■ 4-1 ■



 五月下旬のうららかな日差しが窓から差し込み、教室の中をぽかぽかと心地よい温度へ温めている。
 本職は催眠術師ではないかと疑うほど眠りへと誘うのがうまい古文の教師がその手腕を存分に発揮した授業が終了すると、一年C組の教室はため息と共に誰もが寝ぼけ眼をこすってようやく目覚めたようだった。
 ざわめきと同時に机や椅子をいざらせる音がやかましく響き、それぞれが活動を開始する。
 デコレートされまくった携帯電話をチェックする女子や、今日発売のジャンプを回す男子たちの中、後ろから二列目廊下側の席に座っていた男子生徒は机に突っ伏したまま起き上がる気配を見せない。
 周囲の生徒達は思い思いに自分の用をこなしながらも、テキストや筆記用具を持って次々と教室を出て行き始めていた。
「ねぇ、成坂くん。次LLだよ? 早く準備して行かないと――」
 机にぐたっと寄りかかったまま気だるそうにしているその生徒に向かい、前の席の女子生徒がそう声を掛けた。
 緩くウェーブの掛かった髪を肩口で左右に結んだ少女は、いかにもお嬢様といった風情の品のいい顔立ちをしている。
 彼女の持っている文房具なども、見る者が見れば一目で名の知れたブランド品だとわかる代物だ。こんな女子に声をかけられれば男子たる者笑顔で応対するのが当たり前である。
 現に彼女の今までの人生では、99%超がそうだった。しかし、この春同じクラスになったこの男子生徒だけは少し違っているのだ。
 誰に対しても無関心と言おうか、一枚も二枚も見えない分厚い壁を隔てた向こう側にいる感じなのである。
 人を惹きつける可愛らしいと顔立ちにも関わらず、少年らしい凛とした雰囲気。そして人を寄せ付けないその態度がミステリアスな空気を醸しだし、1Cの女子たちはこのクラスメイトを、入学当初から注目しまくりであった。
 四月初めの桜咲く頃には幾人もの生徒が男女問わず果敢に話しかけていたようだが、一ヶ月半たった今ではほとんどの者が遠巻きに見ては愚にも付かないうわさ話に興じるというポジションに落ち着くことになったのである。
 そんな中彼の前席に座る少女はまだあきらめていないらしい。
「成坂くんってばぁ――」
 しかし強引に起こしに掛かろうとした少女の手は空を切り、さきほどまで机に伏していた少年はいつの間にか身体を起こし立ち上がっていた。手には簡単な筆記用具だけが持たれ、すでに教室の後ろに向かおうとしている。
 一体どんな早業を使ったのか少女には全くわからなかった。今までここで寝ていた姿が幻か気のせいかだったのではないかと思えてくるほどだ。こうなってはぽかんとしたまま見送るより他にない。
「もうあきらめれば?吉野。あんな無愛想なヤツなんかよか、俺のがずっとお買い得よん?」
 そんな彼女に向かい、最後尾に座って一部始終を眺めていたらしい男子生徒が声を掛けてきた。下品な笑いを口元に溜めている。
 自分を起こそうと躍起になっていた吉野彩名のことも、それをすぐ後ろで眺めていた男子生徒のこともサッパリ眼中にない様子で、少年はさっさと教室を出て行くところだ。
「うるさいなぁ。久我なんてお断りだよ。あんた何マタ掛けてるの? クラスの中だって三人はつきあってんじゃん」
 久我と呼ばれた男子生徒はだらしなく椅子を背後に倒し、茶色く抜いた無造作ヘアーの中に指先を突っ込むと頭を掻く。
 その高身長と引き締まった体つきに対し、だらしなく着崩した学生服が意外にもしっくりと決まっており、同じくだらしない体勢と相まって妙に絵になっている。
「そう言ったって、向こうがいいって言ってんだから俺が断る理由なんてないでしょ。俺といると楽しませるよぉv どーよ。俺は逆玉大歓迎よ?」
 少し下がり気味の甘い目元で流し見ながら、久我はくいっと片方の眉だけ上げて見せた。
「あいにく私は顔じゃ男を選ばないことにしてるの」
「・・・。どの口がそんなこと言うかね」
「っ、とにかく私は成坂くんに普通に喋って欲しいだけなの」
「それはどーかなー。あいつホントナンも喋んねーよ? 朝起きておはようもないし、飯のときも寝るときも挨拶なし。シャワー先に使うぞとか、電気消せとか、必要最低限の用件しか言わないからな」
「!? 何それ。ナンであんたそんなこと知ってんのよ!???」
「だって俺、寮であいつと同室だもん。今月に入ってから親の都合だかなんだかで急に入寮することになってさ。たまたま一人で部屋使ってた俺のとこに来ることになったんだ」
「へ、へぇー。そうなんだ。ふぅん……」
「――しかし、あんなに協調性なくてよく寮に入る気になったもんだ。あいつの周りの壁に比べりゃ、美ら海水族館の分厚いアクリル水槽だってウスウスコンドーさんと同じレベルだぜ?」
「な、バカじゃないの!? 変なたとえしないでよ、どエロ変態仮面! 死ね!」
「あだっ」
 彩名は手にしたテキストで久我の頭を殴ると、怒りにまかせたスタスタ歩きで教室を出て行く。
「変態はともかく、仮面ってなんだよ」
 それを呆れたように見送ると、久我もようやく重い腰を上げていた。
 しかし手には教科書どころか筆記用具も持っていない。
 小銭入れだけをズボンの尻ポケットに突っ込むと、LL教室とは反対の方角へ歩き出す。
 協調性のなさは久我も同室のクラスメイトと同レベルなようであった。






 
 亮はここ最近極めて不機嫌だ。
 その原因はいくつかある。
 自分の身柄の安全のために、四月から近くにある別の高校へ入学しなおす羽目になったこと。IICRから身を隠すため仕方ないことだとわかってはいても、この逃げるみたいな方法は気に入らない。
 そしてもう一度一年生をやる羽目になったこと。本来有効であるはずのIICRにいたころの家庭教師による学習時間がプラスされなかったために留年になってしまったわけであるが、これはIICR側では亮は消えたことになっているため手続きが取れないのだから仕方がない。
 しかしこれらを凌駕するイライラの原因がさらに二つ存在するのだ。
 一つはシドの新しい仕事のために、自分が事務所を追い出され、今月頭から学校の寮へ入れられてしまったこと。去年の十月、亮としての意識を取り戻して以来それなりに修行を積んできたつもりである亮には、自分だけソムニアとしての仕事にノータッチを強要される不甲斐なさと疎外感にやりどころのない怒りを感じている。
 そして残りの原因が――

「成坂。今のナレーションを訳してみろ」

 階段状になったLL教室の後部座席から前を見れば、教壇わきのパイプ椅子に足を組み腰掛けた新任の英会話講師が、亮の方へ視線を投げかけている。
 この教室ではマイクを通して生徒達のイヤホンへ直接声が届くため、教師は声を張ることもなく、授業の間中ずっと偉そうに椅子に座ったまま生徒へ指示を出していた。
 亮は自分の席のモニター画面に映る一時停止された映画のワンシーンから視線をはずすと、不機嫌さを隠しもしないで「聞き取れませんでした、エドワーズ先生」とだけ答えた。
「ぼーっと寝てるんじゃない、バカが。次、後ろ。訳せ」
「はい。ミスター・ジョン=エドワーズ」
 講師がさして怒りも見せない無感情な声で次を指すと、後ろに座った男子生徒、美化委員の松下が滑らかな調子で訳し始める。
 五月から急遽赴任してきたネイティブのイギリス人英会話講師は、赤みの入った茶色い髪をうっとうしげに掻き上げ、得意げな様子の松下の訳を聞き終わると同時に、特に何もコメントすることなく映画の続きを再生する。
 優等生然とした松下は文句を言うことはないが、それでも自分の成果を褒められないのには不満があるようだった。
 しかし新任講師、ジョン=エドワーズは生徒の様子など全く意に介していないらしい。淡々と決められたプログラムをこなしていくだけである。
 しかしそんないい加減な授業であるにも関わらず、無駄口を叩く者はなぜか一人もいない。
 他の授業では有り得ないほど静かに、どの生徒も妙な緊迫感の中真面目に目の前のモニター画面を見つめている。
 赴任早々はこの若い講師の容姿や雰囲気にざわついていた女子達も、授業で相対したその時点から、不思議なほどピタリとさわぐのをやめていた。
 凍り付いたような視線を持つエドワーズ本人を前にすると、どうにもキャッキャ華やぐ空気にはなれないらしい。
 大半の生徒がまとも過ぎる様子で授業を受ける中、逆に反抗的な態度を取る生徒もいる。
 その内の一人が亮であり、もう一人がサボリ魔久我だ。
 久我はともかく、他の授業では特にそう言った反抗的態度を取らない成坂亮がこの授業だけ態度が悪いことについて、クラスメイトの誰もが「成坂は英語のヒアリングが苦手らしい」としか認識していなかった。
 だが、亮がこの授業を仏頂面で受ける本当の理由はそこではない。
 滞りなく授業が終了し、わからないところを教えてもらいたい女子生徒を適当にあやして追い返したエドワーズの元へ、一人教室の後ろに残っていた亮が近寄ってくる。
 授業で使ったDVDをプレーヤーから出しながら、長身のイギリス人講師は少年に視線をやることもしないで声を掛けていた。
「おまえ、他の授業もこうじゃないだろうな」
「どーでしょーかね、エドワーズ先生」
 ふざけた調子で肩をすくめてみせると、教卓に置かれたテキストをバンと強く叩き付ける。
 その音で初めてエドワーズは視線を亮へ流し向けると、さっとその手からテキストを取り上げていた。
「目立つ真似はするなと言っているだろう」
 エドワーズは言いながら、さっさとLL準備室へと去っていく。
 あっという間の早業に、亮はますますムッとした様子でそれを追い掛けると、講師の手にしたDVDだの筆記具などを取り上げようと躍起になって飛びついていた。
 それを流れるように受け流しながら、エドワーズは呆れたように足を止める。
「なんだ。子供みたいな真似をするな。用がないなら早く教室へ戻れ、バカが」
「用ならあるよ! っ、いつまでこんな真似しなきゃなんないんだ!? オレだってちゃんとしたソムニアだ。力だってそれなりに強いんだろ? だからオレもシドの手伝い出来るよ! なんでオレだけ寮に逃げ込まなきゃなんないんだよっ! オレにも手伝わせろよっ!!」
 亮は抑えていた感情を弾けさせるようにそう言い募ると、髪を茶色に染め、偽名まで使って講師として潜り込んだシドの顔を見上げていた。
 その先にある瞳の色だけは変わらぬ琥珀色で亮を映し出している。
「――何度も言わせるな。今度の仕事は別格だ。本部から流されてきた案件で、おまえを関わらせるわけにはいかん。何のためにわざわざ寮へ入れたと思っている。ここの連中におまえがソムニアであることを知られないためだ」
「でも――」
「でもじゃない。――いいか、亮。今、この学校は危険な状態にある。俺が直接リアルで乗り込むほどにだ。だから絶対にこの学校属性のセラに入獄したりするな。わかってるな」
 声を荒げることさえしないシドの様子に、事の深刻さを改めて突きつけられ、息巻いていた亮は次第に力なくうなだれてしまう。
「それから、クラスの連中や寮の同室のヤツとは不必要に会話をするな。目も合わせるな。まだおまえはゲボとして未熟すぎる。自分で能力の調整がきかないなら、極力接触を避けろ」
「――やってるよ。おかげで友達ゼロだ。なんだよこの学校生活」
「嫌なら家で大検でも取れ。勉強は秋人が全部見てくれる」
「だからやってるって言ってるだろ!? 話聞かない外人だなっ。ちゃんとやってるよっ。今日も誰ともしゃべってないし、目も合わせてないっ。これでいいんだろ!? バカッ。バカシドっ! おまえももっと真面目に授業しろっ! 下手くそっ!!」
 亮は手にした自分のペンケースをシドへとぶつけるとくるりと踵を返し、駆け出していた。
 後ろからシドが何か言ったようであったが、亮の耳には届かない。
 怒りと悔しさと寂しさで浮かんでこようとする涙をぐっとこらえ、亮はそのまま購買部へと走っていく。
 昼休みのパン競争はどこの学校も同じようであった。