■ 4-2 ■



 亮が本館三階、非常階段脇にある購買部前へ駆け込んだときにはすでに、パンの並べられているはずの台の上には何もなく、真っ白いテーブルクロスが眩しく輝いているだけだった。
 昼休み開始十分間は学校一密度の高くなるこの場所も、今は閑散としており、いるのは自販機でのんびりとイチゴ牛乳を買う数名の女子たちくらいである。
「あー……、やっぱだめかぁ」
 白いテーブルクロスへ視線を落とすと、さらにがっくりと肩まで落とす。
 シドへの抗議が長引いてしまい戦場到着の遅れた亮には、あんパン一つすら残されていなかった。
「んー、キミは新入生かな? 残念でした。この時間じゃちょっと……というか、かなり出遅れだったねぇ」
 台の後ろに屈み込んで帰り支度を始めていたパン屋が振り返ると、哀しげな目で白いテーブルクロスを見つめていた亮にそう声を掛けてくる。
「今日は特に大繁盛でね。いつもなら一つか二つは売れ残りが出るんだけど、今日は完売。ごめんねぇ」
 学校でパンを売る人はほとんどおじさんかおばさんが定番だと思っていた亮は、振り返ったパン屋さんが意外にも若いことに少し驚いた。
 若いと言っても三十後半だろうが、それでも亮の持っていたイメージとは少し違う。
 第一パン屋さんは白い三角頭巾なりパン屋さん帽なりを被 って、白衣を着ているものだと思いこんでいたのだが、目の前の男はぼさぼさとした黒い髪を肩口まで無造作に垂らし、何より驚いたことに着ているものが『和服』だったのだ。
 よく呉服屋の若旦那さんが着ているような、渋い格子柄の上下を身にまとったパン屋さんは、眠そうな一重の目を亮に向け、心底申し訳なさそうにそう言った。
「え、あ、そう……かぁ。参ったな、――はぁ……、今日は飯抜きかぁ」
 シドに極力会話するなと言われてはいたが、相手はあまり接触する機会のないパン屋さんなのだし、これは亮の腹具合にとってヒジョーに重要事項なわけであるから、今回の対応は致し方ない。
 空腹で頭が回らない上にパン屋さんの持つホンワカした雰囲気で、ついうっかり普通に会話してしまったことは秘密だ。
「そっか、それは困ったね。んーと、ちょっと待って……」
 そう言いながらパン屋さんは売り上げの入ったカバンの奥から、ごそごそと何やら紺色の小さな風呂敷包みを取り出す。
「はい」
 立ち上がりその包みを亮に手渡すと、再びパン屋さんはテーブルクロスを畳んだり、台に使われていたテーブルを折りたたんだりと忙しく片付けを再開する。
「?」
 手渡されつい受け取った亮は、つしりと心地よい重さのあるその包みを見つめ、不思議そうに目を瞬かせた。
「あの、これ――」
「それ、僕の弁当。売り物じゃないからサービスで無料にしとくよ」
「え!? でもこれオレがもらっちゃったらパン屋さんのは?」
「はは、心配いらない。僕は学生じゃないんだから、弁当ないなら外で食べるさ。他の納品も午前中に終わらせちゃってるし、後は帰るだけだから」
「でも……」
「お腹減ってると力も出ないし勉強にも身が入らないだろ? 学生さんは食べ物のことで遠慮しちゃだめだよ。あ、それから、食べ終わった弁当箱はちゃんと洗って返してね? それ、僕のお気に入りの箱だから」
 そう言うとパン屋は冗談めかした調子で片目をつぶった。
 そんな脱力感溢れるパン屋の様子に、思わず亮の口元にも笑顔が浮かぶ。
「あ……りがとぅ、パン屋さん。明日ちゃんと洗って返すよ」
「いえいえ。あと、そう。僕、本職パン屋じゃないから」
「?」
「昼時用にパンも売ってるけどね。基本ここの購買に文房具や参考書なんかを卸してる古本屋さんです。お店は夕方からだから昼間暇でさ、こうやって出稼ぎしてるわけ。だから、正確にはパン屋さんでなくて古本屋さん、て呼んで欲しいね」
 和服のパン屋さん改め古本屋さんは、妙にまじめくさった調子でそう言うと、着物のたもとに両腕を差し込み、一人納得したようにうんうんと頷いた。
「まぁ、お店開けててもお客なんてほとんどこないから、パンの売り上げの方が多いんだけどね?」
 亮は呆れたようにパンも売ってる古本屋を眺め、次に思わずくすりと笑ってしまっていた。
「古本屋やめて、パン屋した方がいいよ、きっと」
「なるほど。僕も前々からそうじゃないかなーとは思ってるんだ。でもまだ家に古本の在庫が売るほどあるからさ。なかなか足を洗えそうになくてね。――おっと、無駄話してる場合じゃないな。ほら、早く帰って弁当食べなさい。昼休み終わっちゃうよ?」
 そう古本屋に言われ、亮は慌てて手に巻いた時計を見た。
 確かに昼休みはすでに半分ほど終わってしまっている。
 亮は急いで青年に礼を言うと胸元に弁当箱をしっかり抱え、来たときと同様素晴らしいスピードで廊下を駆け出していた。
 



 久我貴之は口元にあるかなしかの微かな微笑を湛え、体育館二階B倉庫の窓から、手にした双眼鏡を覗き込んでいた。
 下から吹き上げる湿った青臭い風に煽られ、久我の茶色い髪が時折思いついたように揺れる。
「次はどいつに仕掛けるか――」
 ぺろりと下唇を舐めると、向かいに建つ新館二階の窓際を順番に眺めていく。
 四時間目のLLをさぼった足で彼はこの使用されていない倉庫へと向かい、昼休みを迎えた今、こうして目の前の校舎を見つめていた。
 新館は三年生と二年生の一部が使用している校舎であり、利用している生徒数が一番多い場所である。廊下側ではあるが目立たずそこを見渡せるこの体育館二階倉庫は、忘れ去られたような人気のない場所であることも相まって、彼にとって都合のいい場所らしかった。
 ただ、廊下側である為、授業中は生徒の顔を見ることは出来ない。それゆえ休み時間、教室移動など用事で廊下を行き来する生徒を観察するしかない。それを実行するには、特別教室から戻ってきたり、昼食やジュースの買い出しに出かけたりするこの昼休みがもっとも効率のいい時間と言える。
「こないだのは失敗だったからな。今度はうまくやらねーと……」
 久我の足下にはビニール袋を掛けられたままのマットが重ねられており、その上にミネラルウォーターやらチョコレートの包み紙やらが散乱している。中には真新しいここの鍵らしきものまで転がっている。
 もちろん、体育教官室にぶらさがっているはずの本物ではない。久我が勝手に作った合鍵だ。
 どうやら彼がここに入り込むのは今回が初めてというわけではなさそうであった。
「バカ過ぎず、利口過ぎず、俺の思うとおり動いてくれる理想のカワイコちゃんはどの子かなー」
 呟きながら、久我は窓際に置いた小箱からチョコレートの粒をつまみ上げると、器用に片手で包み紙を剥き、口の中に放り込む。
「あと、死なない頑丈な子希望ね――」



 

 
「ね、聞いた? また昨日一人死んだんだって、うちの生徒」
「うえーっ、まぢで!? なんで? また心臓発作?」
「そうみたい。今回は二年の女子だったみたいなんだけど、朝お母さんが起こしに行ったら、ベッドの中でつめたくなってたって。怖いわー!」
 世界は物騒な話で満ちている。
 だが、この会話は少し度が過ぎているだろう。
 普通の私立高校の学生が、昼休みに食後のヨーグルトを食べながらする話でもない。第一、「また」というところがポイントだ。
 彼女たちの言うとおり、この学校では今月に入って立て続けに三人の生徒が亡くなっている。事故で一気に三人というのでもない限り、少し数が多い。
 机を固めて大きめの昼食用テーブルにし、楽しく昼食タイムを満喫している彼女たちの物騒な話に、亮は耳をそばだてながら急いで弁当を食べることにした。
「それって病気なの? うつる? それとも呪い? だって新学期になってもう三人死んでるじゃん。有り得ないよ!」
「だよねー。先生が言うには、若年性心筋症じゃないかって言ってるんだけど、そんな病名言われてもよくわかんないよね。そういうのって感染したりしなさそうだしさぁ」
 原因はそんなもんじゃない。
 亮はそのことをよく知っている。
「じゃ、偶然ってこと? それならもう死んじゃう子とかでないのかなぁ。……実は、前回死んじゃった三年の牧瀬先輩に私、告ったばっかでさぁ……、手紙渡したり待ち伏せしたりしてたから、もしうつるんだったら、ヤバイじゃん?」
「うそ! 付き合ってたの?」
「フラレたっ」
「――あ、そう。でも逆に良かったじゃん。付き合ってたらあんたも変なものうつって死んでたかもだし」
「だよねだよね、逆にねっ! よかったぁ、まぢフラレてよかったぁ!」
 彼らの死亡原因は決して感染するものではない。
 睡眠時の原因不明の死亡の多くは、セラでの出来事が絡んでいる。
 そう考えれば、彼女がフラレたのはあまり良かったことでもないように思えるのだが、それに対して亮はコメントするつもりもない。
 壬沙子が昨年の秋、IICRから持ち帰った案件を秋人が調査し、そして約半年が過ぎた今年の五月――シドが潜入調査している事件。
 生徒達の相次ぐ死亡は、この事件に密接に関わっているらしい。――らしい、というのは、不本意ながら亮はこの事件の詳細を教えてもらっていないからだ。
 そもそもこの学校――私立青陵高等学園――が調査の対象になったのは突然のことで、四月の入学の段階では学校自体に何ら問題はなかったのだ。問題があればシドが亮をこの学校へ入学させることはなかっただろう。
 ところが四月終わりに最初の死亡事件が発生し、亮に短期間複数回転校という目立つ行為をさせたくなかった事務所側は、やむなく亮をそのまま学校へ通わせることにしたのである。しかしその翌週から亮は事務所を追い出され、シドが学校へ赴任してきた。
 当初は亮を退学させるとシドが言い出し、それに断固として抗議した亮と大げんかとなったほどだ。今のこの形態は、シドと亮の譲り合いの結果生まれた妥協点なのである。
 去年の冬。亮が目覚めてからというもの、考えられないほどシドは亮に対し口うるさい。以前は適当にあしらっているとしか思えなかったセラ内での修行も、THE・鬼教官! と言わんばかりのスパルタぶりで亮をしごき倒すし、門限や就寝時間にもやたらとうるさい。休日俊紀とゲーセンに行ったりすれば、一時間おきに秋人へ電話を入れろと強制される。
 スパルタ特訓を除けば、オレは箱入り娘か! と突っ込みを入れたくなるような惨状であった。
 そんな過保護状態の亮に、シドが危険な仕事に関わらせるはずもない。
 亮がソムニアとして許されている行為は、下校後や深夜、決まった時間内に事務所のベースセラで決められた訓練をこなすことだけである。
 それすら最も安全だとシドたちの言う、寮のベッドの中からだけしか行ってはいけないらしい。
 もちろん他のセラへ出向くことなど不許可。特に同じ学校の者達が集いやすい、学校属性のセラへは死んでも入るなと言い含められている。
 同じ学校に通う者がセラ内死亡を遂げているらしいという現実は、事件は学校属性のセラで起こっている可能性を示唆している。シドたちの調査対象もそこに違いない。
 違いない――というのは、やっぱり亮にはどのセラを調査しているか何も知らされていないから、想像するより他にないわけである。
 自分の情けなさにため息をつきながら、亮は紺色の何だか高価そうな風呂敷の包みを解く。現われた見事な塗りの小さな重箱の蓋――貝細工で月と兎が描かれている――を開けると、中には「どこの高級フレンチですか?」と問いかけたくなる見たこともないご馳走が詰まっていた。
 亮は何度か目をぱちくりさせると、そっと机から次の公民の教科書を取り出して弁当を隠し、これも美しいわさび色の塗り箸でモリーユ茸に包まれた鴨肉をつまみ上げる。
「網タイツみてぇ……」
 亮はその不思議な食べ物を口へ放り込むとおいしさに黒い瞳をくりくりさせながら、「あの人変わってるなぁ」と今さらながらに思ったのだった。