■ 4-11 ■


 朝から亮は辟易していた。
 月曜日。教室に入ってきて一番、亮に近寄ってきたいつもは居ない影。
 ひょろりと背が高く、気の弱そうな小さな目をいつもシバシバと瞬かせているのが印象的なそのクラスメートは、そばかすの散った鼻の頭を人差し指で掻きながら、おずおずとした笑いを浮かべ、亮の席の後ろに立っていた。
「お、おはよう、成坂くん」
 そう控えめに挨拶した佐薙は、相変わらず机にうつぶせてガン無視の亮の横にしゃがみ込むように陣取る。
「金曜、土曜、おやすみしてたね。大丈夫? 風邪? それとも、な、何かあいつらにされたとか……」
「……。」
「な、成坂くんに何かあったら、僕申し訳ないし――、僕のせいでもし成坂くんがひどい目に遭わされたりしたらって、その、あの後すごく心配で……」
「……。」
「ねぇ、成坂くん、やっぱり怒ってる? 僕のせいであんなことに巻き込まれちゃったから、やっぱり……」
「……あんな事とかあの後とかあいつらとか、意味わかんねーよ。独り言なら自分の席で言ってくれ」
 さすがに限界が来たとでも言いたげな様子で起き上がると、亮はめいっぱい不機嫌な表情で横にうずくまる佐薙を見下ろす。
 それだけの反応にも嬉しそうにほほえむと、佐薙は何度もうなずき「そうだよね、秘密なんだもんね、あの事は」としゃがんだまま膝を抱え、二歩だけ後ろへ下がっていた。
「ちょっと、なぁに? あの事って! なんであんたが成坂くんに話しかけてんのよ、白アスパラガスみたいな顔して!」
 そんな佐薙の後ろに仁王立ちで現れたのは、未だ懲りずに亮への接触を図っている吉野彩名だ。
 この後の状況は推して知るべしである。
「何でもないよ、吉野さんには関係ないことだし」
 佐薙は少しだけ勝ち誇った顔で彩名のハイソに包まれた足を見上げ、次の瞬間かわいそうなくらいきれいにあご先を蹴り上げられていた。
「変態、ドエロ! どこから見てんのよ、このパラガス野郎!」
「っえええええぇ、ひ、ひどいよ、吉野、さん、僕は別に、ねぇ、成坂くんも言ってやってよ、僕は悪くないよね?」
「なんで成坂くんに助け求めてんのよ、友達でもないくせに」
「友達じゃないけど、えっと、僕は成坂くんの弟子っていうか舎弟希望なんだ。これからは僕、成坂くん専門のパシリになるから、そのこと覚えといてもらおうとおもって」
「何勝手なこと言ってくれちゃってんのよ、このアスパラギン酸は! 私が最初なんだからね、成坂くんに目をつけたのは。だ・か・ら、私に断り無く成坂くんに近づかないで―ー」
 ここで亮の我慢は臨界突破し、無言のまま立ち上がると教室を出る。
 なんだか事態はややこしい方向へと向かっている気がすると、亮はため息をついていた。佐薙の登場で、なぜか彩名まで前にも増してヒートアップしてきてしまったようなのだ。
 確かに先日、無理矢理万引きさせられた挙げ句ボコられている佐薙を助けたことはある。その時このことは誰にも言うなと口止めもした。
 しかし、そんな一言だけでは情報漏洩を防ぐ手段として全然足りていなかったらしい。こんな風に佐薙が自分に接近してきては、何かあったと大声で言っているようなものだ。こんな事態は亮にとって大きな誤算だった。
 普段しゃべりもしないクラスメートを、コンビニの袋を頭にかぶってピンチを救ったくらいで、その相手が興味を持って懐いてくるものだなんて予想外の展開だ。
 もちろん、このことをシドが知れば「誤算も何も当たり前だ!」とブチ切れることだろうが、亮にはそんな未来が予見できていなかったのだから仕方がない。
「なんでこうなるんだよ――」
 ぼそりと独りごちて人気のない特別教室棟の非常階段の方へ向かう亮に、不意に背後から声がかかった。
「もう一時間目が始まるぞ。復帰早々さぼるとはいい度胸だな」
 その聞き知った低い声音に亮はびくりと背をすくめると振り返る。
 そこには深いブラウンの髪をさらりと垂らした高身長のイギリス人が、開襟ノーネクタイのルーズなスーツ姿で立っていた。変装のつもりなのか柄にもなく掛けられた度なしの眼鏡が、嫌味なほどその麗貌を引き立てている。
「っ、べ、別に、さぼるつもりじゃ、ない」
 と言いつつも、挙動不審になってしまうのをどうしようもない亮は、右へ左へ視線を泳がせつつ、シドの顔を見られない。
「ちょっと、外の空気吸ったら、戻るよ――」
「まだ調子が悪いなら、無理はするな」
 人気のない廊下でシドの手が無造作に亮の顎にかかり、下を向いたままの亮の顔を上げさせる。
「顔色は、それほど悪くないが――」
「っ――――――!」
 その瞬間、亮は自分の心臓が跳ね上がり、みるみる顔に朱が昇ってくるのをおさえられない。
 シドの冷えた指先の感覚。琥珀色の瞳。
 それらが一昨日のノック・バックのことを思い起こさせる。
 自分をのぞき込むシドの顔と、あのときの妄想のシドが重なり合ってしまい、亮は泣きそうなほどの恥ずかしさで全身がぷるぷるとふるえ出す。
「亮?」
 そう言うシドの声もあのときの亮の想像と一緒で、亮は全身から火が出そうな羞恥心と穴があったら入りたいというか、なければ掘ってでも入りたいいたたまれなさで、まるで水中で息をしているようにぱくぱくとあえいでしまっていた。
 自分が想像の中でシドに何をさせたのか――、頭から振り払おうとすればするほどそれは生々しくよみがえってくる。
「亮、どうした――」
「っ、どうもしねーよぉっ!!!!」
 言うが早いか、亮はシドの手を振り払い、ダッシュで元来た廊下を駆け抜けていく。
 後に残されたジョン・エドワーズ先生は、全く解せないと言った顔で(実際は無表情だが)、担当クラスの生徒・成坂亮の後ろ姿を見送ったのだった。




 亮にとって学校にいる間、実は授業中が一番楽なのではないかと最近そう思うようになってきた。
 人間関係が制限されている亮にとって、それを意識しなくていい時間は何よりありがたい。
 今は三時間目の数学。先日の校内実力テストの答え合わせをしている最中なのだが、二回目の一年生だというのにやっぱり芳しくない成績の亮は、黒板の前で声を張り上げ公式の説明を繰り返している教師の話は上の空で、ぼんやりと×の並んだ解答用紙を眺めていた。
 そうしていると取り留めのないことが頭の中に浮かんでは消えていく。
 この一年で、亮の人生は全く変わってしまった。
 ソムニアとして覚醒し、シドに出会い、ソムニアの道を進み始めた。
 そこまでは自分として選んだ道でもあるし、亮にとっても納得ずくのことである。
 しかし、その後――。
 亮は今まで考えたこともなかった未知の沼地に引きずり込まれた。それは禍々しい色をし顔を背けたくなる臭いを発しながら、ねっとりとした粘度で亮を絡め取り、獲物である亮がもがけばもがくほど、その小さな体を飲み込んでいった。
 滝沢という男にされた事。
 そしてセブンスでの日々。
 ――自分はもう、普通じゃない。
 一年前の自分なら、彩名みたいな可愛い女の子に言い寄られればドギマギしながらも悪い気はしなかったはずだ。
 それが今は何も感じない。いや、彩名どうこうではない。それ以前に学校での生活が、分厚いガラスの向こう側で行われている演劇みたいなもので、自分はそれをたった一人のこちら側からぼんやり眺めているみたいな感覚がぬぐえないのだ。
 だから、どんなに相手が亮へ声をかけてくれても、亮にはよく聞こえない。
 明るい日差しも、楽しそうにはしゃぐクラスメートも、学校の授業も何もかも、すぐそばにあるはずなのに、遠くで薄く鳴っているサイレンのようなものだった。
 それ故にシドから言われた「無駄な会話はするな」「必要以上に人に近づくな」という戒めは、亮にとってあまり苦になるものではなかったのだが、それでも限界があるのかとも思う。
 もう普通じゃなくなった自分が、誰とも会話をしなかった結果が、この間のノック・バックの醜態なんだと亮は考えていた。
 シドとする妄想。
 想像の中で亮はシドに何度も突き入れられ、大きな手で体中を蹂躙され、そして口づけを交わしながら何度もいった。
 あんな――、あんなことを考えてしまうほど、自分はおかしくなってて、そのうえシドまで汚してしまったんだと、亮はあの後起き上がれないほど凹み、凹んだ上に沈み、そんな悩みを誰にもいえないまま今に至っている。
 ぼんやりしたまま答案に何やら落書きをゴリゴリ描いていた亮の後ろから不意に声がかかったのは、教師が公式の説明を終わって随分経ってからのことだった。
「お、それ、ヒアリングのエドワーズの顔か? わはは、似てんわ」
「っ!?」
 目に見えてびくりと振り返った亮の背後には、久我が亮の答案をのぞき込むようにして立っている。
 いつの間にか授業は終わっていたらしい。
「おまえ、意外とバカだなー。四十一点って、平均六十五点っつってたぞ」
 亮は瞬間的に答案をくしゃりと丸めると、机の中に放り込み、じろりと久我をにらんでいた。
「そう恐い顔すんなって。今回のテスト、成績いい奴でも、最後の超簡単おまけ問題同じような間違えした奴がけっこういたみたいだしさ、魔物が住んでたと思いねぇ」
「……意味わかんねぇ。オレは最後の問題○だったし」
「じゃー魔物じゃなくて実力か」
 肩をすくめてみせる久我を今度こそ無視することに成功し、亮は立ち上がっていた。
「んだよ、また脱走か? いつもおまえどこで暇つぶしてんだ」
「く、久我くんっ! 成坂くん嫌がってるじゃないか。あ、あんまりしつこくつきまとわないで、くれるかな」
 それでも亮に絡んでいこうとする久我の前に、予期せぬ伏兵が現れていた。
 自称亮の舎弟、佐薙である。
 授業が終わると同時にそわそわと亮の席へ視線を送っていた佐薙は、亮のピンチと見るやいなや教室の対角線上の席からすっとんでくると、久我と亮の間に割って入る。
 小心者の佐薙にしては精一杯の虚勢を張っているようで、いつにもまして瞬きの回数を増やしながら久我の顔をにらみつけていた。
「なんだ、おまえ。なんでおまえが絡んでくんだよ、ちょ、どけって」
 ひょろ長い佐薙の体を押しのけようとする久我に、佐薙は一歩も引かず、背後にいるはずの亮に「成坂くん、早く逃げて!」と、ハリウッド映画ばりの名台詞に酔いしれる。
 亮はそんな二人を避けるように教室を出ると、溜め息をつきながら、足早に廊下を歩いていった。
 何度か後ろを振り返り、ついてきている者がいないか確かめながら先を急ぐ。
 実は三時間目が終わった今、亮には目的の場所があるのだ。
 佐薙の予想外の接近は正直迷惑だったが、今回の久我足止めに関しては少しだけありがたかった。
 亮には今から三階購買部で秘密のミッションをこなすための時間が必要なのである。
 わざわざ一階の階段を下り、ぐるりと回って別階段を上って三階の購買部に到着した亮は、この時間帯あまり客の多くない自販機ホールにすばやく滑り込み、きょろきょろとあたりを見回す。
 三階は二年生の教室が多いせいもあってか、数人の上級生が小さなホールに置かれたいくつかのテーブルセットへつき、ブリックパックのドリンクを片手に雑談しているのが目につくくらいだ。
 手前のパン販売スペースにはまだ出店は作られておらず、土台になる長机が無造作に二つ、並んでいるだけである。亮はそれを確認すると、ある人物の影を探して奥にある文房具書籍スペースへと向かう。
 文房具や参考書などの並んだ低い棚の向こう側に、購買のおばさんがいつも座っているレジがある。
 様子をうかがうように背を伸ばす亮のしぐさに、五十代半ばのレジのおばさんは、肉付きのいい二重あごを三重にして、いぶかしげに眉を寄せていた。
「何か捜し物?」
「あ、いや、その……」
「亮くん、こっちこっち」
 少しばかり焦った亮の後ろから、聞き知った声がかかり、亮はほっとした表情で振り返る。
 いつも通り和服に身を包んだ雨森は、レジ反対方向にある戸棚の影から立ち上がると、並べ終わった本や文房具などの商品をしげしげと眺め、納得したようにうなずいていた。
「よし。こっちは終わり。あとはパン屋さんを開設するだけ。亮くん、悪いんだけどちょっと手伝ってくれる?」
「うん、いいよ」
 亮はうなずくと、雨森に言われたとおりレジ裏の倉庫に入っていき、雨森とともにたくさんのパンが並んだケースを抱え表のテーブルへと運んでいく。
「あら、なぁに? 雨森くんバイトやとったの?」
「いやまぁ、僕の甥っ子なんでお手伝いしてもらってるだけですよ」
「まぁまぁ、うらやましぃわぁ。おばちゃんも誰かに店番変わって貰いたいわぁ」
「ははは、いいでしょー」
 レジのおばさんと軽口を交わしながら、雨森はテーブルに白いクロスを敷き、値段ごとにパンを並べ始めていた。
「古本屋さん、オレ、甥っ子?」
 思いもかけない雨森の発言にきょとんとした様子で手を止めた亮に、雨森は軽くウィンクしてみせると小声でささやきかける。
「そう言っとくと、後々楽なんだ。はい、サンドイッチ系はこっちに並べて」
 言われるままパンを並べまくり、ようやく形をつけた亮が一息入れて体を起こすと、その手にとさりと小気味良い重さの包みが乗せられていた。
「!」
 亮が目を丸くして、お抹茶色に染められた兎模様の風呂敷包みを見つめる。
「お疲れ様。可愛い甥っ子の亮くんに、古本屋のおじさんから差し入れだよ」
「え、これ……」
「亮くん、僕のお弁当気に入ってくれたって言ってたから。箱は洗うの面倒だろうから、使い捨てのパックにしといた。エコじゃないのは目をつぶってもらおうかな」
 亮の黒い瞳がきらきらと輝き始める。
 前回偶然食べることができた、あの驚異の美食お弁当が今また亮の手の中にあるのだ。
「レイのブツは冷たいからこっち」
 小さな煉瓦色の巾着袋が追加で渡される。
 鮮やかな蜜柑色の紐を持ってぶらさげていても、下の巾着がよく冷えているということがわかった。中には保冷剤も入れられているらしい。
「あらぁ、甥っ子くん、良かったわねぇ。雨森くんのお弁当おいしいからうらやましいわぁ。おばさんもご相伴に預かりたい!」
 ご機嫌な調子のおばさんに愛想笑いをすると、亮はなるほどと一人納得していた。
 甥っ子ということにしておけば、弁当だろうとプリンだろうと、渡されても不審がられることはないということだろう。
「明日からは、お手伝いなしでも渡せると思うよ」
 再び雨森がウィンクし、亮は少しだけ頬をほころばせるとうなずく。
「え? あ、でも、いいのかな……オレ、こんなにしてもらったら……、えと、そうだ、お金は……」
「お代はスマイルで。これも何かの縁だし、お弁当、一人分作るだけじゃもったいないっていつも思ってたんだ。それに食べてくれる人がいれば、毎日に張りが出るってもんなんだよ。……んー、なんだか僕、主婦の人みたいだね」
 あははと気の抜けた笑いをする雨森に、つられて亮も笑う。
「ただし、時々はパン並べるの手伝ってもらったりするかもしれないよ?」
「いいよ、別にオレ、暇だもん」
――シドが購買に来ることなんかもないだろうし。
 うなずきながら心の中で亮は自分にそう確認する。こんなシーンをシドに見つかったらそれこそ大目玉だ。
「ありがとう、古本屋さん」
「嫌いなものがあったら遠慮無く言って。――その食材を全力でおいしく仕上げてみせるから」
 冗談めかして言う雨森に、亮は思わず吹き出していた。
「嫌いなもの、全力で食べさせるつもりなんだ」
「そうだよー。僕は亮くんのおじさんだからね。好き嫌いは許さないよー」
「あはは、オレ、好き嫌いないんだ」
「ピーマンも?」
「ピーマンも」
「シイタケも?」
「うん、シイタケも」
「じゃあ……、ニンジンも?」
「うん。ニンジンも甘くて大好き」
「ホントにぃ?」
「ホントだって。だから古本屋さん、全力出さなくても、オレおいしく食べれちゃうよ?」
「それは残念」
 片目をつぶり笑顔でそう言う雨森は、さして残念そうには見えない。新しい友達に自慢の料理の腕を奮えるだけで満足だということなのだろう。
「それじゃまた明日、この時間に来るよ!」
 袂を押さえひらひらと自分に手を振る雨森へ笑顔を向けると、亮は予想以上の戦利品を手に教室へと戻っていった。
 ミッションは大成功だ。