■ 3-19 ■


 事務所の中は沈鬱な空気で満たされていた。
 息を切らし駆け戻ってきたレオンの目に、頭を潰され首元から中のわたをはみ出させているウサギのぬいぐるみがうち捨てられているのが映る。
「これ――、大通りに出るところの歩道に落ちてた」
 レオンは拾った亮のネックブレスをシドに手渡すと、無惨に首も手ももげかけたお使い白ウサギを拾い上げる。
 真っ白な真綿の中に、五色の石を配した基盤と小さなスピーカーが埋もれているのがわかった。
 そこでレオンは一瞬にして血の気が引くのを感じていた。
 あれは、通常よりかなり小さいものではあるが、確かにネックブレスのジャミング装置である。
 極小のそれは決して外から触れただけではわからないサイズであり、おそらく影響範囲はほんの二、三十センチ四方といったところだろう。お世辞にも強力なものとは言い難い。
 だが、それが設置されている場所が問題であった。
 ウサギのぬいぐるみの中。
 亮がいつも寄り添って寝ているぬいぐるみの中であれば、たとえ出力の少ない小さなこんな装置でも十分に事足りる。
「ねえ、レオン君。これ、どういうこと? そのぬいぐるみ、どこから持ってきたの? わかるように話してくれるかな」
 レオンがぬいぐるみに注視していることに気づくと、秋人が静かに声を掛けた。
 しかしその声の中にいい知れない怒りと苦痛が混じっていることが伺える。
 レオンは震える手でぎゅっとウサギだったものを握りしめた。
「わからない。覚えのないぬいぐるみだとは思ったんだけど、あの日、クレーンゲームで大量に色んなぬいぐるみを取ってきたから――」
「わからないじゃ済まないよ! どうしてそんな怪しいもの、亮くんに渡したりしたんだ!? しかもそのウサギ取りに来て亮くん連れて行かれてちゃ話にならないよ!」
 煮え切らないレオンの言葉に、秋人は遂に声を荒げる。
 しかしレオンには何も言い返すことが出来ない。
 あの状態の亮が相手の都合のいいタイミングで、しかも自発的にこのビルから外に出たとは考えにくい。 
 どう考えてもセラの中で何度か敵のソムニアに接触し、無防備なアルマに暗示を掛けられていたのだろう。
 亮が数あるぬいぐるみの中からこのウサギを選んだ時点で、恐らくすでに相手は何らかの手を打っていたと考えられる。
 何者か。こちらの動きを読み切る力を持つ何者かの手に、レオンは体よく使われていたことになる。
 俯いたまま「すまない」を繰り返すしかないレオンに、秋人は大きくため息を吐くとガツンと拳でデスクを鳴らす。
 遣り切れない苛立ちと焦りの沈黙が室内に張り詰めていた。
 しかしその沈黙を破ったのは、意外にも一番寡黙な男、シド=クライヴであった。
「今レオンにとやかく言っても仕方がない。どのみちあの男が絡んでいたならただで済むはずはなかった。――俺の手落ちだ。亮が手元にあって気が緩んだ」
 シドはレオンの手からウサギのぬいぐるみを取ると、手にしたネックブレスと共に秋人の前のデスクへ置く。
 もっとも荒れておかしくない人物のこの対応に、秋人は熱く滾った息をゆっくり吐いていた。
「あのウサギ、誰なんだ。随分とおまえに絡んでたみたいだけど」
「ローチ=カラス。ストーンコールドのボスで、超級のヴンヨ能力を持つ最悪の男だ」
 シドの解説に秋人もレオンも息をのんだ。
 ストーンコールド。それはこの業界にあるものなら誰もが一度は聞いたことのある、伝説的なソムニア犯罪集団のものだからだ。
 その活動範囲は世界各国に渡り神出鬼没。活動内容は政治経済の関わる大きなものから、有名人の洗脳活動といったゴシップ臭漂うものまで様々だと聞く。
 美しく組織化されたソムニア集団による犯罪は見事で、末端の構成員すらなかなか捕まえることが出来ないと言われており、IICR本部の警察局が血眼になって探索している集団である。
 しかしその一切を取り仕切る頭目は謎とされ、白髪の老人とも見目麗しい金髪美女とも冴えない文学青年とも言われており、正体は明らかになっていない。
 それ故にますますその存在は神格化され、ストーンコールド自体も実在しない、一種の都市伝説であるという者までいる。
 そんな団体を取り仕切る頭目の名がこの緊迫した場であがるなど、何かの冗談のように思えた。
 しかし発言の主はあのシドだ。
 亮を奪われたこの状況で冗談など言おうはずがない。
「す――ストーンコールドって、あの? あのストーンコールドが関わってるって、なんでそんな――」
「ローチは俺の二世代目からの腐れ縁だ。あいつは力はあるが頭がおかしい。あの男に亮の存在を知られたくはなかったが――、渡英する為にヴンヨの力でパスポートを作らせた。まさかこんなに早く絡んでくるとは――」
 他人に絶対的な幸福感を与えることの出来る力。それがヴンヨ能力である。
 シドが亮を取り戻すため、封鎖された日本からの脱出にそのヴンヨの力を込めたハッピーパスポートを作らせたことは秋人も知っていた。
 こんなものができるなら、もっと早く作らせて、亮を取り戻しに行けば良かったのだとその時は思ったものだ。
 しかしこうなってみると、あの時のシドの気持ちが理解できる。
 関わり合ってはいけない相手。大切なものを決して見せてはいけない相手。そんな人間がこの世には存在するのだ。
 おどけたように喋る白ウサギの様子を思い出し、秋人は背筋が凍り付くのを感じていた。
「じゃあ亮くんはストーンコールドのビジネスの商品として売られたってこと? 売った商品の居所を知らせるようなヒントを教えるなんて……何か裏があるとしか思えない――」
「だからあいつは頭がおかしいと言ったろう。おそらく何かしかけはあるだろうが、亮はそのセラに居る。間違いない」
「けど売った相手は? 一体誰に亮くんの身柄を渡したんだ!? IICR本部のセラを指定してたってことは本部の人間なのか? もう本部は亮くんに関わり合わないって話はどうなったんだよ!!」
「本部が? どういうこと、秋人くん」
 話の流れがつかみ切れていないレオンに秋人が先ほどの状況を簡単に話すと、レオンは真剣な面持ちで口元に手を当てる。
 考え込むときの彼の癖である。
「そのセラ、座標からすると旧研究棟の実験用セラじゃないかと思うんだ。管轄は違うけど、非常用の医師権限ナンバーなら通用するはずだ。多分――私なら入れる」
「本部のソムニアが絡んでるなら、レオンくん一人でどうこうできる相手とは思えないよ。だいたいキミはどう考えても戦闘には向いてないっていうか――」
「私が行くとは言ってないよ。医師権限ナンバーは私のアルマにタグとして埋め込まれてる。タグさえあれば誰だろうとオールパスだ」
 自分の首後ろを指さしながら淡々と語るレオンに、彼の言わんとしていることを察し秋人が顔色を変える。
 埋め込まれたタグを引き抜いて、シドに使わせようというのである。
 IICRの医師権限ナンバーと言えば、自分のアルマ片を入れ込んで作られる唯一無二、偽造不可能なIDである。それを自分以外の者に利用させるなど、ばれればその場で権限剥奪、下手をすればIICRの登録を抹消されるはずだ。
 何より完全に埋め込まれているものを手順を踏まず強引にアルマから引き抜くと言うことは、命を落とす危険もはらんでいる。
「レオンくん、キミ、何言ってるかわかってる? そりゃ僕も強く言ったけど、だからってそんな無茶を――」
「秋人くん、私だって医者だよ。自分自身の手術はさすがにしたことないけど、やって出来ないことはないさ。それにそろそろ壬沙子も帰る頃だ。彼女の治癒能力を借りれば、その後のケアもきっとうまくいく」
「そうは言っても手術段階で壬沙子さんはいないんだよ!? もしその時キミのアルマが耐えきれなかったら――!」
「秋人、すぐに入獄システムを起動させろ。タグの引き抜きはうちのベースセラでやる。その後コンマ二秒以内に該当セラへ潜り直す」
 秋人の戸惑いをよそにシドは躊躇もなくそう指示を下すと、レオンを引き連れ地下へと降りていく。
 冷静な素振りであっても、この場で一番焦れているのはシドである。その証拠に、室内の空気は十月とは思えない低下を見せていた。
 今のシドにはレオンの身の危険だの、ましてやIICRでの立場などは考えるに値しない程度のことなのだろう。
「それじゃ、サポート頼むよ、秋人くん」
 もう前しか見ていないシドと片手を上げて部屋を出るレオンを見送り、秋人は一つ深呼吸をするとパソコンの画面へ向かっていた。
 亮の身柄がどうなっているのかわからない今、コトは一刻を争う。
 自分も出来る限りのサポートをするしかない。
 秋人の目に決意の色が揺れていた。








 映像が送られてきたのは移動中の車内のことであった。
 社用の携帯電話のバイブが響き、修司は待っていた取引先との折衝結果かと電話を開ける。
 しかしそれは待っていた結果ではなく、ましてや電話ですらなかった。
 送られてきたのは一通のメールである。
 社用の携帯にメールが届くことはほとんどなく、何かのいたずらかスパムかと、疲れた頭をひねりながら修司はそのメールを開いていた。
 果たして――。
 そこに現われたのは見覚えのないアドレスと、アダルトものらしい動画である。
 この忙しい時期に勘弁して欲しいものだと、電話会社へのクレームを頭に浮かべた修司はしかし、次の瞬間冷たい水を頭から被ったように息を詰めていた。
 そこに映し出されている短い動画。
 一端消したその最後の部分で、修司は弟の声を聞いた気がしたのだ。
 震える指でもう一度再生を押す。
 ドットの荒い映像のその中で、泣きながら少女は男に抵抗していた。
 服を剥ぎ取られ、カメラに向き合うように背中抱きにされた幼い肢体が必死に身体を捩り逃れようとしているのがわかる。
 しかし背後から自分を戒める男の力に抗うことは叶わず、少女は泣きじゃくりながら男の忌まわしい指に身体中を蹂躙されている。
 いや、そうではない。映っているのは少女ではない。
 そこにいたのは、少年。紛れもない修司の弟、亮の姿であった。
 修司の全身から一気に血の気が引いていく。
『っ、ぅぇっ、ぇぇぇっ、しゅ、にぃ、こゎ、こゎ、ょぉっ、ぇっ、ゃぁっ、ひぅっ、』
『ほら、亮さん。もっと修司さんによく見えるようにしてあげなくては、助けに来てもらえませんよ?』
『ぁっ、ん、ふぇっ、ぇぇっ、しゅに、しゅーにぃっ、とぉる、ぉぅち、かぇるっ、かえるぅっ』
 雑音混じりの音質で、画像の中の弟は必死に修司に助けを求めていた。
「亮っ!!」
 何が起こっている? これは、一体どういうことなんだ。
 混乱と焦燥が修司の頭の芯を焼き切っていく。
 背後の男が誰であるのか、修司にはもうわかっていた。
 滝沢だ。
 確かにあの男の声が携帯動画の中から聞こえている。
『修司さん。これはほんのお礼ですよ。私の居心地のいい場所を奪ってくれたあなたへの私からの気持ちです。今はお仕事でお疲れでしょう。お休み前にこの可愛い弟さんの動画で自慰でもして疲れを癒してください。どうせいつもなさっているのでしょう? ふはは。――亮さん、さあ、修司さんにあなたの可愛らしい姿を見せてあげましょうね』
 滝沢の手が見せつけるように亮の下腹部へと滑り込み、音をたてて幼根を責め立てる。
『っ、ん、ゃぁっ、そこ、やだっ、ぁっ、ぅぇぇっ、っ、ぃぅっ、』
 亮は泣きながらもその動きに身体を反応させ、ひくんひくんと身体を震わせた。
「亮っ、くそっ、なんで、こんな――」
 言いかけたまま言葉がでない。
 一瞬これは作り物の映像なのではないかと、衝撃と絶望があり得ない考えに修司を導こうとする。
 しかしどう見てもこれはCGではない。
 滝沢の口ぶりや亮の様子を見ても、過去、監禁された際に撮られたものではないこともわかる。
『退職金代わりにこれを頂いておきます。大丈夫――あなた以上に可愛がって差し上げますよ』
 携帯の小さな画面の中で、滝沢が腕の中の少年の頬をべろりと舐めて見せ、映像は切れていた。
 修司は手の中の携帯をぶるぶると震える手で握りしめ、荒い息で唇をかみしめる。
 父との経営権戦争に気を取られるあまり、あの男のことを意識の外に置いていた。会社から追放し、すでに終わったことと修司の中では片付けられていたのだ。
 しかしそうではなかった。
 あの男の蛇の如き執念深さを、修司は忘れるべきではなかったのだ。
 今の映像に映った悪意に満ちたあの男の目を思い出せば、滝沢が修司へただならない怨嗟の念を抱いていることがわかる。
 自分の責任だ――。
 修司は後悔と自責の念で目の前が赤く染まるのを感じていた。
 口の中に塩味掛かった鉄の味が広がる。
「成坂。おい、成坂!」
 その声に意識を引き戻され、修司ははっと顔を上げていた。
 気づけば走っていたはずの車はいつの間にかハザードをつけ、路肩に寄って停車している。
「どうした。酷い顔色だぞ」
 運転していた武智が、後部座席に座った修司を振り返り声を掛ける。
 かみしめた唇を解くと、じんわりと血が滲んでいるのが自分でもわかった。
「――亮が」
 言ったまま言葉を飲み込む。
 この先を続けていいものか、混乱してしまって判断が付かない。
 亮が今滝沢によってどんな行為をされているのか、一友人である武智に話す――。それが亮にとってどういう意味を持つのか考えると、先が出てこない。
「亮が、どうした。一刻を争うことか?」
 そう言われて、修司は苦悶に歪む眉根を開き、ようやく続きを口にすることが出来た。
 武智の言うとおりだ。
 今は一刻を争う。
 何より「家へ帰りたい」と泣いていた亮を、早くあの場所から助け出すことこそが肝心だ。
「すまない、武智。もう一度、おまえの力を貸して欲しい」
 その声は意外にも冷静であった。
 しかし修司をよく知る武智には、声の奥底に沈む掻きむしりたいほどの焦燥感が手に取るようにわかるようである。
 窓外を通り過ぎていく車の流れる音も、どこか遠くに聞こえる。
「ああ、亮のためならいくらでも動いてやるぜ? あいつは俺にとっても弟みたいなもんだしな」
 いつもと変わらぬ軽い調子の武智に、修司は大きく一つ息を吐くと手にした携帯電話を手渡していた。
「亮が滝沢に拉致された。すぐにでも連れ戻したい」
「拉致!? それなら、すぐにでも警察へ――」
「警察はまずいんだ。亮の存在をなるべく公にしないようにしたい。今の亮はIICRで消滅したことにされている。実際は諸々の手続きでうまく今の生活に戻ることができているが、どこからあちらのソムニアたちに嗅ぎつけられるかわからない」
「――なるほど」
 言いながら武智は受け取った携帯の動画に視線を落とす。
「っ――、たしかにこういうのはうちの家系の管轄だな」
 小さな画面の中で悪戯され泣きじゃくる亮の様子を目にした武智は、空いた手で短い髪をかきむしると眼光を切っ先のように鋭くし、何度か同じ映像を繰り返させる。
「音声の響き具合からして広いホールを簡単に区切った場所だろうな。廃ビルか倉庫、廃工場か――背景の壁がやたら綺麗なところを見れば、最近手を入れてる」
「――日の当たり具合を見ると自然光だ。周囲に影になるものがなく、ドットが荒くて見づらいが――背後の壁に映る揺らぎはおそらく水の反射じゃないかと思う。となると水辺で建物自体は低い可能性が高い」
「そんな場所で、ここ最近滝沢の息の掛かった連中が頻繁に出入りしていた場所ってことになると――そこそこ絞られては来るか」
「おまえのルートでわかりそうか?」
「ああ、やれるだけやる。おまえの方も、もう少し情報を集めてくれ」
 修司は携帯を受け取ると、すぐさまS&Cソムニアサービスにコールをかける。
 武智も同じく己の携帯電話を取り出し、心当たりの情報源へカーソルを合わせていた。
「くそっ、あのド変態がっ――」
 吐き捨てるように武智は我知らず呟いたのだった。