■ 2-6 ■



「うー、やっぱちょいキツかったかな」
 亮を乗せた自転車は、よろよろと学校前の坂道を力なく上っていく。
 天気は快晴。風もそよ風で、本日はサイクリングにもってこいの天候だ。
 だがしかし、自転車を漕ぐ足はいつもより確実に重たかった。
──だったら帰ってシドと顔合わせるか?
「・・・だめだ。それはもっとキツい」
 夕べのことが頭をよぎる度、亮は叫びながらじたばたと暴れまくりたい衝動に駆られる。
 時よ戻れ!
 あの時のオレよ、消え去れ!
「・・・っ、ぐわあああああっ、だめだ、だめだああああっ!!!」
 亮は唐突に叫びを上げると、全身全霊を込めて自転車を漕ぎまくった。
 よろよろと頼りなかった自転車に力がみなぎる。
 こんなに恥ずかしくていたたまれない気持ちなのに、なぜか亮の心は沈んでいないらしい。いや、それ以上に、妙に吹っ切れたような明るさがそこにはあった。
 鞄に入れたコンビニのお茶がチャプチャプと軽快に鳴り、亮は思い切り立ち漕ぎで飛ばしていく。
 足も腰も体中がだるい。
 しかしそれを凌駕する恥辱エネルギーが亮の推進力を助けていた。
──今日帰ったら、シドに生姜焼き作ってやろ。
 ふとそんな考えがよぎる。
 亮の作った様々なメニューを、感想の一言もなく平らげてきたシドだが、生姜焼きの時だけ珍しく「これはなんだ?」とメニューの名前を聞いてきた事を亮は覚えていた。
 しかも野菜をすぐ残すシドが、その時だけタマネギまできれいに食べきったのだ。
「よし。帰りにスーパー寄って、肉買って──今日はキャベツも食わして見せる!」
 妙な意気込みを見せひた走る亮の横に、見慣れない黒のバンが近づいてきたのはその時だった。
 亮のすぐわきに車体を寄せると、亮の行く手を遮るように斜め前へ突っ込んでくる。
「っ!!」
――ガッシャーン!
 よそ事を考えながら全力漕ぎしていた亮は、当然のことながらその突然の障害物をよけきることが出来ず、派手な音を立てて激突していた。
 とっさに受け身を取るが、それでも万全の体調とは言いがたい亮は右腕からアスファルトに強く叩き付けられる羽目になる。
「ぐっ――、いってぇ……」
 閉じた目をどうにかあけ、亮が身体を起こそうとする。
 しかしその瞬間、ふわりと亮の身体が浮き上がっていた。
 バンの後ろから現れた数人の男達が亮の身体を抱え上げ、あっという間に車中へ引き込んだのだ。
 一人の男が心得たように、無惨にハンドルの曲がった自転車を車道脇の自販機の横へ目立たぬように立てかける。
「なんなんだよ! おまえら、会社の……!?」
 亮はそこまで言って口を閉ざした。
 明らかに彼らは亮の見も知らない人間だったからだ。
 わからない言葉を喋り、肌の色も目の色も違う。
 父親の会社の人間であるわけがない。
 戸惑いに言葉を失った亮の足下で、ガツンと音がし、バンの扉が閉められる。
――ヤバイ!!
 そこで初めて亮は自分の置かれた状況の危険さに思い至った。
「放せよっ! この野郎、放せって!!」
 しかし亮の言葉はむなしく車中のBGMとして響くだけである。
 車の後部にいる男達はどれも屈強の外国人で、たった今自転車を処理して助手席に戻った男も、同じく言葉の通じそうにない相手だった。
 必死に抵抗し、男達を振り払おうとしてみるが、体格差は歴然である。たとえソムニアとしての修行を積み始めた亮とはいえ、リアルでの能力はまだまだ普通の高校生だ。
 こんな奴らに押さえ込まれてしまえば為す術がない。
 むちゃくちゃに暴れまくる亮を一人の男が押さえつけ、別のもう一人が亮の鞄や制服をチェックし始める。
 すぐに生徒手帳を見つけ出したその男は、手帳に記された亮の名前や住所などを確認し、それを助手席の男へ手渡していた。
 二言三言、なにやら言葉が交わされる。
 そうする間にもエンジンに火が入れられ、車は緩やかに発進していた。
 それを見送る生徒は一人もいない。
 部活動の生徒はもっと早くからやってきているし、一般の生徒は今より三十分以上後の登校になる。
 まるでエアポケットのような時間に、亮ははまりこんでいたのだ。
「くそっ、放せ、バカ、てめぇらみんなぶっ殺すぞ、こらっ!」
 それでもジタバタと暴れる亮の腕を、男の一人が強くつかみ、固定する。
 その行動に何をするのか、亮はすぐに察しが付いた。
 ここ一ヶ月。
 急にそうされる機会が増えたためだ。
「――っ、や、やだ、やめろ、やだああっ!」
 二人がかりで押さえ込まれ、亮の腕に冷たく光る銀の針が差し込まれる。
 注射器の中の液体は瞬く間に亮の中に押し込められ、血管の中を駆けめぐり始めた。
「……、や…、シ…ドぉ――」
 視界が急速に暗転していく。
『具合が悪くなったら電話しろ』
 そう言って頭をくしゃくしゃにしたシドの顔が、ふわりと浮かんで消える。
 亮を乗せた車は、素知らぬ顔で事務所の前を通り抜け、亮の見知らぬ場所へ向かって走り去っていった。











「は?」
 俊紀は不思議そうな顔で首をかしげる。
 それを見た秋人が、今度は逆に首をかしげ返してきた。
「どういうこと?」
 事務所のソファーでコーラを飲んでいた俊紀は、もう一度ここに来た理由を話して聞かせる。
「だから、オレは亮の見舞いに来たんであって、決して壬沙子さんに会いに来た訳じゃないんスよ」
「いや、だからね。後半はどうでもいいよ。後半は」
「ぇ、こ、後半が大事なんじゃないんスか! 亮のはついでで、いやそのだから」
 つい本音トークが飛び出したところへ、地下からシドが上がってくる。
 壬沙子が俊紀と秋人の会話をなにやら連絡したらしい。
「亮が学校へ行っていないのか」
 俊紀の前に立ったシドは、いつも通り表情はないが、言葉が強い。
「え? だって亮今日お休みでしたよ? だからオレ見舞いに来たわけで」
「亮くん、今日朝早く出て行ったみたいだよ? 補習があるとかで」
「!? おかしいっスねぇ。オレてっきりまた発作でも起こしてお休みなんだと思って――。え、ま、まさか、またあの滝沢ってイヤミヤローが……」
 シドの視線が瞬時に殺気を孕む。
 俊紀の言葉が終わりきる前に、シドは玄関の方へと走り出していた。
 しかしその足を壬沙子の鋭い声が止める。
「クライヴ、待ちなさい! 相手はあの男じゃないわ」
 扉に手を掛けたシドが、肩越しに振り返る。
 壬沙子の声は今まで聞いたことのないほど切迫したものであったのだ。 
「本部の研究部宛に連絡が回ってる。――――新しいゲボが一名、発見された可能性あり。日本にて保護。検査準備とセブンスの仮入居準備を進められたし」
「――こ、これって、亮くんのことじゃ……」
 秋人も息を詰める。
「え? え? なんなんスか? 亮のヤツ、いったいどこに――」
 一人状況が飲み込めずうろたえる俊紀に答えるものは、誰一人いない。
 今はそんな余裕すら誰も持ち合わせていないようだった。 シドの拳が一度ぐっと握られた。
「思わぬ所から情報が漏れたみたいね」
 そう言うと、壬沙子は手にしていた手鏡をぽんとシドに放り投げる。
「今朝、エレベーターの中に落ちてたわよ。あの子が大事な鏡落として帰るなんて――よっぽど何か考え事してたんでしょうね」
 受け取った手鏡を見て、シドの視線が険しくなった。
 この鏡の持ち主が、夕べの廊下での出来事を目撃してしまっていたとしたら――
「秋人、車を借りるぞ」
「シド、どこに行くつもりだ!?」
 秋人の声を背中に聞きながら、シドはもう扉を開け部屋を飛び出している。
 向かう場所はただ一つ。
――成田空港。
 時は一刻を争う状況だ。
 
 






 

 足の先が冷たい。
 またシドが仕事でイライラしてるせいだ。
 だから部屋の温度がやたら下がって、オレは夏なのにしもやけになりそうだ。
『東京支部の植草の鑑定では確かに陽性だったのだな』
『はい。ですがこちらでは施設も小さく、正確な測定は無理ですから、――確率は七十パーセントと言ったところでしょうか』
『それで十分だ。ここ九十七年、新しいゲボの観測はされていない。一昨年発見されたと騒がれた者は、簡易測定で確率が八パーセントしかなかった。結局それも機械の誤差だったワケだが――』
 意味のわからない言葉が、さっきからずっと頭の上を飛び交っている。
 またシド達が英語で仕事の話をしてるんだ。
 ちぇ。オレも早くしゃべれるようにならなきゃな。
『すばらしい。正直興奮するよ。七十パーセントとは、ほぼ確定じゃないか』
「――ん…」
 興奮気味の男の声に、亮はゆっくりと瞼を開けていた。
 まず見えたのは低い位置にある不思議な形の天井。
 ソファーに眠っていたのだと思いこんでいたが、手に触れる手すりには見慣れない銀のボタンがいくつも並んでいる。
「ああ、起きられましたか。まだ眠っていて構いませんよ」
 亮の隣に座った男が、丁寧な口調でそう告げていた。
 少々英語訛りの入った日本語に、亮は不思議そうに首を巡らせる。
 グレーのスーツをきっちり着込んだ、三十代半ばの見知らぬ白人が、そこにはいた。
「ヒースローまでまだ八時間以上ありますから、ごゆっくりなさってください」
「・・・。」
 この男が何を喋っているのか、亮にはわからなかった。
 いや、言葉がわからないのではない。その意味を理解できなかったのだ。
 しかしそんな亮の様子に気づく様子もなく、男は話を続ける。
「しかし本当に良かった。あなたが何者かに略取される前で。早めの発見が、ゲボを保護する一番の秘訣ですからね」
「ここ…どこ? ――オレ、帰らなきゃ」
 ぼんやりとしていた意識が徐々に鮮明になるにつれ、亮は先ほど自分の身に起こった記憶も次第に思い出されてきた。
 確か自分は学校へ行く途中だったはずだ。
 それをあの黒い車に激突され、拉致されて今ココにいる。
 こんな風にのんびり座っている状況ではないはずだ。
「オレ、帰る。おまえら、なんなんだよ! オレ、帰るっ!」
 亮は次第に息を荒げながら、立ち上がろうとした。
 しかしその身体はベルトで硬く椅子に固定されており、身動きすることも出来ない。
「っ!? なんだよ、なんでこんな縛ってあんだよっ! 放せっ、放せよバカッ! 今すぐこっから出せよっ!」
 手も足も、自由がきかないように拘束されている。
 動かした首にも違和感を感じ、そこに見知らぬ輪が嵌められていることに亮は気づいた。
 それでも動こうとする亮をなだめるように、隣の男が語りかけてくる。
「落ち着いて下さい、トオル=ナリサカ。放すのは構いませんが、外に出ることは出来ませんよ? おとなしく座っていてくれると約束してくださるなら、すぐにでも拘束を解きます」
「そんなの知るか! オレは帰る。帰るんだっ!」
 まったく話を聞こうとしない亮に男はため息をつくと、視線で亮の向こう側を指し示した。
「窓の外をご覧なさい」
 言われて亮は男と逆側にある小さな窓へ視線を走らせる。
 そして息を止めていた。
「――っ、な…に!?」
 窓の外に広がっていたのは果てしない雲海。
 真っ青な空の下に、まるで雪原の如く波打つ眩しく白い世界が延々と続いている。
 亮の額から音を立てて血の気が引いていく。
 自分は今、空の上にいるのだ。
「おわかりですか? もうすでに成田を出て四時間が経過しています。あなたはもう戻ることはできないんですよ」
「なん…で? どこ、行くんだよ。これ、どこに向かってんだよっ!」
「この専用機が今向かっているのは、イギリスのヒースロー空港です。そこからは電車と車で五時間ほどかかる、IICR本部へ向かってもらうことになります」
 専用機だとか、イギリスだとか、亮にとって全くなじみのない単語の連続に、亮はただ呆然と男の話を聞くほかない。
「あなたの首につけさせていただいたものは、あなたを守るための装置になります。不用意にセラ内へ出入りし、そこで何者かに襲われないために、IICRが作り出した器具の一つで、これによってアルマを完全に肉体にとどめ――」
「勝手なこと…言うなよ」
 男の言葉を半ばで止め、亮がやっと一言そう言った。
 男は不可解そうに眉を上げる。
「勝手に人を拉致っておいて、保護だとか、守るとか、何わけわかんないこと言ってんだって聞いてんだよ!」
「手荒い真似をしたことはお詫びします。ですが、これはあなたの為であると同時に、シド=クライヴやアキヒト=シブヤの為でもあるのですよ?」
 男の口からシドと秋人の名前が出たことで、亮の動きが止まった。
「あなたは本部にゲボとしてでなく、マナーツとして登録してあります。これは、あくまで彼らの勘違い。彼らが真相を知らなかった為なのですよね?」
「――そ、それ…は」
「そうであったのならば仕方のない話です。彼らを罰することは出来ない。ですがもし、彼らがあなたの能力のことを知っていながら嘘の申請をしていた場合――彼らはキルリストに載る可能性もあるのですよ?」
 聞き慣れない言葉に亮の表情が曇る。
「ああ、キルリストですか。ソムニア犯罪者の名が連ねられたリストのことですよ。これに載った者には賞金が掛けられ、積極的に他のソムニアに狩られる事になる。一般人であるシブヤ氏はともかく、クライヴは確実でしょう。何しろ彼は、すでにIICRの正規ソムニア名簿から除外されている身分なんですから」
 確かにそれは亮も聞いたことがあった。
 以前シドは本部で問題を起こし、本部を追われ正規登録を外されたため、セラ内で殺されても文句は言えない立場にあるらしい。
 だがしかし、それでも積極的に処刑される身分ではなかったはずだ。
 もし亮のことをシド達が隠していたとばれた場合、シドの立場はもう一段階悪い方へ転がることになる。
 狩られる側に回る――つまりは今の生活が送れなくなるということだ。
「それからあなたの体内からGMDの痕跡が見つかっています。これも彼らにとって不利な材料ですね。――あなたをゲボと知ってGMDで縛り、本部に隠して私物化した。こういう状況であるなら、キルリストどころか、本部直々に刑を下されることになるでしょう」
「っ、ちが、そうじゃない! あれは別のヤツがやったことで、シド達は治療のために――」
 そこまで言って亮は口を閉じた。
 治療のためにGMDを使ったと認めるということは、シドたちが亮をゲボだと知っていたと白状することである。
 しかしそれを聞いた男はにんまりと笑うだけで、特にそこに言及することはしなかった。
 どうやらこの男は何もかもわかっているらしい。
 その上で亮に取引を持ちかけているのだ。
「治療中でしたか。ではその為に報告が遅れたと――そういうわけなんですね?」
「・・・っ」
「ならば今本部に向かわれても問題はないはずです。いやむしろ、拒絶することの方が不自然だ」
「で、でも、家族にも何も言ってないし、学校もあるし、パスポートだってオレ、持ってないし――」
「パスポートは必要ありません。IICR専用機を使用する場合、その手の許可はすでに国に了承を取り付けてあります。学校は本部内で相当の資格が得られるように手配できますし、ご家族へは直接本部からアプローチが行くでしょう。あなたは何も心配することなどないんですよ」
 立て板に水の調子でこうも切り替えされてしまうと、亮にはもう次ぐ言葉が見つからない。
 黙り込んでしまった亮の拘束を、男がほどいていく。
 亮は自由になった手足を少しさすると、窓の外へ目をやった。
 もう、亮には道が残されていない。
 いや、その道を自ら選ぼうと、思い立っていた。
 シドにも秋人にも、これ以上迷惑を掛けることは出来ない。
「――あと、どのくらい、かかるのかな?」
「ヒースローまではあと七時間。そして本部到着まではあと十二時間ですか。ですが時差が九時間あります。到着した頃は夕方の五時半頃でしょうね」
 朝、いつも通りにシドの部屋を出たのに、夕方には見知らぬ国の見知らぬ場所へいることになる。
 亮はあまりの唐突さと不思議さに、思わず笑いそうになった。
「それで、オレ、どうなっちゃうの――?」
「心配はいりません。ほんの少し、割り当てられた仕事をこなしていただければ、欲しいものは全て買い与えてもらえます。あなたは保護されたのですから」
 亮はやっぱり笑ってしまった。
 こんな風に言われて本当に安心するヤツなんかいない。
 まるでインチキ在宅ワークの勧誘文句だ。
 その弱々しい微笑をどう取ったのか、男はつられて微笑むと、近くに待機していた黒服に、ドリンクを持ってこさせる。
「私はロイス=ガードナー。本部付き研究部の人間です。どうぞよろしく。――亮さんは、オレンジジュースでよろしかったですか?」
 亮はそれには答えず、差し出されたものをされるまま手に取った。
 亮に必要なのは従順さだと、自分でもわかっていたからだ。
 それだけが、シドや秋人を守ることが出来、自分の帰る場所を壊さない方法でもある。
「そうだ――ショウガ焼き」
「え? なんです?」
「・・・なんでもない」
 亮は高級そうなブラッディオレンジのジュースを手に、窓の外を眺めやった。
――作れなかったな、ショウガ焼き。
 どうでもいいそんなことが亮の中を回り続け、亮は人差し指の背を、軽く噛んでいた。