■ 3-10 ■



 ものの十分のことだった。
 襟首をつかまれ引きずられるように連行されてきた男は、事務所中央にバッグと共に放り捨てられると、ごろりと転がった。
 三十半ばと思われるその男は、黒いシャツに黒いズボン。黒いジャンパーをつけ、黒いニット帽を被った、まさに一分の隙もない空き巣ユニフォームに身を固めている。
 中背だがやせぎすの、うらぶれた感漂う男である。
 身長の割りに大きな顔は少々長めで、下半分をカビのような無精髭が覆っていた。
 手足を丸め、ガタガタと震えている様子を見ると、恐怖のためなのかそれとも体温低下のためなのかわからない。
 紫色の唇が「すいません、すいません」と声にならない言葉を、まるでお経のように唱えている。
「縛り上げるなりなんなり好きにしろ。あとはおまえに任せる」
 いいざま踵を返し部屋を出て行こうとするシドを、慌てて秋人が呼び返す。
「ちょ、待てよ、無理。無理。荒事担当はおまえだろ! 噛みつかれでもしたらどうすんの! 大体僕はちょうちょ結びだって満足にできない自信があるんだよ!? ちょこちょこーっと縛って、そのついでに目的とか依頼人とかそういうの聞いてくれよ」
 シドは情けない事務所所長の言い草に舌打ちをしながらも振り返り、おどおどと二人のやりとりを見守る男に手渡された縄を掛ける。
 確かにシドも今回のタイミングでの侵入者に、漠然と嫌な感覚を覚えている。
 依頼者が居るとすればその相手を知っておくことは重要だと思えた。
 シドが男の動きを封じるのを見計らい、ようやく安心したらしい秋人が、興味深げに男を見下ろし、質問を開始する。
「あー、まずキミはどうしてウチのデータを狙ったの?」 
 男は床に転がったまま、怯えきった表情でシドの靴先を眺めたまま言葉を発しようとしない。
 その表情はまるで化け物にでも魅入られたかのように恐れおののいており、どうやら体温の低下と相まって舌がこわばってしまっているようだった。
「――秋人。お湯でもかけてやれ。こいつの解凍を待ってやるほど時間はない」
「酷いなぁ、もう。相手は人間だよ。ラーメンじゃないんだから、そんな、熱湯なんて、ねぇ?」
 言いながらヤカンの用意を始めた秋人に、男はますます怯えの色を強くする。
 こんな冷え切った身体にいきなり熱湯を掛けられでもしたら、焼かれるような激痛が全身を襲うことは否めない。 
「ひっ、ひっ……、か、か、かんぅぇん、しれくらひゃぃいっ!」
 回らぬ舌で必死に許しを請いながら縮み上がった男の鼻先に、一分後、湯気をたてる温かなコーヒーが差し出されていた。
 男はしばし瞬きも忘れてそれを眺めていたが、シドの舌打ちが聞こえると同時に、焦ったように起き上がり、縛り上げられた両手でカップを受け取る。
 熱い芳香を肺に吸い込めば、凍り付いていた全身に血が巡っていくのがわかる。
「これでもうしゃべれるよな。サービスしてあげてんだから、大人しく全部白状してくれよ?」
 男は何度もコクコクうなずくと、秋人の繰り出す質問に逐一素直に答えていった。
 それによると、男の名前は佐藤康夫。中小個人事業者ソムニア向けの仕事斡旋組織『フォークロア』の紹介で今回の仕事を得たということだった。
 フォークロアは表向き、縁者のセラに潜ることによって失踪者を探し出す『行方不明人探索』や、どうしても思い出せない事柄を頭の中から発掘する『記憶探索』、心療内科的な目的で行う『アルマ快癒』など、簡単で小さな個人依頼を同じく小さな個人事務所に斡旋する組織である。
 しかし、それはごく一部の仕事内容に過ぎない。
 フォークロアの主な業務は、非合法と言われているソムニア依頼を、希望するソムニア業者に斡旋することなのである。
 表仕事の十倍近い報酬の発生するこれらの仕事は、能力が薄くとも金は欲しいというソムニア達にはおいしいものである。だが、見つかれば即IICRの手によって処罰が下される。
 IICRのセラ内監獄に何十年、何百年と投獄されたり、転生刑に処されたりと、処罰はかなり厳しいものだ。逮捕の手を逃れた者もキルリストに載せられ、追われ続ける羽目となる。
 まさにハイリスク・ハイリターンな仕事なわけである。
 この佐藤が依頼を請け負った仕事も、この手の裏の仕事だったといえる。
 仕事の内容は『S&Cソムニア事務所がメインで使用しているセラの座標入手』であったらしい。
 それを知るため、男は事務所のパソコン内に残る入獄システムのログその他、出来うる限りの情報を持ち帰ろうとしたのだろう。
 セラ座標の入手はソムニア界において、もっとも基本的で重要な仕事である。目標の人物に直接働きかけられない場合はその情報入手は困難を極める。
 多くの場合、今度のように入獄システムのログをさらうのが一般的、かつ確実な方法なわけであり、佐藤はその一般的な手法で今度の仕事に臨んだというわけだ。
 もちろん今回持ち出せたのは、秋人秘蔵の都市伝説コレクションばかりだったのだが、本人はそれを知るよしもない。
 佐藤の話をふんふんと笑顔で聞いていた秋人は、その話が一段落したのを感じ取ると、同じく笑顔で「それで全部?」と問いただす。
 男は空になったカップを手にぎゅっと持ったまま何度も頷いて見せた。
「は、はい。もう、全部話しましたっ」
「……じゃ、これは何かな?」
 笑顔のまま秋人が取り出したのは、一センチ角ほどの大きさがあるプラスチック製の黒い小箱である。
 上部に粘着シートが取付けてあり、テーブルの裏側へぴったりと張り付く仕組みになっている。
 佐藤はそれを見ると、しまったというように視線を泳がせていた。
「これ、そこの応接テーブルの下にはりつけてあったんだけど、どうも張りたてほやほやだったみたいで、粘着成分乾いてないよ。これもキミのサービスだよね?」
「そそそ、それは、その、と、盗聴器をしかけることも仕事のウチっていうか、言い忘れていただけで――」
「盗聴器? へぇ。最近の盗聴器はマイクじゃなくて、ジャミングシステムを内蔵しちゃってるわけだ」
 秋人が軽く小箱に力を加えると、薄いプラスチックの外郭は音を立てて壊れ、中から五つの色の違う小石を配置した基盤が現われる。中央の小さな発光ダイオードを取り囲むように五色の石が取付けられており、ダイオードの蒼い輝きはシステムが稼働中であるということを知らしめていた。
 秋人の手中のものを見て、シドの目に怖い色が浮かぶ。
「――。」
 無言でその長い足を振り上げると、まるで床を貫かんばかりの勢いで、男の胴体へと踏み降ろしていた。
「っひっ!!!!!」
 男の目が飛び出しそうな様子で見開かれ、次の瞬間、ガヅンと硬質な音が響き渡る。
「!! っ、シド!!!!」
 内臓破裂は免れない。咄嗟に冷たい物が背筋を降り、秋人が慌てて佐藤へ視線を落とす。
 だがそこには内蔵を踏み抜かれて血反吐を吐く男はおらず、かわりに白目を剥きジョロジョロと情けなく失禁した三十路男と、男の臍のすぐ横辺りの床を踏みしめたシドの黒い靴があるだけである。
 こころなしか毛足の短いカーペットはシドの踵の辺りだけ、ぼっこりとへこんでいるように見える。
 壬沙子のいないこの時期に、こういうのはなしにして欲しい。カーペットをこんなモサ男の失禁で汚された挙げ句、多分床のタイルは見るも無惨なことになっているに違いないのだ。
 後片付けは絶対秋人担当だ。あー、カーペット捲りたくない。
 と、秋人はエクトプラズムでも抜けるような灰色のため息を吐いた。
「まあ、人間に大穴開けなかったことだけは褒めたいとこだけど、……これじゃ事情聴取できないよ」
 佐藤は完全に気を失い、股間から湯気を立ち上らせたままヒクヒクと足を痙攣させている。
「そんなものはもう必要ない。フォークロアとかいう新興のソムニア組織が俺たちの訓練用セラの座標を知りたがっていて、なおかつネックブレスのジャミングシステムをこの部屋に仕掛けていた。言えることは一つだろう」
「……この部屋でネックブレスをつけたまま眠る可能性のある人間。――亮くん狙いってことか」
 秋人の眉間にも小さく苦悩の色が浮かぶ。
 彼の手の中にある小さな黒いボックス。これはネックブレスの効果を打ち消す為に作られた代物である。このサイズならば半径二メートルほどの効力があり、ソファーでまどろむことの多い亮をターゲットにしていることは一目瞭然だ。
 亮がよく訪れるセラの座標を調べ、そこで待ち伏せる。邪魔なネックブレスはジャミングで打ち消し、セラ内で亮との接触を図る。
 これが依頼主の意図だろう。
 セラ内で接触しさえすれば、今の亮ならばその場でどうにでもできるだろうし、下手をすれば洗脳処理を施され、リアルの亮の行動すら操ることができるのだ。
 非合法のソムニア組織が請け負う仕事の多くは、こういった『個人機密の漏洩』や『洗脳』といった類のものだ。
 フォークロアはそれらの黒い仕事を多く取り扱い、ここ数ヶ月の間に急成長を遂げた謎の多い連中である。
 古参の裏業者たちの中には、彼らの強引な市場割り込みや筋を通さないやり口を嫌い、敬遠しているものも多いのだが、二世代、三世代前から目覚めた新しいソムニアたちの多くが、彼らの仲介を利用していると聞いている。
「亮がここへ戻っていることを、恐らくソムニア絡みの何者かが気づいているということだ」
「亮くんの能力のことも――ってこと?」
「マナーツがネックブレスを使うことはないからな。ジャミングを持ち出してきたということは、そういうことだろうな」
 二人の間に沈黙が落ちる。
「依頼を聞いた時点で、もし彼も亮くんのゲボ能力について気づいてたら。――やっかいだね」
「今のままIICR警察局へ突き出すわけにはいかんな」
 シドの言葉に秋人もうなずく。
 セラ内で彼を拘束しIICRへ通報した場合、ソムニアとしての裁判に掛けられ処罰が決まる。
 しかしその裁判で亮の名が出るのはまずい。
 しかしかといって空き巣として日本の警察に突き出しても、すぐに彼は出てきてしまい、秘密は守れない。
「とりあえず中でこいつの持っている情報を確かめてからだ。何も気づいていなければIICRへ引き渡す。気づいていたら――まぁ、その時はその時だ」
 シドは己の首に巻かれたネックブレスを外すと秋人に手渡し、凄まじい膂力で佐藤を引きずって地下へと向かう。
「その時だ――って、シドぉ。また手っ取り早く片付けすぎるのは勘弁してくれよぉ!?」
 泣きそうな顔の秋人は、哀れな裏業者ソムニアと、裏業者以上に裏のある頼もしい相方の後ろ姿を見送った。


 一方その頃、深夜の住宅街できょろきょろと挙動不審な男が一人。
「ここどこだよぉ。――泥棒は見つからないし、帰り道もわからないよぉ。秋人くん、ちっともナビの電話つながらないし、どうすりゃいいんだよぉ!」
 ワンワンワンと犬に吠え掛かられ、半べそで一人、レオンは真っ暗な夜道で途方に暮れていた。





 侵入者の後処理に思いの外時間が掛かってしまった。予定では三十分だったが、時計の長針はさらにその十分先を指し示している。
 シドは足早に部屋に戻ると気がはやるのを抑え、ゆっくりと扉を開けた。
 真っ暗な部屋。
 中央のベッドにうずくまる、小さなシーツの膨らみに近づけば、安らかな寝息を立てて少年は眠り続けているようだ。
 シドの頬から険が抜け、微かに目を細めると、コートを脱ぎ捨て亮を起こさないようにそっと隣に腰を下ろす。
 しかし――
「……どうした。ん?」
 シドがベッドへ身体を潜り込ませる前に、小さな温もりがシドの膝に乗りかかるようにすり寄ってきていた。
「起こしたか――。まだ明け方までは間がある。もう少し寝ていろ」
 子犬のような仕草で甘える少年の柔らかな髪を撫でてやりながら、シドは身を横たえる。
 寝癖であちらこちらに跳ね回った髪がまた可愛らしい。
 はだけられていた毛布を身体へかけ直してやると、少年はシドの腕の中へと潜り込んでくる。
 シドが寒さを感じることはない。だが、それでも十月、深夜の夜風に晒された身体に、亮の熱いほどの体温と甘い匂いは心地良かった。
「ホントだ。――ホントに、シィ、すぐきた」
 腕の中。シャツに頬をすり寄せる亮は、嬉しそうに呟くと、淡い月明かりに揺れる漆黒の瞳をシドへと持ち上げる。
「なんだ。起きていたのか? 一人にして悪かった。こわかったな……」
「へーきだよ。だって、シィ、すぐくるって、ノーヴィスがいったもん。だから、とおる、なかなかったよ! えらい?」
 亮の言葉にシドの眉が微かに動く。
 夢でも見たのだろうか。ノーヴィスと言えば、セブンスで亮に仕えていた執事の青年のことだ。
 セブンスで、悲壮な最期を遂げた彼の名が今ここで出てくることに多少の危惧を覚えたが、亮の様子を見る限り、悪い夢というわけでもないらしい。
 泣かなかったと気を吐いているが、亮の頬に薄く涙の後が見て取れることにシドはこのとき気づいていた。
「ああ。えらかったな」
 柔らかな丸い頬をそっと大きな手でぬぐってやると、亮はくすぐったそうに笑う。
 身をかがめ、少し赤くなった瞼に口づけを落とし、次に頬、そして薄く開かれた唇をそっと覆う。
「……ん」
 ちゅっと軽い音を立て何度か小さくついばんでやると、今度こそ完全に安心しきったのか、亮は再びうとうとと夢の中に戻っていったようだった。
 その表情にはふんわり満たされたような微笑が浮かんでいて、シドは琥珀の瞳を緩ませる。
 どうやらシドが部屋を出た後目覚めてしまった亮に、思わぬ優しい夢が訪れてくれたらしい。
 シドはその姿なき夢の主に、少しだけ感謝の念を覚えた。