■ 3-2 ■



 朝十時半。
 着せ替えのしやすい大きめの白いシャツと、学校用のジャージを着せてもらい、手には遊び道具いっぱいのお道具カバンとタオルケット。
 その出で立ちが亮の朝の出勤スタイルだ。
 まだ足の爪が生えそろっていない亮は、あまり長時間歩くことを許されていない。
 本人も歩き回ると足が痛いのか、どうにも歩みがぎこちなくなってしまうようで、何もない場所でよく転んだりもする。
 それ故、いつもシドに片腕で抱えられてのお姫様出勤だ。
 そんな日が、今日で三日目になる。
「シィ〜、とおるも下いくぅ」
 しかし事務所の応接用ソファーに降ろされた亮は、自分を置いてシドが一人地下のシールドルームへ向かうことに不満があるようだ。 
「とおるもセラでしゅぎょーするの」
 帰ってきたその日にはあまり反応を示さなかった亮だが、事務所や秋人達の記憶はうっすらと外郭として残っていたらしく、すぐに慣れると、まるで自身の部屋のように動き回る。
 地下にシールドルームがありそこからセラへ潜っていくことも、誰に教えられたわけでなく、亮自身に残されていたた記憶らしい。
 リュナスによる記憶操作や過度のGMD摂取、そしてブラッドリキッド投与と精神的ショック、ストレス――それら複合的要素により掻き混ぜられ乱された亮の記憶は、一概に『この日からこの日まで忘れている』であるとか、『この人は完全に覚えていてこの人は全く忘れている』であるといったような明確な線引きが出来ないものであった。
 唯一完全に無くしているものが『シド=クライヴ』という人間についての記憶である。
 しかし、記憶のない今も亮は完全にシドに懐ききっている。
 これは以前の亮の記憶でシドを慕っていると言うより、目覚めてからずっとそばにいてくれるこの人間に、新たな恋をしているようなものなのかもしれなかった。
「亮はまだ無理だ。もうちょっと元気になってからだな」
「とおる、もうげんきだよ!」
 ぷうっと頬を膨らませて不機嫌さをアピールする少年に、シドはかがみ込むと優しく髪を撫でてやる。
 自分の髪の中に潜り込んでくる冷えた指先の感触に、亮はうっとりと目を細め、甘えたように手を伸ばす。
 その手に応えてやり、自分の首に腕を絡ませてやると、ぽんぽんと背をあやすように叩いてやった。
「修行はもう少し亮が安定してからだ。足の傷もまだ爪がちゃんと生えてないだろう?」
「とおる、いつあんてーする? いつ、シィとセラいける? あした?」
「――明日はどうかな。早くそうなれるように、ちゃんと秋人の言うこと聞いて、いい子にしてろ。昼には一度戻る」
「ん――」
 大好きなシドの言うことに渋々うなずいた亮は、少し顔を離すと、こぼれ落ちそうな黒曜石の瞳でシドの顔を見つめ上げる。
「シ、ちゅ……」
 ゆっくりと目を閉じる、蕩けそうに甘いおねだりはまるでカスタードクリームのようだ。
 シドは少年の瞼と頬へ順番に、ひんやりとした唇を落としていく。
 しかしどうやらこのキスは、少年のご要望とは違ったものであったらしい。
 切なげな眼を開くと、少々ご立腹の様子で亮は追加注文を寄せていた。
「ちが…のぉ。おくちにも、きのーみたくしてぇ」
 シドは微かに目を細めると、少年の注文通り柔らかに唇を重ね、少年のふんわりと温かなそれへ、そっと舌先を差し入れていく。
 亮はうっとりと潤んだ瞳を揺らし、シドにされるまま深く冷たい口づけに酔いしれる。
 ひとしきり濡れた音を響かせた後、名残を惜しむようにゆっくりとシドは亮の唇を解放していた。
 とろんとした目で荒い息を吐く少年の頬を撫でてやると、亮はその手に自ら頬をすり寄せてくる。
「シのちゅ、つめたくて、アイスクリームみたいだから、とおる、大好きぃ」
 シドは微かに微笑むと、もう一度亮の顔を引き寄せ、頬に小さくキスをした。
「それじゃ行ってくる。いい子で待ってろ」
 すらりと立ち上がり、シドは何事もなかったかのように地下行きのエレベーターホールへの扉をくぐっていた。
 ばたんと扉が閉じられ、この部屋にもう一人いた人物は唖然とした様子でそれを見送っている。
 定位置である奥のデスクについたまま、一歩も身動きできなかった事務所所長は、
「・・・。あいつ、お父さんなんかじゃないだろ。野獣だ、野獣。極悪非道のオオカミ野郎だ」
 と、率直な感想を呟いていた。
 そんな秋人の驚愕にも気づかず、仔羊は無邪気にソファーの上でお絵かき用のクレヨンを用意し始めるのだった。





「まったく、あの男、どうしようもない外道ですよ! こんな無垢な亮くんにあんな真似……、しかも、昨日と同じって、昨日もしたんかい! って話ですよ!」
 怒りにまかせ己の意見をぶちまけてはいても、秋人はキーボードを弾きながら、一応セラ内のシドのサポートをこなしているようだ。
 昼近く。
 壬沙子は朝から三回目になるその話に少々辟易しつつ、給湯室で洗い物をしている。
「まぁ渋谷くんの言うことはもっともだと思うけど、亮くんは特殊な事情もあるわけだし、一応ああ見えて高校生よ? 彼自身が嫌がっていないのであればキスくらいは――」
「いいえ。ここは日本です。クチヅケってのはもっと慎ましやかに人知れずすることであって、しかも、あんな小さな子にあんなオトナなチュウを……」
 言いかけた秋人は膝の上に慣れない温かな感触を覚え、ふと視線を下へ向けていた。
 そこにはデスクの下に潜り込んだちびっこがピョッコリと顔を出しており、「んしょ、んしょ」とかけ声も勇ましく、秋人の膝への登頂を試みている最中であった。
「――っっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
 キーを打つ秋人の光速の指先が瞬時に凍結していた。
 口を文字通り漢字の口の形に開けたまま、秋人はぴくりとも動けない金縛り状態だ。
「あら。」
 その様子を横の給湯室から、壬沙子も興味深げに眺めている。
「アキぃ、おひざ、いい?」
 お膝にお邪魔してよろしいでしょうか? ということなのだろう。
 秋人は無言でコクコクと頷いていた。
 亮は許可をもらえたことに満足した様子で微笑むと、秋人と向かい合う形で膝をまたぎ座ってみる。
 しかし、シドとは違い、人並みな身長の秋人である。
 いつもなら胸の位置に自分の頬が来て、そのままお休みスタイルをとれるわけだが、今回はそうではない。
 向かい合って座れば、亮の真正面には秋人の口元が晒されることになる。
 亮は合点がいかないと言ったように小さく首を傾げると、「あれぇ?」と不思議そうに視線を上げていた。
「とおる、おっきくなった?」
「――…か…」
――かわいいっ!!!!!!!!!!!!!!
 秋人の心中に雄叫びが吹き荒れる。
 本来ならこれは恋人同士のみ許される、身体の位置関係だ。
 確かに壬沙子の言うとおり、亮はかなり小柄ではあるがあくまで高校生なのである。
 しかし言動はまさに小さな子そのままだ。
 このアンバランスさは悲惨な経験が生んだものだとわかっていながら、それでも秋人は己の脳下垂体からドーパミンがドバドバと噴出するのを止められそうになかった。
「どしたの、アキ? おかお、まっかだよ? おねつ?」
「いや、いやいや、なんでもないよ、亮くん。――それより、どうしたのかな? お腹すいたかな?」
 気を遣って降りようとした亮の身体をしっかり抱き寄せると、秋人は女性をとろかす甘い声で問いかける。
 亮はふるふると首を振ると、秋人の肩にそっと手を掛け、あどけない眼差しで見上げていた。
「アキぃ、ちゅ……」
「――…え?」
 少年の唇から紡ぎ出された言葉の意味が理解しきれず、秋人は真っ白な頭でそう聞き返す。
「ちゅ。」
 もう一度囁かれた言葉は、先ほどと同じものだ。
 やっぱり、断じて、聞き違いではなかった。
 これは、そういうアレを――、今朝のアレを意味しているのだ。
「と、と、とと、ととと亮くん、い、いいのかな? そんな、チュウなんてその、僕で良いのです――ね。」
 確認の問いかけをしようとして、失敗。
 目の前で、ものすごくおいしそうな子が自ら目を閉じ、秋人におねだりしているのだ。
 問いかけが自己完結してしまっても、これはしょうがないというものだ。
 桜色に艶やかに光る唇が、秋人の目の前で秋人のそれを待ちわび、うっすらと開かれている。
 しかも膝に座った亮の腰は、先ほど抱き寄せた際に秋人の腰にしっかりと密着してしまっていた。
 秋人は全身が心臓になってしまったかのように、ドクドクと耳鳴りがし、目の前が陽炎のように揺らいでくるのを感じる。
――いかぁん。下半身に血が溜ま……
「アキぃ、はやく、ちゅ」
「は、はいぃっ!」
 近づいてくる亮の唇に、秋人もゆっくりとそれを近づけていく。
 柔らかな感触が秋人の唇に微かに触れた。
 その瞬間――。
「何をしている」
 頭上から魔王の声が聞こえ、まさに北極の水をぶちまけられたかのような冷気に、秋人ははっと顔を上げていた。
 瞬間、心地よかった温かな重みが膝の上から消失する。
 見れば亮を片腕で抱え上げたシドが、無表情だが烈火のごとき様相で、秋人を見下ろしていた。
「な、ななな、何って、あれ? あれ? シド、いつの間に戻って――」
 端から見ても可哀想なほど狼狽する秋人に、本当に端で見ていた壬沙子は呆れたように首を振る。
「何をしていたかと聞いている」
「あのね、とおるね、アキとちゅ、するの。とおるが、ちゅ、してって、アキにおねがいしたの」
 救いの手は思わぬ所からさしのべられた。
 シドは視線を秋人から亮に寄せると、彼なりに困り顔をしてみせる。もちろん、表面上はあまり代わり映えはしない。
「そういうことは、秋人でなく、俺に言え」
 どさくさ紛れのこの宣言に、秋人は思わず鼻の横にヒゲじわを作る。
「でもシィいなかったもん。とおるは、ちゅがすきなの! だから、ちゅしたかったの! しょーがないの!」
 亮はひどくご立腹の様子だ。
 これが俗に言う逆ギレというヤツなのだろうか――と、秋人はぼんやりそんなことを思った。
「なら聞くが、亮が居なかったら、俺がシャルとチュウしてもいいのか? 亮が居なかったからしょうがないか?」
 亮が瞬間、衝撃を受けたように固まっていた。
 そして次に堰を切ったかのような大粒の涙がぽろぽろと頬を転がり落ちる。
「ぅ…ぅぇっ……、いやぁっ、シィ、しゃるとちゅしたら、いやぁ。ぅぇぇぇぇぇぅっ…」
「お口のちゅは好きな人としかしたらだめだ。わかったな?」
 表情を崩ししがみついてくる亮の背中をぽんぽんとあやし、シドは甘やかな声で諭していた。
 亮はしゃくりあげながらうなずくと、「とおる、シィとしかもうちゅしない」と宣言し、続いて小さな声で「ごめんなさぃ」と謝る。
「でも、しゃると、ほっぺもおでこも、ちゅしたらいやぁ……」
 謝りながらも主張される亮の幼いジェラシーに、シドは優しく髪を撫でながら、再び抱き寄せていた。
「昼飯は上で食う。出前は経費でいいな」
 シドの容赦ない一言に、しかし秋人はいつもと違って何も異を唱えることが出来ない。
「はい。なんでも、お気に召すまま」
 威厳を失った事務所所長を残し、シドは亮を抱えたままさっさと自室へ戻っていく。
「やっぱりあなたの言う通りね、渋谷くん」
 その後継を第三者目線で眺めていた壬沙子はしみじみとこう言いはなっていた。
「キスは、慎ましやかに人知れずしなくちゃ。ね?」








「やはり日本へ帰っていたか」
 男は口元に手をやりにやけそうになる表情を抑えると、その情報をもたらしたもう一人の眼鏡の男へ視線を移す。
「撮影日は十月十四日。場所は成田空港第二ターミナルの駐車場です。恐らく使用されている車両は、事務所所長の渋谷秋人のものでしょう」
 薄暗いマンションの一室。
 昼間だというのに分厚いカーテンが引かれ、点されているのは間接照明だけである。
 オレンジ色に浮かび上がる1DKの二十畳ほどのリビングは、中央にグレーのソファーセットを配置され、奥に五十インチの大型液晶テレビを鎮座させているのみの殺風景な部屋だ。
 そこに映し出されているのは、亮の手を引く修司、それに寄り添うシド=クライヴ。大きな荷物をいくつもひきずるレオンと、車のドアを開けている秋人の姿である。
 随分遠距離からの撮影らしく、俯瞰で撮られたこの写真は、アングルとしては決して褒められたものではないが、動画であるため必要な情報はしっかりと写し取られているようであった。
 修司に手を引かれた亮の動きや口話から、亮が随分と幼い精神状態にあることが見て取れる。
 テレビ正面に座った男は、そんな亮を眺めてなるほどと言った様子で頷いていた。
「どうやら彼は、退行現象が持続してしまっているようですね。あれだけの事故だったんだ。それも無理はない。――あの10.2の事故でトオル=ナリサカが消失してしまったとは、私にはどうしても思えなかった。そうした疑惑を抱いている内に、彼の主治医であるレオン=クルースが急に長期休暇を取り、調べてみれば日本へ行くという。彼は日本贔屓ではあるが、これに私は違和感を感じてましてね」
 文法的には一分の狂いもない正確な日本語は、少々欧米訛りが混ざっている。
 男はテーブルに置かれたグラスを手に取ると、中で揺れる琥珀色の液体を一口喉に流し込んだ。
 どうやらかなりの興奮状態にあるらしく、先ほどから何度も男はグラスに口をつけている。
 中身は男本人の要望により、酒ではなく深煎りの烏龍茶だ。
「良かったですよ、本当に。この賭けが裏目に出れば、私はわざわざ極東の日本支部に左遷を申し出た、ただのバカということになってしまうところでした。あなたからの情報がとても役に立った」
 右手の一人掛けソファーに腰を沈めたもう一人の眼鏡の男は、この欧米人の話にうなずきながら、横合いに置いた黒の革鞄からA4サイズの封筒を取り出す。
「私も、あなたから今度の話を頂いて、正直胸が高鳴りましたよ。これで、私の目的は一気に三つも達することができる」
 眼鏡の男にそれを手渡され、異国人は中の資料やデータディスクを確認すると、不可解そうに薄い眉をくいっと片側引き上げてみせる。
「三つ? これはまた欲張りなことだ。一つは、暗部ソムニア業界の利潤を大いに得ること。もう一つは、ゲボという超希少種を存分に楽しむこと。――しかし、三つ目がわかりませんね。ミスター滝沢」
「いえ、大したことはありません。――最後の一つは、あの男への感謝の気持ち。私を追い落としてくれた、成坂 修司への最高のお礼が出来るということですよ」
 眼鏡の男はそう言うと、酷薄そうな顔にぞくりとする微笑を浮かべた。