■ 3-11 ■


 滝沢は黙したまま部屋へ入ってくると、何の前触れもなく、部屋の中央に佇む大柄な男の頬を殴り飛ばしていた。
 ぴっちりとしたスーツに身を包んだガタイのいい三十男が、もんどりうって倒れ込み、応接用のガラステーブルを派手な音と共に破壊する。
 部屋の隅でその光景を呆然と眺めていたもう一人の若い男は、蒼白な顔でだらだらと冷たい汗を掻くばかりだ。
 その若いサラリーマン風の男の横で、白衣を身につけたガードナーはため息混じりに首を振っていた。
「今回の件、なぜあんなレベルの低いものに任せた」
 男を見下ろすこともせず言いはなった滝沢の声は、あくまで静かだ。
 床の上に転がった男はそれでも慌てて起き上がると、その場に正座したまま頭を垂れる。
 額や口の端から洒落にならない量の血が滴り落ちていたが、それすら気にする余裕はないようだ。
「は、はい。それが、フォークロアを通して腕の立つソムニアたちに今回の話を打診してみたのですが、どれもS&Cソムニアサービスという名前を出した途端、話を蹴られまして……」
「いくら積んでもかまわんと言ったはずだ」
「き、金額の問題じゃないようで、古参の連中はどいつもこいつもその――」
「まぁそう部下を虐めるものではないですよ、ミスター滝沢」
 ガードナーは苦笑を浮かべつつ、情けなくも冷や汗でびっしょりと濡れそぼっている大きな犬を見下ろす。
「この世界が長いソムニアであれば、誰しもシド=クライヴに関わりたくはない。――依頼内容を『トオル・ミョウジンのアルマ確保』ではなく、ジャミングの設置とデータのサルベージだけにしておけば、派遣する人間をもう少し厳選できたかも知れませんね」
 ガードナーの言葉に、滝沢は改めて眉間に深く皺を刻んだ。
 亮がネックブレスを常に身につけているという情報は、滝沢の耳にも入ってきている。
 ジャミングシステムを使いその効力を打ち消した後、亮が良く出入りするセラで亮のアルマを捕獲する――その作戦がもっとも危険なく亮の力を搾取できる方法であると、ガードナーに進言された彼は、自らが組織した『フォークロア』を使いソムニアにそれを実行させることにした。
 しかしコトはそう簡単ではなかったらしい。
 所詮、権力も金も持たないただの一ソムニア――。そう高をくくっていた相手の悪名だけでこれだけ翻弄されることになろうとは、滝沢には思っても見ないことだったのだ。
「シド=クライヴという男、そこまでやっかいな相手だとはな」
「なるほど。特に今のヤツはIICRの名簿からすらはずされているせいで、かえって野に放たれている獣みたいなものだ。下手をすれば命どころか、アルマごとどうにかされかねない。私も直接彼を知らないが、少し甘く見ていたかも知れません……」
「どちらにせよ、相手に警戒された状態で、次の手をどうするか――」
 こうなれば実力行使で直属の部下に命じ、亮の身柄を強奪するのも手かと恐い考えが浮かんだ時点で、滝沢の耳に控えめなノックの音が飛び込んできた。
「なんだ」
 扉を開き細い空間から恐る恐る顔を覗かせた若い衆は、室内の惨状と滝沢の不機嫌きわまりない声に首をすくめたまま、来客を告げる。
 滝沢は苛立ったように薄い眉をつり上げると、「後にしろ」と鋭く叱責の声を上げていた。
 しかし若い衆はおろおろするばかりで扉を閉じようとしない。
「なんだ、まだ何かあるのかっ」
「い、いえ、その、も、もう今ここに、客人はいらしててですね――」
 言い終わる前に男は引き攣った悲鳴をあげ、瞬間的に姿を消す。
 滝沢は反射的に懐からハンドガンを取り出すと入り口へと構えるが、何が起こったのか脳は理解しきっていない様子だ。
 室内にいる誰しもが息をつめ扉へと視線を向ける中、ゆっくりとドアは大きく開いていく。
「っ――」
 滝沢の指がセーフティーを外し、トリガーに掛かった瞬間。
「――おやおや。日本での銃携帯は違法ではありませんでしたかな?」
 薄暗い廊下の光の中に立っていたその人物は、若干しゃがれた声でそういうと、両手を万歳の格好にあげたまま、静やかな足取りで室内へと踏み入ってくる。
 滝沢も、そしてガードナーもその予期せぬ侵入者の姿に、つめていた呼吸をゆっくりと解放していた。
「ビジネスのお話にはそういった無粋なものより、カシオの電卓の方が役に立つと思いますがね」
 入ってきたのは小柄な白人。還暦を数年前に迎えたであろう初老の男だ。白髪交じりの栗毛は丁寧に整えられ、一見して仕立ての良いスーツと相まって、清潔感溢れる印象を醸し出している。
「ビジネス――だと? 無理矢理押し入ってきて言うセリフか」
 泰然とした初老の男の後ろでは、どうやら壁に叩き付けられたらしい案内役の若い衆が、情けない格好で伸びてしまっているのが見て取れた。
 どんな芸当を使ったのかはわからないが、腕にいくらかは覚えのある滝沢の部下を、この男がいとも簡単に手玉に取ったことだけはわかった。
 数ヶ月前、修司により成坂の会社を追われて以来踏み込んだソムニアの世界。そこは今まで彼の知り得なかった化け物たちが跳梁跋扈する異界なのだと改めて思い知らされる。
「ああ、すみません。私としては少し荒事が過ぎましたか。いえ、うちのボスが今回の件、やたらご機嫌で進めてまして、早く話をまとめてこいとうるさいものですから。失礼いたしました」
 細い目の奥に湛える知性の輝きに、この男がただの武闘派でないことがうかがい知れた。
 しかし、滝沢もこういう世界で長く生きてきた男だ。
 ここで引くような玉ではない。
「悪いが押し売りはこちらの商売だ。商売敵から買うことはしない」
 銃口を初老の男の眉間にポイントしたまま、汗一つ掻かず滝沢は言い放つ。
「その老いぼれた二本足で帰るか。それとも肉の塊になって若い奴に搬送されるか。好きな方を選べばいい」
「年寄りを年寄り扱いとは、いただけませんな。商品は気に入っていただく自信があるんですがね。――成坂亮くんの身柄。アルマだけでなく、肉体も含め丸ごと全部をお届けしようとそういう押し売りだったのですが。興味がおありでないようですので、この老いぼれた二本足を――使うことにしますかな」
 男はいかにも好々爺を装った風に口の端を上げてみせる。
 しかし目は決して笑っていない。
 帰る気など毛頭ないのだ。
 滝沢がこの次にどう言葉を吐くのか、全てわかった上でのポーズである。
 そう、一瞬にしてわかった。
 彼は滝沢と同じ部類の人間だからだ。
 わかっていながら、滝沢は、男の思った通りであろう言葉を吐く。
「――詳しく聞こう」
 初老の男は、もう一度愛想良く笑った。










「もうそろそろ起きろ。朝食を取る時間がなくなる――」
 朝九時を大きく回った時刻。
 シドはシャワーで濡れた髪を拭きながら部屋へ戻ってくると、未だベッドの中で丸くなっている少年へと歩み寄る。
 あの泥棒事件の後数日が経過していた。
 あれから亮の体調は随分と良く、毎朝真っ先にベッドから起きだしては、修司の作り置きしてくれたスープやシチューをおいしそうに頬張っていたのであるが、今日は少しばかりお寝坊なようだ。
 シドは長い足でゆったりとベッドへ近づくと、毛布の中に潜り込んだままの亮の頬に触れていた。
「――! 亮、きついか」
 今朝方までは変化はなかったはずだが、今の亮の頬は僅かに上気し熱っぽい。
 シドの問いかけに亮はうっすらと目を開けると、ただぼんやりと視線だけを上げていた。
 どうやらぐったりとした様子の亮には、シドの言葉をかみ砕くだけの思考が働いていないらしい。
 シドはサイドテーブルに置かれた携帯電話を手に取ると、すぐに下の秋人へとコールをかける。
「すぐに秋人が来る。大丈夫だからな」
 言いながら額に手を当ててやり、毛布にくるんだままの身体を抱き寄せる。
 そこでようやく亮は反応を返していた。
 毛布の中から手を伸ばすと、シドのシャツにぎゅっとしがみつく。
 シドの膝上に上半身を預けた亮は、熱に潤んだ瞳でシドを見上げると、次に何かを探すように部屋の中に視線を彷徨わせる。
「シ……、きょぅ、だれ、くる?」
「? 今日?」
 亮の言葉の意味がわからず、シドが問い返す。
 しかし亮はそんなシドの言葉が聞こえているのかどうか、同じ質問を何度も繰り返した。
「きょぅ、いちばんめ、だれ? とんとん、くるよ? もう、とんとんって、くるじかんなの――」
 亮の視線が壁掛けの丸い時計に据えられているのに気づき、シドの眉間に苦しげな皺が走る。
 時計の針は、もうすぐ十時を指そうとしていた。
「亮。ここはセブンスじゃない。大丈夫だ」
 浅い呼吸をつきながら微かに震えている熱い身体を抱きつつ、シドは耳元でそう言い聞かせる。
 しかし亮の視線はぼんやりと焦点を結ばぬまま、時計の針と寝室の扉を行ったり来たりするばかりだ。
「亮。もう、ゲストは来ない。誰も、来ないんだ。心配は――」
「だいじょー、だよ」
 シドの言葉を遮るように、亮が呟く。
「とおる、ちゃんと、できるよ? ちゃんと、おもてなし、できる」
「もうそんな真似は必要ない。ここは日本のおまえの家だろう、亮」
 言い聞かせようとするシドの身体を突き放すように、亮は身を起こしていた。
 毛布をはだけ、おぼつかない足取りでベッドを降りようとする。
「ちゃんと、できるの! ちゃんと、しないと……、とぉる、だいじなもの、なくなっちゃうの! だから、ちゃんと、できるのっ!」
 怒りすら表して亮は必死で訴えるが、支えを失った身体は大きく傾ぎ、ベッドから転がり落ちそうになる。
 咄嗟にシドが抱き留めたが、亮はその腕から逃れようと力なく腕を突っぱねていた。
「大事なものとはなんだ? 何を守ろうというんだ――」
「わかんなぃっ、とぉる、……、どれ、だいじ、しらないのっ! しらないけど、だいじなのっ! しらないけど、それなくなったら、とおる、こまるよぉ! とおる、なくなるの、こまるの!」
 だいじなもの――。
 それが何なのか、亮自身、わからないのだ。
 だがそれでも。
 それでも、亮は必死に守る。

 『亮が守ろうとしていたものは、もうここにある』

 シドはわかっていながら、亮に問いかけていた。
 『大事なものは何なのか』
 その片鱗でも手繰ることが出来れば、亮の苦しみも焦燥も少しは淡くしてやることができる。
 だが、今の亮にはその蜘蛛の糸ほどの理由も指先に掛けることができない。
 だから、シドにはそれを伝えることができない。
 おまえが守った場所に、もうおまえは包まれているのだと教える術がない。
「とおる、お着替え、しなきゃ……。おじさまのあたらしいドレス、きれーにきないと、もう、くるの。とんとんって――」
「亮っ、来ない。もう、来ないんだっ。もう、おまえはなくさない。おまえの大事なものを、俺がなくさせたりしない。だから――」
 必死に抵抗する亮の身体を、折れそうなほど強くシドは抱きしめた。
 シドの腕から逃れようとする小さな身体を、閉じこめるように抱きしめる。
 秋人が寝室を訪れたとき、既にノック・バックの兆候が強く亮の身体に表れていた。
 日本に帰ってから初めての発作が、朝の柔らかな光の中訪れたのだ。





 暴れる亮の身体をシドが押さえつけ、秋人がGMDを注射する。
 すぐに効果は現われ、亮の体温は七度台にまで落ち着いてくる。
 それとともに「ちゃんと、できる。ちゃんと、できる」と繰り返されていたうわごとも淡く消え、ぼんやりと熱に浮かされた瞳でシドを見上げるばかりとなっていた。
「じゃ、何かあったらすぐ電話して」
 秋人が部屋を出るのを待ちきらずに、亮は自分を抱えるシドへしがみつく。
 それを優しく抱きしめると、シドは小さな身体をベッドへと横たえてやる。
「シィ……」
 やっとシドの存在を認めた亮に向かい、シドは柔らかな黒髪を撫で梳いてやりながら、額へキスを落としていた。
「ん。大丈夫だ。すぐ楽になる――」
 静かな低音に小さく身体を震わせると、熱い吐息を零しながら亮はシドを見つめ上げる。
 熱を帯びた幼い瞳に心配ない旨を言い聞かせながら、シドは何度も優しいキスを繰り返し、そっとシャツのボタンをはずしていく。
 亮はシドの冷えた口づけに意識を釘付けにされながらも、キスの合間に途切れ途切れの言葉を紡ぎ出していた。
「シ……、ん、――、とぉ、かわいがて、……、くださぃ」
 それは少年の中にすり込まれた言葉の反復である。
 GMDを使われながら教え込まれた、自分を救う呪文を必死に唱えているのだ。
「シィ……、とおる、で、気持ちく、なって、ください――」
 シドは苦しげに目を伏せると、それ以上、亮に何も紡がせないように強く深く、唇を重ねた。


 






 数時間後――。
 連絡を受けシドの寝室へ向かった秋人は、四階に上がるエレベーターの中で、上から降り注ぐ刺すような冷気に顔を曇らせていた。
 十月の朝方とはいえ、全身に鳥肌がたち、息が白くなるほどのこの状況は気候のせいとは言い難い。
 ノックをせず声を掛けて寝室の扉を開けると、ベッドの傍らに腰を下ろしていたシドが立ち上がり、こちらへと歩いてくる。
「シ……」
「後は頼む」
 声を掛けようと片手を上げかけた秋人の横を、シドは大股で歩き去っていく。
 有無を言わさぬ拒絶を全身にまとって、彼の相方は部屋を出て行った。
 秋人の口元から苦いため息が漏れる。
 今回のノック・バックが亮にどれだけ痛々しい言動を起こさせたのか、シドの状況を見ればすぐにわかった。
 ベッドへ歩み寄ってみれば、白いシーツにくるまって、タオルケットを抱え込んだ亮が安らかな寝息を立てている。
 着ているパジャマも真新しいものだ。
「お疲れさま――」
 そう言ってしゃがむと、丸い頬をそっと撫でた。
 今の幼い亮が無邪気に語る言葉は、心に刻みつけられた傷跡から発せられる遣り切れない旋律である。
 聴く者は誰しも胸の痛みに耳を覆いたくなることだろう。
 そしてなにより、シドはその傷をつけたのが自分だとそう思っている。
 部屋を出たシドの表情を思い出す。
「まだ――終わってないってことだね」
 苦痛はまだ続いている。
 平穏が訪れているように思えても、その水面下では冷え切った得体の知れない流れが渦を巻いているのだ。
 秋人はもう一度小さく息を吐くと、手持ちのカバンから体温計や血圧計を取り出していた。






『シィ……、っ、いい、です。シドのより、きもち、ぃぃよぉ』
 抱きしめた腕の中、何度も亮はそう言った。
 亮の熱を吐き出させるため、指先で快感を与えてやる度、それは繰り返される。
 セブンスで亮が何を求められていたか。
 シド=クライヴの囲っていたゲボ――そう亮が見られていたために、自分の負うべき憎しみまでも、亮は背負わされていたのだ。
 そして――。
 口にする『シド』という音が、今目の前にいるシドを意味するということを、亮は理解していない。
 ――悪夢の中にいるのか。
 そう思えた。
 つかんでも、なんの手がかりもなく、足を踏み出しても、闇に沈むばかりだ。
 ずぶずぶとタールのような柔らかなものに包まれ、生ぬるく沈んでいく。
 すぐ下に底があるようで、だが永遠にそれは訪れない。
 これほど自分の無力を突きつけられたことはなかった。
「――っ」
 火を点けようとしたジッポのリューズが弾け飛び、屋上のコンクリートの上を転がっていった。
 視線を落とせば手の中のライターは白く凍り付き、凍結による金属の収縮でもろくなってしまっているようだ。
 無言のままライターの蓋を閉じたシドの眼前に、百円ライターに点された火が寄せられる。
 シドはちらりと頭上の相手の顔に視線をやると、そのまま何事もなかったかのように咥えた煙草に火を点ける。
「それ、オイル漏れて危ないから捨てた方がいいよ」
 屋上の給水塔下に腰を下ろしていたシドの後ろから、レオンが顔を覗かせる。シドの隣に来ることはせず、給水塔の鉄骨に腰を預け、薄曇りの空を見上げる。
 立ち並ぶビルに切り取られた空間や、ステレオで湧き上がる昼間の街の喧噪は、森に囲まれたIICR本部とはまるで違う。
「ここは風が乾いてるね――」
 吹きすぎていくビル風は埃の匂いがした。
 シドは伸びた髪をそれに遊ばせ、紫煙を吐き出す。
「事務所番はどうした」
「自分だってこんなところでさぼってるくせに」
 相変わらずの無愛想な言葉に、レオンは鼻にしわを寄せた。
 シドはそれには答えず、黙然と煙草を吸うばかりだ。
 幾ばくかの沈黙が流れ、不意にレオンが言った。
「これは医者としての意見じゃない。私個人の見解だから聞き流してくれて構わないんだけど――」
 レオンは一度言葉を切る。
 そうして、灰色の空から差し込む薄い太陽の筋を眺めた。
「ここでならきっと、亮くんは大丈夫だよ。きっと、あの子の心、帰ってくる」
「――わかっている」
 そうつっけんどんに言ったシドは、同じく顔を上げ、ビルの合間から射す白い光を見つめていた。