスティールはガッツリと踏みつけられていた。無精髭の憎らしい顔が自分をのぞき込んでいる。
 そこから演技だったとでもいうのか、この男は。
 嫉妬に狂う男の振りをして、自分を『殺そう』としている真似をして、自分を安心させたのか。
――そうか、恐怖のない死が、私を死から遠ざけたのか。
「っ、ぁぁあああがぁああぁぁあっぁ・・・・・・」
 呪いの言葉を述べたつもりだった。
 しかしスティールの口から上がるのは、もはや意味を成さない呻きだけだ。
「魂の欠片も残さず消え去れ。ゲス野郎――」
 シュラの顔に笑顔はなく、ただ無感情に銀の繭を見下ろすばかりだった。