■ 4-10 ■


 亮が目を覚ますと、そばには秋人がいて血圧計や体温計を手慣れた様子で小さなカバンへしまっているところだった。
 もぞりと身体を動かした亮の様子に少年の目覚めを知ると、秋人は腰を落としベッド脇から亮の顔を覗き込む。
「具合、少しはよくなったかな。熱はもう下がってるし、血圧も脈拍も正常だし――あとは亮くんの気持ち……だね」
 意味深な秋人の言葉に寝起きの亮は頭が回らず、いつものくせで犬のように小首を傾げていた。
 そんな亮の頭を優しく撫でながら、秋人が続ける。
「ごめんね、亮くん。僕の見立てが甘かったんだ。まだ亮くんに無理をさせるべきじゃなかった。このまま不安定な心の状態でいれば、取り返しの付かない大きな発作が起こるかもしれない。それよりは、心理的に安定のある場所にいて、自分で症状をコントロールしていく方が――」
「……なに? なに、言ってるの? 秋人、さん」
 思いも寄らなかった真剣な様子の秋人の話に、目覚めたばかりの亮は付いていけず、不審げに聞き返す。
「亮くん。――亮くんは寮を出て、修司さんのマンションに戻った方がいいんじゃないかって、思うんだ」
 秋人は珍しく低い声音で囁きかけるように亮に言った。
「修司さんには話をしてある。明日からでも戻れるように寮の手続きも僕が済ませるから……」
 しかし亮はベッドの中で小さく首を振り、秋人の言葉を中断させる。
「オレ、戻らないよ。オレ、ここにいる。平気だから。もうちょっとしたら、きっと寮にも慣れる。だからもう少し、時間、くれないかな」
「亮くん――」
「強がって言ってるんじゃない。オレ、早く戻りたいんだ。前みたいに普通に息して、普通に話して、普通にムカついて、普通に笑って……。しゅう兄んとこ帰ったら、きっと、オレ、甘えちゃう。ずっとしゅう兄の側はなれられなくなって、しゅう兄にもいっぱい迷惑かける。そんなの、オレ、嫌なんだ。だから、もう少し、がんばりたい。みんなの役にたてるようになりたいんだ。……だめ、かな」
 亮が言い終わると同時に、秋人は今にも泣きそうな顔で唇をかみしめ、ぶんぶんと頭を振っていた。
「だめじゃ、ないよ。だめなんかじゃ、ない」
 ぷるぷると震えながら涙を堪える秋人。
「でも、ほんとに大丈夫? 無理は絶対にしちゃだめだ」
「うん……、大丈夫。きつくなったらちゃんと言うから」
 亮はベッドの中から秋人に小さく笑いかける。
「そか……、亮くんが、がんばるなら、僕、だって、がん、ばるよぉ。っ、で、でも、せめて、今度の日曜日、修司さんとおでかけ、くらいしてきたら、どうかな。おやすみ、とって、る、って、いって、た、しぃ」
 最後は耐えきれずぼたぼたと涙を流し始めた秋人に、亮はたじろぎながら、コクコクと頷いていた。
 




 成坂亮は、翌日も学校を休んだ。
 俺はなぜかあれから二日、管理人室で寝泊まりを強要され、あのわけのわからないクルクル管理人と一緒に過ごす羽目になった。奴が言うことには、成坂の体調が悪いので気を利かせろとのことだったが、なんでこの管理人は成坂に対してはこんなに過保護なんだろうか。
 他の寮生が腹痛で沈もうが、インフルエンザで寝込もうが「正露丸のんどけ」の一言で済ませる超放任主義だというのに、まったくもって意味がわからない。
 成坂が本当にヤバイ病気なのか、この管理人がヤバイ病気なのかのどちらかだろう。多分、俺は後者だと思う。
 まー、俺がそう思うに至った原因のほぼ大半は胡散臭い管理人の言動にあるわけだが、一番の大きな要因は、成坂がその翌日の日曜日、急に外出届けを出してどこかに遊びに行くらしいということがわかったからだ。
 朝食の時久々に(といっても一日半ぶりだ)成坂の顔を見たが、いつもと変わりがない様子だった。体調が悪いようには見えない。
 しかし、この寮に来てからというもの、あいつが外出するのを俺は見たことがない。ましてや遊びに行くなんて、いつもの仏頂面したあいつからは想像も付かなかった。
 俺の知っているあいつは、朝から不機嫌そうに飯を食って、学校では目立たない感じで普通に授業を受け、クラスのヤツとはほとんど口も聞かない。帰ってからは昼寝して、飯食って風呂入って寝る。それだけだ。
 レジャールームでテレビを見ることもないし、ましてや寮生達とトランプや麻雀で親睦を深めると言うことも決してない。
 時々みかける唯一の楽しみらしきものと言えば、コンビニでシュークリームやわけのわからん駄菓子を買い食いするくらいのものだ。
 そんなあいつが外出して遊びに行くなんて、相手が誰なのか、どこに行くのか、どんなことをして遊ぶのか、俺の好奇心をくすぐりまくってやむことがない。――もちろん、ビジネス的な意味でだ。

 俺が今狙っているのは、大がかりな高校生売春組織の実体解明と首謀者のゲット。その為に今まで色々と手を打ってきたが、どうしても後手後手に回ってしまっている。
 起死回生の一発をしかけるには、成坂は最高の手駒だと、俺は一昨日の夕方、確信した。
 そんなわけで、今から出かける成坂を追跡調査するのは、仕事上必要な事項であるわけで、決して他に意味があるわけではない。
 ……まぁ、多少あいつ自身に興味みたいなもんはあるが、それは好奇心旺盛な俺様にとってどうしようもない性で、あいつに対してだけと限った事じゃない。

 お、そろそろ出発か。
 部屋を出た成坂に三分遅れで外に出た俺は、校門外で成坂が乗り込んだプレシャスブルーのセダンを追い、用意しておいたバイクに跨り追跡を開始した。





 
「次はどこに行きたい? 亮」
 修司はカップに注がれたコーヒーをすすりながら、ポテトの残りをつついている彼の弟に声を掛ける。
 初夏らしいライトブルーの半袖シャツに七分丈のデニム、黒のラインを袖口と裾に太くあしらったグレーのジャケットを羽織った亮は、日曜日だというのにブルーグレーのスーツをかっちりと着こなす修司に、肩をすくめて大きな黒い瞳を向けていた。
「ほんとに大丈夫なのか、しゅう兄。そのかっこ、これから会社に戻るんじゃないの?」
 細いストライプのネクタイまで締めているその姿は、クールビスなどとは縁遠いほどの正装っぷりだ。
「いや、今日は休みをとった。んだが……いざとなると部屋着とスーツしかなくてな」
 心底参ったというように、修司はため息を漏らすとその端正な顔に苦笑を浮かべる。
「服、ないの!?」
「あるにはあるんだが、随分しまいっぱなしになっていたせいか、ちょっとひどいことになっててなぁ」
「防虫剤入れ忘れたんだろー。まぁ、しょうがないか。ずっと仕事でそれどころじゃないみたいだしな」
 亮も同じく苦笑を浮かべると、残りのポテトの一番大きなのを、修司の口に放り込む。
 修司はそれをぱくりと加えると、嬉しそうにもぐもぐと口を動かした。
「久々に食べると、モスも悪くないな」
「じゃー、会社に今度差入れしてやるよ」
「おまえの差入れになると、モスじゃなくてマックだろう」
「モス希望ならその分小遣いアップを要求するぞ」
 あえてふくれっ面をしてみせる亮の軽口に、修司はおかしそうに声を立てて笑う。
「あははは、検討しとく」
「よし、しゅう兄。今から服買いに行こう!」
「ん? 欲しい服があるのか?」
「違うよ、オレのじゃなくて、しゅう兄のだよ!」
「僕の? 兄ちゃんはいいよ、亮の欲しいのを買いに行くのなら……」
「オレが欲しいのは、しゅう兄のなの。いいから、せっかく久しぶりに二人で出かけれるんだからさ、オレがしゅう兄に似合うの買ってやるよ。……代金はしゅう兄もちだけど」
 そこでまた修司が声を立てて笑うと、亮もつられて同じように声を上げて笑う。
「怖いなー、亮の見立てか。お手柔らかに頼むぞ、値段もセンスも」
「まかせとけって。しゅう兄にぴったりあうウン十万円のアルマーニ見つけてやるから」
「……え、おい、亮」
「冗談だよ」
 大きな黒い瞳をくるんとさせ冗談めかして笑うと立ち上がり、亮は修司の腕を引いていた。
「アルマーニとか名前しか知らないし。しゅう兄の良く行くお店行こう! そん中からオレが選ぶよ」
「まったく、おまえ兄ちゃんが知らないうちに色んな事どんどん覚えて、兄ちゃんびっくりだぞ」
 亮にひっぱられ立ち上がると、修司はごちそうさまと一言店員に声を掛け、二人は店を出て行く。
 声を掛けられた若い女性店員はすっかりのぼせ上がった表情でそれを見送っていた。


 
 信じられねぇ!
 俺は今見た光景を何度も頭の中で反復し、その度に信じられないという言葉ばかりを口の中で繰り返した。
 モスを出た二人を追おうかとも思ったが、なんだかもうお腹いっぱいというか、いや、別に俺はバーガー一個で腹一杯になったわけではないんだが、とにかくもう胸も頭も満腹になってしまったのだ。
「あいつがあんな顔するんだ――」
 いつも無表情がデフォルトで、ときおり仏頂面のアクセントがお目見えする成坂が、今日はまるで別人だった。
 デフォルトは微笑。それにプラスして笑ったり膨れたり、ときどき意地悪な顔をしたり――、こんなに表情豊かならなんでいつもはあれほど出し惜しみをしているのか。
 あんな顔――と一言で言ってはみたが、そのあんなが、何種類もあって、それはどれも俺の見たこともない顔で、俺の脳みそは混乱でサクラ色にモコモコ泡立ってしまったようだ。
 しかも成坂のやつ、相手の男にポテトを食わせてやったりしてたし、一体相手のあの男は誰なんだ!?
 相手の男も成坂のことを本当に可愛がってるようで、始終温かな春の木漏れ日のような眼差しで見つめ続けていた。
 二十代半ばの貴公子みたいなイケメン。俺に張れるくらいではあるかもしれないレベルだ。
 しかし相手のあの服装。スーツだと? 今からどこに行くつもりかは知らないが、成坂の服装に対しやつのはあまり遊びに行く格好であるとは言い難い。
 あれではまるで、援交する女子高生(実際は男子高生だが)と会社帰りのサラリーマンだ。
 まー、その辺のサラリーマンとは違うようないいスーツ着ていたが、問題はそこじゃねぇ。
 成坂が援交!? しかも、男相手に!? ってそんなわけはないか。ははは、バカじゃね、俺。
 フツーに考えれば、友達。いや……、年齢も違いすぎるしそんな感じではなかった。もっと近しいというか、親しいというか、接近しているというか、……ああいう行動は通常恋人同士がするものでだなぁ。……………………。
 待て、まてまて、成坂は男だ。あんな可愛い顔をしているが、ものすごく腕っ節も強い男だ。
 けどあの親しさは…………、ポテト食わしてた。
 成坂、あいつにポテト食わしてた。
 ああああ、まあ、とっ、友達だとしても、そういうことも、あるよなぁ、うん、うん、んんんん、はぁぁあああぁぁあああぁ〜。ぽてとかぁ…………。

 追い掛けてあいつの正体を突き止めるべきだと思い直したときには既に遅く、成坂たちを乗せたセダンは俺の視界からきれいさっぱり消え失せ、俺は追跡を断念せざるを得なかった。