■ 3-1 ■



 正午を回り、第二ターミナルの到着ロビーは多くの人で溢れかえっていた。
 落ち着かない様子の秋人は、待合い用のシートへ座ったり立ち上がったり出入り口を覗き込んだりと忙しい。
 その傍らで腕組みをし立ちすくんだまま、日本の空の門へ降り立った人々の流れを眺めているのは修司である。
 二人は待ち人の到着予定時刻から一時間も前からこうして、止まったような時を過ごしている。
 出入り口に立つ警備員にジロジロ眺められながら、秋人が何度目かののぞき込みを行っていたときだ。
 中東方面からの来訪と思われる一団が、ガラス戸の内側から数十人、吐き出されてきた。
 その最後尾に見知った一際高い背丈をようやく見つけ、秋人は声をかける。
「シド!」
 散っていく他の旅行者の中から、シドとその手に引かれた少年。そして大きなスーツケースをいくつもひっぱる欧米人の姿が現われていた。
「亮……くん――。っ…、おかえり、亮くん」
 学校の制服に、コットンニット素材の茶色いハーフコートを羽織った少年は、その声に立ち止まり、ぴくんと顔を上げると怯えた小動物のようにシドの後ろへと隠れる。
 今にもダッシュで亮に抱きついていきそうだった秋人は、一メートル半手前で両手を大きく広げたまま一時停止だ。
 シドは、自分の背後からちらりと顔を覗かせ様子をうかがう亮の頭に手を置くと、「大丈夫だ」と小さく声を掛ける。
 亮の状態をレオンからの報告で知っている秋人だったが、実際亮の現状を目の当たりにすると胸が痛むと同時に――こうあからさまに嫌われるとけっこう凹む。
「亮くん、僕のこと覚えてないかな? 秋人だよ〜。亮くんのバイト先の社長さんだよ〜」
 腰を落とし低い姿勢で亮の顔を覗き込んだ秋人に、亮は再びシドの背中に顔を引っ込めしがみつく。
 その反応に秋人は哀しげに目をしょぼつかせた。
「亮っ!」
 しかし次の瞬間聞こえた声は、天の岩戸を開くのに十分な効果を持っていたようである。
 亮は逆側からぱっと顔を覗かせると、声のした先に一瞬にして意識を引きつけられていた。
「――とおる。……亮っ!」
 彫像のように立ちつくしていた修司が声を震わせ、一歩、こちらへ歩を進める。
 急いで手を伸ばせば消えてしまうのではないかと、そう恐れる緩慢さで、修司はゆっくり、ゆっくりと少年に近づいていた。
「しゅ…にぃ。」
 亮の足が二三歩、空中を泳ぐかのように前へ出され、次第に確実な歩みとなって修司の元へ駆けて行く。
「しゅーにぃ!」
 亮は身体を投げ出し、修司の胸へ飛び込んでいた。
 修司はその小さな身体を抱き留めると、存在を確かめるかのようにぎゅっと強く抱きしめる。
「亮――、良かった。ホントに、戻ってきたんだな。本当なんだよな」
 自分を抱きしめる兄の腕の中で顔を上げると、亮は不思議そうに首を傾げてみせる。
「しゅーにぃ? どしたの? おなかいたい?」
 涙の滑り落ちる頬に手を添伸ばす弟の幼い言動に、修司は苦しげにぐっと瞼を閉じていた。
 頬に添えられた柔らかな手は前に見たときより随分と白く、心なしか細くなっているようだった。
 その小さな手に己の手を重ねながら、修司はそれでも次には優しく微笑んでみせる。
「大丈夫だ。――もっと顔、良く見せてくれ」
「しゅーにぃへんなの。とおるのかお、忘すれちゃったの? とおるはしゅーにぃのかお、ちっとも忘すれてないよ?」
「はは……、そっか。しゅう兄の顔、覚えててくれたか」
 再び苦しげに顔を歪ませ抱きしめる兄に、亮は困惑した様子で背中に手を回すと、よしよしと撫でてみる。
「亮、……、ごめんな。兄ちゃんのせいだな。おまえをあの日、一人にした、僕のせいだ――。ごめんな。ごめんな、亮」
 修司の目から涙は止まることをしない。
 全ては熱を出した弟を置いたまま、自分が海外へ発ってしまったことが原因だと修司はそう思っている。
 亮が滝沢に捕らえられGMDを投与されなければ、事務所で生活することもなかっただろうし、IICRに亮の存在を知られる可能性も薄かったはずだ。そしてあの日の安易な決断の結果が、今こうして修司の腕の中、無垢な瞳で見上げている。
 大勢の人が行き交う空港ロビーの真ん中で、修司は震えるほど泣き続けた。
 しかし、別れと再会の場でもあるこの空間では、その光景に酷く注視する者もない。
 修司はまるで出会った頃に戻ってしまったような亮を、ひたすら抱きしめる。
「しゅーにぃ、いい子いい子。もうないちゃだめだよ。あんまりなくと、おめめとけちゃうよ?」
 そんな兄を一生懸命あやそうと、亮はいつも自分がシドにされているように、何度も優しく背中をさする。
 修司はまるで立場が逆転してしまったかのような現状に気づき、思わず小さく口元をほころばせると、顔を上げ、亮の髪をそっと撫でていた。
「それは困るな。兄ちゃん、亮の顔、ずっと見てたいしな」
「しゅーにぃは映画みられなくなると、こまるって、とおるはおもうよ」
 ポケットから取り出したハンカチで無造作に修司の顔をこすりながら、亮は真剣な顔だ。
 修司がかなりの映画好きで、深夜帰宅後、亮に怒られながらDVD鑑賞をしていたことを、亮は覚えているのだろう。
 再び涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪え、修司は亮の渡してくれたハンカチを手に取り身体を起こしていた。
「すいません。時間を取らせました。行きましょうか――」
 そう言いつつ顔を上げると、それを合図にシドが歩み出す。
 傍らの秋人とレオンは何故か滝の涙で号泣しつつ、お互いの肩をたたき合いそれに続いていた。

 



 秋人の運転するセダンの後部シートに乗り込んだ亮は、車が走り出して十分もしないうちに、すやすやと寝息を立て始めていた。
 日本時間では真っ昼間であるが、イギリス時間ではまだほのぐらい明け方である。窓外の好奇心をそそる街の様子も、時差と長旅の疲れには勝てなかったらしい。
 再会と同時に泣き出してしまった兄を心配し、ずっと修司に付きっきりだった亮は、そのまま修司の膝の上に頭を乗せ、眠りに落ちてしまっていた。
 亮を挟んで反対側に座るシドは、寒気が入り込まないように亮の身体に己のコートを掛けてやる。
「今後、IICRは一切亮くんの件から手を引くってビアンコの鶴の一声があったみたいでね。機構が亮くんに絡んでくることはもうないと思う。その点は安心してもらっていいよ」
 助手席に座るレオンは、運転手である秋人に話しかけると同時に、背後の大人二人にもそう語りかけていた。
「機構の中でも一握りの者しか、亮くんの生存を知らない。カラークラウンですら知らされていない者も多いはずだ。新しく見つかったゲボは今回の十月十九日の事故により消失したってことになっているから、亮くんは新しい名前でマナーツとして本部データに登録し直されてる」
「新しい名前?」
 秋人の問いかけに、言いにくそうな様子でレオンは続けた。
「うん。確か、亮くんのお母さんの名字、明神だっけ? 機構はあれを使わせてもらったみたいだよ。――亮くんの家の複雑な事情は私もわかってるつもりだから、どうかな、とは思ったんだけど」
「そっか。でも、それはソムニアとしての通り名だから、要はセラ内でしか使うことはない話だもんね。それに普段の生活は成坂のままでかまわないし」
 秋人の口添えに、背後の修司が静かに口を開く。
「いえ、わかりました。ありがとうございます、気を遣っていただいて。――僕は亮が安全であれば、それで構わない」
「亮くんのこれからの生活のことですけど……、そのぅ、僕は医者として、できることならそばに居てあげたいと思ってます。修司さんとしてはご自宅に連れて帰られたいという思いもあるかと思いますが――」
 滝沢による事件後、修司がわざわざ以前のマンションを解約し、事務所近くに新たなマンションを購入したと、秋人は知らされていた。もちろんそれが亮のためであるということもわかる。つまりそれは、修司が亮を自宅へ戻すつもりであるという意思の表れではないかと判断したのだ。
「日本の医療機関では、GMD治療も正規には行われてはいないですし、亮くんの能力の種類上、大学病院などへの入院もあまりおすすめできません。ですから――」
「わかっています、渋谷さん」
 安心しきった様子で熟睡する亮の前髪をよけてやりながら、修司は柔らかな視線を少年の寝顔に落としていた。
「正直、迷ったことは事実です。このまま、あなた方へ亮をお任せして良いものかどうか。亮がこんな目に遭わされているのは、あなた方のせいなのではないか、あなた方の恐ろしい世界に巻き込まれた結果なのではないか。――亮をあなた方の事務所へ二度と立ち入らせるべきではないと考えたこともありました」
 言葉を一端句切ると、修司は愛しげに亮の頬を撫でる。
「ですが、亮がソムニアであることは避けようのない事実のようです。そして今回の件で僕も様々なことを学びました。……悔しいですが今の僕の力では弟を守りきることはできそうにない――」
 顔を上げると、修司は横で表情すらなく言葉を聞いていたシドへと視線を向けていた。
「渋谷さん、そしてクライヴさん。亮のこと、これからもお願いできますか? 縁者でもないあなた方にこのようなことを頼むのは筋違いかも知れませんが、この子の力になってやって欲しい――。もちろん、生活費や治療費、それにお礼も十分させていただきます」
「――そんなものは必要ない。亮は事務所の住み込みバイトだ。時給八百円はきっちり秋人に払わせる。だが――こいつの小遣いくらいは月にいくらか、持たせてやってくれ」
 珍しく穏やかに言葉を返したシドに対し、しかし修司はたたみ掛ける熱の入った口調で切り返す。
「いいえ、そう言うわけにはいきません。そんなところまであなた方に迷惑を掛けるわけにはいかない。こちらこそきっちり、支払わせていただきます」
「……必要ない」
 シドも相変わらずの強情さで修司の申し出をつっぱねる。
 だが修司はそれでも引く気配を見せない。
「クライヴさん、あなたは亮の恩人かもしれないが、亮の保護者は僕です」
「いらんものはいらん」
「いいえ、そうはいかない」
 二人の視線が空中でかち合い、車内の空気が文字通り凍り付いていく。
「や、あのさ、あれだ。修司さんのご厚意は受け取って、亮くんのために貯金とかしとけばいいんじゃないかな? それに生活費や医療費なんかを受け取るのは日本的に言えば常識ってもんだし、ね、シド」
 慌てたように早口の秋人が、妙に大きな声で車内の空気をかき混ぜていた。
「ん……」
 その必要以上に大音量の裏返った声に、亮はもぞりと身体を動かすと、左手で目を擦りながら半泣きで起き上がる。
 気持ちよく眠っていたところを奇妙な声に半ば無理矢理起こされて、たいそう機嫌が悪いらしい。
「ふぇ…ぇぇぇぇっ、ぇっ、ぇぅっ、…」
 すぐさま横から伸びてきたひんやりとした手が亮の頭を抱え、唇が優しげに柔らかな髪に寄せられる。
 亮はそのいつもの感覚に安心したのか、目を擦っていた手をシドの方へ伸ばすとシャツにしがみつき、頬を胸元へすり寄せて再びコクリコクリと船をこぎ始める。
 シドは亮の身体をふわりと膝の上に抱え上げ、亮の寝やすいように自分の身体へ寄りかからせてやった。
 今の今まで修司の膝枕に頬を寄せて眠っていた子犬は、今度はシドの膝の上で丸くなって夢の中だ。
「ちょっと!」
 修司の囁くようでいて鋭い叱責が、車内に飛んでいた。
 セダンの中に新たな緊張が走る。
「渋谷さん!」
 しかし怒りの矛先は、一同の考えとはまったく違うベクトルへ向いていたようだ。
 秋人は思わずハンドルを切り損ないそうになる。
「ぅえ――、僕?」
「大きな声出さないでください」
 バックミラーを見れば、修司は投げ出されたシドのコートを拾い上げ、シドの膝の上で眠る亮の身体に慣れた様子で掛け直してやっている。
 亭主関白で無骨なお父さんと、その膝で眠る無邪気な子供。
 そして甲斐甲斐しく世話をする良妻賢母でしっかり者のお母さん。
 このシーンだけ見れば、なんとなく秋の行楽帰りのご家族のようだ。
「あ〜、そうですね、僕ですね。……すいません、気をつけます」
 レオンが不憫そうに助手席から丁寧に剥いたみかんの房を、手渡してくれた。